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早くに咲いた蓮華は春を知る(2/2)

 あの日から六日後の金曜日。

 ギルくんが「また月曜日」って蓮に言って、学校に来ない日が四日間あった。今日も学校に来なければ五日間になる。

 あの日家に帰ったら、母さんが叫び声を上げて、俺の右腕を(つか)んでどうしたのかと問い詰められた。

 けど、蓮に負担をかけないように、いろいろあってハサミで切ったってごまかした。包丁って言ってしまえば、今すぐ病院に行こうなんて言い出されそうだったから。

 帰ってきたときには血も止まってたみたいで、流れてはこなかった。それでもまだ塞がらない傷は少しグロテスクで目を背けたかった。

 母さんはちょうど夕飯を作ってた、にも関わらず俺の傷の手当をしだした。

 布で止血する前に一度水で洗ったからいいって言ったのに、薬箱を取り出してきて、消毒液を染み込ませた綿を傷口に当てられた。傷に()みて、叫んでしまうくらい痛かった。腕はガッシリ母さんが掴んでいたから振り払って余計な手間はかけずに済んだけど。

 そのあとは包帯で巻かれて、明日病院に行こうって言われた。このままでいい気がするけど。

 父さんが帰ってきたときも母さんと同じような反応をしてた。反応が似てて、思わず失笑もした。

 金曜日になって、学校に向かっている。

 今日こそは、蓮は学校に来るかな。でも来ない気がする。

 月曜日、学校に来なかったから体調不良かとチャットで午前中に聞いた。でもいつになっても返事はなく、既読がついたままだった。ギルくんも聞いてたみたいだけど、やっぱり返事はなかったらしい。

 その帰りにギルくんと蓮の家に寄った。ギルくんの合鍵を使って玄関の扉を開けようとしたとき、ガチャって鳴って、扉は十数センチしか開かなかった。見ればドアガードがかけられてた。

 今までドアガードがかけられたことはなかったらしく、このことにはギルくんも驚いてた。

 十数センチしか開かない扉の隙間から中を覗いてみたけど、一階に照明がついてる様子はなかった。もちろん玄関にも誰もいなくて、靴が二足無造作に置かれてるだけだった。どっちも蓮の靴。

 ギルくんが隙間に向けて蓮を呼んだけど、なにも起きない。電話もギルくんがかけたけど、つながることはなかった。

「れーくん中でなにかなってないかな……。返事できない状態じゃないかな……」

 なんとなく違う気がする。ドアガードまでしてるんだから、蓮自身が俺らを避けようとしている気がする。チャットにも返事はしなく、電話にも出ないんだし……。

「帰ろ。たぶん大丈夫だから」

 ギルくんの手首を掴んで、蓮の家の前から去った。

 蓮が俺らを避けるのはなんとなくわかる気がする。

 たぶん、土曜日、蓮のくそ親が来た日に起きたことに対して相当ショックを受けたのかもしれない。今までに見たことのないくらい蓮は別人だった。でも、どこか昔の蓮の面影を感じもした。

 今はそっとしておくのがいいんだろうな。ごはんさえ食べててくれたら。

 父親は蓮が産まれてからミユキ? の目が蓮に向いて、自分に目が向かなくなったなんて言ってたけど、そんなことを言うなら蓮は、父親から虐待され始めてから一度も純粋に親の愛を受けたことがない。自己中すぎる……。

 それに、俺の憶え間違いじゃなかったら、クリスマスの日かに、スーパーであとをつけてた奴と一緒だった。あの日にあとをつけられてたの、蓮の元父親だったんだ……。

 学校に着いて教室に入る。

 やっぱり蓮はいなくて、いつも蓮の(そば)にいるギルくんは下条と話をしてた。あんまり楽しそうじゃなくて、蓮の話しているんだろうなって簡単に予想がついた。蓮の負担になるようなこと言ってなければいいけど。

 席に着いて、蓮とのチャット欄を開く。やっぱり返事はない。

 家で静かに息を引き取ってないか怖くなる。けど、既読がついたりつかなかったりしてるから、きちんと目を通してはくれてる。


 ――二月二十日――

『おはようさん。昨日は散々だったな。病院には行けた? それか今日一緒に行く?』11:23

『蓮?』18:52

『行けたならいいんだけど』18:52

 ――二月二十一日――

『おはよう。今日休み? 体調悪い?』9:32

『悪いなら安静にな。今日帰り寄っていく』9:33

【不在着信】16:46

『大丈夫か? なにかあったら気軽に言えよ』16:47

 ――二月二十二日――

『おやすみ』0:11

『体調どう?』7:05

【不在着信】8:10

『本当に大丈夫か?』8:10

 ――二月二十三日――

『飯は食べれてる? なにか買ってこようか?』8:16

『今日も寄っていくな』8:17

【不在着信】16:41

【不在着信】16:43

『鍵開けて』16:43

『心配なんだ』16:43

【通話キャンセル】16:44

『無理に学校に来いとは言わないけど、顔くらい見せてくれてもいいだろ』16:49

 ――二月二十五日――

『なにか返事して』0:18

『お願い』0:20


 二月✕✕日。

 スマホ画面を閉じる。

 あの日から体が重たくて、食事もろくに摂っていない。口を動かせない。喉に通らない。いつも体のどこかしらから不調を訴えて、酷いときは何度も吐いてしまうことがあった。

 今日も朝からずっと頭が痛くて、なんとなく体に熱を帯びている。それと、あの日からずっとある胸の重たさと、鼓動の痛さ。

 これが一週間くらい前にかかった食中毒の影響なのか、べつのなにかなのかはわからない。家の薬箱から取ってきた市販の薬を飲んでも治まらない。それだけが確か。

 胃になにも入れないことで吐き気もする。最後に水以外になにか胃に入れたのは、いつだったか。

 この一週間、睡眠薬を飲み続けて体の不調から、現実から逃げるばかりだ。目が覚めてもすぐに睡眠薬を口に放り投げる。

 掛け布団を頭から被って、ぬいぐるみを抱き締める。痛みが少しでも和らぐように。

 なんだか、涙が出てきた。


 目が覚める。睡眠薬を飲んだ副作用かなにかで頭がはっきりせずにボーッとする。

 夢でピアノを弾いていた。音の鳴らない鍵盤を叩いていた。

 そこはどこかの広い舞台の上で、見ている人は誰もいなかった。

 響くことのない打音を、ただ独りきりで。

 そんな夢を見た。

 ……そういえばギルが演奏しろとか言っていた。食中毒が治ったら聴きたいなんて言って。もう治ってるんだろうが、きっとずっと聞かせてあげられない。

 このまま餓死でもしそうな僕には、美しい音色を奏でる楽器を持つことができない。持ってはいけない。

 最後に家にある楽器を触れたのはいつだったか。ピアノは中学のときに何度か触ったが、バイオリンはずっと触ってない。きっと音がズレまくっているだろう。

 ……そろそろ売ってもいいのかもしれない。それで多少の生活費にもなる。

 腕の中にぬいぐるみを入れたまま体を起こした。

「っ……」

 ふらふら、頭……。

 きもち……わるい。

 ……痛い。

 体が、重たい……。

「腹……」

 空いた……。

 ぬいぐるみを抱えたままふらふらと部屋を出て階段を下りた。久しぶりにリビングを見た。トイレに行くときにしか下りないから、改めて見るのは久しぶりだ。

 冷蔵庫を開いてもなにもない。野菜室には傷みだしている野菜ばかりがある。今のこの体力ではなにも作れない。破棄は、したくない。けど……。

 冷凍庫を見るがやはりなにもない。振り向いて収納扉を開いてなにか食べるものがあるか見るが、カップ麺すらない。

 ……冷蔵庫に冷やされた栄養ゼリーがあった気がする。もう一度冷蔵庫を開く。……あった。これであと数日は保つ。

 けど、その数日後、なにを食べよう。

「……っ」

 しゃがみ込んで酷く痛みだした胸を抱える。

 わかっている。いつまでもこうじゃ駄目だと。早く現実を認めて、ケイに謝罪して、いつも通りの生活に戻る必要があるのだと。わかっている。

 ……けど、すぐに僕を殺せることを知ってしまったから、どこにも行けないんだ。行ってしまったらすぐ血を流しそうで……どこにも行けない。

 いきたく……ないんだ。

 冷蔵庫にもたれて力なくりんご味の栄養ゼリーを喉に押し込む。……冷たい。あの時、りんご味を選んでおけばよかった。

 手で押し込んでもなにも出なくなった。それでも僕の腹はまだ空腹だと(うな)って、吐き気を催す。なにも出ないくせに。

 ……なにか買いに行こう。買い溜めて、数日家から出なくて済むように。



 私服に着替えてフードのつく上着を着て、風呂に入ってなくてベタつく髪を隠すようにフードも被った。

 ……もし、ケイが今日遅刻して、たまたま居合わせたら嫌だから、マスクもして行こう。サングラスもかけたほうがバレないだろうから、サングラスも……。いや、明らかに不審者だ。

 試しに鏡で容姿を見れば、想像する不審者だった。

 サングラスはやめようと外したとき、目の下に酷いクマができていた。なんとなくそれをなぞる。本当に酷い。マスクで少しでも隠そうと、上にあげた。

 財布と家の鍵だけ持って外に出る。外に出た瞬間眩しくて目を細める。やっぱりサングラスを持ってこようかと思ったが、面倒だったからやめた。代わりにフードを深く被る。

 コンビニに向かう途中、何度か足が疲れて止めて、やっとたどり着いた。いつもはなにも思わないのに、誰か人に会うと思うとためらってしまう。けど、食料調達のために腹を抱えながら入った。

 いつもは一つか二つくらいしか買わないから入ったときにカゴを取ってなくて、両手がいっぱいになったときやっとカゴを使った。

 カップ麺を何個か、栄養ゼリーを何個か取って、二リットルのペットボトルの水もかごに入れる。が、一気にカゴが重くなったから水だけ片手に持つ。

 ペットボトルを手に取ったあと、ふと左側を見てみると酒が売っていた。正面に立つ。

 酒、先輩が飲んでいた。未成年にも関わらず。おいしいのだろうか。そもそも、どうやって年齢確認を通り抜けたのだろうか。

 先輩が飲んでいた酒があったから手に取った。度の低いものだ。

 酒を飲んだら嫌なことも忘れられる、一時的な休息が強制的に取れると、テレビのなにかの番組で見た気がする。先輩が飲んでいたときも、なんだか心地よさそうだった。

 手に取った酒をカゴに入れた。

 今日、明日にでも食べる用としてサンドイッチとおにぎりも二、三個カゴに入れた。初めてコンビニでカゴをいっぱいにしたかもしれない。

 何個か駄菓子もカゴに入れてレジに向かった。誰も並んでいなかったからすぐにレジ前に立った。店員は僕よりも少し年齢が高く、若い女性だった。こんな誰もいない時間でもサボることなく働いている。無断欠席してる僕とは大違いだ。

 次々に機械音が鳴って、カゴの中身が減っていく。酒が見えたときにはドキッとした。

「年齢確認お願いしまーす」

 横のパネルにデカデカと赤文字で「20歳以上ですか?」という文字がある。

 鼓動が早まりだす。震える手を汗塗れにしてすぐ下にある「はい」という文字を押そうとした。けど、押す寸前で手が止まる。

 パネルにはその赤文字の他に「20歳未満の飲酒、喫煙は法律で禁じられています。年齢確認ができる身分証明証を提示していただく場合がございます」とあった。法律……。

 パネルのすぐ下には「販売業者や飲食業者が20歳未満に酒類を販売した場合は、50万円以下の罰金が課されます」とある。つまりは販売させた側が罰せられるということだ。

「……どうされました?」

 息が苦しくなり始めて、動悸がしだす。

 もし買ってしまえば、僕のせいでこのコンビニ、はたまたこの人が罰せられてしまうんだ。あの時と同じだ。僕を殺そうとしたとき、僕のせいでケイに傷を作ってしまったんだ。

 僕のせいで。()()()()()

 気づいたときには逃げ出していた。手に汗だけを握ってコンビニを出た。家に向かって走った。でも息を切らしたとき、手に本当になにも持っていなくて、財布すらも持っていないことに気づいた。

 息苦しくてマスクを下ろす。

 いくら入っていたか憶えていない。数千円ならいいんだが、高額入っていたら……。

 足を重くしながらもコンビニの前まで戻ってきた。

「…………」

 でも入れなくて、入口の横に並んでいるゴミ箱の隣に座り込んだ。

 ……僕はなにをしているんだろう。

 フードを深く被り直して、膝に顔を埋めた。もう、ここで飢えて死んでしまっていい。大切な友人を殺しかけた僕にはそれくらいが見合っている。

 いや飢え死ぬなんて長い。もう殺してしまおう。そうポケットに手を突っ込むが、いつも入っているマルチツールは持ってなかった。無気力にポケットから手を出しては地面に落とす。

「……あの」

 人が来たみたいだ。けど、こんなところに座っている奴なんてゴミにしか見えない。

「あの、さっきの……方ですよね」

 ……誰に話しかけているんだ。顔を上げると、さっきの店員がいた。

「やっぱり! よかった。ちょうどシフトが終わって……。さっきの商品はご購入なされますか?」

 なんでこんなにも違うのだろう。同じ人間なはずなのに、眩しくて仕方がない。

「えっ、あ、あの大丈夫ですか!」

 なんのことを言っているのかわからなく、わかりやすく首をかしげてしまう。店員が僕の目の下を触って、水滴が付いているのが見えたとき、初めて涙を流していることに気がついた。

「……ごめんなさい」

 フードを引き千切るほど下に引っ張った。

「あっ、いえ、こっちこそ触っちゃって……。あのこれ」

 差し出された手には僕の財布が見える。持っててくれたみたいだ。ゆっくりそれを受け取って、腹の中に埋めた。

 財布、戻ってきたから帰ろう。もうここのコンビニには行けなくなるな。

 店員が去ってから動こうとしたのに、店員はなかなか動かない。むしろ「違ったら申し訳ないんですけど」と口を開けた。

「なにか、つらいことあったんですよね」

「…………」

「まだ高校生くらい、でしょ……?」

「…………」

 店員は僕の隣に来てしゃがむ。反射的に少し離れ、ゴミ箱に体が当たった。

「私もね、高校生のときに嫌なことあって、お酒飲んで忘れようって思ったの。お母さんたちよくお酒飲んでて、なんで飲むのって聞いたら、仕事であった嫌なこと全部忘れられるからって言ってたの思いだして。

 ちょうどシャーペンの芯切らせてたから、そのとき一緒にレジに持っていったの。年齢確認なんてどうせパネルタッチするだけでいいって思って、あなたみたいに顔見えなくして。

 でも、実際レジの前に立ったら怖くなったんだ。赤い文字とか、二十歳ですか? っていう文字がなんだか機械じゃなくて人みたいに思えて。

 一番怖かったのはここのコンビニにもあったみたいに、販売した側が罰則されるっていう文字だったんだよね。自分のせいでって思うと怖くなって、やっぱりいいですって返したんだよね。

 あなたも、そんな感じだった?」

「…………」

「……それでね、受験期になって必死に勉強し始めるんだけど、ある友だちがお酒買ったっていう連絡来たんだ。お酒飲んだらすごい気分スッキリするよって、一緒に飲まないかって言われた。勉強したの全部抜け落ちそうだったからそのときは断ったんだけど、後日にどうやって買えたの? ってその友だちに聞いたの。

 そしたらなにかしたっけって言いそうなほど馬鹿みたいな顔して、メイクでごまかしたって。ほうれい線をわざと書いて老けてみせたって。私そのとき思ったの。よく買えたなーって。私がお酒買おうとしたときは、自分のせいで罰せられるかもしれないって思って買えなかったのに、友だちはむしろなんとも思ってないように買った。

 このことをね、大学のもう二十歳越してる先輩に言ったんだ。なんでこんなに違うんだろうって。そしたら、私とその友だちの大きな違いは、他人を想って行動できる優しさの度合いが違うって言われたんだ。その大学の先輩も友だちのことよく知ってる人だったから、その違いは確かなんだと思う。友だち、頭はいいけどちょっと馬鹿っぽくって、法律のことちょっと覚えてた時期があって、販売した側が罰せられるっていうことも知ってたはず。なのに買った。それは他人を思えなかったからって」

