おまけ
「それを望んだわけではない」のおまけです
これは特になにも手を付け加えていません。本編の早退する前の話です。おまけ程度にお楽しみください
六月中旬。ある平日の朝。
ふと目が覚めた。
カーテンからは薄らと光が漏れている。いつもはもう少し早く起きているから、もう少し暗い。
今日は平日であり、休校日でもない。それなのに今日はアラームをかけずに寝過ごそうと思っていた。だから七時という遅い時間までアラームを鳴らしていない。なぜ休むのだったか……。寝起きで働かない頭を無理やり働かせる。
「…………」
……そうだ。今日は体育祭だ。運動はしたくなく、汗をかきたくなく、面倒臭がりな僕だ。体育祭は僕にとって不必要な学校行事だ。
今日は予定どおり休もう。毛布を掛け直して、開けた目を閉じる。おやすみ。
「…………」
そのまま眠りに入って二度寝をしようと思っていたが、どうも僕の腹が空腹だと訴えてくる。昨晩食べていればよかった。
体育祭の予行練習なんてものに付き合わされたから、帰ってからも風呂に入るくらいしか気力がなかったんだ。風呂に入ると言ったらそれなりに気力があると思うかもしれないが、髪は極力濡らさずに体だけを洗うことを風呂に入ると言った。多少濡れた髪も放置していたくらい気力はなかったんだ。
それでも寝る前に予約炊飯をしていたのは確かで、もう炊き終えているはずだ。あのままほうっておくのは電気代の無駄になってしまうから食べてから寝よう。ベッドから起き上がってだるむ体のまま一階に下りた。
食べたらすぐ寝るから洗顔はせず、代わりに台所へ向かう。やはり炊飯されていて、このままほうっておけば金の無駄になっていたらしい。
茶碗に白米をよそおって、きちんと炊飯器の電源を切る。箸も一緒に持って食卓に座った。いただきます。
今日はきっと「奴」が来るだろうから、早くベッドに寝に行きたい。ずっと寝ていました、とても深い眠りで全然起きません、と思わせられるように。
ほとんど噛まずに流し込んでいく。途中で喉に詰まらせかけていれば、
「…………」
インターホンが鳴った。一回ではない。何回も、何回も鳴らしてくる。うるさい。
このまま知らぬフリをしてもよかったが、相手が不審者だと思われないようにするためにも口にある白米を飲み込んでから出てやった。どうせ、今すぐに出なくとも相手は僕の家の合鍵を持っている。インターホンを鳴らすことに飽きれば、鍵を使って入ってくるだろうな。
玄関の扉を開けたら、眩しくて目を細める。
「おっはよーれーくん!」
その声に目を開ければ、小悪魔のような笑みを貼り付けたギルがいた。こんな朝っぱらから押しかけてくる奴なんてギルくらいしかいない。
「……おはよう。帰れ」
そう言って扉を閉めようとするが、近くに来たギルの手が扉の外から現れて止められた。手を挟まなくてよかった。
「ちょ、ちょっと! 閉めないでよ!」
「なんでこんな朝早くから来たんだ」
「もちろんれーくんを起こすためだよ。どーせれーくん体育祭嫌だからってサボろうとするの知ってるから」
十数年という長い付き合いになると、なんでも見透かされてしまう。……いや、去年もこんなことを言って家まで来られた気がする。
「一人で学校に行け」
「嫌だね。れーくんと行くもん! 中に入れて」
「無理だ。今日は休む」
「……どこか体調悪いの……?」
ただ動きたくないだけなのに、体調が悪いと思われるのは少し困る。
「悪いわけではない。ただ動きたくないだけだ」
「それならよかった。じゃあ、一緒に行くよ」
そして小悪魔のような微笑みも付け加える。本当に小悪魔のような顔だ。鏡で見せてやりたい。
「とにかく入らせて! まだ時間あるんだし、早くに来た意味なくなるよ!」
それならここまで足を運んでこなければよかったじゃないか。そうは思うがギルを外にほうって熱中症になんかさせられない。それに僕と一緒に行って体育祭を楽しみたいらしいギルを学校に行かせないわけにもいかない。
扉を開けていく。
「……入れ」
そう言えばここ最近で一番嬉しそうに顔を輝かせる。こんな笑顔のために自分を犠牲にするのは馬鹿な話だ。
「れーくん大好きー!」
「引っ付くな、暑い」
「えへへへ。俺も暑い」
「なら早く離れろ馬鹿」
「俺のこと馬鹿って」
「わかったから、本当に離れろ」
朝から溜息が出る。それでも微笑まされる。
ギルが家に入ってきたことで家の中が蒸し暑いということに気づき、冷房をつけた。
僕は学校行事に意味は成さないと思っている。だからサボれるものはサボっていた。去年の文化祭の準備や中学のときの合唱コンクールの歌の練習など。合唱コンクールは結局僕が伴奏を弾くことになって、そこはきちんと練習をした。迷惑はかけられない。
サボれるものはサボろうとしていたが、クラスで行動する行事はサボれないものがほとんどだった。まずギルがサボらせてくれない。今回の体育祭もそうだ。僕が運動をしたくないのをわかっているはずなのに、わざわざここまで来て僕を連れ出そうとしてくる。ある意味、代理の親みたいな感じがしてくる。
「ねえれーくん。お水欲しい」
食べ終わり、立ち上がったところだ。僕が立ち上がったついでに水を頼もうとするな。
「自分で入れろ」
「えー。だって人の家の冷蔵庫見るのは」
「大したものは入っていない。それに何度でも見ているだろ」
「えへへへ。言ってみたかったんだー」
もっとまともなことを言ってみたいと言ってくれ。茶碗をシンクに置いたあと、コップくらいは家の主として出した。ギルはそこに冷蔵庫から出した水を注いで飲んでいく。
「生き返るー。……れーくんも飲んどきなよ」
ギルが再び注ごうとするが、
「要らない……さっき飲んだ」
飲んだ憶えはないが、寝起きに冷たい水は喉が通らないんだ。もう少ししてから飲もう。
「あ、そうなんだ。ならいいや。食べ終わったんなら次は体操服に着替えて」
腕を引かれて、二階の僕の部屋に連行される。部屋は冷房をつけておらず、蒸し暑い。扇風機のコンセントはつながっていたのでつけてギルに向ければ、僕のところへ向け直された。こりず僕も向け直したら、ギルが部屋全体に風が送られるような位置に置き、落着した。
ギルが勝手にクローゼットの中を見る。が、そこに体操服は入っていない。ないことに気づいたギルは僕のほうを見るなり「どこだ」と視線で言われる。仕方なく勉強机の横に置いておいた体操服袋を手に取り、体操服である僕のジャージ上下と中に着る体操着を取り出した。
