鏡底(きょうてい)に遺棄された白足
四〇二号室の玄関を入ってすぐ右手に位置する、四畳半の和室。
そこは、この広々とした間取りの中で、ひどく浮いた空間だった。窓は廊下側に面した小さな磨りガラスが一つあるだけで、昼間でも薄暗い。壁には作り付けのように、高さ一メートルほどの木枠の姿見が置かれていた。
入居して数日が経った頃には、その部屋は家族の誰もが寄り付かない「荷物置き場」になっていた。
理由は単純だ。空気が、重いのである。
水槽の底に沈んだ泥のように、その四畳半には常に澱んだ空気が溜まっていた。特にあの姿見は、どれだけ雑巾で拭いても表面の曇りが取れず、映り込む部屋の景色を常に薄汚れたセピア色に変換していた。
引っ越しの熱も冷めやらぬ、ある蒸し暑い午後のことだった。
五歳だった悠真は、リビングにいる家族の刺々しい空気から逃れるように、一人廊下でミニカーを走らせて遊んでいた。両親は些細なことで口論をしており、楓は自室にこもって大音量で音楽を流し、真也はどこかへ遊びに出かけていた。
コロコロ……と、手から滑り落ちたミニカーが、開け放たれた四畳半の入り口へと転がっていった。
敷居の手前で止まった赤いおもちゃを拾い上げようと、悠真がしゃがみ込んだ時だ。
ふと、部屋の奥にある姿見と目が合った。
鏡の中の四畳半は、現実よりもさらに薄暗く見えた。
だが、違和感の正体は明るさではなかった。
鏡の右端。本来なら段ボール箱が積まれているだけの死角に、何かが『ある』。
――足だ。
真っ白な、血の気が完全に抜け落ちた女の足が、畳の上に力なく投げ出されていた。
足首から先が妙な方向にだらりと曲がり、足の甲には青黒い痣のような染みが広がっている。膝から上の部分は、なぜか鏡の中の不自然な暗がりの中に溶け込んでおり、見えなかった。
悠真は息を止めた。
現実の四畳半の隅に目をやる。そこには段ボール箱が二つあるだけで、誰も倒れてなどいない。
しかし、再び鏡に視線を戻すと、その「白足」は確かにそこにあった。ピクリとも動かない。まるで、何年も前からそこに捨て置かれているゴミのように、静かに、ただ存在していた。
「……おか、あさん」
震える声が、自分でも驚くほど小さく出た。
足がすくんで動けない。あの足が、今にもズルリと鏡の枠を越えて這い出してくるのではないかという恐怖で、瞬きすらできなかった。
リビングでの口論が途切れ、足音を立てて母が廊下に出てきた。ひどく疲労した、土気色の顔をしていた。
「なに? 悠真。大きい声出さないでよ、頭が痛いんだから」
「あそこ……鏡の、なか……」
悠真が震える指で鏡を指差すと、母は怪訝な顔をして四畳半へと足を踏み入れた。
悠真は「入っちゃダメだ!」と叫びたかったが、喉が引きつって声が出ない。母はズカズカと鏡の前に立ち、悠真が指差した死角のあたりを無造作に覗き込んだ。
「何もないじゃない。ああ……これのこと?」
母が段ボールの影から拾い上げたのは、煤けたように黒ずんだ、陶器の貯金箱だった。
ずんぐりとした、おかっぱ頭の日本人形のような形をしている。顔の部分の塗装は剥げ落ちており、目と口のへこみだけが虚ろな影を作っていた。
「前の住人の忘れ物ね。嫌だわ、こんな気味が悪いもの置いていくなんて。悠真、ただのゴミよ。ほら」
「ちがう、ちがうよ……あし、足があったの……」
「いい加減にしなさい。お母さん、疲れてるの」
母の冷たい声が、悠真の訴えを断ち切った。
母の手の中にあるのは、確かにただの古い貯金箱だ。しかし、悠真は知っている。母がそれを拾い上げる直前まで、鏡に映っていたのは絶対にそんなものではなかった。
あの生々しい、腐敗の一歩手前のような白足と、この陶器の塊を見間違えるはずがない。
「ちょっと、何それ。気持ち悪い!」
騒ぎを聞きつけて自室から出てきた楓が、母の手にある貯金箱を見るなり顔を引きつらせた。
彼女は神経質そうに腕をさすりながら、母に詰め寄った。
「捨ててよそんなの! なんでこの家、こんなカビ臭くて変なものばっかりなのよ! 早く捨てて!」
「わかったわよ、大声出さないで。明日、不燃ゴミの日に出すから……」
「今すぐ捨ててって言ってんの!」
楓は母の手から貯金箱をひったくると、リビングの窓を開け放ち、ベランダに出た。
そして、何の躊躇いもなく、四階から下の植え込みに向かって思い切りそれを投げ捨てたのだ。
数秒後、ガシャッ、と陶器が砕け散る鈍い音が下から響いた。
「これでいいでしょ。もう、イライラさせないでよね」
楓は吐き捨てるように言うと、バン! と乱暴にリビングのドアを閉めて自室へ戻っていった。母もため息をつき、頭を押さえながらソファへ倒れ込んだ。
悠真だけが、廊下にポツンと取り残されていた。
捨てた。お姉ちゃんが壊して捨ててくれた。
あの気味の悪い人形はもうない。鏡の足も、きっともう映らない。
そう自分に言い聞かせ、悠真は急いでミニカーを拾い上げると、逃げるように自分の部屋へ駆け込んだ。
――しかし、四〇二号室の「異常」は、まだ牙を剥いたばかりだった。
翌朝。
誰よりも早く目が覚めた悠真は、トイレに行こうと薄暗い廊下に出た。
朝の冷えた空気が足元を這う中、ふと、四畳半の入り口に目が向いた。
昨日の今日だ。見たくはなかったが、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
開け放たれた襖。その奥にある、曇った鏡。
鏡の前、昨日母が覗き込んだのと全く同じ場所に。
あの黒ずんだ『人型の貯金箱』が、こちらに虚ろな顔を向けて、ちょこんと座っていた。
ヒビ一つ入っていない。昨日、四階からコンクリートの植え込みに向かって投げ捨てられたはずのソレが、何事もなかったかのように鎮座している。
そして、鏡の表面には。
貯金箱の姿ではなく、あの血の気のない「白足」が、昨日よりも少しだけ手前に引きずり出された状態で、べっとりと映り込んでいた。




