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逆位の棲家  作者: ユタカ
逆位の棲家

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9/10

人型の器、肉の詰まった貯金箱

悠真の首に焼き付いた黒い指痕は、もはや単なる火傷や痣ではなくなっていた。

 それは心臓の鼓動と完全に同期し、ズクン、ズクンと熱を帯びた脈動を繰り返している。痛覚はとうの昔に麻痺していた。代わりに、その首の黒い染みから、目に見えない無数の「根」が体内に侵入し、血管や神経を這い回って脳髄へと絡みついていくような、おぞましい一体感に支配されていた。

 特に、左半身がひどかった。

 悠真の左腕は、もはや自分の意志で動かすことが困難になりつつあった。気を抜くと、左手の指先が勝手にピクピクと痙攣し、空中で何かを「探る」ような気味の悪い動きを繰り返すのだ。それはまるで、視力を失った怪物が、手探りで自分の失われた肉体のパーツを探し求めているかのようだった。

 四〇二号室は、完全に死臭に沈んでいた。

 壁紙は過度な湿気で皮膚が剥がれるようにめくれ上がり、露出したコンクリートの表面には、黒カビが毛細血管のような悍ましい網目を形成している。もはや換気扇を回しても、窓を開けても、この部屋の空気は一切外の空気と入れ替わることはない。この部屋自体が、巨大な胃袋として完全に独立し、生きた人間たちをゆっくりと消化し始めていたからだ。

 その日の夕方。

 重苦しい静寂を打ち破るように、玄関の分厚い鉄扉がバンッ! と乱暴に蹴り開けられた。

 数日前から家に寄り付かなくなっていた長男の真也だった。

 土足のままリビングに上がり込んできた真也の姿を見て、悠真は息を呑んだ。真也の頬は病的にこけ落ち、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。何日もまともに眠っていないのだろう。血走った両目は、極度の恐怖と疲労で今にも破裂しそうに限界まで見開かれていた。

「……出、るぞ。今すぐ、荷物をまとめろ」

 真也の声は、ひどく掠れていた。喉の奥に血痰が絡んでいるような、ゴロゴロという不気味な音が混ざっている。

 リビングのソファで虚空を抱きしめながら子守唄を歌っていた母は、真也の言葉を完全に無視して揺れ続けていた。ベランダのガラス戸に張り付き、膿を垂れ流す外の「何か」と対話し続けている父も、振り返りもしない。

「聞いてんのかクソババア!! この家から出るんだよ!!」

 真也が発狂したように怒鳴り散らし、ダイニングテーブルを蹴り飛ばした。ガシャンと音を立てて、カビの生えた食器が散乱する。

 それでも両親は動かない。真也は舌打ちをし、悠真の腕を乱暴に掴み上げた。

「痛っ……真也兄ちゃん、どうしたの……?」

「いいから俺についてこい。姉ちゃんも引きずり出して、こんな狂った場所から逃げるぞ」

「でも……お父さんたち、もう……」

「置いていくんだよ!!」

 真也の絶叫が、カビ臭いリビングに反響した。

 彼は震える手で自分の頭を抱え込み、乱れた髪をかきむしった。

「……調べたんだよ。俺、怖くてたまらなくなって……この誠和宿舎が建つ前に、ここで何があったのか」

 真也の唇が、ガチガチと痙攣するように鳴った。

「三十年前だ。この場所にあった古いアパートで、未解決のバラバラ殺人事件があったんだよ。被害者は、背の高い女。……死体は、膝から下の足だけが近くの山で見つかって、残りのパーツは……頭も、腕も、胴体も、一切見つからなかったんだ」

 悠真の心臓が、ドクンと冷たく跳ねた。

 膝から下の足だけが、見つかった。

 では、あの四畳半の鏡の中に倒れていた、膝から上が闇に溶けていた「白足」は。

 そして、反転した部屋で悠真の首を絞め上げてきた、足を持たない「あの女のシルエット」は。

「誠和建設は、その呪われた土地をタダ同然で買い取って、社員宿舎を建てた。……なぜだと思う? 普通、そんな曰く付きの土地に、自社の社員の家族を住まわせるか?」

 真也の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。恐怖で完全に心が砕けているのだ。

「隠すためだ……。見つからなかった女の肉体のパーツを、この巨大なコンクリートの建物の基礎や、壁の隙間……至る所に塗り込めて、巨大な『墓標』を作ったんだ。あの気味の悪い螺旋階段は、霊を上へ逃がさないための『杭』だ。そして、各階にある四畳半の鏡は、女の魂を閉じ込めておくための『蓋』なんだよ!」