体操服は男女同じ色、同じデザインだ。体操着は風通しのいい白の半袖Tシャツ。部屋着を脱いでその体操着と長ズボンをはく。ジャージ上下は紺色をしていて学校の紋章が左胸と左骨盤あたりにそれぞれある。
「よーくできましたねれーくん!」
服を着たあとそう言って頭を撫でられる。撫でるな。それにこんなことで褒めるな。
今日はいろいろ疲れそうだ。
「今日はなにが必要なんだ」
階段を下りながら、数段先を行くギルに聞いた。
「今日は……そんな要らないかな。お弁当と水筒を持っていけば大丈夫だと思うよ。あと、必要ならしおりかな」
「弁当作ってない」
「そっか……。れーくんっていつも自分で作ってるもんね。大変……だよね……」
ソファーに座り込んだギルはまだ悲しそうな顔をする。僕は後ろから隣の背もたれに腕を置いて体重を乗せた。
僕の両親はいない。けど、いなくなったことで解放され自由になった。僕はそれでいいと思っている。家事や金銭類の管理など、普通の高校生ならしないことをしているが、困ったことではない。
ギルには両親がいないことを話している。僕はそれを暗く重いものだと捉えていないので暗くならなくていいと、謝る必要はないと言っている。それを今回も言う。ギルが覚えるまで。
「顔を上げろ。これで何回目だ。僕は暗く重いものと捉えていないと言っているだろ。暗い顔をするな」
「だって……俺はお母さんもお父さんもいるのに、れーくんはいないんだよ? 悲しくならないほうがおかしいよ……」
ギルにあって、僕にないもの……か。改めて言われると実感する。が、
「人は結局いつか死ぬ。僕の親が死ねば、僕も死ぬ。ギルもいつか死ぬ。それは変えられないことだ。死を望んでいなくとも死ぬ。この地球で生きる生命はいつか死ぬんだ。いつか、絶対に」
「わかってるよ……わかってるけど……。れーくん」
続きの言葉がないと思っていれば、振り向いて体に腕を巻かれる。
「俺より先に死なないでね。俺、れーくんのいなくなった世界で生きたくない」
「……それは事故や病気なども含まれ」
「含まれるよ。とにかく、俺より先に……絶対に死なないで。約束だよ」
ギルの左手は小指が立てられる。僕はそれを、
「いたたたたっ! ちょっと、なにするの!」
親指と人差し指で強くつまんだ。
「約束はできない。生き物である以上、早死にするなという約束はできない」
巻かれる腕に力が入る。暗い話をしたな。反省しよう。
「ギル、そろそろ暗い話はっ」
左耳を強く引っ張られる。
「えへへ、お返しだよ」
いつもどおりの声だった。
ギルは時間までソファーでのんびりとし、僕はさっとさっき使った食器を洗っていた。体育祭なだけあって、登校時間はいつもより遅い。
「れーくーん」
「…………」
聞こえたが、ソファーからキッチンまでの空間を挟んで大きな声を出して会話はしたくない。それを察したのか、ギルがいつの間にかキッチンカウンターを挟んだところにある食卓椅子に、椅子の向きを変えて背もたれを抱くように座っていた。
「……昨日の夜なに食べた?」
食べていないから一昨日のものでいいか。食べていないと答えれるば説教されることは明白だ。
「うどん」
「自作? お店の?」
「自作。店まで行くのは面倒だ」
行けばおいしさに後悔することはないんだろうが、徒歩圏内にあるうどん屋を知らない。僕はこの街に十数年といるが、学校以外に外に出ることがスーパーなどの買い物の時以外なく、この街のことをあまり知らない。
強いて言うなら、小学校中学校、高校の通学路と近くのコンビニ、近くの本屋に喫茶店。それらの道のりにある建物しか知らない。そして、そのどこにもうどん屋は見たことがない。
「外食とか行かないの?」
「行かない。外に出る時間で勉強に手を回せる。家で作って食べたほうがいい」
「真面目さんなんだからー。……じゃあ、今度一緒にごはん行こうよ。俺らくらいでも出せる店知ってるから」
なにが「じゃあ」なのかわからない。
「徒歩で何分だ」
「もー。時間は気にしないの! でもすぐ近くだよ。住宅街を出た大通りを右に曲がって、ずーっと行ったところにあるお店」
「……どこだか」
「とにかく! ね、行こ。いつ行くかは体育祭終わってからね。約束だから!」
なぜそこまで連れ出して食事をしたいのかわからないが、たまには外で食べるのもいいだろう。
洗い物が終わった。手が少しの間冷水に当たり、いい感じに体温のバランスが取れた気がする。
手を拭いて掛け時計に目をやれば、いい時間だ。
「そろそろ行くか」
スマホに目を向けて操作していたギルに声をかけると、すっとスマホの画面を落として「うん、行こ」と頷いた。
リュックの紐を肩に掛けて玄関に行く。ギルは先に出ていった。
靴を履こうとしたときジャージを忘れていることに気がつき、部屋まで取りに行った。家の中まで着る必要がなかったから忘れていた。夏に着るのはもちろん暑い。それでも着たいんだ。ジャージの袖を腕に通してリュックを背負う。
素朴に脱がれた学校のローファーを履く。ローファーの購入は自由で、必ずしも履いて登校しなくてもいい。だからギルはいつも灰色のスニーカーを履いている。今日も履いていた。
扉を開ければ、ギルが手で顔を扇ぎながらこちらに目を移した。確かに家の中との温度差があって暑く感じる。いや、暑い。
「行こー。暑いよー」
そう言うので学校に向けて歩きだそうとすれば、ギルに止められる。
「あれ待って。れーくん靴、今日運動靴じゃないと」
「あぁ。その運動靴を学校に置いているんだ」
「あ、なるほど。ならいっか。行こ」
そう言って歩みだすので、隣を歩いた。
冷房をつけない部屋は蒸し暑いが、外は蒸し暑いに加えて太陽の光が直接髪や服を暖めてくる。長袖はその直接受ける攻撃を避けることができるからいいんだ。それに、
「そういえば、れーくんズボン長いのでよかったの? 暑くない?」
「……ああ。最悪めくる。……長いほうが落ち着くからな」
「ならいいんだけど。……暑くなったら早く上のジャージも脱ぐんだよ? れーくんって謎に上着とか脱ぎたがらないからね。真夏の気温になってやっと袖ちょっとまくるんだから。夏休みに遊びに行く時家だったら半袖なのに、外に行こうとしたら薄い上着着て出るし。ずーっと気になってたの。なんでなの?」
そう言われても。ギルにはきっと理解できない。してくれるかもしれないが、否定してきそうだ。
「構うな。到底知り得ない」
「知り得るから教えてよ」
「……新藤蓮は黙秘を貫く、を選択」
