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逆位の棲家  作者: ユタカ
逆位の棲家

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10/10

くすぐり続ける死指(しし)の永劫

四〇二号室の鉄扉を蹴り破り、共有廊下へと飛び出した悠真と真也を待っていたのは、この世の光景とは思えない絶対的な絶望だった。

 誠和宿舎の中心を貫く巨大な吹き抜け。そこにある四階から一階へと続く錆びた鉄の螺旋階段は、もはや階段としての原型を留めていなかった。

 下層の暗闇から、巨大な間欠泉のように噴き上がる漆黒の瘴気。そして、その黒いもやをかき分けるようにして、何千、何万という「腐白ふはくの腕」が、螺旋階段の隙間という隙間からみっしりと生え、蠢いていたのだ。

 水死体のようにぶよぶよと膨張した腕、骨が剥き出しになった細い腕、赤ん坊の短い腕。それらが一斉に手のひらを上へ向け、指をワシャワシャと動かしながら、生きた肉を求めて上階へと這い上がってくる。

「うおおおおおおッ!!」

 真也が獣のような雄叫びを上げ、狂乱の螺旋階段へと飛び込んだ。悠真の右腕をちぎれんばかりの力で引っ張りながら、生え揃った死者の腕を乱暴な蹴りで踏み砕いていく。

 グチャリ、メチャリという、腐った果実を踏み潰したような嫌な感触と音が吹き抜けに反響する。

「下を見るな悠真! 足元だけ見て走れ!!」

 カン、ギィイイイイイッ!

 三十年分の怨念を吸い込んだ鉄の階段が、生者を逃がすまいと悲鳴を上げて大きく揺れる。

 三階の踊り場を通過する際、暗がりから伸びてきた一本の異常に長い腕が、真也の足首にガシリと食いついた。

「っ、痛ぇッ!」

 真也が顔を歪める。女の黒紫の指が、真也のアキレス腱を鋭い爪で引き裂いていた。真也はもう片方の足でその腕の関節を容赦なく踏み砕き、靴を片方脱ぎ捨てて強引に拘束を振り切った。鮮血がコンクリートの段差に飛び散るが、立ち止まれば一瞬で肉の海に飲み込まれてしまう。

 悠真は、ただ真也に引きずられるまま、転がるように階段を駆け下りていた。

 息ができない。首に焼き付いた黒い指痕が、凄まじい高熱を発して脈打っている。そして何より恐ろしいのは、自分の「左腕」だった。

 悠真の左腕は、もはや彼の意志から完全に切り離されていた。あろうことか、左手は階段から生える死者の腕たちに向かって、仲間と握手を交わすように自ら手を伸ばそうとするのだ。

(やめろ! 触るな!)

 悠真が心の中で絶叫し、必死に左肩の筋肉を硬直させて腕を押さえつける。だが、左手の指先は歓喜に震えるようにピクピクと跳ね、下層から湧き上がる死臭を愛おしむように空気を掴んでいる。

 二階、そして一階へ。

 最後に待ち受けていたのは、一階の床面を完全に埋め尽くした、泥と血液と髪の毛の沼だった。

「あきらめるなァァァッ!!」

 真也が悠真の身体を抱え込むようにして、その沼へと飛び込む。足首までヘドロのような泥に埋まりながら、死者の指がジーンズを切り裂き、ふくらはぎの肉を削ぎ落としていく激痛に耐え、真也はエントランスのガラス扉に体当たりをした。

 ガシャンッ! という派手な音とともに、数十年の間清掃されたことのない曇ったガラスが粉々に砕け散る。

 二人は、豪雨が叩きつける外の冷たいアスファルトの上へと転がり出た。

 肺いっぱいに、冷たい夜の雨を吸い込む。

 むせ返り、泥水を吐き出しながら、悠真は仰向けのまま夜空を見上げた。大粒の雨が、火傷のように熱い首の痕を打ち据える。

「……はぁ……はぁ……出、た……」

 隣で、全身傷だらけになった真也が、荒い息を吐きながら立ち上がった。

 真也に促され、悠真もよろけながら立ち上がる。二人は振り返り、自分たちを飲み込もうとしていた誠和宿舎を見上げた。

 暗雲の立ち込める空の下、その四階建てのコンクリート建築は、まるで巨大な墓標のように黒々とそびえ立っていた。

 四階の、四〇二号室の窓。

 薄暗い部屋の奥から、オレンジ色の豆電球の光が漏れている。

 その窓ガラスに、三つの影が張り付いているのが見えた。

 父と、母と、楓だ。

 彼らはガラスにべったりと顔を押し付け、こちらを見下ろしていた。三人の口は耳まで裂けるほどに吊り上がり、異常に長い腕を窓ガラスに擦り付けながら、手のひらをこちらへ向け、左右が逆転した「逆さ手」で、狂ったように手を振り続けていた。

