錆びた螺旋、あるいは喉の軋み
こちらの作品は、私の実体験にだいぶ脚色して驚愕ホラーに変身を遂げたものになります。
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第四地区・誠和宿舎。
その四階建てのコンクリート建築は、まるで打ち捨てられた巨大な墓標のように、灰色の空の下でじっとりと濡れていた。
築三十年という歳月は、建物の外壁に黒ずんだ雨垂れの染みを無数に刻み込み、周囲の空気ごと腐らせているかのような錯覚を起こさせる。車から降り立った瞬間、末っ子の悠真の鼻腔を突いたのは、湿ったカビの臭いと、古い鉄が酸化した血のような匂いだった。
「……ねえ、嘘でしょ。なんでこんなカビ臭いところが私たちの家なのよ」
長女の楓が、車のトランクから段ボールを引きずり出しながら苛立たしげに吐き捨てた。鋭い舌打ちが、無機質な駐車場のコンクリートに反響する。
短気な彼女の怒声にも、両親は特に反応を示さなかった。父は黙々と荷物を両手に抱え、母はどこか虚ろな目で、これから自分たちが住む四階の窓を見上げている。家族五人の新しい生活の始まりだというのに、そこには一切の熱がなかった。
建物の入り口にはオートロックなどなく、薄暗いエントランスがぽっかりと口を開けている。
悠真は、自分の体にまとわりつくような嫌な感覚を覚えながら、父の背中を追ってその薄暗がりへと足を踏み入れた。
建物の「へそ」にあたる中央部分。そこに、この宿舎の異質さを象徴するものが鎮座していた。
一階から四階、そして屋上へと続く、巨大な吹き抜け。その空洞の壁にへばりつくようにして、黒く錆びついた鉄製の螺旋階段がうねりながら上へと伸びていた。
ねじれたDNAの模型を思わせるその異様な構造は、まるで建物自体が持つ巨大な喉仏のようだ。上を見上げても、重なり合う錆びた鉄格子のせいで最上階は見えず、下を覗き込めば、光の届かないコンクリートの底が黒々と口を開けている。
「ほら悠真、早く登れよ。どんくさいな」
背後から、長男の真也が悠真のリュックを小突いた。真也の顔には、この薄気味悪い空間すらも自分の遊び場にしようとする、悪趣味な笑みが浮かんでいた。
悠真はビクッと肩を揺らし、慌てて螺旋階段の最初の一段に足を乗せた。
カン、と硬い音が鳴る。
鉄の階段を踏みしめるたび、「ギィ……」と、金属がこすれ合う悲鳴のような軋み音が吹き抜け全体に響き渡った。それは本当に、巨大な生物の喉の奥を歩いているかのような、生理的な嫌悪感を煽る音だった。
二階へ、三階へ。
重い荷物を抱えた家族の足音が、バラバラなリズムで響く。
カン、ギィ。カン、ギィ。
その不協和音の中で、感受性の強い悠真は、ある決定的な「違和感」に気づいてしまった。
――足音が、一つ多い。
前を歩く父、母、楓。すぐ後ろから自分を小突く機会を窺っている真也。そして自分。
五人しかいないはずなのに、タ、タン、という自分のステップのすぐ背後、ちょうど「一段下の暗がり」から、ズリッ、ズリッ、と、重いものを引きずるような別の足音がついてきているのだ。
悠真は全身の産毛が逆立つほどの寒気を感じた。
振り返ってはいけない。子供の直感がそう警鐘を鳴らしていた。背後の段差に、間違いなく「家族ではない何か」が立っている。それは悠真のうなじをじっと見つめ、同じペースで、螺旋の底から這い上がってきている。
息が詰まりそうになったその時、すぐ後ろにいたはずの真也の足音が不意に消えた。
ハッとして顔を上げると、真也はいつの間にか足音を忍ばせて先行し、三階から四階へ向かう薄暗い踊り場の死角に身を隠しているのが見えた。
真也の悪癖だ。あそこから急に飛び出して、悠真を驚かせようとしているのだ。
やめて、驚かさないで。今、俺の後ろには――。
悠真は声を出そうとしたが、恐怖で喉が引きつり、ひゅっと掠れた息しか出ない。
一段、また一段。踊り場が近づく。
隠れている真也の靴の先が見えた。真也が「わっ!」と飛び出すために、筋肉を収縮させる気配が伝わってくる。
その時だった。
真也が隠れている踊り場の壁。シミだらけのコンクリートの何もない空間から、ぬらり、と「白いもの」が押し出されるように現れた。