「あはは! なにそれ面白い。ゲームのRPGの敵と戦うやつだ。じゃあ、俺……じゃなくて英川ギルは教えて、を選択! 教えて!」
「新藤蓮は防御、を選択。ギルの攻撃は防がれた」
「あははは! じゃあじゃあ、英川ギルはいつも宿題を写させて、を選択!」
どうやら話を逸らせたようだ。
このRPGを真似た遊びは、途中にあるコンビニに入ったことで終わった。入ってからは水分摂取法について聞いてくる。
「五〇〇ミリリットルのペットボトルだけで足りる? 一リットル持って行ったほうがいいんじゃない?」
「きっと足りる。僕が多く飲まないことを知っているだろ」
「そうだけど、ごはん食べるとき以外ずっと外だよ? 暑いよ? 動くんだよ?」
「最悪、購買や自販機を利用する」
「年中行事のときは購買やってないよ」
「……そうなのか」
初めて知った。購買はときどきパンを買ってお世話になっていたが、知らなかった。
「どちらにせよ、足りる。なくなったら自販機で買う」
「そっか」
ギルは白米や唐揚げが入った長方形の弁当を勧めてきたが、おにぎりがある棚に手を伸ばした。レジでエビマヨと梅のおにぎりをそれぞれ一つずつ、五〇〇ミリリットルのペットボトルを渡して会計を済ませた。
「れーくんってカード決済みたいなのしないの? 俺もしてないけど。よくわかんないし」
「しない」
もちろん現金でだ。カードは僕もよくわからない。
おにぎりを潰れないよう、ペットボトルは空いているところにリュックに入れ、再び学校に向かおうとすれば、コンビニを出たところでギルがトイレに行きたいということで、コンビニ内で待った。外は暑い。
戻ってきてからは学校に向かった。
少しでも暑さを紛らわそうと、涼しかった冷房がついた感覚を思い起こしていれば、
「…………」
「……ん? どうしたの?」
ふと嫌な予感が脳裏を巡り、脚を止めてしまう。
「冷房を消した記憶がないんだが」
「え! それは……かなり電気の無駄遣いしちゃうね……。どうする?」
「…………」
腕時計を見て時間を確認する。時間的に走れば間に合うだろう。あまりしたくない選択だが、金が無駄に飛ぶのはかなり困る。
「戻る。悪いが、僕の荷物を持って先に学校に行っててくれ」
返事を聞く前に僕はリュックをギルに預けていた。ギルはリュックを前に抱えて背負う。
「わかった。でも車に気をつけてね」
「もし遅れたら適当に言っててくれ」
「うん」
「じゃあ」
僕は振り返って軽く走りだした。大通りだと人通りが多くてぶつかってしまうかもしれない。住宅街に入るまでは本気で走れない。
体育祭が始まる前に体力を使ってしまうなんて、とんだ馬鹿げた話だ。大きな溜息を吐きたい。
呼吸音と心臓がうるさい。ローファーで走ったからか、足が痛い。
「お疲れさま。大丈夫だった?」
なんとかギリギリ本鈴の前に教室へ入れ、先生もまだ顔を出していなかった。そのため、生徒は自由に立ち上がり、汗だくになりながら教室に入っても注目を集めることはなかった。
席に座るなりギルが傍に来た。一緒に僕のリュックも机の上に置かれる。
呼吸が荒く返事ができずにいると、どこかへ離れていき、すぐに戻ってきた。ハンドタオルが握られている。そしてそれを汗筋が流れる不快なところへ押し当ててくれる。
「かなり本気で走ってたんじゃない? 久しぶりだよ、健康な状態でこんな汗だくなれーくん」
「……ああ。……少し余裕ぶっこいて……折り返しで歩いていたら間に合わないと途中で思ってな。……タオルありがとう」
「うん。風邪引かないでよ?」
誰かの「先生来たぞ!」という声でぞろぞろと生徒が席に着いていく。ギルも「またね」と席に戻っていった。
「おはよーございまーす!」
今日が体育祭だからか先生は運動着らしい格好をし、機嫌もいいらしい。普段は「はいみんなおはよー」としか言わない。……変わらないか。
挨拶後、今日の流れを説明されていく。が、涼んだ体には睡魔が襲ってきて、言われたことが脳に入り込まず通り抜けていく。
この睡魔はきっと昨日の夜に、どうせ明日は休むからといって深夜の二時前くらいまで本を読んで夜更かしをしたせいだろう。夕食は食べれなかったくせして。馬鹿なことをしなければよかった。……面白かったからべつにいいんだが。
「弁当はこの教室に置いて、それ以外を持ってグランドに集合だ。クラスごとに長椅子が並んであって、B組の座る場所ならどこでもいいからな」
B組の座る場所? そんなのあったか? 頭を振って眠気を少し覚まして顔を上げてみれば、黒板に書かれていた。なるほど。どうやらB組は一般棟を背にした本部や放送部の左側、トラックに沿ってまず一年の席があってその隣に二年A組、その左側に位置している。
「まあ、場所わからなくなったら地面に白線をクラスごとに……ここだったら『2ーB』ってあるからそれを見たらいい」
らしい。踏まれて全部消されないことを祈ろう。
「ただ、椅子は絶対座ること。他人に迷惑かけるような座り方とか寝転ぶとかは禁止だ。あ、あと禁止ごとといえば、この体育祭を自分の番じゃないときにスマホを使って動画を撮ったりするのはいい。ただ、それをSNSとかに投稿するのは絶対に禁止だ。あとで発覚したら生徒指導確定だから覚悟しとくんだぞー」
どちらも僕にとっては関係のないことだったな。ヘンな座り方をしてまで種目を見たいわけでもない。スマホで動画を撮るほど思い出作りをしたいわけでもない。
もう数分先生がなにか話し、終わったら教室から去っていった。先生がいなくなったことにより、生徒は徐々に声量を上げていく。眠気のある僕の脳にはどんな会話も入ってこず、BGMにしか聞こえなかった。
少しの間、机に伏せて寝るフリをする。眠たい……。
「――と、起きて。ねえれーくん」
呼ばれて顔を上げれば、慣れない室内の光で目を細める。この声はギルだ。
「やっと起きた」
声のしたほうを見ればギルがなにか青い紐を持って立っていた。目が少しかすんで、目をこする。
時計を見てみれば十五分ほど過ぎていた。寝てしまっていたようだ。
「この時間はなんだ」
「先生が体育祭の種目とか書いた紙取りに行ってるよ。あとトイレ行く人は行ってこいって。れーくんはトイレ大丈夫?」
「ああ」
「ならこれ着けるから後ろ向いて」
持っていた青い紐を揺らす。よく見れば、ギルの額にもその青い紐が髪の毛の下から巻かれている。どうやらこれはハチマキらしい。
「自分で着ける」
「だーめ。れーくん不器用なんだから」
