1.始まりの朝
櫻の樹の下には屍体が埋まっている!
とある文学者はそのように述べた。
どこの誰だったかは覚えていないけれど、春になるとその一節を思い出す。
桃色の花びらが、ひとつ、またひとつと。生命の源から独り立ち、風に乗って生き生きと舞い踊り、やがては力なく落ちていく様を。
脳裏に浮かべては、「あなた」と出会った時のことを思い出す。
××××
_____ティローン、ティローン……
一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。うっすらと目を開くと、ぼやけた視界の先に、真っ白な天井と青いカーテンが映り込む。
魂が体から解放され、その辺をふわふわと漂っているかのような、心地のよい浮遊感。
目から入ってくる情報が脳の記憶と結びつかず、オレはそこが自分の部屋だと気がつかなかった。
だけどそれもほんの一瞬のことで、
_____ティローン、ティローン。
「う、ん……」
耳元で鳴り響くアラームに、オレの魂は元の体へとぐっと引き寄せられた。眠りという長い旅を終え、現実へと帰還する。
意識と肉体が結びつき、高嶺希は再構築を始めた。
ティローン、ティローン。
ティローン、ティローン。
ティローン……
ああ、もう。うるさいうるさい。
なんでこう、アラームって人の神経を逆撫でするような音してんだろうな。
せっかく人が気持ちよく寝てたところを叩き起こしやがって、マジでムカつく。というか、もう朝なの?まだ全然寝た気しないんだけど。
シーツの上で手をぐねぐねと動かし、この喧しい音を鳴らす張本人であるスマートフォンをたぐり寄せる。
画面に映されたアラーム解除のボタンを睨みつけながらタップすると、何事もなかったように音はやんだ。
ふぅ、これで一安心。
睡眠を邪魔するものが消えたことに安堵して、オレは布団を肩まで引き上げ、目をゆったりと瞑る。
春眠暁を覚えず、なんて言われているけどオレにとっては「年中暁を覚えず」だ。
春は日差しの心地よさにうっとりしながら眠る。
夏は暑くて動く気力がないので眠る。
秋は睡眠の秋なので眠る。
冬は言わずもがな、寒くて布団の外に出られない。
こんな朝っぱらから自主的に目を覚まして起き上がるなんて馬鹿のすることだ。
オレは誰になんと言われようと布団を手放すつもりはない。
そう、誰に言われようとね。
「_____希くん、起きて」
「……」
「希くん?」
……オレは何も聞いてない。
「おーい、のーぞーみーくん。朝ですよー」
「……」
「……もう、起きてください!」
布団を引き剥がされそうになる。
必死に布団にしがみついて抵抗すると、釣り糸にかかった魚のごとく、布団ごと引き上げられてしまう。
「起きる、起きますから! 手をはなしてくださいユキさん!」
命の危険を感じたオレはベッドから飛び起き、バトル漫画で敵と対峙する如く、ユキさんから距離を取った。
「もう、やっと起きましたね」
ユキさんが目を細めてニッコリと笑う。
「……ねえ、ユキさん」
「なんですか?」
「前よりも腕力が随分と上がったんじゃないですか」
オレの言葉にユキさんはほっぺたを膨らませて怒る。
「希くんの体重が減ったんじゃないですか?」
「これでも体は鍛えているんで体重はありますよ」
これみよがしに部屋の隅に置かれたダンベルを指さす。
「オレより背の低いあなたに力比べで負けるというのは気分が悪いんですけど」
「つまり何が言いたいんですか?」
「オレと今すぐ腕相撲をしてください」
「いやです。ご飯が冷めちゃうじゃないですかぁ」
「じゃあご飯の後で」
「そんな暇はありませんよ。後少しで学校が始まるんですから。ほら、早くリビングに行きますよ!」
ユキさんに手を強く引かれる。
「待って、そんなに強く引いたら腕がだっきゅ……」
ゴキッ。
朝には似つかわしく音が鳴った。オレの悲鳴が家中に響き渡る。
ああ、なんて爽やかな朝なんだ……。
あまりの痛さに現実逃避をしているオレをユキさんはズルズルと引きずって、リビングのダイニングまで連れてきた。
椅子に着席させられたところで、オレは急いで肩の骨を元の位置に戻す。
すげえ痛い。しかもこれ、一度脱臼すると外れ癖がつくんだよなぁ……。
ユキさんはご機嫌に鼻歌を歌いながら、パタパタとスリッパを鳴らして台所へ駆けていく。
ユキさんの動きに合わせて、クリーム色の髪が肩の上でふわふわと揺れていた。
ほんのりと漂ってくる、甘い香水の香りに、オレの胸がキュンと甘く疼く。
はぁ、相変わらずユキさんは可愛いな。あの華奢な体から出てるとは思えない怪力さえ直ってくれれば、他に言うことはないんだけどな……。
ユキさんは、いわゆる「ハウスキーパー」みたいな人で、仕事であまり帰ってこない親父の代わりに、住み込みでオレの身の回りの世話を請け負っていた。
男性にしては高い声と、女性にしては肉付きの薄い、凹凸のない体。十年近く共に暮らしているが、未だ性別は不明。というか、そもそも性別などという概念は存在しているのだろうか?