「…………」

「あなたが今回お酒を買えなかったのは、今話したことと同じだと思うの。私、あんまり自信ないから自分で優しい人、だなんて言えないけど、それでも大学の先輩が言ったからにはそうなんだろうなって思って。あの人、言うことははっきりしてるから。駄目なときは駄目っていうし、いいときはいいってメリハリがきちんとしてる人。

 その人がお酒を買えなかった私のことを他人を思える心があったって言ったのなら、今回あなたがお酒を買えなかったのも同じなんだと思う。

 あなたの心が優しいから買えなかった。あなたも私みたいに自信ないのかはわからないけど、他人の私がこう言ったからには、あなたは優しいの。

 それで、人一倍優しいあなたが抱える問題っていうのは人一倍重たい可能性があるの。私もそうだったから。なにがあったかまでは聞かないけど、たまには人に頼って問題を解決する必要だってある。あなたより数年だけ先に生きてる私が言うんだから、それは本当。

 クマが酷いからずっとその問題に耐えてたっていうのはすごくわかる。それで今日初めてお酒を買おうとしたっていうのも。人って限界に達したとき、本当になにするかわかんないの。……おかしなことをするの。今回あなたがお酒を買おうとしたのもその一つ。もっと酷いのなら、誰かを殺そうとすることもあったりね。だから」

「うっ……」

 声が出てしまった。ずっと止まらない涙を拭っていたからじゃない。殺す、そんな単語が聞こえたからだ。

 ずっと苦しく締まっていた喉を開ける。

「……なら、僕が……優希……僕を殺そうとしたのは、限界を達していたから……そう言いますか……」

「……言うと思うな。でも未遂で止まった。代わりにお酒を買おうとした。それは問題が解決できてない証拠。あなたは抱えすぎているの。押し潰れそうなほど重たい問題を。だから、信頼できるお友だちでも家族でも、一回言ってみてもいいと思う。言うだけでも軽くなるから。

 あなたすごい綺麗な顔してるんだから、クマなんて付けずに涙も流さないほうがいいに決まってる。

 ……とにかく……自殺だけは、駄目」

 そうだ。

 自分を殺すと書いて自殺。

 僕はあの時、自殺をしようとしたんだ。本当に、なにをしようとしていたんだろう。たかが父親だけのために、大切な友人をなくすなんて……本当におかしなことだ。

 僕が奇妙に笑いを上げ始めたのに、店員は隣で静かに背中をさすり始めた。


 泣く音が小さくなったとき、店員が立ち上がった。長くしゃがんでいたから「いたたた」と、足を伸ばしている。

「……ごめんなさい。……ヘンなことのために……」

「ヘンなことじゃないよ。十分に大切なこと。それで、あのカップ麺たちだけでも買う? 冷蔵ものは傷んじゃうから戻しちゃったけど、カップ麺類は残してって頼んだんだ」

「……買わせていただきます」

 改めて店内に入って、あの女性店員がまだいたことに、中にいた男性店員が驚いていた。初めは驚いていたけど、僕と入ったことで「彼氏さんっすか」とか似合いもしないことを、女性店員は「違いますー。それに私は恋人作らないっていつも言ってるでしょーが」と返していた。

 カゴに入っていたものの他に、戻されたおにぎりとサンドイッチもかごに入れた。ペットボトルの水も買う。さっきはカゴに入れた酒がチラリと目に入ったが、それを入れることはなかった。

 シフト外らしいのになぜか、空いていたレジに女性店員が立っていて、さっき彼氏かと聞いた店員の前に行こうとした僕を手招きした。そして手慣れた様子で商品に赤い光を当てていく。

「シフトじゃないんだけどねー。これ終わったら上がるよ」

 途中、そんなことを言っていた。

 袋をいっぱいにして渡される。

「じゃあね。またなにかあったらここおいで。私ここで働いてるから。絶対に一人で抱え込まないでね」

「……ありがとうございました」

 深く腰を曲げて、コンビニを出た。

 ただコンビニで食事を買おうと思っていたのに、ヘンなことをしたから時間がかかってしまった。もう二度とヘンなことはしない。そう心に決めた。

 罰せられるのが怖いんじゃない。僕のせいで誰かに傷をつけるのが怖いんだ。

 腹を空かせて吐き気を覚えながら家に着いた。手を洗わずに、袋の中で掴んだおにぎりを開けた。腹が空きすぎて、気持ち悪い。

 とにかく胃に詰め込んで、腹がいっぱいになったのはちょうど買ってきたおにぎりを全部を食べたときだった。一、二個だけ食べようと思っていたのに、全部食べてしまった。 

 サンドイッチは今晩に食べようと、冷蔵庫に入れた。カップ麺と栄養ゼリーも収納扉に並べた。

 おにぎりのゴミを片付けたとき、やっと気がつく。なんとなく頭の痛さがなくなった。気持ち悪さは胃になにか入れたから治まったが、体の重たさもなくなった気がする。……あの人のおかげ、か。

 腹が満たされたら、今度は……なにをするんだったか。なにかをしようと思っていた。けどなんだったか忘れた。

 水を飲んだあと、二階に上がった。僕の部屋に入る前、母親の部屋の扉を見たとき、忘れたなにかを思いだせそうだった。けど、思いだせず、部屋に入ろうとする。

 でも、母親の部屋でなにかを思いだしそうだったのなら、母親の部屋になにかがあるはずだ。そう思って母親の部屋に入った。

 母親の部屋に入って相変わらず目立つものは、アップライトピアノ。

 ……そうか、楽器を調律するんだった。使わない楽器を売るために。……でもこの売るというのも、あの人が言っていたおかしなことに含まれるのだろうか。

 少し考えるがわからなく、けどこのままずっと誰にも弾いてもらえない楽器も可哀想だろうと思って、バイオリンとギターの他にチューナーとピアノの調律ツールを出した。一緒にバラの楽譜も出てきて、それも出しておく。

 バイオリンとギターはベッドに寝かせておいた。まずはピアノからだ。

 家にあるピアノはライトアップピアノだ。体育館にあるような大きなピアノ、グランドピアノじゃなくて、少し小さめのピアノ。けど、電子ピアノとは違ってきちんとハンマーが叩かれて音が鳴る、そんなピアノ。

 ピアノの調律は、小さい頃から母親に教えられていて、母親に手伝ってもらいながら何度かやったこともあった。

 ピアノの調律をするのは難しいことで、普通は調律師という職人がやると知ったときは驚いた。小さい頃から僕にやり方を叩き込んでいた母親は元調律師なのか、誰かから教わっていたのか。いまさらそんなことを思う。

 いくらか時間をかけて、やっと調律ができた。初め弾いたときよりとても綺麗な音を出している。聞いていて、落ちていた気分も上がるようなそんな感じがする。

 バイオリンとギターも調律しようかと思ったが、ピアノの出す音色が綺麗でもっと聴きたくて、さっき出てきた楽譜、メヌエットを弾き始めた。

 体が覚えているのか腕は落ちていなく、ずっと綺麗な音が室内に鳴り響いていた。

 少し体が温まってハッとする。ずいぶんと楽しんでしまった。続きはバイオリンとギターの調律が終わったあとだ。

 バイオリンとギターの調律はピアノに比べて簡単だ。調律したピアノの音に合わせて調節していく。

 やっぱり、正確な音色を出す楽器はいつ聞いても聞き入ってしまう。いつまでも聴いていたい。

 調律したバイオリンでなにか弾きたいと思って、タンスから楽譜を探す。なんとなく楽譜は入っているのだが、はっきりと覚えていない。

 確かこのあたりに入っていた気がする。バイオリンを手に持ったときに、必ずと言っていいほど弾きたくなる好きな曲。

 何個かタンスを開け閉めして見つけた。譜面台もクローゼットから取り出して高さを調節する。

 音を一通り確かめたあと、

「…………」

 音を出し始める。

 パッヘルベルのカノン。

 初めはゆっくりと、落ち着いて……音を、つなげる……。

 サビに入る前は静かに、でも直前で強く……! そのとは華やかに、軽やかに、誰かを祝福するように。

 弾き終わったときには心地よさで包まれて、しばらく目を(つぶ)ったままだった。

 ふっと息を吐いてバイオリンを置く。

 やっぱり、売りに出すのはやめよう。生で聞く音色のほうが断然綺麗だ。まだこの音を奏でたい。

 まだ音色を聴きたくて、他の曲も弾こうとカノンの楽譜を閉じたときに、すっと中からなにかが落ちてきた。楽譜は全部A4の紙を使っているから楽譜の一部ではない。

 ピアノの隙間に入りそうになっていた。落ちたのは白い封筒だ。裏になっていて、そこにはなにも書かれていない。拾い上げて表に返した。

 そこには「遺書 優希へ」とあった。

「…………」

 なんとなく喉が詰まる。

 なんでこんなところにあるんだ。そもそも、なんでいまさら出てきたんだ。なんで僕宛に書いてるんだ。もう数年前に死んだのに。……僕のことなんて見てもなかったくせに。

 見ずに捨てようと思った。でも、わざわざこれを作った理由が知りたかったし、カノンの楽譜の隙間に入れたのには理由があると思って、封を切った。


 親愛なる優希へ

 これを見てるということはもうきっと、お母さんはあなたの前から姿を消してるんでしょう。もし急に優希の前からいなくなったときに、なにも伝えられないで消えるのは嫌だから、ここへ伝えたいことを遺します。

 まず、この封筒を開封してくれてありがとう。もし見ずに捨てられちゃったときは、それはもうお母さん失格ってことだと思います。でも優希はなにも悪くないからね。

 この封筒が出てきたときはびっくりしたかな? 優希はバイオリンで弾くカノンが好きだから、また弾きたいって楽譜を手に取ったとき、これを見つけてくれるかなって思ってここに置いてました。きっと、謎解きが好きな優希だからなんで遺書があるのかって知れたからもう満足したかな? でも、もう少しだけ付き合って。

 これを書いた理由は、優希にごめんなさいをしたいからです。ずっとずっと優希がお父さんから手を上げられていたのにずっと止められなくてごめんね。お母さんもお父さんが怖くて、止められなくてごめんね。役立たずの母親でごめんね。本当に、本当にごめんなさい。

 結局、再婚したあとも前のお父さんみたいに叩かれるんじゃないかって怖くて、優希を遠ざけてた。それで優希もお母さんたちのこと避けてたよね。避けるのは当たり前だよね。優希、ずっと新しいお父さんに馴染めなかったよね。大人の自分勝手な事情に連れ回してごめんね。もう一度、優希を一から愛せるなら愛したい。今度こそ失敗しないようにお母さんも強くなって、優希を精一杯守りたい。

 これを書いたのは優希が中学一年生のとき。これを読んでる優希は今何年生かな。いっぱい背伸びた? 体重も一緒に増えた? これまで優希にいっぱいごはんを食べさせてあげれなかったから、お母さんがいなくなっても、しっかりごはん食べて元気でいてね。優希はすぐに体調悪くなっちゃうけど、優希ならきっと大丈夫だから。でも、無理しないようにね。無理なときは大人の人に頼んで、病院に行くとかお薬飲んで、元気になってね。

 お母さんが優希になにもできなかったことは、いくら謝っても許されないことだと思います。許されてはいけないこと。……でも優希は優しいから、大丈夫だよって言ってくれるかな。……そんなこと言わないね。ごめんね。

 ここまで読んでくれてありがとう。それと本当にごめんなさい。もしもう一度顔を合わせることができたのなら、目を見て謝りたいです。許してなんて言わないから、謝って抱きしめたいです。

 産まれてきてくれてありがとう。そしてこんな母親が産んでしまってごめんなさい。

 いつまでも愛しています。大好きです。

 優希を誰よりも愛しているお母さんより


 紙に雫が落ちては紙に(にじ)む。

 なんで、どうしていまさら……。

 知らなかった。母親が……母さんが僕を見てくれなくなった理由、知らなかった。もっと早く教えてくれてもよかったじゃないか……。

 母さんは僕を愛していた。母さんは僕を愛してくれていた。なのに、なのに僕はそんなこと知らずに避けていた。

「もっと早く知りたかった……。母さん……。ごめんなさい……ごめんなさい」

 父親と同類なんて思ってごめんなさい。

 母さんは僕をどうでもいいんだろうって、勝手に思い込んでごめんなさい。

 ずっと知らずにいてごめんなさい。

 知ろうとしなくてごめんなさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい。……ごめんなさい。

 次第に声がもれ出して、過去にしてきた母さんに対した行動を悔いて、泣き叫ばずにはいられなかった。

 子どもみたいに泣き続けていれば、背中から温もりを感じる。それを母さんだと思った。母さんだと思いたかった。後ろから優しく抱きしめてくれる。

「母さんごめんなさい。ずっと、ずっと……ごめんなさい……」

 喉が詰まってうまく声が出ない。とにかく謝りたくて、ごめんなさいを言いたくて、謝り続けた。

 母さんが優しく頭を撫でては抱きしめてくれ、涙が完全に止まるのには時間がかかった。

「…………」

 僕は後ろにいるのが母さんではないとわかっている。

 母さんは死んだ。

 僕が中学二年のときに僕を愛してくれていた母さんは死んだ。

 それを僕は、報いだとか思っていた。けど、全くそんなことはなかった。母さんは僕の立派な母親だった。

「……ありがとう、ギル」

「うんん。大丈夫だから」

 涙が止まってもしばらくギルに包まれていた。その温もりを今だけ母さんのだと思って。その間ギルは静かに抱きしめてくれていた。

「優希くんは、生きてるよ」

 ギルのその言葉は、手紙の中にいる母さんに話しかけているようだった。

 母さんはギルのこと憶えてる? ずっと昔からの大切な人。生きてたら、改めて紹介したかった。ギルの他にもたくさん友人ができたんだ。かけがえのない大切な仲間が。

 意味もなく紙に、母さんに心の中で語りかける。

 もし、また産まれるときがあったら、今度も母さんの子供になりたい。

 僕を産んでくれて、息の仕方を教えてくれてありがとう。大好きだよ、母さん。


「敬助くんたちのところに行く?」

 耳に響かない、優しい声で聞かれる。

「まだ学校なんだ」

「……なら」

「なんで俺がここにいるんだろって思ったでしょ? ……学校抜けてきたんだ。なんだかれーくんがすごく苦しんでるように思っちゃって。れーくんのお母さんが呼んでくれたのかな」

「……そうだといいな」

 もし本当にそうだとすれば、本当に立派な母親だ。だから、自分を酷く責めないでほしい。

「……この楽器、弾いてたの?」

 読み終わったあとも、ギルが来たあともずっと出しっぱなしだった。

「……少し。調律した音が綺麗で、もっと聞きたいと思って楽譜を引っ張り出した。バイオリンでカノンを弾いたあと、カノンの楽譜からこれが落ちてきた」

 涙でシミを作ってしまった、母さんの遺した言葉。後ろから二行目の言葉にもう一度目を通して、白い封筒に入れた。もう、母さんの言葉を汚したくない。

「調律したって、俺が言ったの憶えててくれたの?」

「ああ。……でもおかしなことを考えていたから売るために調律をしてた。でもやっぱり奏でる音が綺麗で、手放したくないって思って、売るのはやめた」

「うん。きっと綺麗な音を出してくれるれーくんに弾いてもらったほうが、楽器も喜ぶよ。それに、楽器弾いてるときのれーくんすっごく楽しそうなの、知ってるよ。……売らないって決めてくれてよかった」