……料理や裁縫ができるから器用だと思っていたんだが、どうやら不器用らしい。
ギルに背を向ければ目の前にハチマキが下りてきた。そして、目を隠される。
「……なんの真似だ」
「え、なにが? ……って、あはは。ごめんごめん。気づかなかったよ」
目隠しをしてなにかのゲームを始めるのかと少し思った。物語ではよくある展開だからな。例えばデスゲームのような。
ハチマキが目から離され、今度は額に当てられる。ハチマキと額の間に挟まった前髪が取られていく。そしてときどき頭を後ろに引かれながらも、結び終えたらしい。後ろから「よし……」と声が聞こえた。
「できたよ。こっち向いて」
言われたとおり一八〇度体を回転させた。目の前には相変わらずギルの顔が映る。
「うん。いい感じ。……あとちょっとだけ……」
そう言ってまだなにか手を加えられる。ハチマキを上に下に引かれ、ハチマキに挟まれているであろう髪を引かれ、前髪をいじられ、
「よし、完璧。かっこよく巻けた」
と、満足げに言う。自分の髪ですればいいだろうに。僕と違ってさらさらとしたその髪で。
僕はくせ毛というわけではないはずだ(幼い頃は真っ直ぐだった)。が、風呂上がりに髪をほうっていたらいつの間にかこうなった。他人であるギルがなぜか気にしているが、僕は気にしていない。
「おうおう。関係ない奴は座れよー」
先生が帰ってきて教室の様子を見て言う。視野を広げてみればギル以外にも、友人らしき人の傍に行って話をしている者がいた。
「これ配り終わったら荷物持ってグランド出るから準備しておけよー。さっきも言ったけど、弁当はこの教室に置いていくんだぞー。持っていったら腐って食べられなくなるぞー。午後の部に昼抜きは大変なことになるぞー」
そんなことを言っている間に配り終えていた。回ってきたプリントを一枚取って後ろに回す。配られてきたプリントには「第七十五回体育祭(生徒用)」とでかでかとイラスト付きであり、右面には校長の言葉が長々と書かれている。裏面には種目やクラスの席の場所などが書かれている。
「……よし。じゃあ俺らのクラスもグランド行くぞー。弁当以外の荷物は持って行くんだぞ」
生徒は荷物を持って廊下に並びグランドに向かっていく。僕は途中で抜けて自分のロッカーまで行き、入れてある黒のスニーカーに履き替えた。僕以外にも数人履き替えている奴がいて、焦りが軽減する。
グランドに向かえば、他学年がグランドに出るところだった。それに同じ青のハチマキだ。その群れに紛れて一緒にグランドに出て、二年B組の席へ向かう。
各クラスの席には、長椅子が並んでいる。そしてその上にはテントが張られていた。だが、陽がまだ高い位置にあらず、後ろのほうでは日陰になっていない。
意図的にかわからないが、五脚並んでいる長椅子の右半分が男子生徒、左半分が女子生徒が使っている。そして男子生徒が座る右側の前のほうでは一脚に五人ほど座っている。見ているだけで暑苦しい。
真ん中あたりの席を逃し、仕方なく空いている右側の一番後ろの席へ座り込んだ。前の長椅子は誰も座っていない。そしてもう一個前の長椅子にはギルが座っていた。なぜか振り向いたギルが僕に気がつき、驚いたような顔になる。
「れーくんいた! いくら捜してもいなかったからどこ行ったのかと思ったよ。そんな後ろじゃなくて前おいでよ」
前に行ったところで日陰でないことには変わりないのだから、どこだっていいだろうと思いながらも腰を浮かせて一つギルに近づいた。ギルが少し悲しそうな顔をするので、仕方なくだ。
「……俺そっち行こうかな」
なぜかと問う前にわかった。ギルの隣には誰かが座っており、席が埋まっている。僕の隣の空いている席に座ろうか、と言っているのだろう。
「そこでいいだろ。それに準備体操やらで一度立つだろうし」
「それもそっか」
生徒が集まったらしく、開会式が始まるようだ。
生徒は中央に背の順で集まらされて腰を下ろされる。陽の光を浴びた砂は少しばかり熱く、尻に熱を感じる。
前に出た校長の話が始まった。いつも長い。きっと今日も長い。雲に隠れる素振りも見せない太陽が僕らを照らして頭が熱い。早く終われ……。
「ふ……」
やっと終わった。暑いのもあったが、眠気も酷かった。途中意識を失っていたかもしれない。
次は準備体操だ。少し広がって数名の生徒が前に立ち、例の音楽が流れる。この音楽が耳に入っただけで拒絶反応を起こすのは僕だけではないだろう。運動の準備をする体操はしたくない。
終わってからふと横を見れば、ぐったりしている女子生徒がいた。猛暑のなか長い話を聞かされ、体操をさせられたからだろうな。
「おい、大丈夫か。聞こえるか」
そっと近寄った。返事がない。かなり危ない状況かもしれない。
『生徒退場』
周りでは退場する準備として駆け足踏みをしている。そんななか周りを見渡して近くにいた先生と目を合わせた。僕に気づいた先生は状況を理解したのか駆けてくれる。
「体調悪いみたいで」
周りの生徒が僕らを避けて退場していった。生徒がいなくなった今ではかなり目立つだろう。目立ちたくはない。早く去りたいが、今はこいつを……。
「あなたは大丈夫?」
「はい。僕は」
「なら、もう戻りなさい。あとは先生がしますから。教えてくれてありがとうね。そのまま直進で、退場門潜らなくていいからね」
先生が生徒を支えながら離れていった。一人でグランドの中央に立っているのはさすがに恥ずかしい。駆け足でクラス席がある場所へ戻り、後ろのほうの空いているギルの隣に座り込んだ。
かなり走ったわけでもないのに息が切れる。こういうときに体力不足は困る。
「れーくんをおかえり。どうしたの?」
「……隣にいた……奴」
「ああ、息整ってからでいいよ。ごめんね」
言われたとおり息を整えさせた。僕も進んで息を切らした状態で話しはしたくない。
息を整えてから口を開く。
「……隣の奴が体調悪そうにしていたから。あの感じきっと熱中症だろうな。顔が赤かった。それにきっと意識が朦朧としていたんだろう。そのうち救急車のサイレンの音が聞こえるんじゃないか」
「え、そんなに酷いの? 大丈夫かな……。れーくんも気をつけてよ? 毎年なりかけたりなったりしてるんだから……」
「どうだか」
「気をつけなさい」
ポンと頭に手を置かれる。
「気をつけないと、よしよししないよ」
そして頭を大きく左右に動かされる。
「よしよしなんか……それよりやめろ。酔う、ほんとに」
「あはは、ごめんごめん」