 悠真は眩暈を覚えた。

 この建物そのものが、巨大な呪いの封印装置だった。

 そして、自分たち住人は。

「……俺たちは、生贄なんだ。女の呪いが外へ漏れ出さないように、定期的に放り込まれる『新鮮な肉』なんだよ! だからあの階段から落ちそうになった! だから姉ちゃんは、内臓を弄り回されて発狂させられた! 魂も、肉体も、全部あの女に『部品』として奪われるんだ!」

 真也は悠真の腕を引っ張り、四畳半の部屋へと向かおうとした。狂ってしまった楓だけでも連れ出そうというのだ。

 しかし、廊下に出た二人の足が、ピタリと止まった。

 玄関に通じる薄暗い廊下の中央。

 そこに、行く手を阻むようにして『それ』が鎮座していた。

 五歳の頃、悠真が鏡の中に見つけ、母が拾い上げ、姉の楓がベランダから投げ捨てて粉々に砕け散ったはずの、あの黒ずんだ陶器の塊。

 おかっぱ頭の、顔のない日本人形の形をした『古い貯金箱』だ。

 だが、その様子は以前とは全く異なっていた。

 以前は手のひらに乗るほどのサイズだったはずのそれは、今やスイカほどの大きさにまで異様に膨張していたのだ。陶器の表面には無数の細かいひび割れが走り、その亀裂の奥から、ドクン……ドクン……と、心臓の鼓動のような生々しい脈動が伝わってくる。

 ひび割れからは、どす黒い液体がジュルジュルと滲み出し、廊下の床に小さな血の池を作っていた。

「ひ……ッ、なんだ、これ……っ」

 真也が腰を抜かしそうになりながら後ずさる。

 悠真の左手が、ビクンと大きく跳ねた。自分の意志とは無関係に、左手がその気味の悪い貯金箱に向かって、まるで愛おしい我が子を求めるようにスッと伸ばされる。

(やめろ……触るな……!)

 悠真は右手で自分の左手首を必死に掴み、押さえつけた。左腕からは凄まじい力が湧き上がっており、大人の男に引っ張られているかのように身体が前方へ持っていかれそうになる。

「どけ……どけええええええっ!!」

 真也が半狂乱になって叫び、玄関に立てかけてあった古い金属製の靴べらをひったくった。

 そして、逃げ道を塞ぐその忌まわしい陶器の塊に向かって、力任せに靴べらを振り下ろしたのだ。

 ガガンッ!!!

 火花が散り、鈍い破壊音が廊下に響き渡る。

 陶器の貯金箱は、無惨に真っ二つにカチ割れた。

 しかし、その中からこぼれ落ちてきたのは、小銭などではなかった。

 グチャリ、という、ひどく水気を帯びた嫌な音。

 割れた陶器の断面から、強烈な腐敗臭と共に溢れ出してきたもの。

 それは、極限まで圧縮され、黒ずんだ『人間の肉体の一部』だった。

 大量の脂ぎった黒髪が、複雑な知恵の輪のように絡み合っている。その髪の毛の塊を押し退けるようにして、パラパラと廊下に散らばったのは、ミイラのように乾燥し、黄色く変色した無数の「人間の指の骨」と、ごっそりと抜け落ちた「歯」だった。

 さらには、防腐処理もされずに生乾きの状態になった、赤黒い筋肉の繊維や、皮膚の破片のようなものが、どろりとした体液にまみれて床に広がっていく。

「う、オエエエエエエエッ!!」

 真也がその光景と、鼻腔を突き破る凄まじい死臭に耐えきれず、その場に四つん這いになって激しく胃液を吐き戻した。

 この宿舎の壁の裏側に隠されていた女の「部品」の一部。

 それが、呪いの増幅とともに、この貯金箱という「器」の形をとって室内に溢れ出してきたのだ。鏡の奥の女が現実への受肉を果たすため、自分の失われたパーツをここに集結させている。