 悠真の左手が、その姿に応えるように、ビクンと小さく跳ねた。

 二人は雨の中、その呪われたコンクリートの墓標から、ただ無我夢中で走り去った。

 ――それから、三年が経過した。

 あの日、警察に保護された悠真と真也は、母方の叔母に引き取られ、誠和宿舎から遠く離れた県外の小さなアパートで暮らすことになった。

 四〇二号室に残された家族の最期は、警察の凄惨な現場検証によって明らかになった。

 父は、ベランダのガラス戸に顔を押し付け続けた結果、摩擦で顔面の皮膚と軟骨が完全に削げ落ちた状態で絶命していた。母は、大量の人間の指の骨を咀嚼し、喉に詰まらせて窒息死していた。

 そして姉の楓は、あの四畳半の和室の畳の上で、己の両手で自らの脇腹から肋骨の裏側までを深く抉り出し、内臓を掻き回したことによる失血性ショック死だった。彼女の口は、死後硬直が解けてもなお、何かを大声で笑い続けているかのように大きく開かれたまま固定されていたという。

 警察は一家心中、あるいは集団的な薬物中毒の線で捜査を進めたが、結局原因は特定されず、事件は闇に葬られた。誠和宿舎はその後、立ち入り禁止のバリケードで封鎖され、解体業者が次々と謎の事故に遭ったことで、今も廃墟として放置されている。

 現在、悠真は地元の高校に通い、真也は小さな工場で契約社員として働いている。

 一見すれば、悲惨な事件を乗り越えて懸命に生きる兄弟の、ささやかな平穏な生活だった。

 だが、真実は違う。

 悠真は、真夏であっても常に首元まであるタートルネックの服を着ていた。首をぐるりと一周する、あの赤黒い「巨大な手の痕」は、三年経った今でも一切薄れることなく、悠真の皮膚に焼き付いたままだからだ。

 そして、彼の左腕。

 左腕はあの日以来、完全に麻痺したように重く、血の気が引き、氷のように冷え切っていた。日常生活では動かすことができず、ただの肉の重りとしてぶら下げているに過ぎない。

 いや、正確には「悠真の意志では動かせない」のだ。

 夜、深い眠りに落ちている時や、ふと意識が飛んだ瞬間。左腕は悠真の制御を離れ、シーツをひどい力で握りしめたり、虚空に向かって何かを招き寄せるような奇妙な動きを繰り返すことがあった。

 悠真の魂の半分は、未だにあの宿舎の鏡の底に幽閉されている。そして空いた半分の肉体には、あの顔のない女の怨念が、確実に居座り続けていた。

 真也もまた、あの日から完全に壊れてしまっていた。

 かつて弟を驚かせ、悪趣味なイタズラをして笑っていた長男の姿はない。真也は極度の暗所恐怖症になり、アパートの部屋の電気は二十四時間消すことができなくなった。鏡という鏡にはすべて布が掛けられ、洗面所の鏡でさえも直視することができない。

 夜中にふと目が覚めると、真也が部屋の隅で膝を抱え、ガチガチと歯の根を鳴らして震えているのを、悠真は何度も見ていた。

 ある冬の夜のことだった。

 外では、あの日と同じように、冷たい豪雨がアスファルトを打ち据えていた。

 悠真は自分の部屋で、期末テストの勉強のために机に向かっていた。暖房をつけているはずなのに、左腕からはドライアイスを抱えているような強烈な冷気が発せられ、全身を震えさせている。