 今はもう弾く体力も残っていないから、ケースに入れたり蓋を閉じたりした。また、近いうちに声を出させてやるから、待っててくれ。


 空いたベッドのスペースに腰掛けた。もうここにいる必要もにないのに、なんとなくまだここにいたかった。

 相変わらずギルは僕の腕に自分の腕を絡ませる。

「れーくん。生きててくれてありがと」

 急に涙ぐみながら言うから、なんのことかと思った。けど、ギルに家庭の事情を知られたことや一週間くらい学校に行かなかったことを踏まえると、当然のように思えてきた。

 ギルがなにを思ってか静かに涙を流し始める。

 また、僕のせいだ。

 でも、僕のための涙だ。

「……ありがとう」

 ギルを抱いた。

 けどすぐ、ギルの腹からぐーっと鳴る。

「あは……ずっとれーくんが心配で、食べる気なくて、ごはんの量減らしてもらってたから……安心したらお腹空いちゃった」

「……なにかおやつを買いに行こうか」

「……うん!」

 いくら気分が良くなってもずっと風呂に入ってなくて頭がベタベタなのには変わりなく、今度もフードを被った。でもギルから、

「帽子を被った上からフードを被ったほうが不審者っぽくなるよ。あはは」

 なんて、必要なさそうなアドバイスをもらった。それでもギルの望む通り、不審者になった。

 今日のいつかに来た同じコンビニに入る。

 レジにあの女性店員はいなくて、代わりに彼氏かと聞いた男性店員がいた。

 僕のことを憶えていたのか軽く頭を下げるので、あの女性店員に「心配しないよう伝えてほしい」という意も込めて微笑みながら頭を軽く下げた。伝わったのかはわからない。

 けど、いつでもここに来れるから、自分の口で言ったほうがよさそうだ。

 ギルが進んでゼリーやプリンが置いてある冷蔵エリアに向かうから、あとを付いていく。ギルが止まった横に見たことのある酒が見えて、一瞬ドキリとする。が、もう必要ない。

 ギルが選んだプリンとパンを持ってレジに向かった。人は変わっておらず、男性店員だ。

「ちょうどお預かりしまーす。……彼氏さんっすか」

 あの人がいないところで聞くあたり、本当に疑っているんだろう。小さな失笑したあと、口を開けた。が、ギルが先に答えた。

「か、彼氏みたいなものだよ、俺ら。ね、れーくん」

「あ……恋人いたんすね」

「本当に誤解されてしまうからやめろ。ただの友人です、大切な。……あの人とは恋人ではありません。……なにかと言うなら、恩人です」

「……誰かわかんないけど、店員さん、狙ってるなら今のうちですよ!」

「意味のわからないことを言うな。……ありがとうございました」

「ばいばーい」

 ギルの腕を引いて、コンビニを出た。本当に、ときどき呆れるほどヘンなことを言う。やめていただきたい。

 帰る途中、ずっとギルの腹がぐーぐー言うので、立ち止まって食べてもらうことにした。ギルが食欲を回復できるほど安心できたのはいいことだ。……むしろ、そこまで心配させてしまったということだが。

 あたりを見渡して、近くにあった自販機でコーヒーと、コーンポタージュを買った。コーンポタージュはギルのだ。戻ってギルの頬に付けてやれば、驚いていた。

 ギルがパンを食べ終わるまで待ったあと、コーンポタージュを渡す。それを振らずに開けようとしていたから手を止めて振るよう言った。こういう飲み物は底においしいのが溜まってしまうからな。

 ギルがコーンポタージュを開けたら、僕もコーヒーを開けて飲んだ。体が温まる。

 息を漏らしたら、空中に白い靄が現れては薄くなって消える。暖かくなるのはまだまだ先だ。

「……ねえれーくん」

「……なんだ」

「一年の中で一番大切な日って、なにかわかる?」

「…………」

 一年の中で一番大切な日? 一番大切……。

「大切な人が、息の仕方を知った日」

「……その答えは思いつかなかった。でも、間違ってもないかな。……もうすぐだから、待っててね」

「……なにが」

「秘密。れーくんこれ一口飲む?」

 昼にいつも以上に胃になにかを入れた僕にとって、まだコーヒーを十分に飲めるほどにはなっていなく、コーヒーを手に持ったままギルがコーンポタージュをおいしそうに飲む様子を見ていた。

 そして飲みながら家に帰ろうと提案し、了承した。なのに歩きだしたらギルは隣におらず、家とは逆方向に歩いていた。慌てて追いかける。

「方向音痴か?」

「えっへ? 違うよー。れーくんの家こっちなんだから」

 本当になにを言っているんだ? ふざけて言っているようにも思えないのがまたよくわからない。なにを企んでいるんだ。

 しばらくギルの隣を静かに歩いた。初めはどこに向かっているのかと思っていたが、見える景色は通学路だ。この時間にここにいる後ろめたさが歩くスピードを落とす。

 それでもギルに腕を引かれて着いた場所は、通学でいつも横を通る公園だった。ギルが堂々と中に入っては、ベンチに座る。ためらいながらも隣に座った。

「ここのほうが家より近いでしょ?」

 と、下げていた袋からプリンを取り出した。まさかプリンの食べたさに、近くで落ち着いて食べられる場所を選んだ結果、ここに着いたのか? 本当に呆れる。長い溜息を吐いた。

 残っていたコーヒーを飲みながらギルが食べ終わるのをぼーっと待っていた。

「れーくん、あーん」

 プリンをすくったスプーンを差し出してくるから口に入れた。コーヒーを飲んでいたからより甘く感じる。

 ギルが食べ終えてもまだ動く気がなさそうだったから、後ろにもたれて時間が過ぎるのを待っていた。

 ギルはぼーっとするのとスマホを触るのを繰り返している。

 ここにいる意味はあるのだろうか。ないのなら寒いから帰りたいのだが。そうギルに言えばおしるこあるよ、と公園の自販機を指差した。全く動く気がないのはわかった。おしるこを買いに立つ。

 いつここを出るのかわからなかったから、できるだけ温かさを保っておこうと少しずつ飲んでいた。

 いつ見ても全く動く気がなさそうで、むしろここが家のようにも思えてきた。

 おしるこも最後の一口になって、飲みきってしまう。三十分ほどいたが、まだここにいるつもりだろうか。

 缶を捨てに自販機の隣に向かう。が、ゴミ箱がパンパンで入らなさそうだった。さっきギルが置いたであろうコーンポタージュと僕のコーヒーがゴミ箱の上に置かれている。僕もそこに置いた。

 次はなにを飲んで温かさを保とうか。そう考えながら自販機の前に立って、並ぶ品を見ていた。無難にお茶でも買おうかと、金を入れようとポケットに手を突っ込んだとき、

「れーくん行くよ」

 ポケットに入った腕を掴みながら進むので転けそうになった。ポケットから抜いて、ギルの連れられるまま歩く。

 進むにつれ、なんとなく向かう先がわかった。

 橋を渡れば見えてくる。学校だ。

 ギルが制服姿だったのもあるし、学校をサボっていたと思われるのが嫌で引き返そうと腕を引くも、引きずってでも連れて行きたいようで、嫌な顔をしながらギルに付いていった。

 門は開いているが、まだ生徒が下りてきていないのか、誰も通らない。ギルが門を見つめているから、今のうちに家に帰ろうと忍び足でギルの後ろを通る。が、満面の笑顔で「駄目だよ」と腕を掴まれた。

 しばらく待っているとちらほら生徒が出てきた。どうせ僕の顔を憶えている奴なんていないとわかっている。だがもしいて、サボりだなんて言われるのが嫌で、逃げたかった。でも逃がしてくれない。それでも気遣いなのか、帽子を深く被り直された。

 制服姿のギルのことは、「さっき門をくぐって、人を待っている」と思われているのか、注目されていないようだった。代わりに、ギルの後ろで不審者のように立つ僕とやけに目が合う。ギルの服を掴んで俯いた。

「……あ、おーい!」

 突然声を上げたかと思えば、門に向けて大きく腕を振った。一斉に目がこちらに向いたのがわかって、ぐっと服を掴んだ。目線が……怖い。

「急に抜けるとか言うからびっくりしたんだぞ」

 この声は下条だ……。帽子のつばを下に引っ張る。

「ほい、鞄」

「あはは、ありがと」

 鞄も置いて学校から抜けてきたのか。確かになにも持っていなかった気がする。

「その後ろの人は……」

「すごい不審者みたいな格好だな」

 柊に……ケイだ。

 ケイも連絡してくれていたのに、返信しなかった。謝らないと。……でも、怖い。

 震える手に気づいて手を離す。僕がここにいたら駄目だ。……僕なんかがここにいたら駄目なんだ。

「えへへ、実はねぇ」

 一歩、ギルから離れて駆け出した。

「あ、ちょっと!」

 約一週間ベッドに寝転び続けた体はうまく走れなく、橋を渡り始める前に捕まえられた。全然走ってないのに息が切れる。

「ありがと敬助くん。帽子、外しちゃっていいよ」

 遠くからのギルの声に、僕を取り押さえたケイが帽子を剥ぎ取った。もちろんフードも脱げて、誰かとわかられてしまう。

「……蓮!」

 気づかれたのなら謝ろう。そう口を開いたものの、先にケイに抱きしめられた。

「よかった……」

 涙声でそう連呼する。

 いまさら僕がどれほど心配かけたのか、理解する。

 酷く震えている手を強く握りしめて、震える声で言った。

「ごめん……なさい」

「謝らなくていい。謝らなくていいから、もう、二度とこんなことしないで」

 大切な人を泣かせるなんて、なんて情けないんだろう。

 追いついたギルたちが、声をかける。

「びっくりしたでしょ。連れてきたんだ。元気な姿見せたくて」

「おー本物の蓮だ……。ってか、なんかあったんだろ?」

「話聞くよ」

 下条と総務に問われる。

 ただ、誰にも会いたくなくて学校に行けなかっただけなのに、僕はなにがしたいんだろう。あの人の言っていた通りだ。

 自然と顔が下がる。

「ちょっとストーップ。急になにがあったのか聞き出すのはれーくん苦しいと思うから、今は元気な姿見れただけで、ひとまず安心しよ! ……俺も聞きたいことはいっぱいあるけど……ひとまずは、ね!」

「……それもそうだね。ごめんね、無理に聞き出そうとして」

「それに……台無しにしたくないから、過ぎるまで、ね」

 そのギルの言葉は呟くような声量から徐々に周りに言い聞かせるように、声量が上がっていた。

 台無し……? 過ぎるまで……? なんのことを言っているんだ。

「あ、そうそう。れーくん、来週の月曜日、学校来れそうなら一緒に帰ろ」

「……いつも帰ってるじゃないか」

「……あ、そうだった。あはは。なに言ってるんだろ。……それで、もしちょっと学校むりーってなったら、学校の帰り俺れーくんの家に寄っていくから制服着て家で待ってて」

 よくわからないお願いに、首を傾げる。

「いいからいいから。着替えて待っとくだけでいいから。連絡はするけど」

「……わかった」

「よし、じゃあ帰ろー」

 ギルが僕の手を取って、先を歩きだした。


 下条たちとは途中で別れ、まだギルに手をつながれながら歩いている。後ろにはケイが片手にブラックコーヒーを持ちながら付いてきていた。

 家から学校までの距離しか歩いていないのに息が切れる。人間あれほど動かなかったらここまでなるのだといまさら知る。

 ときどき信号待ちで休憩を取りながら、僕の家の前まで送ってくれた。

「ここまでありがとう」

「うん。俺こそ急に連れ出しちゃってごめんね。でも元気になってくれてよかった。……なにがあったかは、れーくんの心の中に仕舞っててもいいからね。無理に言ってまた苦しんでほしくない」

「……ああ。けど、なんとなく言ったほうがいい気がする」

「でも、今はいいよ。今はまだ、言わなくていい。じゃあまた月曜日ね」

「……ギルが泊まりたいと言わないなんて、珍しいな」

 ほぼ毎週金曜日には泊まらせることを願ってくるのに。その珍しさに聞き返してしまった。聞き返したときには「じゃあ泊まるー」なんて言ってしまうのに。

「今回はいいかなーって」

 ……珍しい。

「またれーくんに元気がなくなっちゃってたりしたら嫌だから、泊まって近くで見てたいけど、れーくんも心落ち着かせる時間いるかなって。それに……お母さんと、少しでも過ごしたいかなって」

「……え、蓮の母親って」

「うんそう。そうなんだけどね、そうじゃないの。……とにかく、今回は泊まらないから、その分月曜日に少しでも元気な姿見せてね!」

 肩に提げていた鞄を提げて直して、優しく抱いてくれる。

「大好きだよ。……じゃあね、ばいばい」

 僕の頬にキスをして、ケイを置いて行ってしまった。でもすぐこちらを振り向いてはにかんだ。

「月曜日、元気な蓮を見れるの待ってる。でも無理しないようにな」

 左手の小指を突き出した。こんな程度で……。そう思いながらも小指を絡ませて約束した。

「……腕、まだ治ってない……よな」

 服で見えないが、ずっと右腕を庇うような素振りでいたからきっとそうなんだろう。

「これくらいなんともない。痛くもないから」

 安心させるかのように微笑んだあと、頭を胸に引き寄せて優しく撫でられる。やはり、動かすときはいつも左腕だ。

「また月曜日な」

 もう一度頭を撫でられて、ギルのあとを追いかけていった。

 そんな二人の様子を一目見て、家に入った。久しぶりに歩いたからか足が疲れた。


 二月✕✕日。今週初めての平日。小指を絡めて約束をした月曜日。

 昨日と一昨日は散歩に出て体を少し動かし、体内時計も狂っていたから夜はやはり睡眠薬を飲んで朝起きられるようにした。もちろんもう、飲まないようにする。手放せなくならないように。

 目が覚めても睡眠薬の副作用かなにかで頭がぼーっとして体が重い。それでもまた寝てしまわないように体を起こしてふらふらとしながら朝食の準備をした。

 食事はずっと、食べないか栄養ゼリーを食べていたから白米とかコーンスープとか卵焼きを出して食べ始めたとき、少し量が多く感じた。弁当の量も少し減らそう。きっと残してしまう。

 白米とコーンスープは飲んだが、卵焼きだけ箸をつけた部分を切り取って皿に移して冷蔵庫に入れた。帰ってから食べよう。……意外にも量が多くて少し吐き気がする。

 少しだけ怖い。けど、今日は学校に行く。なんとなく行かないといけない気がする。それにせっかくギルが外に引っ張り出してくれたんだ。この機会を逃すわけにはいかない。

 制服に着替えて準備する。なんだか緊張してきた。胃がぐるぐるする……。

 今日はギルにも迎えに来なくていいと言っていたから、時間を見て自分で出る必要がある。

 そして時間を見ずに部屋のベッドに座っていたからいつも出る時間になっていることに気づかず、慌てて立ち上がって防寒具を着て玄関まで足を走らせた。緊張して時計を見ないようにしていたから……。

 ローファーに足をはめて、扉に手を掛ける。なんとなく、頭に浮かぶ言葉が出てきた。いつも出ないし言わないのに。

「……いってきます」

 誰もいないリビングに向けて言って、扉を開けた。

 学校が近づくにつれ、足取りは悪くなって歩くスピードが落ちる。動悸がして苦しい。胃が気持ち悪い……。腹に手をやりながらも一歩一歩確実に学校へと近づく。

 金曜日、ギルに連れられたところまで来た。登校する生徒がどんどん門の中へと吸い込まれていく。僕も行かないと……。

 動かない足に嫌悪を抱いて、腹を抱える手で服を強く握る。

 そんなことしていたら、門の前で身だしなみのチェックか、ただ挨拶をしているだけの男の先生と目が合った。

 僕はそっと逸らしたが、なんとなくまだ見られているような気がする。きっと制服姿をしているのにも関わらず、門の前で突っ立っているからだろうな。……早く行かないと。

 先生がこちらに近づいてきたのがわかって、反射的に足が動いた。すれ違い際にどうかしたのかと聞かれる声が耳に入ったが、無視して横を通った。申し訳なさに、一度自分の腹を殴る。

 無意味にひとけのない階段から上って、教室に向かう。なにをしているのだか。

 こんなので、なにがあったかという話をギルたちにできるのだろうか。どんな顔をすればいいのだろうか。話したあと、今まで通りに接してくれるのだろうか。僕を……ヘンな奴だと思わないだろうか。

 そんな妄想が過ぎる思考を巡らせていれば、教室の扉の前までたどり着く。ヘンなことを考えたから余計に胃が気持ち悪くなってきた……。かがみ込みそうになるのを頑張って耐える。

 扉に手を掛けたが、開けられずに震えるばかりだ。

「…………」

 駄目だ……。無理だ。……僕がここにいたら駄目なんだ。……それに、ギルが無理に学校に来なくてもいいと、家で待っていればいいと言ってくれた。だから、ここに来たというのはなしにして、大人しく家で待って、あの時僕がしようとしたことを悔いていれば……。