解放された……。気持ち悪い……。胸の不快感を抱いたので深呼吸をして少し落ち着かせる。もっと新鮮な空気だとよく効くんだが。
ギルが「まあ」と続ける。
「校長先生の話長かったもんね」
「……途中寝ていたかもしれない」
「そんなに? 確かに眠たかったけど、あくびするくらいだったよ? もしかしてれーくん寝不足だったり……?」
「……寝不足ほどではないが、昨日は遅くまで本を読んでた。つい面白くてな」
「もー面白いのは仕方ないけど、次の日なにがあるかって考えないと」
この顔は、少しばかり怒っている顔だ。
次の日は体育祭があるが、休むからいいだろう。そう思っての行動だ。考えてはいたんだ。今学校にいるのが想定外なんだ。
「……俺にとってれーくんは、一生の借りがある恩人で友だちで親友で、絶対に手放したくない存在なの。だから……その、もっと自分を大切にしてほしい……な」
ギルからこういった言葉はあまり聞かない。だが、こうして今言ったんだ。相当な心配やらをかけてしまっているのだろう。
「気をつけるようにはする」
「うん。俺縛られるのはあんまり好きじゃないかられーくんを縛ったりはしたくないんだけど……それでも最低限は配慮してほしいな」
守れる自信がなく、頷きはしなかった。間もなくして流れた放送によってその話は自然と終わる。
一生の……か。助けた憶えはないんだが。逆に僕が救われたというか、なんというか……。
空を見てみれば雲一つなく快晴で、太陽からの光が痛くも感じてくる。なにもしていないのに汗が滲んで、次第に肌を伝って不快極まりない。
夏の存在にいら立ちを抱いて一つ溜息を吐く。長い一日の始まりだ。
次の種目は二〇〇m走だ。これにはギルが出るようで、今入場門まで行った。入場門で待つギルは、緊張しているのか、じっと立っている。いつも僕の周りでは動き回っているのに。そんなギルの様子を見ていた。
この体育祭では一人三種目は出なければならない。もちろん人数制限は設けられている。二年の場合、二年全体のリレーがあって絶対二年全員が出る必要がある。だから、それ以外にあと二つ出なければならないということになる。
僕は二年全体リレーの他に、午前の部では借り物競走、午後の部では障害物競走に出ることになっている。どれも余りものだ。どれで走っても最下位は決まっているので、適当に余ったものを選んだ。
放送が流れる。
『次の種目、二〇〇m走の出場者は入場してください』
音楽とともにこれから二〇〇mを走る者が出てくる。立ち位置まで来たら一番前の走者とその次の走者以外は座る。
ギルは二年の枠のB組の中で一番始めだ。初めは一年が走るようだ。
ピストルの音が何発か聞いたあと、ギルの番だ。
体育教師がグランドによく響く声で合図する。
「位置について……よーい」
――パンッ
ピストルが鳴り響くと同時に走りだし、歓声が飛ぶ。
このグランドはトラック一周で二〇〇mに値する。そのせいで、体育のときは軽く地獄を見る。
走者が二年B組の前を通るたびに周りはうるさくなる。そんななか、ギルが二年B組の前を通っていき、一年の時よりも大きな盛り上がりを見せていた。そして誰を抜かすこともなく、抜かされることもなくゴール。
ギルは一位らしい。一位の旗の列に座った。おめでたい。クラスの優勝を思っての言葉ではない。ギル個人に向けた言葉だ。クラスの優勝なんて、これっぽっちも興味ない。
ギルが走り終わってからは知らない奴ばかりなので見なかった。誰が勝っても興味ない。僕はギルだけが目的だったんだ。
未読の小説の話の内容を想像していたら二〇〇m走の出場者の退場が放送でかかった。そして次の玉入れを参加する者の入場がかけられる。
少ししてギルが戻ってきた。
「お疲れさま」
左に寄ってギルに座る場所を空ければ、そこに座り込む。
「ありがと。俺が走るの見てくれてた?」
「ギル以外見ていない」
見たところで誰なのかわからないし、ただ僕の運動能力のなさを見せつけられるだけだ。
それだけなのに、言葉を聞いたギルはなぜか少し顔を赤くする。
「その言い方はずるいよ」
なにが。
ここの席は後ろのほうであまり見やすいというわけではない。ギルが少し背を伸ばしている。
僕はべつにこの玉入れに興味がないので目をつぶって待つことにした。眠気に誘われる。
どうやら寝ていたらしい。急に声をかけられ、驚いて少し体が動いた。
「れーくん!」
声のしたほうを見てみるとギルがいた。なぜか椅子が並んでいない通路に立って。
「お願い! 次の種目代わりに出れないかな……」
「次の種目は……」
「二人三脚。代われないかな」
「人が代わっても大丈夫なのか」
「いや、代わるのは俺じゃなくて、俺と走る相方と代わってほしいんだ」
相方は休みなのか……。
「補欠は」
「前の種目で怪我しちゃったみたいで……」
「……僕は素人だが」
「俺らの絆なら大丈夫だよ!」
ギルが食い気味にガッツポーズをして見せる。情熱的でいいことだ。補欠もいないとなれば……。
「仕方がない」
「ありがとうれーくん様、神様、れーくん様!」
……仏はどこ行った。それに僕をそんなところに並べるな、二人も。
とにかく出ると決めたんだ。ギルが困っているのにほうっておけない。それにいい眠気覚ましになるだろう。
入場口へ行くと各ペア一本ずつ紐が渡された。周りを見てみればもう着け始めていた。
「これ、もう着けるのか」
「うん。着けて入場退場」
「初めからハードだな」
「そうなんだよ」
そう言いながらギルは、僕の左足と自分の右足に紐を通して器用に結ぶ。結ばれた左足は違和感しかなく、この状態で走るのかといまさら実感する。転ばないように気をつけよう。
間もなくし、入場の放送が流れた。
『次の種目は二人三脚です。出場者は入場してください』
「れーくん真ん中の足からいくよ。せーの」
合図で慎重に走りだし、並んで待つ。さっきの走りだしでなんとなくコツは掴んだ。コツはタイミング、歩幅をずらさないことだな。
今回は前のほうだったからすぐに僕らの番が来た。二人三脚なんて初めてで転ばないかすごく不安だ。転んでしまえば、ギルに怪我をさせてしまうかもしれないし、クラスに迷惑をかける。……いや、迷惑はべつに思っていなかった。今付け足した。
白線に立てば、心臓がうるさく鳴っていることに気づく。
「真ん中からね」
「位置について。よーい」
「せー」
――パンッ
「の!」
ギルのおかげで、無事合図とともに走りだせた。