 深夜二時を回った頃。

 静まり返ったアパートに、微かな音が響いた。

「……ッ、ふふ……」

 隣の部屋からだった。真也の部屋だ。

 押し殺したような、奇妙な笑い声。

 悠真はシャープペンシルを持つ手を止めた。心臓が、嫌なリズムで跳ねる。

「ひひッ……や、やめろよ……くすぐったい……」

 声は、間違いなく真也のものだった。だが、その声音には、尋常ではない恐怖と、生理的な嫌悪感が混ざり合っていた。

 ギシギシと、ベッドのきしむ音が響く。

「っ、ハハッ……おい、やめろってば……! ふふッ、アハハハハ!」

 血の気が引いた。

 あの笑い声だ。

 誠和宿舎の四〇二号室で、姉の楓が深夜に狂ったように発していた、拷問のような爆笑。空気を無理やり搾り出されるような、肺の軋む悲鳴が、真也の部屋から聞こえてくる。

「兄ちゃん……?」

 悠真は椅子から立ち上がり、隣の部屋へと続くふすまに近づいた。

 重い。左腕が、鉛のように重い。ずる、ずると左腕を引きずるようにして歩みを進める。

「アハハハハハ! 痛い! 痛いィッ!! やめてくれェッ、アハハハハハハ!!」

 真也の笑い声は、すでに狂乱の域に達していた。壁をドンドンと蹴り飛ばす音、シーツを掻きむしる音。

 怪異は終わっていなかったのだ。

 あの誠和宿舎に置き去りにしてきたはずの呪いが、真也の精神の綻びを嗅ぎつけ、ここまで追ってきたのだ。

 弟を脅かすという悪戯で、自ら怪異と波長を合わせてしまった真也の業。それが、今になって彼自身を食い殺そうとしている。

「真也兄ちゃん!!」

 悠真は叫び、ふすまを勢いよく引き開けた。

 薄暗い部屋のベッドの上で、真也は海老のように身体を反り返らせ、もがき苦しんでいた。

 真也は両手で自分の脇腹を必死にガードしようとしているが、目に見えない強烈な力がそれをこじ開け、肋骨の隙間に深く、深く食い込んでいるのがわかった。真也のパジャマのシャツがめくれ上がり、あらわになった白い脇腹が、ボコッ、ボコッと不自然に陥没している。

 肉が沈み込んだ場所から、瞬く間に黒紫の痣が広がり、皮膚が腐死していく。

「アハハハハハハ!! 悠真、アハハハ! たす、けて!! これ、どかしてくれェッ!!」

 泡を吹きながら、涙と鼻水にまみれた真也が、ベッドの上から悠真に向かって手を伸ばす。

 悠真は真也を助けようと、ベッドへ向かって駆け寄ろうとした。

 しかし、足が動かない。

 右足が一歩も前へ出ないのだ。

 そして、悠真は信じられない光景を目の当たりにした。

 真也の部屋の隅。布が掛けられていたはずの全身鏡。

 その布がいつの間にか滑り落ち、部屋の様子を冷たく映し出していた。

 鏡の中の世界。そこには、ベッドの上でもがき苦しむ真也の姿と、ふすまの前に立ち尽くす悠真自身の姿が映っている。

 だが、現実とは決定的に異なる「異常」が、鏡の中にははっきりと描かれていた。

 鏡の中の悠真の『左腕』。

 それは、人間の腕の長さではなかった。

 悠真の左肩から伸びたその腕は、ゴムのように異様な長さで部屋を横断し、三メートルも先にある真也のベッドまで到達していた。

 そして、その異常に伸びた腕の先にある、関節の数が一つ多く、赤黒く腐敗した「悠真の左手」が。

 真也の脇腹に深々と指を突き立て、肉を掻き回し、内臓を抉るように執拗にくすぐり上げていたのだ。

「え……?」

 悠真は、現実の自分の左腕を見下ろした。

 左腕は、だらりと体の横に垂れ下がっている。

 しかし、指先から伝わってくる『感触』は、明確にあった。

 生暖かい肉の弾力。血液のぬめり。そして、人間の内臓を直接かき撫でる時の、あの悍ましい抵抗感。

 自分の左手の指が、兄の肋骨の裏側をまさぐっている感触が、脳髄にダイレクトに伝わってくるのだ。

(あ、ああ……あぁ……)

 怪異は、外から追ってきたのではなかった。

 あの時、反転した部屋で悠真の肉体を乗っ取った女は、悠真の中に「種」を植え付けたまま、おとなしく潜伏していたのだ。

 そして今、悠真自身の肉体を『母体』として使い、悠真の左手を怪異の腕へと変異させ、生き残った真也を終わらない責め苦へと引きずり込んでいる。

「アハハハハハハ! 悠真ァ! 悠真ァァァッ!!」

 血を吐きながら絶叫する兄。

 悠真は、自分の左腕を右手で必死に押さえつけようとした。引き剥がせ、やめろ、と頭の中で叫んだ。

 しかし、悠真の口は、彼の意志とは全く無関係に、ゆっくりと三日月型に吊り上がっていった。

 頬の筋肉がピクピクと痙攣し、限界まで引きつった満面の笑みが、悠真の顔に張り付く。

「……ヒ……」

 悠真の喉の奥から、錆びた配水管のような、あの女の掠れた声が漏れ出した。

「ヒッ……アハハ、アハハハハハ!」

 悠真は笑っていた。兄が内臓を破壊されて苦しむ姿を見ながら、抑えきれない歓喜の笑声を上げていた。

 鏡の中の悠真と、現実の悠真の顔が、完全に同調して醜く歪む。

『つ・ぎ・は、お・ま・え・を・く・す・ぐ・る・ば・ん・だ』

 悠真の口が、真っ暗な虚空に向かってそう囁いた。

 永遠に続く死者の笑い声と、肉を抉る黒い指の感触。

 五人家族を飲み込んだ呪いは、誰一人として逃すことなく、その冷たい泥の底へと完全に引きずり込んだのだ。

 アパートの窓を打つ雨音だけが、絶望の箱と化したその部屋を、静かに、ただ静かに包み込んでいた。

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