 ――いつまで逃げ続ける気だ。ずっとこのままだとなにも進まない。

 ……そうだ。そうに決まっている。わかっている。けど、その一歩が踏み出せない。

 ……あの時、優希を殺し損ねたからだ。あいつさえいなければ、殺していれば……。今からでも間に合う。

 震える手でポケットに突っ込んでマルチツールからナイフを出し、喉元に近づける。

 これで……もう――

「わっ、びっくりし……れーくんどうしたの!」

 気づかずに閉じていた目を開ければ、見慣れたスニーカーが見える。見上げれば、ギルがいた。そして僕と同じ目線になるなり体を包みこんでくれる。

「……怖くなったんだよね。大丈夫だよ。大丈夫。ここまで来てくれてありがと」

 目が妙に潤って、頬になにか伝う。

 いつもそうだ。ギルに支えられて、救われてばかりいる。もしかしたらさっきも、ギルが声をかけてほしいなんて思っていたかもしれない。……弱い。

「お、おお、ちょっ、蓮泣き出したって。大丈夫だから泣くなって……」

「真也くんいいよ。誰だって泣いていいんだから」

 なんでいつも救われてばかりなんだろう。いつになったら手を差し伸べられる者になれるのだろう。……いつまでも変わろうとしないからだ。

 ナイフを握る僕の手を優しく包みこんで喉元から離す。

「大丈夫だよ。大丈夫だから呼吸してみて。吸って……吐いて……吸って……吐いて……そう上手だよ。声も我慢しなくていいから」

 それでも喉からは声にならない音だけが小さく鳴る。喉は締まって、呼吸が苦しいまま。

「……保健室、行ける?」

 ギルが扉を開けたのはたまたまではなく、トイレに行こうとしていたかららしい。だから保健室まではギルに付いていこうとした下条に送られた。

「ほ、ほらキツネがコンコン」

「下条くんってあやすの下手ね」

「う、うるさいっすよ先生! 俺だって子供泣き止ませるのできるし」

「あら、新藤くんのこと子供だと言いたいの? 下条くんより大人っぽいけど」

「確かに俺よりは大人っぽいけど、年齢的には子供だって」

 下条と保健室の先生との会話がなんだか面白くて、気づいたらふっと吹き出していた。それを合図のように二人はこちらを見た。

「……こういうところが子供っぽい!」

「あなたね……。それで新藤くん、どうして泣き出したかわかる?」

 その質問で、急に現実に引き戻された感覚がして、顔が下がる。

「はいせんせーが泣かせましたー」

「下条くん一旦黙っててもらえるかしら」

「でも……ギルが無理に聞き出したら苦しいだろうからって言ってたぞ。蓮が嫌なら無理に言わなくてもいい気がする」

「……それは確かにそうだけど、それだとなにも問題が解決してないことになるの。今すぐにとは言わないけど、近いうちに聞かせてもらえる? 普段嫌な体育でも仮病とかでサボらない新藤くんが一週間無断欠席したんだから、きっと新藤くんにとっては深刻な問題なはずだから」

 深刻な問題。そうなのだろうか。どの基準なら普通なのかわからない。一週間サボっただけで、そう思われるのだろうか。

 ギルが保健室に入ってきてすぐ、なにも言ってないかと二人に問うた。

「俺はなんも聞いてねーけど、せんせーがなにがあったか聞き出そうとしてた気がするぞー」

 明らかに対抗意識のある言い方だ。

「ええそうね。……聞き出そうとしました」

 一瞬下条に歯向かうように言い出したが、すぐ気を取り直していた。

「あの……無理に聞き出さないであげて。俺れーくんが苦しむの嫌だから。れーくんが言いたいって思ったときだけ」

「でもね英川くん、さっき下条くんにも言ったけど、それだとなんにも解決しないの。新藤くんが言いたいってなるのがいつかわからないし、その分新藤くんが苦しむ可能性もあるの。

 もちろんそのなにかから日にちを空けてからじゃないと、無理だろうから今すぐにとは言わないけどね。それでも早めに解決する必要があるの」

「…………」

 早めに解決する必要がある……か。

 正直今のこの精神状態で全てを話せる気がしない。それは日を置いてもその可能性がある。僕はいつまでも逃げるような弱者だから。

 むしろ手足を縛ってムチで叩いて吐かせるようにしてくれたほうがいい気がする。物理的な痛みで精神的な痛みもきっとなくなるだろうし、いいじゃないか。

 ……でも僕の仲間にそんなことしてくれる優しい人はいない。僕が決心する必要があるんだ。

 一度長く息を吐いて声を出した。

「……話、してもいいか」

「だ、駄目!」

「…………」

 もう全てを話すつもりで聞いたのに、隣に座っていたギルに口を塞がれた。驚いて目を丸くする。

「……どうして止めるの?」

「……駄目。今日だけは絶対に駄目。特別な日だから。大切な日だから。今日だけ、今日だけでいいからお願い。れーくんが抱えてる問題のこと、なにも話さないで。考えないで。お願い」

 僕はもちろん、保健室の先生もなんのことを言っているのかわかっていないらしい。下条は心当たりがあるのか「……あー、そっか」と声に出す。

 その心当たりあるなにかを下条が言わないようにするためかギルが「絶対言っちゃ駄目だからね真也くん! 台無しになっちゃう」と食い気味に言っていた。

 金曜日にも「台無し」なんて言葉をギルの口から聞いた。今日にそのなにかがあるから、「今日だけは」という言葉を使ったのだろうが、なにかあったか?

 ずっと家にいて日にちを見ていなかったから、今日が何日なのかわからない。ギルたちに会ったのが金曜日らしいからその三日後、二月のいつかの月曜日ということしか。

 涙は流さなくなったが目は少し腫れていて、温かくされたタオルを渡され、目に当てろと言われた。温かくて気持ちいい。

「それで今日はどうする? 帰る?」

「駄目。帰らないで」

 また口出しされる。

「……それは英川くんが決めることじゃ」

「わかってる。けど、れーくん一人になったらまた、嫌なこと考えちゃうかなって……。だから俺とか真也くんがいる学校に、誰かがいる学校にいたほうが少しだけでも考えなくて済むかなって……」

「らしいけど、どうする?」

「……ギルがそこまでして事に気を遣う理由はわからないが、ギルがそう望むのならここにいていいと思う」

「タオルで目隠してそんなこと言われてもな」

 ……うるさい。

「なら、学校にいてくれるの……?」

「きっとここにいたほうがギルの望み通りになるんだろ」

「うん! ありがと!」

 勢いよく抱きつかれ、寝転び続けた体はそれに耐えれず後ろに倒れ込んでしまう。ベッドでよかった。

 ギルが体を起こそうとしたとき、チャイムが鳴ったことで飛び跳ね、ギルの肘が僕の腹にクリティカルヒットした。学校に向かう時に感じた気持ち悪さとはべつの痛みに唸る。

「ご、ごめんね! わざとじゃないんだけど、そのびっくりして」

「これはギルが蓮押し倒してイチャイチャしだすから、その罰だな」

 もしその罰がギルに向けられたものだとすれば、なんで僕が唸っているんだ?

「い、イチャイチャじゃないもん! 嬉しさのぎゅーだもん!」

「へいへーい」

 今度こそどこもクリティカルヒットせずに起き上がる。飛んでいったタオルを握り直して僕も体を上げた。

「新藤くん、みぞおちとかに当たってない?」

「はい。あばら骨とかも大丈夫です。たぶん腸あたりなので」

「お腹は基本どこでも駄目なんだけどね? 骨で守られてなければ消化器官とかがある大事な内臓ばっかりなんだから」

 ギルに一つ気をつけるように言ったあと、チャイムもう鳴ったことだしと教室に戻るよう言われた。

 けどすぐに「やっぱり私も教室まで付いていく」と、なぜか保健室の先生も付いてくることになった。鞄を持って教室に向かう。

 教室に戻ったとき、教室では朝のホームルームが始まっていた。ギルに手を握られているからいまさら逃げることはできなかった。

 そして教卓に立つ先生がギルたちを先に見つけ、

「英川たち戻ってきたなー。今日は……新藤!」

 名前を呼ばれて視線が一気に集まるから、俯いてギルの手を強く握った。

 久しぶりだなーなどと言いながら傍に来て、恒例のように心配した、安心した、どうしたのかと言われる。けど今回もギルが聞かないでほしいと言っていた。

「けどちょっとだけ放課後に話したいことあるから」

「それも駄目。どうせ土曜日にあったことでしょ」

 土曜日。僕の父親が家に来て、僕が……。

 一連のことを思いだして、嫌な顔を作る。それに気づいたギルは優しく背中に腕を回してくれた。僕も忘れようと、ギルの服を握る。

「……今日だけは駄目なの。せめて明日にして……ください。お願いします」

 ギルはいつも担任にはタメ口で話している。けどこう敬語を使う姿を見て、本気で願っていることを理解したのか了承した。担任にもお願いするほど事を台無しにしたくないんだろう。

 今日の入れ替わった授業について言ったあと、教卓に戻ろうとする。が、それを保健室の先生が止めた。

 先にギルに手を引かれて席に向かったから最後まで聞けなかったが、「持たせてるタオル」なんて言葉が聞こえたから、さっき貰ってまだ片手に入っているタオルについて言ったんだろう。

 教室に向かう間に「タオル、授業の合間に使っていいからね。使えるように言っていくから」とか言っていたし。

 ギルに席まで送られる前にケイがいるかを確認したが、どうやら来てないらしい。金曜日、小指を絡めたものだから、なんとなく裏切られたような感覚に陥って目が潤い出す。

 それに席まで引っ張ってくれたギルが気づいたらしく、小声で「大丈夫?」と聞かれた。こんな程度で迷惑なんてかけられないからと小さく頷く。あふれそうなそれを袖で拭った。

「……無理だったらすぐ先生とか隣の人に言ってね。俺もすぐ行くから」

 手を握られながらそう言われ、「じゃあね」と頭を撫でられて離れた。

 名残惜しくてか不安かで、離された手を掴もうとしたが虚空を掴み、前を向いて諦めた。いつまでもこうじゃ駄目だ。変わらないといけない……。

 家に引きこもるだけこもって、勉強もなにもしていなかったから授業の内容はわからないことが多かった。当てられることはなかったが、それでもずっと腹がぐるぐるしていた。

 一コマ一コマの授業が長く感じ、やっと放課後になる。

 そういえば、途中でケイが学校に来ていた。ちょうど四限目が終わったあたり。ここまで遅刻することが最近なかったから少し珍しく思った。

 まだ悪夢とやらは脳にまとわり付いているのだろう。いくら環境が改善して悪夢を見る回数が少なくなったとしても。

 今は、なぜかギルに長くなるかもしれないから図書室で待っててと言われ、こうして図書室の机に伏せて待っている。

 朝よりは体の重さだとか頭痛だとかがなくなっているが、どうにも腹痛が改善しない。やはり朝、ギルにクリティカルヒットされたからだろうか。昔からよく腹を壊していたからクリティカルヒットのせいではないだろうが。

 トイレに行くか行かないか、図書室の本を読むか持参している読みかけの本を読むか。悩んだ末、図書室にある面白そうな本を見つけてメモをし、満足したあと持参している本を読むことにした。

 どうしても図書室で本を借りるとすれば貸出期間を設けられてゆっくりと読めなくなる。それに、ときどき破れていたり汚れていたりするから、新品で買ったほうが気分もいい。

 ミステリーの他にも学園ものにはときどき手をつける。もちろん恋愛ものではなく、青春ものや学園ミステリーといったジャンルを。

 どうも恋愛ものは僕には相性が合わないらしい。全然面白いと思わない。総務曰く、恋愛ものを読んでいればこっちまでキュンキュンドキドキして推しカプというものができたり応援したくなるそうだ。正直よくわからない。

 流し見でタイトルを見ていくなか、一つ気になる物があった。

『早咲きの蓮華は地面に咲いた』

 隣にも同じようなタイトル『早咲きの蓮華は地面に咲く』という本があった。

 初めこそタイトルで惹かれただけだった。でもよく見ればどちらもタイトルの下に作者が書かれていない。どんな本にもあるのに。

 『咲いた』の本を手に取って表紙を見る。表紙にも書かれていない。

 表紙をめくって、タイトルが書かれるページを見るがそこにもやはりない。ならと、後ろから数ページ目にある発行会社や発行日などが書かれるページを見たが、そこにもない。……こんな本初めて見た。ときどき細工のある小説は見るが、このページにも表記がないのは見たことがない。

 改めて表紙を見る。

 表紙は中央にある一つのハスを囲うようにハスの花が水面に咲いていて、そのハスには一人の人間が座っていた。本が四冊あって、一冊は優しく抱いて、他の三冊はハスの上に載っている。抱かれる本はなんとなくこの本の表紙に似ている。その人間は嬉しそうな、悲しそうな、なんとも言えない表情をしている。ただ、優しそうな表情だ。

 裏表紙を見るが、今度は逆だ。ハスの花が中央に咲いていて、それを囲うようにハスが広がっている。ハスの花は綺麗に咲いて、花の上に本などはない。が、この表紙にも四冊の本がある。花の近くにあるハスに四冊別れて置かれており、一冊だけページが開かれている。人間は今度は、一人ではなく複数人いる。そのうちの一人が開かれている本を読んでいるようだった。すぐ横にもその本を覗き込むようにしている薄黄色の髪をした人がいた。

「…………」

 少しだけ似ている気がする。

 もう一冊作者のない本があって、それの表紙も見ようとしたとき、

「いたいた。帰ろ、蓮」

 ギルではなくケイだ。

「……悪いがギルに待ってろと言われて」

「そのギルくんから蓮と一緒に帰ってって言われたんだ。だから帰ろ」

 ギルが僕と帰りたがらないなんて、珍しい。金曜日も止まらないなんて言っていた。なにを企んでいるんだ。

 そうは言ってもギルと入れ違いにならないなら、もうここにいる必要もなくなるから、ケイと帰ることにした。

 手に取った本を戻して鞄を取る。あの本を書店で見つけたら買おう。本のタイトルは……なんだった、か。あの一瞬で忘れてしまうのは本当にどうかしている。しばらく記憶力を働かせることもしていなかったから鈍っているのだろう。

 表紙は憶えて……いるはず。確か人がいて、……人がいて……。

 駄目だ、思いだせない。なんで思いだせないんだ、ついさっきのことなのに……。


 ケイと暗くなり始めている道を歩く。ケイの手首も掴んで、隣を歩いている。

「……ギルはどうしたんだ」

「さあ。帰ったんじゃない?」

 あのギルが僕と帰らずに先に帰った? そんなことがあるのか? 珍しいのレベルじゃない。もはやギルじゃない。

 散々心配させたのはギルの他にケイにも心配をかけた。その罪悪感からなにかを話す話題は思いつかない。なにか声をかけられても頷くことしかできない。

 けど、

「今日は、大切な日だな」

「……なんで」

「なんでも。俺にとっても、きっとギルくんや下条たちにとっても大切な日。蓮がきっと忘れてる日」

 ケイやギルが大切に思って、僕が忘れている日……? なんだその日。意味がわからない。ただの平日じゃないのか。

 僕の家に向かっているつもりだったのに、ケイはなにも言わずに途中で曲がってしまう。どこかに寄るのだろう。そう思って僕は「また」と小さく言って真っすぐ歩いた。

「あっ、蓮来て。付いてきて。今日はまだ帰らないで。寄るところがある」

 僕はべつに寄るところなんてないんだが。それでも言われて黙って付いていく。

 黙って付いて行ったものの見慣れた場所しか視界に映らない。これはどこへ行く道だったか。思いだしているうちに着く。

「……なんでギルの家なんだ」

「なんでも。せっかくここに着いたんだし、インターホンでも押してみたら? たぶん先に帰ってるギルくんが出るんじゃない?」

 せっかく着いたと言うよりは、ケイが意図してここに着かせたように思えるのだが。

「……ピンポンダッシュのような悪趣味はしたくはない。僕は帰る」

「はっ、ちょ、ちょっとさ、ちょっとでいいからさ、押してみない? このあと予定とかないだろ?」

 ……確かにないが……。

 ケイに言われて渋々インターホンを鳴らす。聞き慣れた女の声が聞こえる。

「あ、あの、新藤です。ギルいますか」

「レンクン。チョットマテネ」

 声がなくなった。

 いつもならこのやり取りをしたあと、ギルがドタドタ言わせながら出てくる。でも今回はそんな音出さずに、しかも扉もなかなか開かなかった。

 まだ帰ってきてないんじゃないか? けど帰ってきてなかったら帰ってきてないと言うだろう。ならやはり帰ってきているのか。

 しばらく待っていたら扉が開いた。顔を覗かせたのはギルだった。

「れーくん! 敬助くんもありがと!」

 ケイに感謝……? なぜ。

「れーくんごめんなんだけど、ちょっとだけ、一瞬だけでいいからそこで待っててくれない? すぐ終わるから」

 僕を待たせるようなこと言うものの、ケイを招いては扉を閉めてしまう。

 一瞬、待った。けどもちろん扉が開かない。一瞬とは瞬く間の意。もう数回も瞬いているんだが。

 ギルに締め出されるほど、なにか酷いことしただろうか。ケイだけ招いて……ハブられるようなことをしただろうか。

「…………」

 いやした。したんだ。僕のことをいつまでも話さず秘密にして、心配かけて、迷惑かけたんだ。大切にしてくれているこの体を、殺そうとしたんだ。それでケイに怪我を負わせたんだ。