二人三脚は一〇〇m走らなければならない。僕は体力測定の五〇m走を走り終えたら、かなり息が上がる。つまり、今回の一〇〇mを走る際も、五〇m通過頃にはかなり息が上がっていた。
僕と違ってギルは小さな息をして僕に歩幅を合わせてくれている。どこかのクラスの走者に抜かれてしまうかもしれないと思い、胸を張ってスピードをつけようと思ったが、気づいたギルが言う。
「いいよ……自分のペースで」
「…………」
そうだ、これは歩幅を合わせて走るものだ。なにを勘違いしていた。
走っているなかでも声を出せる余裕さ。さすが元運動部だ。四年間帰宅部の奴とは違うな。
喉を軽く乾燥させていることに気づき、唾を飲んで潤す。顔を上げれば、目の前にはゴールテープが見えていた。そこにめがけて気を抜かず走り抜ける。
「ふ……」
走り終えた。早まっていた鼓動が減退していく。
「れーくんほんとありがとね」
「眠気が覚ませた。構わない」
他の走者が走り終えたあと退場がかかり、のんびりと戻った。後ろのほうの席に座れば水分補給をしていく。
飲み終えたあとに気づいたが、ペットボトルが買った時よりもずいぶんと軽くなっている。新しく買う必要があるのかもしれない。
陽が昇って気温が高くなってきた。暑さで脳がやられそうだ。真夏ではさらに気温が高くなると思えば、家から出たくなくなる。
次は綱引きだ。これには力に自信がある男子生徒が出場する。ギルは体力には自信があるらしいが、力には自信がないらしく、出ていない。僕は論外だ。
「面白そうなの見れそうだね」
「去年はなかったからな」
綱引きは今回初めて見る。どこかの人らとどこかの人らで太い縄の隣に立ち、合図を待っている。どこか真剣さを感じた。剣道や弓道などの開始後の集中力を真似たような静けさだ。
合図が出されたら、勢いよく引っ張られていく。あそこに僕が出ていれば立って引くことすらできず、床に叩きつけられていただろう。
体育祭に参加意欲があるギルは横で騒いでいる。「いけいけー!」とか「頑張れー!」とか「おぉー!」とか。
その隣で一つあくびをした。
ふと僕の出る種目はあとどれくらいなのかと、ギルが手にしていたしおりを見せてもらう。次は、借り物競走……。僕が出る種目じゃないか。入場口に行かなければ。
しおりをギルに返して立ち上がる。
「トイレ?」
「いや、次出る」
「あ、そうだっ……け? ……あぁ、借り物競走か。頑張って!」
手を払う仕草でごまかした。頑張る気はない。
入場口に行けば、もうほとんどが並んでいた。遅くに来た僕に気づいてかどこかから「遅い! 早く並べ!」という声が飛んだ。悪かったな。
綱引きに出ている者が退場し、借り物競走に出場する者が入場していく。僕は列の前から三番目に並んで座る。少しばかり心臓がうるさい。
借り物競走は、真っ直ぐ走ったところの机の上に置かれている箱から紙を一枚取り出して、書かれているモノや人を持ったり連れたりしてゴールまで走る。書かれている内容はもちろん知らされていない。ヘンなものが書かれていなければいいのだが。
順番が来た。立ち上がって白線のそばに手を着き。深い溜息を吐く。
「位置について……よーい」
――パンッ
ピストルの音と同時に走りだし、机の前まで来て箱に手を突っ込み、一番上にあった一枚の紙を取って広げる。
「……は?」
お題を見れば思わず声を漏らした。誰だこんなお題を考えた奴。
周りを見渡せば走者は観客に向けて走りだして、声を上げている。僕も早く連れ出さないとなんだが……。そう思っているなか、一つの声が聞こえた。
「れーくん頑張れー!」
声がしたほうに目を向ければ、
「……ふっ」
いるじゃないか、あそこに。僕は二年B組の席へ走りだした。そこに近づけばクラスの奴らが騒ぎだす。「こっち来たぞ!」とか「きゃー!」とか「なに借りるんだ!」とか。
そんななか、僕はある一人に目を合わせた。目が合ったそいつは「俺?」とでも言いたげな顔をして自分を指差している。僕は頷いて手招きする。
「こっち来い」
こんなクラスの前に立つことなんてないから少しと言わずかなり鼓動が速い。だが、目的はこいつなんだ。早く連れて前に立つのをやめよう。
長椅子の間を抜けて奴は来た。
「れーくんほんとに俺なの?」
「ああ。行くぞ」
結果は最下位だった。最下位の旗があるところまで行って座り込む。紙を見てから走りだすのが遅かったからだろう。だが走り切れたんだ。褒めてもいいだろう。
「はぁ……はぁ……」
「ねえれーくん。……ほんとに俺で……よかったの……?」
グランドの端から端まで走って、どちらも息が切れている。一つ頷いてから、息を整えた。
「お題なんてあったの?」
僕は持っていた紙を見せた。
「……え! どういう……こと……?」
ギルの顔を見れば少しばかり赤らめていた。
僕が取った紙には、
「なんで『好きな人』で俺なの……?」
そう書かれていた。
「絶対ゴールの時紙見せた先生に誤解されちゃったじゃん!」
「なぜそう捉えるんだ。『好きな人』とは書いてあるが、どこにも恋愛対象でなんて書いてないだろ」
「あ……あぁ、そ、そっか。そうだよね。びっくりしたー」
「それに、恋愛対象として好きな相手がいない奴、僕みたいな奴ならこれを引いたところで連れて来れないだろ」
そういうところはきちんと配慮されている。
「あははは。そうだね。れーくん好きな人いないもんね」
「お互い様だ」
取った紙を係員に渡してもうしばらく座って待つ。あまり長い時間ではなかったと思うが、かなり長い時間待った気がした。なにより、暑くてか息苦しい。
出場者の退場がかけられて立ち上がる。そのとき立ちくらみが生じ、
「っ……大丈夫?」
「悪い。軽い立ちくらみだ」
ギルに軽く当たってしまった。すぐにバランスを取って自立する。周りの人と合わせて退場門に向かった。
「はぁー、まさか俺が呼ばれるとは思ってなかったなー」
「…………」
「……れー」
「二年生は次全体リレーだから水分補給して並べー」
ギルの言葉を遮って先生が言う。連続で出るのか。適当になんて選ばなければよかった。少し……体が無理だと訴えているようだ。
周りの二年生が入場口に向かっていく。
「僕らも行こうか」
「……うん」
向かって順番に並んで待っていれば、数人挟んだところにいるギルに一歩近づいて声をかけられる。どこか不安そうな顔をしていた。
「れーくん大丈夫? なんか顔色悪い気がするんだけど……」
「どう見てそう思った。それに始まる。……心配するな」
「……そう? なにかあったら」