手だった。
血の気が全くなく、異常なほど指の長い、大人の女の手。
それは真也の背後の虚空から伸び、真也の首筋へゆっくりと指を這わせようとしていた。
(あ、)
悠真が息を呑んだ瞬間。
「わぁあっ!!」
踊り場から真也が勢いよく飛び出し、悠真の目の前で大声を上げた。
ビクンと身体を跳ねさせた悠真が尻餅をつく。同時に、真也の背後に伸びていた「白い手」は、水に溶けるようにフッと虚空へ掻き消えていた。
「あっはは! ビビりすぎだろ悠真! 腰抜かしてやんの」
腹を抱えて笑う真也。その声が、螺旋階段の空洞をけたたましく反響して落ちていく。
下から登ってきた楓が、「うるさいっ! 響くでしょ、バカじゃないの!」と真也を怒鳴りつけた。
誰も気づいていない。
真也でさえも、たった今、自分の首すじに死の指先が触れかけていたことに全く気づいていなかった。
悠真だけが、床の冷たい鉄板に座り込んだまま、ただ一人、震えを止めることができずにいた。
建物の底から立ち昇る古いカビの臭いに混じって、焦げた髪の毛のような、嫌な臭いが鼻先を掠めていった。
四階の最奥、重苦しい鉄の扉が「四〇二号室」であった。
父が鍵を回し、ノブを引く。バコン、と空気が弾けるような音がして、密閉されていた室内の空気が廊下へと吐き出された。埃と、古本のページが酷く湿気を吸ったような、カビ臭い息吹だった。
「うわ、最悪。ちょっと換気してよ」
楓が顔をしかめてハンカチを口元に当て、土足のまま上がり込んでいく。両親も無言でそれに続き、それぞれが荷物を下ろす場所を探し始めた。
悠真は玄関の土間で立ち尽くしていた。
四LDKの無駄に広い間取り。玄関を入ってすぐ右手に、四畳半の小さな和室がある。ふと視線を向けると、色褪せた襖が開け放たれており、その奥に、壁に据え付けられたような古びた大きな姿見が鎮座しているのが見えた。鏡面は薄く埃を被り、どんよりと濁っている。
そこを一瞥しただけで、悠真は目を逸らした。
あの部屋には、近寄ってはいけない。子供ながらの直感が、理屈抜きにそう告げていた。
その日は無機質な作業のように荷解きが行われ、あっという間に日が暮れた。
疲労からか、両親も楓も真也も、夕食もそこそこに割り当てられた自室へと引っ込んでしまった。
深夜。
悠真は、あてがわれた窓なしの狭い洋室で、未開封の段ボールに囲まれながら布団に丸まっていた。
眠れない。
建物のコンクリートが冷え切っていくにつれて、宿舎全体が微かに鳴動しているような気がするのだ。
やがて、静寂の中、壁の向こう側から音が聞こえ始めた。
――カン……ギィ……。
背筋が凍った。
昼間、あの螺旋階段を登る時に聞いた音だ。誰かが、階段を登ってきている。
カン……ギィ……。
ゆっくりとした、等間隔の足音。それは一階から二階へ、二階から三階へと、確実に近づいてくる。
誰だ? こんな夜更けに。他の住人だろうか。
だが、その足音はあまりにも重く、何かを引きずっているかのようだった。
音は四階の踊り場でピタリと止まった。
悠真は息を殺し、布団の中で身を固くした。玄関のドアの向こうに、ソレがいる。
……ギィ……。
耳を疑った。
音は、外からではなかった。
分厚い鉄のドアをすり抜け、短い廊下を歩き、悠真の寝ている部屋のすぐ外、リビングの床を鳴らしているのだ。
いや、違う。足音ではない。
あの螺旋階段の錆びた軋み音は、何かが歩く音ではなく……誰かの「喉」が鳴る音だったのだ。
錆びた鉄屑で喉の奥をゆっくりと削り取るような、酷く掠れた呼気。
それが今、悠真の部屋のドアのすぐ向こう側に立っている。
ドアノブが、カチャリと微かに動いた。
「……ひっ」
声にならない悲鳴を上げ、悠真は布団を頭まで被った。
ガリッ、ガリッ、と、ドアの木板を長い爪で引っ掻くような音が続く。
暗闇の中で、悠真は悟った。
昼間、螺旋階段で自分の後ろをついてきていた、あの「一つ多い足音」。真也の首筋を狙ったあの白い手。
あれは途中で消えたわけではなかったのだ。
ソレは、悠真たち家族の背中に張り付いたまま、堂々とこの四〇二号室に「同居」し始めたのだ。
ドア越しに響く、錆びた喉の軋み音は、夜明けまで止むことはなかった。