 こんな扱いをされて当然なんだ。

 目を潤わせて俯く。家に帰ろう。母さんがきっと待っている。

 ……こんな僕を待っているはずもないのに。母さんは……死んだのに。

 体の向きを変えて歩き出す。もう、いい。殺してしまおう、こんな体。大切にしてくれていた母さんも今はもういない。誰も僕を必要としてな――

「れーくん! お待たせ! ごめんね寒いなか待ってくれて」

「…………」

 僕を捕まえてどこにも行かせないようにか腕に絡ませる。

「……本当か」

「……なにが?」

「……本当に、謝罪の気持ちはあるのか」

 こんなこと、

「本当に僕が必要なのか」

 大切な人に、

「本当に僕を招いているのか」

 言いたくない。

「本当に僕は息をしていて……いや、してはいけな」

「そんなことないよ! ほんとにごめんねって思ったし、れーくんはいつまでも必要っていうかいてほしいし、いつでも家に入ってほしいし、れーくんは生きて、息をしてていいんだよ!」

「……本当に」

「本当に! 俺が遊びとか冗談じゃない、本気の嘘ついたことある?」

 横に顔を振る。

「でしょ? だから本当の本当にれーくんはそのままでいいの!」

 目が酷く潤う。このままで……本当に……いいのか……。教えてくれ……。良いと証明してくれ。納得させてくれ。できないなら……殺してくれ。

 絡ませた腕を引かれてギルの家に入る。靴も揃える暇もなく腕を引かれる。リビングには誰もいない。ただ照明しかついていない。

 手も洗わず、鞄も置かず、親に挨拶もせず、腕を引かれて階段を上がる。腕を引かれているのにギルが自分のペースで階段を上がっていくから何度も躓きそうになった。

 腕を解放してくれたのはギルの部屋の前。見慣れたギルの部屋の扉。

「……入っていいよ」

 そう言うギルの表情は、どこか不安を帯びた、緊張を走らせている、嘘でできた笑顔のようだった。そんな笑顔……見たくない。母さんの笑わされた顔と同じじゃないか。

「……なにを隠している」

「へっ? なにが?」

「……どうしてそんな顔をする。そんな顔しないでくれないか」

 いつかに見た母親の表情に似ている。

「顔……? 俺ヘンな顔してる?」

 ギルがやはりウソを貼り付けて笑ってみせる。

「だからっ」

 ギルの胸元を掴み上げ、

「そんな顔……!」

 振り上げた拳にハッとする。あいつと同じ……ことを……。

 勝手に一歩後ろ下がった。振り上げた拳は、動き続ける僕の腹にめがけて食い込む。それに腹を抱えて、息を詰まらせる。

「……なさい……ごめんなさい……」

 目から落ちた雫で床を濡らす。

 誰ももう傷つけたくない。

「も……ころして……くれ……」

 息を止めようとしても、鼓動を止めようとしても止まってくれなくて、ただ耳障りな音を出す。

「……れーくん」

「…………」

「……俺そういうこと言わ……。ううん……大丈夫だよ」

 腹に食い込んでいた拳を、ギルは胸の前に引っ張って手のひらで包む。

「俺はれーくんがいてくれたらそれだけで嬉しいの。本当に喜べるの。……だから、今はもう少し心とお話しして、気持ちを落ち着かせて。俺はいつまでも待ってるから」

 ギルが優しく、体を包みこんでくれる。こんな汚い奴の体になんか触れたくないだろうに……。

「でも……もう少しだけ頑張れる……?」

「……僕にできることはない」

「あるよ。いろいろあるよ。料理もできるし、勉強もできるし、ピアノだって弾けちゃう。いろんなことできるんだよ。そのなかでもとっても簡単なこと。この目の前の扉、開けれる?」

 目の前の……扉。ドアノブが高くて、ここからだと届かない。なら、立ち上がればいいだけだ。立ち上がるだけ。……立ち上がってドアノブを触れたらいいんだ。それだけ。それくらいできないで、これからどうするんだ。

 頭の奥から湧いてくる強く汚い言葉に、

 ――こんなことすら

 ――なにもできない

 ――いつまでも変われない

 息を荒くさせて、やっとの思いで立ち上がった。

 開けるだけ……。

 ドアノブに手を掛ける腕は重く、うまく力が入らない。

 それでも震える手で扉を押した。

 その瞬間、

「ハッピーバースデー、――――!」

 …………は。

 扉を開けた瞬間、パンッといううるさい音とともになにかが視界を遮った。……紙吹雪だ。

 吹雪が止んで視界が開けたら人がいるのがわかる。ケイに下条、総務、柊までもいた。

「誕生日おめでと、れーくん!」

「おめでとー!」

「おめでとう」

 背中を押されて部屋に入るよう促される。それでも足は動いてくれなくて、ただそこへ崩れ落ちた。

「なんで……なんだ、これ。意味がわからない。なんでこんな……」

 頬に何筋もの涙が伝う。

 わからない。なんで僕が涙を流しているのか。なんでこんなことをされなければならないのか。どんな顔をすればいいのか。なにを言ったらいいのか。

 わからない。

「なんでって、今日は大切な日、大切な人が生まれた大切な日。れーくんの誕生日でしょ!」

「……ぼく、の……」

 こんな日、大切な日なんかじゃない。存在してはいけない日。こんな奴が息の仕方を覚えた日なんて……。

「や……やめろ、きもちわるい……。なんで、こんなこと……きもちわるい」

 目から流れる涙は止まらない。止まってくれない。

「……嫌だった……?」

「それはないだろ蓮!」

「触るな。……近づくな」

「……蓮」

 手に持つゴミを近くにいた下条に渡して、ケイが近づいてくる。そして、

「近づくなと」

「黙れ」

 聞いたことのない口調で言われる。それをあいつと重ねた僕の体は震えて、止まらない。……ころされる。

「…………」

 殺される、そう思って逃げようとする。が、もちろん体は動いてくれない。

 ケイが近づくたびに思いは強くなって、他になにも考えられなくなる。殺される。殺される。殺される殺される殺される……。

 もう目の前にいると、あいつに殺されるとわかったとき、

「蓮、一回二人で」

 もうなにもかもがわからなくなって、

「……蓮!」


 なにがいけなかったのか。俺にもきっと、誰もわからない。蓮と二人で話しようと持ちかけようとしたとき、蓮はいきなり体を預けては動いてくれなくなった。

 その前にも見たことのある目、なにかから身を守るような体勢、威嚇をしているような顔をしてた。

 きっと蓮のなかでいろんな感情が一気に襲ってきて、体が耐えられなくなったんだ。今もギルくんのベッドで横になってる。決して楽そうとは言えない呼吸をして。涙を目に添えて。

「……ごめんね。こんなつもりじゃなかったのに……。台無しに、なっちゃった」

 ギルくんは無理やり口を曲げて笑う。見るだけで苦しい。

「ギルのせいじゃないって。……ギルも蓮がこんなに嫌がると思ってなかったんだろ? しょうがないって」

「……うん」

 重たく冷たい空気が室内に蔓延する。誰もが沈黙を貫いていっそう重くなる。

「……んん」

「あっ、れーくん」

 蓮が目を覚ましたらしい。眩しそうに(まぶた)を開ける。けど、その見たことのある目つきに、俺はドキッとする。見たことのある、見たくない目つき。酷く生気を失った目。

「よかった。ほんとにごめんね。久しぶりの学校にも行って疲れたのに、こんなのにも付き合わせて……疲れちゃってたよね。気づけなかった。ごめんね」

 のっそりと体を起こす。

「……なにが」

「え? ……その、れーくんが嫌って……誕生日祝おうとしたの」

「……誰の」

「……れーくんのだよ……?」

「……なんで」

「えっ?」

 まるで会話が通じてない。さっきあったことを蓮自身がなかったことにしようとしてるみたいだ。ギルくんの声も震えだしてる。

「……今日、れーくんの誕生日でしょ……? なんでって、れーくんの誕生日だから、祝おうって……」

「なんで……ケーキ……僕宛」

「……なんでって……」

 ギルくんから目を逸らしたかと思ってたら、テーブルに置いてあるケーキを見てたのか。俺らが分け合って出したホールのショートケーキ。チョコのプレートには『HAPPY BIRTHDAY れーくん』ってある。正真正銘蓮へ向けたケーキだ。

「ケーキなんて……まずい……気持ち悪い」

「……そっか……。そうだよね。それだけ嫌……だったんだね。ごめんね。無理に祝おうとして。ごめんね」

 後ろ姿でもわかる。ギルくんの目から涙があふれてるのは。そして無理に笑おうとしてるのは。

「ごめんね、みんな。せっかく集まってもらったし、プレゼントもケーキ代も出してくれたのに、ごめんね。……今日のサプライズ誕生日パーティー……全部、なかったことにしよっ」

 振り向いたギルくんは俺にも痛みが伝わってくるような顔だった。苦しくて泣き叫びたいのをごまかすように笑ってる。

「……はあ……? なかったことにするって……。意味わかんねー。なに言ってんだよ。この日のためにいろいろ時間使って、ギルだって楽しみにしてただろ。……なかったことになんか、できるわけないだろ!」

「ううん。いいんだっ! できるの、俺なら。だから……だから、ごめんね」

 次第に笑顔が消え、涙に代わってあふれてくる。

「蓮! 白けた顔して、なに考えてんだ! ギル悲しませて、なにがしたいんだ!」

 蓮の肩をガッと掴んで、ゆらゆら揺らす。壁に頭を打ちそうになってたときは頭がひんやりした。

 自然と蓮が壁に頭を打ちつけられていたときの記憶が思い起こされて、後頭部によくわからない痛みが走る。

「友だち泣かせるとか、ありえねー。俺の友だち泣かせる奴なんか友だちじゃない。……お前がそんな奴だと思ってなかった。俺はお前と友だちなんかじゃねー」

 下条はギルくんの腕を引いて、部屋から出ていく。その際、柊のことも呼んでたから、戸惑いを見せながらも柊も出ていった。俺や垣谷も呼んでたけど、行かなかった。捨てないって約束したんだ。

 相変わらず蓮は生気を失った目をしてる。いつも以上になにを考えてるのかわからない。

「……新藤くん……。なんで酷いこと言うの……? 僕には優しく言ってくれたのに。いつだって優しい言葉を選んでるのに。なんで今日はしなかったの……?」

「…………」

 今の蓮に問い詰めは無意味だ。きっとなにも答えない。

 蓮がなにも悪いことをしていないとは言わない。けど、意図したことでなければ、全てが本心だったのかもしれない。

 誰も他人の心の中を読むことはできない。誰も未来を予測して最善を尽くすことはできない。正解を見つけ出すことなんてできない。

 俺はどうしたらよかったんだ。

「蓮、なにか話せるか。今どんな感情が操ってる。なにが蓮をそうした」

 蓮はただ、不気味に口だけ笑わせる。いつだって蓮が考えてることはわからない。

「……死んだらいい」

「…………」

「もう、いらない。言われるのなら、いらない。必要ない。なら死んだらいい」

「……もう一回その言葉を言ってみろ。今度こそ刺して、殺す」

「死んだらい」

「殺すって言っただろ!」

 蓮の体がビクリと動いて目をしかめる。

「言うな、二度と。そんなこと。

 ……本当の蓮を見せてくれ。今の蓮は本当の蓮じゃない。感情に操られて……誰かもわからなくなってる、壊れてる。

 壊れてる蓮に聞こえるかはわからないけど……。蓮は友だち、大切な人を泣かせてよかったのか、泣かせたかったのか。……一生懸命に準備したこのサプライズを、蓮は台無しにした。なにもかもを。

 二月に入ったあたりから計画してた。ギルくんだけじゃない。今日ここに来た下条や垣谷、柊も話に入って今日の日のことをたくさん話し合って、『最高の誕生日パーティーにしよう』って言う目標を立てて、練りに練って実行したんだ。

 ……俺は蓮を責めたいわけじゃない。責めてない。ただ……蓮はそれでよかったのか」

「……ぼくなんかの……ために」

「……そうだ。蓮なんかのためにここまでしてくれたんだ。台無しにして詫びに行くのはもちろん。他にも言うことあるだろ」

 蓮の顔がパッと上がる。そこに見えるのは、生気のある蓮の顔だった。

「新藤くん……?」

「ギルは、ギルは今どこにいる」

「さあな。下条が連れて行った」

 ベッドから降りて足をふらつかせながら部屋を出ていった。戻った。……よかった。

「新藤くん急にどうしたんだろ」

「なにしたらいいか気づいたんだ。見てくる」

 一階に下りてもギルくんの姿はなかった。下条と柊がソファーに座ってるだけだった。

「ギルは」

「……いまさらなんだよ。俺はお前と友だちじゃねー。話かけ」

「英川なら独りになりたいって、外に」

「ありがとう」

「なんで言うんだよ実琴!」

 ギルくんと仲直りしたら、下条ともしないといけないみたいだな。

 玄関まで駆けたら、扉を勢いよく開いて「ギル!」と叫ぶと同時に蓮が扉を支えなくなったから外の様子が見えなくなる。靴を履いてから扉を開けた。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。それと、僕なんかのために、いろいろ考えてくれて……ありがとう」

「……ううん。いいんだよ。いつものれーくんのままでいてくれたら、それで」

 二人は背中に腕を回しあって、その温かさを噛み締め合ってるみたいに見えた。一件落着かな。

「……ケイもありがとう。……本当にごめんなさい。僕なんかのた」

「その『なんかの』ってやめよ、俺それ嫌だ。それに、いつもそんなこと言ってなかったでしょ? いつも『僕のために』って言ってくれてたでしょ!」

「僕のため……」

「そう! 『僕なんか』じゃなくて『僕のために』、ね!」

 ギルくんが蓮に向けて微笑めば、蓮も優しく微笑む。


 部屋に戻ったら、計画の一部のあとが見える。一回きりのクラッカーから舞い散った紙吹雪。テーブルの上に置かれた、綺麗に彩られたショートケーキ。勉強机に置かれている、綺麗に包まれているプレゼント。

「サプライズは失敗しちゃったけど、ケーキみんなで食べよ! お母さん!」

 扉に向けて言ったかと思えば、手にデジカメを持っているギルの母親が出てきた。

「ハァイ!」

「……ギル、動画は」

「大丈夫大丈夫! 大切な日は大切に残しておかないと! 俺も一秒一秒憶えておきたいし! それよりこれ付けてよ!」

 手に持つのは「今日の主役!」と書かれているタスキと、水色をした三角の帽子だった。ギルらしいというか。言われた通りタスキをつけ、帽子を被った。きっと似合わないのはわかっている。けどギルが喜んでくれるならそれでいい。

「ぷっ、蓮それ全然似合ってねーな!」

 ……似合ってなくても黙っておくものじゃないか?