『次の種目は二年全体リレーです。二年生は入場してください』
ギルの言葉を遮って入場がかけられる。ギルは、まだ言い足りなさそうな顔をしながらも前を向いた。
二年の全体リレーは、トラック一周で二人の走者が走る。つまり、一人一〇〇m走ることになっている。トラックの直線部分でバトンパスをされて走り、再び来る直線部分でバトンパスをして走り終える。
走者順で番号を振ったとき、奇数になる者がトラックの前側、偶数になる者が後ろ側になっている。もとからそれぞれ分かれて並んでいるので、入場後はそれぞれの場所でしゃがんで待つ。
二年生の全体リレーはクラス対抗だ。他クラスに足の速い奴がいるとか教室で何度か聞いたことがあるが、誰だかは知らない。
入場後、初めの走者と次の走者が位置に着く。そして、グランドに響いた発砲音のあと、走者が走りだすと同時に歓声が飛んだ。
僕の順番は中間より少し前だ。少しだけ待つことになるだろう。目をつぶる。これ以上、体の異常を悪化させまいと。
さっきから、体がなにか訴えている。息苦しさや頭痛、貧血のような感覚で訴えてきている。だが、入場した今、抜けることなんてできない。僕は自分の番で走りきらなければならないんだ。
「れーくん。ほんとに大丈夫なの?」
目を開ければギルが傍まで来ていた。もうすぐ自分の番だというのに。
「自分のところへ戻れ。さっき大丈夫だと言ったはずだ」
「でも……」
「まずは自分を優先しろ」
次の走者が待つところが空いたのに気づき、目を向ける。ギルも釣られて見る。
「次だ……」
「行ってこい」
「…………」
「見ててやるから」
「……うん」
少し心配してそうな顔を貼り付けながらも、そこへ向かった。B組はC組のあと、バトンが渡された。
バトンを貰ったギルは走っていく。それを目で追い、視界の限界に来れば体を動かして追う。が、そのとき視界がぐるっと回ったような感覚に陥って、地面に尻を付けてしまった。
落ち着いてから顔を上げて見たらギルを見失った。が、どうやらもうバトンを渡したらしい。走り終えた者が並ぶ列に薄黃色の髪の奴がいた。そして、そいつはこちらに顔を向けていた。目をこらしてみればやはり心配してそうな顔を貼り付けている。
まだそんな顔をしているのかと思っていれば、すぐ後ろの奴に前に進めと目線で言われたので進んだ。ギルにも後ろに並ぶ奴が出来て姿は見えなくなった。
立ち上がったときに視界が少し暗くなり、動悸を感じながら待っていた。次は僕の番だ。今度はB組が先頭を走っている。つまり、今はB組が一位だ。大きなプレッシャーがかかる。
走るラインに立って前の走者が来るのを待つ。見えてきた。タイミングを図って軽く前を向いて走りだす。徐々にスピードを上げれば、「はい!」という合図がかけられてバトンが渡された。僕は走りだしていく。
大きなカーブを抜ければ次の走者が見えてくる。それと同時に、後ろのほうから足音が聞こえてきた。追いつかれそう……。
上げれるだけスピードを上げる。だが、それをしたのが間違いだった。スピードを上げたせいで体のバランスを崩して転んでしまった。そして、後ろにいた奴を巻き込んでしまう。
「って……なにしてんだよ!」
そいつは地面に手を付いたためか、そう言ってすぐに走って行った。僕も早く立ち上がって走りだそうとするが、思わぬ痛みが足に走り、再び地面に膝を付けそうになる。なんとか耐えるが、数人に追い抜かれてしまった。さっき巻き込んでしまった奴に足を踏まれたからだろう。痛みに耐えながら走りだした。
バトンを渡してからは、トラックに入って膝に手を付きながら呼吸を整えていた。心臓がうるさく鳴って吐き気がする。走ったせいで悪化させてしまったのだろう。だが、このリレーを走り切れたんだ。一件落着だ。
「れーくん」
その声に顔を上げようとすれば、一瞬意識が飛びそうになって倒れそうになったのを踏ん張る。
「わっ……。れーくん、ほんとに」
「大丈夫だ。……ギルは心配しすぎ……なんだ……」
気持ち悪い……。
「とにかく座って」
座るよう促され、地面に尻を付けて座った。顔を伏せてギルから見えないようにする。
ギルは転んだ時に付いた砂をはたいて取ってくれているみたいだ。
この感じきっと、熱中症にでもなった。今の顔面は蒼白になっているだろう。ギルにそんなの見せれば……。
「列に並んでください」
誰かが言った。きっとここを指揮する他学年の体育委員だろう。
「立てる?」
無理やり立ち上がって列の場所を確認する。そのとき運悪くギルに顔を見られたらしい。
「えっ、れーくん顔真っ白だよ!」
「……気のせいだ」
列の場所を確認すればそこへ行き、座り込む。いまだに頭痛と胸の不快感を与えられる。
「気のせいじゃないよ! 先生呼ばなきゃ」
「呼ばなくて……いい」
視界が暗くなっていく。片足を立ててそこに腕を置いて顔を覆い隠す。同時に胸の不快感のあまり、胸を押さえていた。
「大丈夫ですか」
ギルが呼んだのだろう。大人の声が聞こえる。
「はい……」
「大丈夫じゃないでしょ! 嘘つかないで!」
ギルに反論されて、顔を覆いかぶせている腕を無理やり解かれて顔の色を見せられる。光が眩しくてか目を細める。
「真っ青じゃないですか! とにかく、救護所に行きましょう。立てますか」
ギルが早く立てと言わんばかりに腕を引いてくるので、立ち上がる。先生に背中を支えられながらどこかへ向かっていく。前を見る気力はなく、下を向いたままだった。
日陰に入ったと思えば長椅子に座らされ、鞄の位置を教えるよう言われる。水分補給のために水分を持ってくるのだろう。僕の場合水のペットボトルだ。
待っているとき、どこかから濡れたタオルが渡された。冷たくて肌によく染みる。けど汗を拭う気力もなくて脚に置いただけだった。
「新藤くんじゃないの」
この声は……誰だか。重い頭を上げて見てみる。長い髪をだらしない団子にした女性、保健室の先生だ。
「っていうか、あなたなんで長袖なんか着てるの? ズボンも長いのだし……」
「…………」
袖をまくられながら言う。
保健室の先生は僕が一年のときに何度かお世話になった。二年になってからは初めてだ。
持ってきたペットボトルの水をすぐ飲むように言われる。が、僕にはそれほどの気力はなかった。
「そんなに動けない? はぁ、長袖長ズボンで来るからよ……」
呆れられながら持っていたペットボトルを取られ、キャップを開けられた状態で返ってきた。