中性的な容姿をしているがかなりの怪力で、加減を間違っては家のものを良く壊している、自称「完全無欠」の天然ドジっ子さんである。
ユキさんのせいでオレは頻繁に家中を掃除をする羽目になるのだけど、それでもユキさんをクビにする気はなかった。
オレはユキさんのことが昔から大好きなのだ。
だから、しょんぼりとした顔で「ごめんなさい」と謝られてしまうと、オレは全てを許してしまう。
「お待たせしました」
ユキさんはオレの分の食事を持ってきて、ランチョンマットの上に丁寧に配置する。
「どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう。いただきます」
ほかほかと湯気を立てる焼き立てのパンを一口サイズに千切って食べる。
「美味しいですか?」
「ええ、とても」
「そうですか。そう言ってもらえて嬉しいです!」
灰色に近い緑色の大きな瞳がオレを見つめる。嬉しそうに笑う姿はとても可憐だ。
本当に、この可愛らしい姿のどこからあの力が出るんだろう。
オレだって毎日体を鍛えてるのに。悔しいな。
「どうかしましたか?」
「いーや、別に。なんでもないですよ」
そう言って、ユキさんの入れた紅茶を飲む。じんわりと体に熱が染み渡っていくようで、オレはほっと息を吐く。
肌寒い季節が続いていた。こんなときに飲むユキさんの紅茶は格別だ。
ベッドで惰眠を貪るのがこの世で一番の至福だと思ってたけど、こんな朝も悪くはない。
朝食を終えたオレは制服に着替え、玄関前に立つ。
「希くん、これ、今日のお弁当_____きゃあ!」
何もないところで躓いたユキさんが、弁当ごとオレに突進してくる。
ユキさんの背中に手を回し、かろうじて抱き留める。
弁当は、激しい音を立てて地面に転がった。だけどそんなことは今はどうでもいい。
「あ、ありがとうございます……っ」
ユキさんは恥じらいに頬を赤く染めながら、慌てて弁当を広い上げ、表面についた汚れを手で払う。
「行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
弁当を受け取り、学生用の薄いカバンに無理やり突っ込む。
「うん。行ってきます」
靴箱の上に立てられた写真立てに目をやる。ガラスの中の女性は、こちらを見つめて笑っている。
「……母さんも、行ってくるな」
ユキさんに見送られ、家を出る。
あと三十分で学校が始まる。ギリとは言わないが、余裕があるとも言えない時間だ。
だがオレは急ぐつもりはなかった。何故なら、学校に行くつもりなど端からなかったからだ。
こんな天気のいい日に篭って勉強なんて、バカのすることだ。真の賢者は学校などという他人が勝手に作ったルールに縛られはしないのである。知らんけど。
空に向かって大きく伸びをひとつ。ポケットに手を突っ込み悠々と歩く。学校とは真反対の方向へ。
「よーし、今日も行くかぁ」
あくびをして顔を上げれば、晴れ渡る青空がキラキラと眩しくて、オレは目を細めた。