 母親が器用にケーキにろうそくを立て、火をつけていく。……この感じ、なんだか懐かしい。

 けど、同時に嫌な、思いだしたくもない記憶が蘇ってきて胸を不快にする。もうギルを悲しませたくはない。唾を飲み込んで、喉のつかえを飲み込み続けた。

「せーのっ、ハッピバースデートゥーユー」

 幸せな誕生日をあなたに、か。

 ……幸せってなんだろう。

「ハッピバースデーディア――ん、ハッピバースデートゥーユー」

「…………」

 ギルの周りとは少し高い声が目立っていた。いい歌声だった。

「れーくんいいよ」

 ……なにが。つい首をかしげてしまう。

「ふーって」

 ギルのその仕草でロウソクにつく火が揺らめいた。……そういえば、歌を歌い終えたあとは火を消すんだったか。もうなにも憶えていない。

 ケーキの上に十七本のろうそくが火をつけて立っている。ひらひら揺らめいてはろうを溶かす。たれてしまわないうちに消そう。

 息を吸って、

「…………」

 手が震えている。息も震えだす。

 怖い。僕がこれを消していいのか、消しては駄目な気がする。いや、きっと駄目なんだ。僕がこんな綺麗なものを消すなんて……。

 それになにより、消したらまた、またあの時みたいなことが起きないか……。不安で怖くて消せない。

 いつかのこの日、父親が遅いからって母さんが買ってきてくれたケーキ。ろうそくは九本建立っていた。父親が途中で帰ってきたら面倒なことになることはわかっていた。だから食べずに部屋に戻ろうと思った。

 でも安心させるような母さんの声で、笑顔で、僕はろうそくの火を消した。

 火を消したら母さんは笑ってくれた。幸せそうな顔をして。抱きしめてくれた。「生まれてきてくれてありがとう」って。だから僕も少しだけ笑った。

 二人で分けるには少し大きいケーキ。この日のために買ってきてくれたケーキ。綺麗に飾られておいしく食べられるために生まれたケーキ。幸せな思い出の味になるはずのケーキ。

 でも、そのケーキはそんな美しいケーキにはならなかった。

 想定外に父親が帰ってきて、ケーキを見つけるなり、

「――――!」

 僕を殴り倒して、テーブルをひっくり返して、母さんを殴って、皿を割って、大きな音を出して、皿の破片まみれにして、ナイフを振り回して、誰かが血を流して、ケーキは赤に染まって、ケーキが捨てられて、体が動かなくて、息ができなくて、赤いケーキが入ったゴミ箱に頭を押しつけられて――

「れーくん?」

 体が震えている。顎が、手が、足が、心臓が震えて止まらない。この火を消したら、あの日がまた来るんじゃないかと、父親がまた目の前に現れるんじゃないかと、母さんが殴られるんじゃないかと、殺されそうになるんじゃないかと、思って仕方がない。

 僕が息をし続けることで、歳を取ることで父親が怒り狂って僕を殺しに来る。そんな気がしてままならない。

「おーい、また蓮泣いてるし。今度はなんだよ。早く消さねーと、溶けたろうがケーキに付くぞ」

「…………」

 怖い。

 僕がこれを消したら、息をしてたら駄目なんだ。

 ケーキを切るように置いてある包丁。これで……。包丁の柄を持つ。もう終わらせて――

「れーくん。大丈夫だよ」

 背中にぬくもりが伝わり、後ろからギルの声がする。さっきまでいた場所にはいなくなっていた。

 腕を回して手を握ってくれる。

「大丈夫。もうれーくんは独りじゃないよ。れーくんは俺たちが守るから、なにも怖がらなくていいんだよ。大丈夫」

 ひとり……じゃない……。独り……。

「ゆっくりでいいよ。ゆっくり呼吸して。……この部屋にはれーくんと俺と、敬助くん、真也くん、総務さん、実琴くん、それと俺のお母さんしかいないから、大丈夫。なにがあっても俺が守るから」

 このあとなにが起きるのかはわからない。また同じ日を繰り返すのか、繰り返さずにまたべつの日を繰り返すのか。わからない、でもギルは強く、優しく抱いてくれて、なんとなく肩の力が抜ける。

 誰もいない。ここには僕の死を望む人間なんていない。今は呼吸をして、瞬きをして、口を開けて、息を吸って、吐いたらいいんだ。

 息にさらされた炎は揺れて消え、あたりを真っ暗にする。視界の遮られるこの状況に酷く全身の力が入っては、息を苦しくさせる。

 でも、

「…………」

 明かりがついたら、綺麗な声が聞こえた。

「おめでとー!」

「おめでとう」

「素敵な一年になりますように」

 短くしたろうそくがケーキに刺さっている。鉄のニオイもしない。汚い音もしない。

「れーくん、お誕生日おめでと。今まで生きてくれてありがと。大好きだよ」

 耳元で聞こえる、聞き慣れた安心する声。思わず目が潤ってあふれ出す。

「……ありがとう」

 目を潤わせながらも切り分けてくれたケーキを目の前に出される。いちごのショートケーキ。あの日見たあのまずいケーキと同じ。

 もう下条や柊も手を付けて食べている。食べてないのは僕とギルだけだ。隣で僕のことばかりを見て食べる気配もない。

 あの日食べたケーキは口に入って、すぐに戻した。生ごみと一緒になったケーキ。

 このケーキはどうだろう。同じ味は……しないといい。

 まだ微かに手が震えている。その手でフォークを握る。

 なんとなくあの時の味が反芻して吐き気を催す。喉までくる不快感を深呼吸をして、虚空を飲んで抑え込む。

 きっと同じ味はしない。もし同じ味がしたときは、吐いてしまえばいい。吐けばなにもかもどうでもよくなって、スッキリする。

 先の尖ったケーキの端をフォークで切り取って、上から刺す。色も、形も、ニオイも、あの時とは全然違う。それでも何度でも吐きそうになる。

 背中を誰かにさすられている。……温かい。

 今すぐにでもなにか出しそうな口を開けて、ケーキの刺さったフォークを口に入れた。

「…………」

 ……まずくない。

 甘くて、弾力があって、ふわふわで、優しい味がする。ケーキってこんなにもおいしいんだな。……もっと早く知りたかった。視界が歪み、鼻が詰まりだしてずずっと吸う。

 母さんに、母さんの大切な日に買って食べさせてあげたかった。なんで誰も教えてくれなかったんだ。大切な日に食べるケーキは幸せの味がすると。

 でも……こんな日に食べるケーキを食べてまずいなんて思わないのなら、まだ息をしていてもいいと思わされる。味がわかるなら、幸せを感じられるのなら。

 母さんに食べさせられたらと思いながら、小さくゆっくり味わいながら、口に運び、食べ終わった。

「れーくん、ケーキどうだった? おいしかった?」

「……とても。……ありがとう」

「こちらこそだよ! ありがと!」

 迷惑ばかりかけたのに、なにに感謝されたのだろう。

 ケーキを食べ終えたあとは、プレゼントをそれぞれから貰った。大小問わずどれも素敵なものだった。今では下条から貰ったヒゲとアフロのつくメガネさえも大切なものに思える。

「あははは! れーくんがそれつけるの反則でしょ!」

 けどこんな笑顔を見られるのなら、大切に思えるんじゃなくて、大切なものなんだ。

 ギルからは散々に大量のモノをくれ、中には真っすぐでない紙に手書きで「ぎゅー5回券」が十枚なんてものもあった。

「あ、そうそうこれね、べつに券じゃなくてもいいかなって思ったんだけど、券にしたほうが気軽に言ってくれるかなって思って。急いで作ったからちょっと形ヘンだけど。えへへ。追加なら全然作るから言ってね!」

 これはギルが持っておくべきものな気がする。僕がこの券を使うと思っているのだろうか。

 ギルが持って、使ったら強制的に僕を抱く、なんて仕組みにしたほうがいい気がするが……ときどき使わせてもらおう。

 柊が照れくさそうに渡してきたのは腕時計だ。しかもそこそこ有名なブランドの。

「……これ、いくらしたんだ」

「普通プレゼントの値段聞く? 教えるわけないでしょ。心配しなくてもぼくお金あるから」

 そういう問題じゃないんだが。

 指紋をつけてしまうのが惜しいほどに輝いている。けど、試しにつけろと促すもので、一度唾を飲んでからゆっくりつけていった。

 ベルトは革でできていて、ちょうどいい大きさで穴に通す。重くなった左腕を甲を天井に向けて改めて見る。

「似合ってる!」

「……好みじゃなかった……? いつもこんな感じのつけてたから、これにしたんだけど」

「……いや、十分すぎるくらいだ。ありがとう、大切にする」

 こんな高い腕時計を早々に壊すわけにもいかないから今は箱にしまわせてもらった。普段遣いできないような貰いものをした。

 下条からはいつの間にか撮られていた写真を印刷されたものが大半だった。どれも角度的にストーカーが撮ったようなそんな写真。

 無許可に撮っていたことで、不満を覚えたが少しくらいならいいかと、アルバムに仕舞ってやると言えば嬉しそうにしていた。ギルが自分のコレクションにしたそうでもあった。

 総務は僕の体を気遣ってか、健康用品ばかりが入った紙袋を渡された。喜ぶべきものかどうなんだか。

 栄養ゼリー、栄養ドリンク、胃腸やどこかしらの臓器を良くさせる薬やサプリメント……。筆記用具はあって困らないが。

「……多くないか」

「蓮はすぐくたばるから、これくらいがちょうどいいだろ!」

「新藤くんが好きなもの、あんまりわからなかったから。ごめんね。でも下条くんの言うようにふと見たとき体調悪そうにしてるから……。べつに無理して使わなくていいからね、体に合う合わないとかあるから」

 体調面を心配する奴は体の合う合わないも心配する。どこまで気を遣えるのだか。

「ありがとう。胃腸薬を切らしていたからありがたい。使わせてもらう」

 最後に渡してきたのはケイだ。紙袋にいくつかの箱や紙包みがある。服やマグカップ、タオル。ケイは僕の生活を知っているからか、日用品ばかりが多かった。そんななか、日用品でないものもある。

「……これは」

 紙袋の底に白い封筒があった。見たことのある封筒に心臓がドクッと音が鳴る。遺書……なんかじゃない……よな。

 手に取って裏返す。

『蓮へ』

 それだけが書いてあって、ひとまずホッとする。

「あっ、それは……」

 送り主のケイは少し耳を赤くして「一人のときに読んで……」と、か細い声で言った。

 手紙、だろうか。ケイにしてはらしくないプレゼントだ。思えばギルなら渡してきそうだと思っていたんだが、なかったな。

「……あとで読んでおく」

「ありがと」

 まんざらでもなさそうにはにかんだ。

 ギルたちから貰ったプレゼントは、ギルの勉強机の半分を埋めるほどあった。けど、それ以上にまた増えるらしい。なんと、ギルの両親からのプレゼントもあるみたいだ。

 急いで帰ってきたのか、息を切らしてギルの父親が部屋に来る。

「あ、来た来た。ちょうどみんな渡し終わったところだよ。お母さんがお父さんなしで渡しちゃうところだったよ」

「ごめんね……少し……遅くなってしまったよ……」

 少し息を整えたあと、顔を上げて母親に渡すよう言う。

「これからもギルをよろしくね。困ったときはいつでも相談してくれていいから。それに、いつでも泊まりにおいで。私たちはいつでも歓迎するよ」

 ギルがなにか話したのだろうか。そんな言葉が出る理由は。ただ両親がいないということで言っただけなのだろうか。

 渡されたのは小さな包み紙。

「ありがとうございます」

「コチラコソ」

 ギルたちからのプレゼントはその場で開けたほうがいいだろうと思って開けたが、どうも大人の前では無礼に思えてしまう。受け取ってなにが入っているのだろうと思考を巡らせるだけだった。

 もう、パーティーですることは終えたはずだ。つまり解散がかかっていい頃。まだ……ここにいたい気がする。

 このあとはどうするのかと、ギルに聞こうと思えば不思議ににまりと笑って、

「カーット!」

 手を伸ばした左腕を上から下への虚空を切った。思わず目を丸くさせる。なんだ今の。ケイたちもなにかわかっていないのかぽかんとしている。

「えへへ、実はね、俺からもう一つプレゼントがあるんだ。ってことでお父さんよろしく。お母さん、渡して」

「すぐ終わらせるよ」

 デジタルカメラを父親に渡されると、早々に部屋から出ていってしまった。

「きっと驚くよ! さいっこうにいいプレゼント!」

 このあとは特に予定はないらしく、その最高になるらしいプレゼントができるまでなにかして待つと。なにして?

「うーん、れーくんしりとりとか、れーくんじゃんけんとか、れーくんわっしょいとか」

 どれも意味がわからない。なんだそれらは。

「面白い名前。どんな遊び?」

「れーくんしりとりはれーくんに関することでしりとりして、れーくんじゃんけんはれーくんとじゃんけんして負けたられーくんに乗ってもらいながら腕立て伏せ十回、れーくんわっしょいはれーくんをわっしょーいって持ち上げるの」

 どれもやって得のあるものでないことは理解した。強いて言えばギルしか楽しめない。

「もっと普通の、むしろ……このままがいい」

「そう? ……そっか。じゃあお話し! れーくんの昔の面白エピソード話したい!」

 またくだらないものを……。けど、謎の遊びよりはマシか。

 そしてその最高になるらしいプレゼントが完成したらしい。ときどきギルが席を外していたら終わっていた。ギルの行き場所は父親のもとだったから、なにか手伝いでもしていたのかもしれない。

「お待たせ」

「やっとできた!」

 父親がギルに渡すのは小さな箱。丁寧にリボンも結ばれている。そしてそれを貰ったギルは僕に向く。

「れーくん、これが俺の最後のプレゼント! ……もしかしたられーくんは要らないって言うかもしれないけど、それでも大切にしてね」

 申し訳なさそうに眉を下げながら渡してくるその箱。なにが入っているのだろう。僕が貰って要らないと思うようなもの……。そんなものあるのだろうか。

「ありがとう。大切にする」

「その言葉忘れないでよ? 俺聞いたからね、大切にするって。捨てないでね」

 ギルがそこまで念を押すものが入っているらしい。ますます気になる。

 手に収まった箱の中身を見ようとするが、ギルに手で押さえられた。

「家に帰ってから見てみて。思いだしてほしいから」

 思いだしてほしい? よくわからないが、

「わかった」


「ていうか、なんで蓮は一週間も学校休んだんだよ」

 そう下条が切り出して、パッと現実に戻された気がした。今まで楽しかった記憶を全て忘れるくらいに。

「真也くん……それは、また今度にしよ?」

「……ギルがそれでいいならいいけどよ。ギルもあんまりわかってないんだろ?」

「うん。でもそれでれーくんが元気じゃなくなっちゃうなら、俺言わなくていいって思うもん」

 やっぱりギルは優しいな。けど、このままじゃ駄目なことくらい僕でもわかっている。

「話す。これはいつまでも引きずるようなものじゃないから」

「でも」

 ケイがギルの肩に手を置いて口を閉じさせた。

「休んでいた理由、だったな。土曜日に仲の悪い……父親が帰ってきたんだ。それから、機嫌を悪くした父親が……」

 思いだすだけで怖い。腹を強くさする。そんな様子を見られたギルに、無理に話さなくていいからねと口を挟まれる。

「機嫌の悪くした父親が僕を……こ……」

 事実をまるまる伝えていいのだろうか。

 父親が殺そうとしてきて、それに歯向かって僕は……自分を刺そうとした。けど、誤ってケイの腕に刺さって、誰かを傷つけたくなくて、誰にも会いたくなくて……。そんなことを包み隠さず言っていいのか……?