「頑張って飲みなさい。それすらもできなかったら救急車呼ぶことになるの」
さすがに呼ばれるのは面倒だ。半分脅しのようなものだが、口に注いでいく。
「汗も拭いて」
脚に置いていた濡れたタオルを顔中に押し当てられる。冷たくて気持ちいい……。
「体熱いしこの気温じゃきっと熱中症ね。少し待ってれば良くなると思うから……いや、それか冷房ついてる保健室行く? どうせ競技見るつもりないんでしょ? 誰もベッド使ってないから」
「……どっちでもいいです」
「なら行こっか。立てる?」
僕は保健室まで連れられ、ジャージを脱がされ、ズボンを軽く折り込まれ、ベッドに寝転んでろと言われた。体育祭のあと生徒に配られるスポーツドリンクの余りものを開けて飲まされる。さっき水も飲んだから腹の中が水浸しだ。
今は濡れたタオルを額や首に巻かれながら寝転んでいる。だが、冷房が少し寒く感じており、腹まで掛け布団を掛けることを許可されて掛けている。
「どう? もうお昼だけど」
ずいぶんと時間が経っていたらしく、もう昼だそうだ。シャッとカーテンを開けた音がしたあとそう言われる。僕はつぶっていた目を開けて先生を捕らえた。
「良くなった気がする?」
「……寒いです」
「そんなに寒い? 二十六度なんだけどな」
腹までしか掛けていなかった掛け布団もいつの間にか肩まで上ってきている。代わりに額や首に巻かれていた濡れタオルがズレ落ちている。いや、体が横を向いているから当然だ。
「……体温高いのに寒いって、インフルにでもかかった?」
額を触ったあと笑いながら言う。
「熱中症ならすぐ体温下がると思ってたんだけど、しばらくしても下がらないわね。とりあえず熱あるなら測ろっか」
体温計を渡される。が、寒くてか気力がなくてか動けず、袖から体温計を入れて無理やり脇に挟まれた。
「セクハラで訴えましょうか……」
「あなたが動く気ないからでしょうが。あなたが生徒じゃなければビンタしてたところよ」
「…………」
「急に黙り込まないでよ。怖いでしょ」
喋る気力もなくなってきた。
体温計が鳴って取られる。
「あら、七度九分もあるじゃない。下がらなかったら親御さんに迎えに来てもらわないと」
「いないですよ。……仕事で。迎えも来れません」
喋る気力がなくなってきたが、これは言っておかないと、亡き者を一生待ち続けることになっていた。
「なので、帰るとなれば僕だけで……」
「うーん。とにかくあと少しだけいる? 下がるまで。……いや、上がったときにはもう遅いわ。もう帰ろっか。親御さんが迎えに来れないならなおさら。帰れるくらいの体力は残してないとちょっと面倒なことになるから」
「……そうですか」
「れーくん!」
扉がバンッとうるさく開いたかと思うと僕の名を呼ばれる。ギルが来たらしい。先生がカーテンの外に顔を出す。
「あら、英川くん」
「れーくんは?」
「ここよ」
カーテンをほとんど開けてギルに姿を見せる。ギルは僕の傍に立った。
「わわっ。大丈夫……じゃないよね。早く気づけばよかった……」
気づかせないようにしていたんだ。運悪く気づかれてしまっただけで。僕も隠すのが下手になったものだ。
「れーくんのお弁当持ってきたんだけど……食べれる?」
持っていたコンビニの袋を見せてくる。
「どうする? 食べてから帰ってもいいけど」
「……帰るんだ」
そう言ってほっと安心するような顔になるが、すぐになにかに気がついて不安そうな顔になる。たぶん僕が家に帰れば様子見ができないに加えて、誰かと一緒じゃなくなることがわかっているからこんな顔をするんだろう。ギルは相変わらず心配性だ。
弁当は食べずに帰ろう。今はそんな気力ない。
「家で食べます」
「そう。なら鞄は先生持ってくるから」
「あ、それなら俺一緒に教室までれーくんの持ってきてるから持ってくるよ」
……タメ口?
「お弁当は食べたの?」
「れーくんの様子見るために早く食べたの」
タメ口だ。仲いいのか?
「そう。じゃあ悪いけど持ってきてくれる?」
「うん」
ギルは早々に保健室から出ていった。喋る気力はないが、あの話し方が気になる。
「……先生」
「ん? なに?」
「ギルと……仲いいんですか」
「なにか訴えてくるのかと思ったらそこ? ……まあ、いいっちゃいいかな」
「なんで……良くなったんですか……」
「んーっとね」
廊下を一度見て、差別みたいになっちゃうけど、と続ける。
「あの子、ハーフの子でしょ? でね、私の友だちにハーフの子がいて、よくいじめられててね。それに軽いけど同情したら良くなったわ」
「きっかけは……」
「きっかけはただの荷物運ぶの手伝ってもらっただけよ。そのときにさっきの雑談をして良くなったの。それで過去になにかあったと思うんだけど、保健室着いたら泣きだしちゃってね……。少し大変だったわ。……あなたも英川くんと仲良くしてあげなさいよ」
「……してるつもりでは……あります」
「ならいいわ」
そうは言っても、引っ付いてきているのはギルのほうだ。離れようとしない。
しばらく沈黙のあと、ギルが帰ってきた。
「お待たせー。リュック持ってきたよ」
「ありがとう。助かったわ」
ギルはリュックを最寄りの机に置いて弁当や脱いだジャージも入れる。着て帰りたいなんていまさら言えない。言っても渡してくれなかっただろうが。
「門まで送るよ。立てる?」
「悪いな」
立ち上がろうとすればギルが支えてくれる。それほど心配なんだろう。昔に食中毒になった時よりは全然マシだから、それほど心配しなくていいんだが。
「家に着いたら学校に連絡してね。しないと家に電話しないといけなくなるから。それでも出なかったら新藤くんの家に誰か先生が行くことになるからね」
「わかってます」
何度早退する時に言われたことか。一度電話をかけず出られずで忘れていて、本当に誰か先生が来ていたのは忘れない。
「では、ありがとうございました」
ギルに支えられながら保健室に向きながら言う。先生の「車に気をつけてね。さようなら」という声を聞いたあと、校門まで向かった。
門の前に行くまでギルはずっと、不安そうな顔でこちらを見てきたので、心配しすぎだと言ってやりたかったが言わないでおいた。実際、心配させているのは確かに僕なんだから。
「じゃあ、気をつけて帰ってね。もしなにかあったらすぐ電話して。俺すぐ行くから」
本当に優しい奴だ。
「……ありがとう」
「それを望んだわけではない」のおまけです
読んでいただきありがとうございます。これのあとが本編へと続きます