「あ……ああ……」

 背後で、這いずるような足音がした。

 振り返ると、母だった。

 母は焦点の合わない目で、床に散らばった腐肉と骨の山を見つめていた。そして、よだれを垂らしながら四つん這いで床を這い、そのおぞましい肉の塊の前にひざまずいた。

「よかった……よかったわねぇ……」

 母は、床に散らばった黄色い指の骨を一本、また一本と拾い上げ、自分の膝の上に抱いた「見えない子供」の空間に向かって、愛おしそうに擦り付け始めた。

「おてて、見つかってよかったわねぇ。これでもう、痛くないわねぇ……」

 狂気に完全に支配された母は、人間の死骸の一部を、幽霊の子供のおもちゃとして与えていたのだ。その手は腐敗した体液で赤黒く染まり、異臭を放っているというのに、母の顔には恍惚とした笑みが浮かんでいた。

 狂っている。もう、本当に終わりだ。

 悠真が絶望に打ちひしがれたその瞬間、彼自身の肉体に最大の危機が訪れた。

「――っ、あ、あぁぁぁぁっ!」

 悠真が押さえつけていた「左腕」が、突然、万力のような力で右手を振り払ったのだ。

 制御を完全に失った左腕は、まるで独立した生き物のように床へ向かって伸びていく。そして、母が拾い損ねた床の上の「黒ずんだ肉片」と「指の骨」をガシリと鷲掴みにした。

(やめろ! なにするんだ!)

 悠真の頭の中で、女の歓喜の声が響き渡る。

『わたしの。わたしの、にく。わたしの、からだ』

 左腕が、掴み取った腐肉の塊を、真っ直ぐに悠真自身の「口元」へと運んでくる。

 女は、悠真の肉体という新しい器の中で、失われた自分のパーツを「喰う」ことで、物理的に同化しようとしているのだ。

「いやだ! やめろ、口を開けるな! 俺、開けるな!!」

 悠真は必死に歯を食いしばり、右手で自分の左腕を殴りつけた。しかし、左腕の力は異常で、じりじりと悠真の口元へ、腐臭を放つ肉片が近づいてくる。強烈なアンモニアと血の匂いが鼻先を直撃し、視界が涙で滲む。

「悠真!!」

 嘔吐から立ち直った真也が、悠真の異変に気づき、飛びかかってきた。

 真也が悠真の左腕に全力で組み付き、肉片を口元から引き剥がそうとする。

「食うな! 狂うぞ! 食ったら絶対に戻れなくなる!!」

 もみ合いの末、悠真の左手から肉片と骨が床に弾け飛んだ。

 その瞬間、建物全体が、まるで巨大な獣が怒り狂ったかのように「グォオオオオン……ッ」と地鳴りのような咆哮を上げた。

 カン! ギィイイイイイッ!!

 ドアの外、吹き抜けの空洞にあるあの錆びた螺旋階段が、無数の足音で一斉に軋み始めたのだ。

 一つや二つではない。何十、何百という「重いものを引きずるような足音」が、一階の底から、二階、三階と、怒涛の勢いで這い上がってくる。

「……ッ、来る! 逃げるぞ!!」

 真也が悠真の右腕を力任せに引っ張った。

「お、お母さんたちは!?」

「無理だ! もう手遅れだ!!」

 四畳半の部屋からは、楓の「アハハハハハハ!!」という狂った爆笑が、外の地鳴りに負けないほどのボリュームで響き渡っている。

 リビングでは、母が腐った骨を撫で回し、父は窓ガラスを掻きむしって血を流している。

 家族は、もう誰も救えない。

 真也は泣き叫ぶ悠真を引きずり、死臭に満ちた廊下を蹴立てて、玄関の鉄扉をこじ開けた。

 外の共有廊下に飛び出した二人の目に飛び込んできたのは、螺旋階段の下から、うねるような黒い瘴気と共に這い上がってくる、無数の「腐白の腕」の群れだった。

 誠和宿舎の呪いが、ついにその全貌を現し、生きたまま逃げ出そうとする二人を飲み込むために、奈落の底から溢れ出してきたのだ。

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