 言葉に詰まっていると、ケイが口を開けた。

「実はそこに俺とギルくんもいたんだけどさ、その蓮の父親酷く機嫌悪くしてたみたいで、蓮のこと殴ってたんだ。それで蓮も仕返しにって殴りかかろうとしたら止めに入った俺の顔面に拳が入ったっていう、それくらいのことは俺の口から言える」

 違う。けど、うまく濁してくれた。

「蓮殴り返すんだ……。こっわ」

「……以前にも言っただろ。昔は乱暴だったと。今はそう簡単にしないだけで」

 ケイから続きを言えるかと言わんばかりに目線を合わせてくる。

 ケイがここまで事実を濁しながら伝えてくれたんだ。言わないと。あの時の僕の気持ちを。

「……それで、ケイをさ……殴ってしまって、誰かの傍にいたらまた傷つけてしまうんじゃないかと思って……誰とも会いたくなかった。ヘンに触れられて傷つけたくなかった……し」

 自分を殺したい気持ちでいっぱいだった。そんなことも言えるはずがない。

「学校でろくに言葉を交わせそうにもなかった。だから少し……休みをもらった。学校に連絡を入れられないほど、怖かった」

 いつもより低くなった声が聞こえて、ポロっと目から涙があふれてくる。べつに泣くことでもないだろうに。

 あふれてくる涙を袖で拭って、顔を上げて、また拭って、俯く。

「そっか……。話してくれてありがと」

 優しく、温かい腕が僕を包む。そのギルの行動に胸が痛くなって、また涙が出そうになる。

 けど、

「生きててくれてありがと」

 その言葉に痛む喉に許しを得たように、喉が開いて「うっ」と声がもれる。情けない……けど、止まらない。

「蓮でもそんなことあるんだなー。いつもなに考えてるかわかんなそうな顔して。最近はわかるようになってきたけどさー、やっぱりわかんないもんはわかんねー。な、実琴」

「そうかな。ぼくは……少しわかる」

「えぇー?」

 少し抱くのが緩くなった。

「あはは。俺もわかるよ。なんたってれーくんと長い付き合いなんだもん。まあ、このことは全然わかんなかったけど。こんなの初めてだもん」

 言葉を言い終えたらまた優しく抱いてくれる。温かい……。

「これからも新藤くんのペースでいいからね」

 僕のペース……。

「そんなこと言っても蓮はいつもマイペースだろ」

「時間に遅刻しない蓮がマイペースなら、遅刻常習犯の下条はなにになるんだか」

 ケイの言葉に僕はくすっと笑う。顔は見えないが、ギルも微笑んでいるように思えた。抱く力が強くなる。

「じょ、常習犯じゃねーし。そんなこと言ったら敬助も常習犯だろー?」

「学校はべつだって。俺が言ってるのは遊びに行く日とかのこと。いっつも遅れてくるだろ」

「だから学校だと敬助も遅刻して」

 温かい、本当に。……本当に。

 いつまでもこんな幸せが続けばいい。

 ……こんなにも幸せを味わえるのなら、あの時胸に刺さらなくてよかった。今ではそう思える。


「それじゃあ新藤くん、良い一年を過ごしてね。改めてお誕生日おめでとう」

「……ああ」

「また一緒にゲームしてやるからもう泣くなよー?」

「いつでも話聞くから……ばいばい」

 落ち着いた頃、時間を見ると良い子は帰らないといけない時間だった。なにより明日も学校がある。

 だから下条と総務と柊は帰ることになった。

 ケイも一緒に帰らなくていいのかと聞いたが、親に連絡はしてる、と一言。

 僕の鞄からはみ出てるさっき使ったクラッカー。

『いやー綺麗になったね』

 ギルたちがクラッカーから出た花吹雪や銀テープを、それぞれのクラッカーの中に入れていた。

 僕も手伝おうとしたが当たり前のように、やらなくていいと言われた。今日の主役なんだから、と。

『あ、拾い終わったらゴミ箱に捨ててくれていいよ』

 そう自分の持つクラッカーをゴミ箱に入れようとしたギルの手をさっと掴んだ。気づいたら掴んでいた。

『ん? れーくんどうしたの?』

『……いや、その……貰っていいかそれ』

 なんとなく欲しかった。使い物にはならないはずなのに。

『……いいけど、新しいのなら全然買ってあげるよ?』

『いや、それがいいんだ。全部は多いから、これだけ』

 不思議そうに顔を傾けるが、素直に渡してくれた。そして花吹雪が鞄の中でばら撒かれないようにポリ袋に入れてくれた。

 こういうものを「宝物」なんて言ったか。きっとそうに違いない。

 パーティーが終わって下条たちも帰った。僕もそろそろ帰るべきだろうか。けどケイの迎えも来ていないし、もう少しこの居心地のよさを味わっていたい。

「れーくんは今日は家に帰る?」

「……明日学校があるからな。帰らなくていいのなら、きっと帰らなかった」

「そっかー。でも明日も会えるもん……ね?」

「この調子でいれば」

「うん、でも無理なら無理に来なくてもいいから」

 けど一人でいるほうが悪化しそうなのは確かだ。明日起きたら、また優希を殺したくなっているかもしれない。……今日のことがあったからそうそうないだろうが。

 いつ帰ろうかとぼーっと時間を見ていたら、ケイがスマホを持ちながら声を出した。

「そろそろ着くらしいけど、ついでに蓮も家まで送っていこうか?」

「……構わない。すぐ着く距離だ」

「でも……もう暗いし」

 いつもながらのケイの心配か。

 ギルからもなにか言ってくれとギルに目を向けた。が、

「そうだよね、やっぱり危ないよね! れーくんも乗せてもらいなよ! あっ、でも俺も最後までいたいな……」

 逆効果だった。

「二人して心配しなくても、僕一人でだいじょう」

「だいじょばない!」

「大丈夫じゃないかもだろ」

 ……二人で声を重ねて同じことを言わないでくれ。

「なら、今さっと蓮送っていく?」

「あ、うんそうしよ! さっと行って戻ってきたら敬助くんも間に合うと思うし!」

 そこまで心配することもないだろうに。けどずっと心が温かいから、今日ばかりは素直に受け取ろう。

 ギルが十秒もしないうちに防寒具を身にまとったら声をかけられる。まだケイが出る準備ができていないのに。同じく僕も。

 クラッカーがあることを確認した鞄を持って、マフラーを首に巻く。

 少し寂しいが、明日も学校があるんだ。いつまでもここに居座れない。いや、ギルに言えばいくらでも居座らせてくれるかもしれないが、迷惑はかけられない。

 僕の家の玄関が目に映る。もうお別れの時間になってしまった。名残惜しい……。

 振り返ったら二人の姿が見える。

「悪いな最後まで」

「ううん、大丈夫だよ。久しぶりの帰り道で迷われても困るしね」

「さすがにない」

「あはは、ないか」

「…………」

 もう家がすぐそこにあるのに、きっと家に入ってしまえば風にさらされて寒い思いをせずに済むのに、どうしても帰りたくない。

 帰りたくない、けど……母さんも待ってる。

「ギル、ケイ」

 いつもはこんなことしない。けど今日は、今日だけは……。

 二人を呼んだらこれでもかと言うほど腕を広げて、

「今日は本当にありがとう」

 せいいっぱいに、思いの限り抱きしめた。

「……愛している」

 そう二人の耳元で言った。

「……うんっ! 俺も!」

 背中に腕が回ってくる。本当に別れが惜しく感じているんだな、こんなことするなんて。

「いつもこんなに素直だったらいいのにな」

「……どうだか」

 ギルとケイの温かさを体に染み込ませる。染み込ませて、忘れないように。明日を生きられるように。

 まだまだ温かさを染み込ませていたかったが、さすがに景色も飽きただろうと、離れた。その離れ際に、またギルから頬にキスされた。そしてやっぱりはにかむ。

 でもそれほどまで愛されているのだと思ったら、嬉しくなる。

 ――いちから愛したい――

 ……愛……か。いつかの日の唇の感触を思いだして思わず手の甲で拭う。それ以上思いださないように頭も振る。

「……また明日」

「うん! またね。何回も言うけど無理してまで来なくていいからね!」

「話とかしたいならいくらでも聞くからあんまり考え込むなよ。またな」

 二人から手を振られて、振り返る。

 ――また明日――

 今度こそ、きちんと約束を守る。

 二人から見守られながら扉をくぐったら静かに鍵を閉めた。そして真っ暗な玄関で靴を脱ぐ。

 いつも通りの静けさ。でも今日は少しだけ温かい気がする。

 リビングの電気をつけたら、

「……ただいま」

 誰もいないはずなのに、そんな言葉がふいに出た。誰に向けたんだろうな。

 夕方頃にギルの家でケーキやおやつを食べたから、腹は空いていない。風呂だけ入って今日は寝よう。ろくに授業も受けていないのに、ずいぶんと疲れた。けどきっと、いい疲れ。

 そんないい疲れをしてしまったから、今日は久しぶりに浴槽に湯を張って入ろう。洗う必要があって面倒臭いが、今日くらいいいだろう。

 早速防寒具を外して、浴室の扉を開けた。けど思ったよりも寒くてすぐ閉める。やっぱり今日入るのはやめに……しては駄目、か。

 仕方なく浴室に暖房をつけて、浴槽を洗っていく。久々に湯を張るから、入浴剤なんてものを入れてもいいかもしれない。きっと貰い物がいくつかある。

 すっかり浴槽が綺麗になったら早速湯を張っていく。が、湯が張り終えるのは少し時間がかかる。その間に準備をしよう。

 持ち帰った荷物を二階に上げるついでに部屋に入った。そして荷物を勉強机に置こうとして思う。

「…………」

 こんなにも薬を飲んでいたんだな……。

 机の上には空になった錠剤シートが無造作に転がっていた。今になって気づくが、相当酷い生活をあの一週間していた。

 ゴミになった錠剤シートはゴミ箱に入れ、まだ残っているものは箱の中へ。

 睡眠薬の他に胃腸薬や頭痛薬も飲んでいたが、さほど効果をもたらさなかった。飲みすぎて耐性ができてしまったのなら面白い話だが、実際どうなのだか。

 綺麗になった机に荷物を置いて、貰ったプレゼントも出す。その中身も出してしまいそうになるが、先に風呂に入ろう。

 着替えの準備ができたら湯が張り終えるまでソファーに座って待つ。

「ふ……」

 今日はいつも以上に長い一日だった。でもその分幸せを貰った。

 湯が張り終えたら服を脱いで、寒い脱衣所から寒い浴槽へと移動する。そして浴室にある鏡に、なんとなく細くなった手足が映る。

 ずっとろくなもの食べていなかったからだろうな。水と栄養ゼリーしか胃に入れていなかった。けど一週間食べないだけでこんなにも細くなるものなのか?

 体を洗い終えたら、湯船に入ろうとするが思いだす。入浴剤を入れるんだった。けど入浴剤は洗面所の下の引き出しに入っている。

「…………」

 覚悟をしなければか。

 ふぅと息を吐いて浴室の扉を開けて、さっと入浴剤を取って、さっと扉を閉めた。体を洗ううちに温かくなっていたのに、あの一瞬でもう冷えた。

 けど今日は湯船があるんだ。

 少し口を緩ませながら、入浴剤の袋を開けてチャポンと浴槽に入れた。

 入れると水中でシュワシュワと出てくる泡で水面を揺らして、ほんのりウッド系のニオイがしてくる。いいニオイ……。

 まだ入浴剤が溶け切っていないが、早く温まりたい。足の先で湯の温度を確かめてからゆっくり浸かった。

 肩まで湯に浸かったら思わず溜息が出る。気持ちいい……。

 湯船は年に一度や二度しか入らないくらいだが、こんなに気持ちいいならもっと入ってもいいかもしれない。というより入りたい。

 ただ、浴槽を洗う手間があるのも確かだし、体質的に浸かる時間をほどほどにしておかないとのぼせてしばらく動けなくなってしまうのも確か。だから容易にできるものでもない。

「…………」

 今日、いろいろ話してしまったな。いろいろと言うほどでないかもしれないが。

 あんな伝え方で良かっただろうか。父親が帰ってきた、という表現もきっと総務や柊あたりが勘づいて聞いてくるかもしれない。

 いつか僕のことを言うべきなんだろうな。きっといつか言わなければならない日が来る。

 べつに隠しているつもりはない。ただ、それを伝えてなにか関係が変わってしまうのが嫌なんだ。理解してもらわなくてもいい。受け流したっていい。その事実を聞いて離れないでいてくれたら。

 思えばギルにも言っていない。父親から手を上げられていたことを。今回のことできっとギルのなかで思うことがあったはずだ。

 ギルは言わなくていいと言ってくれたが……。

「…………」

 水面に沈めて口を隠す。

 せめてギルだけには伝えたい。そしてずっと黙っていたことを謝りたい。

 ……そろそろ出るか。

 温まった体で脱衣所に体を出せば冷たい空気に触れる。だから浴室で体を拭いていった。冬場はこうでもしないとまともに服に着替えられない。

 脱衣所から出たらソファーに座って背もたれに体を預ける。その拍子に頭に掛けていたタオルが頭からずり落ちてしまった。

 ギルがいたら髪がどうのこうのと言ってタオルドライしてくれただろうな。どうも面倒臭いが、タオルドライしないでドライヤーの風を当てるほうが時間がかかるんだ。

 ……今も生きていたら、母さんもしてくれただろうか。

「…………」

 さすがにそれくらい自分でしろと言われるか。

 体を起こして髪にある水気をタオルに吸い込ませていく。

 半ば眠りながらドライヤーで髪を乾かしたらスマホを持って階段に向かう。が、喉が渇いて一杯だけ水を飲んだ。風呂上がりはどうも喉が渇く。それ以外はあんまり渇かないんだが。

 今度こそ階段を上がってベッドに体を預けた。眠たさのあまりしばらく枕に顔を埋めていた。

 寝る前はいつも勉強をしている。けど今日はいろいろあって眠たい。勉強をするべきだろうが眠たい。そんな答えが決まっている葛藤を頭の中でぐるぐるさせていた。

 もちろん寝る。

 体勢だけ整えて寝転ぶ。と、すぐ眠たくなってくる。

 もう寝てしまおうと電気を消そうとしたとき、部屋に一つの振動音が響いた。それは寝ようとしていた頭にはよく響いた。

 体を起こしてスマホを手に取る。画面を見るとギルからの電話。

「もしもし」

『あ、まだ起きてた。帰ってからお水飲んだ?』

 なぜ水分の補給をしたか確認するのかわからないが、

「飲んだ」

『ならよかった。ほら、今日れーくんいっぱい泣いちゃったから体の水分抜けちゃったでしょ? 飲んだならよかった』

「……用はそれだけか」

『うん、これだけー』

「……それなら眠たいからもう切ってもいいか」

『うん。あ、寝る前のお水飲んだ? それと歯磨きと、夜ごはんと、お風呂も!』

 順番バラバラだな。

「ああ」

『それと体温かくて寝るんだよ! それから――』

 電話を切った。

 悪いが、寝る前のギルの声はよく耳に響くんだ。眠気がなくなって勉強をする羽目になってしまう。

 ギルの心配症はありがたいが、時に異常だ。

 ギルに一言送ってから寝ようと、チャット画面を開いたらちょうどメッセージが送られてきた。

『なんで切ったの! あとおやすみって言おうと思ってたのにー!』

『おやすみ!』

 悪いこと、したな。それくらいなら僕だって言いたかった。

『そうか、ありがとう。おやすみ』

 また、幸せな気分だ。

 今度こそ電気を消して、猫のぬいぐるみを胸に引き寄せて抱きしめて目を瞑る。

 ……やっぱり夜になると寂しくなる。苦しくならない程度にぎゅっと抱きしめた。

「…………」

 どうしても土曜日にあったことをなかったことにはできない。静かになると思いだしてしまう。殺されそうになったこと、殺しそうになったこと、ケイを刺したこと。

 思えば顔を合わせてすぐ殴りかかってくるなんてことなかった。アルバムを見たあと、母さんと再婚相手の行方を聞いたあと暴れだした。

 なんで暴れだした……いや、元妻が死んでいると聞いて取り乱すのは納得いくが、なんで殴りかかってきたんだ……。

 いつもは仕事で嫌なことがあったらしいときや、母さんと会話していたりすると殴りかかってきた。憶測だが、僕が母さんと話しているのが嫌なのだろうと。

 そんなことは憶測で考えられるが、そもそもなんで手を上げるようになったんだ。

 始まったのは記憶が曖昧だが幼稚園の頃。初めのうちは僕が悪いことをしたかで大きい声で怒鳴ることがあって、次第にふとしたときに手を上げられたことが増えた。

 その頃はまだ自我があったのかすぐに謝ることがあったが、次第に謝られなくなり、手を上げる回数も増えた。

 仕事を転勤したのか家を出るのはばらつきがあり、いつも違う時間に家にいた。

 殴る理由は仕事のことがあったのは確かだが、それ以外はわからない。仕事に行く前に殴るときもあった。いまさら見当もつかない。……考えることもしたくない。

「…………」

 もう一つ気になることがある。

 なぜこの今になって帰ってきたのだろうか。

 母さんが離婚したのは確か小学五年。あれから五年ほど経っている。なぜいまさら……。

 確かにもともと父親の部屋だった場所にいくらか父親のものが残っていた。それを取りに来たのかもしれないが、こんな五年も経った今取りに来るか? 大事なものは出ていくときに全部持っていっているはずなのに。

 けどまあ、どれほど考えても当の本人は警察の世話になっているだろうし、なっていなくても顔を合わせて聞きたいことでもない。

 あんなの、どうでもいい。

 不快な気持ちになって少し後悔する。こんなこと考えなければ、ずっと温かい気持ちでいれただろうに、なにをしているんだか。

 もう寝てしまおう。

 ぬいぐるみを抱きなおして丸くなる。

 最後にもう一度だけ母さんの腕の中で寝たかった……というのはわがままか。


 四日後の休日。

 ずいぶん心も落ち着いて、学校も普通に行けるようになった。けどどうしても思いだしてしまうものはある。

 今日はやりたいことがあるんだ。そのために昼前には家事を全部終わらせていたんだ。

 そして昼食も今食べ終えた。食器洗いは……あとでしよう。

 水で浸すものは浸して階段を上がった。

 上がって僕の部屋には向かわず、階段の正面にある部屋に入る。母さんの部屋。

 年末に部屋を掃除した甲斐があったな。まさか未来でこんなことするとは思わなかった。そう、クローゼットからバイオリンを取り出す。

 カバーを見ただけで使っていた当時の記憶がぶわっとあふれてくる。母さんが弾く音は、本当に綺麗だった。

「…………」

 それももう聴けない、か……。

 カバーを開けて本体を見る。ずっと触っていなかった。

 緩めていた弓毛に張りを戻す。

 この前チューニングしたから音はズレていないはず。試しに弾こうと構えて音を鳴らす。

 この前合わせたはずなんだが、少し音が……。

 そんなことを思っていたら、

「……ん」

 インターホンが鳴った。誰だ。なにか荷物を頼んでいた憶えはないが。

 階段を下りる間にもう一度インターホンの音が聞こえて、急いで玄関の扉を開ける。

 と、

「あ、いた!」

「急にごめんな」

 ギルとケイがいた。

「……どうした」

「どうもないんだけどねー? 会いたくなっちゃって?」

 つい昨日も会っただろうに。

「……入る、か」

「うん、お邪魔じゃないなら」

 扉を大きく開けて入ることを促せば、ケイが扉を支えてくれた。玄関で渋滞が起きないようそそくさとリビングへ向かう。

 思えばギルがいるんだな。合鍵を使えばよかっただろうに、なんでインターホンなんかで。

 確かに初めはインターホンを鳴らすが、一回で出なければ合鍵を使って入ってくる。けど今回はせずにインターホンをもう一度鳴らした。

 二人に椅子を勧めて、飲み物を聞く。

「ギルはココアでいいか」

「うん!」

「ケイはコーヒー」

「あー、今日はミルクも適当にちょっとだけ入れてくれたら助かる。さっきもコーヒー飲んだからカフェイン摂りすぎる」

 カフェインのことを気にしたことには褒めてやる。冷蔵庫に入れてた牛乳をカップに移して温める。

 その間に聞いた。

「ギル、合鍵はどうした」

「え? あー、今日、朝からお出かけしててね、お出かけ先で敬助くんと会って、いろいろ話してたられーくんの家に行こーってなって来たの。れーくんの家に行くつもりなかったから合鍵は持ってきてなくて。なくしちゃ駄目な大事なものだから」

「そうか。それだけならいい」

 まさか合鍵をなくしたのかと思ったが、考えすぎたか。

 それにあのギルだ。そうそうなくさない。なくしたとしても嘘なんてつかずに言ってくる。

「お待たせ」

 二つのマグカップを持って食卓の前についたが、

「…………」

 どっちがどっちだこれ。

「あはは、色似てるもんね」

「俺はべつにココアでもいいけど、ギルくんコーヒーは」

「の、飲め……たらよかったんだけどねーあはは。あ、でも角砂糖いっぱい、十個くらい入れたらたぶん飲める!」

「糖分過多になるからそれは駄目だ」

 二人の了承を得て、片方のマグカップに口をつけて味見した。

「コーヒー……だと思う」

 牛乳を入れたから少し甘くなったんだ。たぶんコーヒーだと思うんだが……。

「ケイ、飲んでみてくれ。少しわからない」

「ココアとだろ? わかる気がするけど」

 ケイの前に味見したカップを置くと、すぐに味見してくれた。

「うん、コーヒー。けど多めに入れたんだな、こんなに甘いのって。砂糖は入れてないんだろ?」

「牛乳しか入れていない」

 ココアに色が似るくらい入れたのは確かか。

 余ったココアの入ったカップをギルの前に置いた。

 僕の分も用意しようかと思ったが、今はコーヒーもココアも気分ではない。他の温かい飲み物は白湯くらいしかない。べつにいいか。

「本当に用はないんだな」

「うんないよ。会いたかっただけだから」

「……そうか」

「ごめん、なにか予定あった?」

 不安そうにケイが顔を覗き込んでくる。

「大したものではないが……久しぶりに楽器を弾きたいと思ってな」

「楽器? ピアノとかの?」

「そういえば前そんな話してくれたよな。そっか、それを……」

 以前に話をした……? 憶えがない。いつのことだ。

「この前はチューニングできてないって断られたけど、今回は聴けそう?」

 チューニングできてないと断った……。あぁ、年末にケイに掃除を手伝ってもらったときのか。

「一応、この前チューニングはしたんだが、少し音が合っていなかった。聴かせるのならなおさら丁寧にチューニングさせてくれ」

 二人が飲み終わったら母さんの部屋まで付いてきた。見られながらしたいものではないが……。

 クローゼットに頭を突っ込んで、チューナーを探す。この前使ったからすぐに見つけるはず、なんだが……。

「れーくんそんな格好しちゃって、ぺたんってしてるお尻見せたいの?」

 そうもみもみと触られる。

「……触るな」

 顔を振り向かせると悪い顔をしたギルと、なぜか顔を赤くしてるケイが映る。

「ていうか、なに探してるの?」

「チューナーだ。音を合わせるのに使うもの」

「ふーん? じゃあ俺も探すー」

 そう狭いのに無理やりに隣で顔を突っ込まれる。……窮屈。

 けどここに入れた記憶しかないんだ。のんきにフリフリと振るギルの尻を見ながら思う。

 狭いが、もう一度顔を突っ込む。と、

「あ……あった」

「はやっ!」

「ギルに探してもらうまでもなかったな」

「これでチューニングができる」

「じゃあこれでれーくんのピアノとバイオリン弾く姿見れる! 動画撮って家宝にしよ!」

「するな」


 チューニングするからって部屋から追い出された。いや、追い出されてはないけど、見られながらしたいものじゃないって言われた。

 くつろいでてって言われたギルくんは悠々とソファーに座って背もたれにもたれてる。俺も隣に座った。

 テレビが正面にあるけどついてない。ただ真っ暗な画面で俺らの姿を反射してる。

「れーくん、元気そうでよかった」

「な」

「それに楽器弾こうなんて言っちゃって。見るのは中学の合唱コン以来かなー。れーくんかっこよくピアノ弾いてたんだよ?」

「この前アルバムで見た写真だろ? あれはかっこよかった、すごく」

「でしょ? また見たいけど、今日は生で見れるんだから我慢するもん」

 あれが生で見れるのか……。さぞかっこいいんだろうな。

 いまさらスマホの充電があるか確認する。大丈夫ある。

 チューニングってどれくらいかかるんだろ。もし手伝えることがあるなら手伝いたいって思ったけど、俺は楽器に詳しくないし、ヘンに触って壊しても怖いな。やめとこ。

「ギルくんは蓮が昔どんな習い事してたかって聞いた?」

「うん、知ってるよ。すごいよねあの数。俺じゃ絶対できないよ。まだ楽しそうなピアノとかならできそうだけど、塾とかの勉強は無理だなー。

 敬助くんはなにか習い事してた?」

「一応、小さい頃に柔道してた」

「柔道! かっこいいー! 技とかできるの?」

「今はもう無理だろうさ。中学上がるときに辞めたから。名残で体力作りは今もやってるけど」

「あーだから敬助くんあんなにマッチョなんだね」

 そこまでマッチョじゃないと思うんだけど。肩と腹を触って思う。多少デコボコがあるくらいで……。

 ギルくんにあちこち筋肉を触られて、気が済んだら座り直す。

 蓮も頑張れば俺くらいの体作れると思うんだけどな。

「俺も頑張ってそれくらいになりたいなー。でも俺背小さいからあんまりかっこよくならなさそう……。うーん、どうしたらかっこよくなれるかなー」

「ギルくんは顔がいいからヘアセットと軽いメンズメイクしたら余裕で人が集まってきそうだけどな」

 俺は体鍛えてる以外特に顔がいいってわけでもないし、背が高いだけでロン毛だし。

「えへへ、そんなことないよー」

 嬉しそう。

「でもヘアセットかぁ。俺人の髪セットするのはできるけど、自分だとよく見えないからできないんだよねー。軽くセットしたいときはアイロンでちょちょいってしたらできるんだけど、後ろのほうもするってなったら美容師さんかお母さんにしてもらわないとできなくて」

「アイロン扱える時点ですごいと思うけどな。家にはあるけど使わないし、セットする道具とかもないし」

「じゃあじゃあ俺セットしてもいい? ずっと、ずっとヘアセットしてみたいって思ってて!」

 眩しい。ギルくんの眼差しがあまりにも眩しい。

「べつにいいさ、好きにしてくれたら。傷んでるの多いと思うけど」

「やったー! じゃあ今ちょっと触ってもいい? この髪で三つ編みしたくって」

 返事はしてないけど、ソファーから立ち上がったら俺の後ろに回ってくる。そして結んでたゴムを取られて髪が広がって垂れる。

「敬助くんこっち見て」

 言われて振り向けば楽しそうな顔してるギルくんがいる。

「……ありがと、もういいよ。なんだか新鮮だね」

「いつも結んでるからな」

 ときどき引っかかりながら手ぐしで解かされて、落ち着く。陽気な鼻歌も聞こえだした。ギルくんは髪を触るのが好きなんだろうな。いや、髪自体が好きなのかも。

 ときどきぐいっと髪が後ろに引っ張られながらも、

「できた! いい感じ!」

 パシャパシャ写真が撮られる音がする。嬉しそうでなにより。

「敬助くん見てみて!」

 俺の隣に座ったらスマホ画面を見せつけてくる。そこには俺の後ろ姿が。

 髪は編み込みでおしゃれにされてる。

「すごいな、こんなのできるなんて」

「えへへそれほどでもー。たまにお母さんの髪触らせてくれるからそれで思いついたセットしてるんだー。お母さんに見せたらすごい喜んでくれて。あはは」

 ギルくんの母親には、何回か会ったことあったな。思えばあの人の髪は俺より少し長めで、そんでもってとても綺麗に手入れされてる。俺の髪と違って。ギルくんが好きそうな髪。

 俺も長いなりにヘアケアとかしてみようかな。

「今度俺の家に遊びに来てよ! いつでもヘアセットしてあげるんだから」

「それは楽しみだな」

 それからギルくんに髪をいじられ続けていたら、蓮がチューニングが終わったと顔を覗かせに来た。けどギルくんは集中しててか気づかない。

「……触らせてるのか」

「まあ。セットしてみたかったって、軽く今してるらしい」

「やっぱりギルは髪をいじるのが好きなんだろうな。僕も何度かいじられたことがあったが、そのどれもが楽しそうだった」

「好きなものを追求するのはいいだろうさ」

「わかっている。完成するまで待っていようか」

 

 ギルのヘアセットが終わるまでそう時間はかからなかった。完成したら嬉しそうな声で「できた!」とリビングに響かせた。

「よかったな、触らせてもらえて」

「わっ! れーくんいたんだ。気づかなかった。見て見てーいいでしょ」

「ああ。すごくおしゃれだ」

「えへへへへ」

 本当に嬉しそうにする。そんな顔されては褒めずにはいられない。

「触らせてくれてありがとね敬助くん。窮屈だったら外してもいいから」

「せっかくだしこのまま置いておくさ」

 ケイもよく似合っている。

「れーくん下りてきたってことはチューリツ終わったの?」

「チューリツじゃない。それを言うなら調律だ」

「一緒じゃん」

 小学校からやり直すか?

「でもこれでれーくんのかっこいい姿見れる! あ、いつもかっこいいんだけどね? 弾く姿はもっとかっこいいから」

 べつにそこに気を遣わなくてもよかったんだが。

 部屋に上がって調節されたピアノ椅子に座る。最後に触ったのが中学のときだったから、さほど上がらない椅子を調節するのは大変だった。

 胸が騒がしいなか、鍵盤に手を置く。が、

「……なにか弾いてほしいものはあるか」

「え? うーん、俺音楽わかんないから。なんかすごいの! いやでもれーくん弾くだけでもすごいからなに弾いてもすごくなるね!」

 言っている意味が少しわからないが。

「バッハとか、シューベルトとか、名前ならわかる」

「聞いてるのは曲だ。……あれにしようか」

 ドビュッシーのアラベスク第一番。

 ふぅ……と息を吐いて、座り直して鍵盤に手を置く。

 表現するのにてこずっていた曲。子犬のワルツほど難しくはないが、それでも必要な技術はある。

 心の準備ができたら、初めの一音を鳴らした。

 滑らかに、強弱を意識しながら……。調律されて綺麗な音が部屋に広がっていた。

 弾いている途中、ピアノからぐちゃっとした音が鳴った。……ミスった。譜面を頭が処理できなくなった。手が追いつかなかった。

 人前でミスをして、胸がざわつく。思わず止めた手は少し震えている。

「れーくん大丈夫だよ!」

「綺麗な音してた」

 きっとこのまま同じスピードで弾いてもまた同じことをする。

「……少しスピードを落とさせてくれ。久しぶりに触ったのにこの曲は合わなかった」

「全然いいよ! れーくんが楽しめるように弾いて!」

 立ち上がってクローゼットからメトロノームを出してくる。

 早歩きくらいの速さを、普通に歩く速さにする。試しに合わせながら弾いた。これくらいなら……。

 メトロノームを止めて、テンポを思いだしながらまた弾き始める。

「…………」

 やっぱり腕は落ちているし、この曲は特に表現するのが難しい……。

 二人の反応を見たいが、どうも長く目を離すまではできなくなってるらしくて、目が離れようとしない。徐々に思いだしていけたらいい。

 曲が終わって満足すると同時に、温かくなった体を知る。楽しかった。

 羽織を脱ごうと立ち上がったら横から拍手が聞こえる。

「すごかった! かっこよかった!」

「バッチリ」

 ケイがそう言う手にはスマホが握られている。

 まさか録画していたのか……。ヘンな音が鳴っていなければいいが。

 ベッドの隅に羽織を置いたらギルが勝手に畳んでくれる。

「すごくて感想文書けそう! れーくんのかっこよさを!」

 そっちか。書くなら曲の感想を書いてくれ。

「聞いたことなかったか」

「うん、俺はね」

「知らなかったけどすごく風景が浮かび上がってくる曲だった」

 知らなかったが。有名だとは思うんだが。

「他になにかあるか。知ってる曲のほうがいいだろ」

「……れーくんって耳コピってできるの?」

「ある程度ならできた。今はわからない」

「じゃあこの曲やってよ! アニメの曲なんだけどね」

 スマホをいじりだして、画面を見せてくる。けど聴きたいのは曲だ。スピーカーに耳を近づけた。

「敬助くんも知ってる曲だよ」

「……俺アニメあんまり見ないけどな。知ってる曲?」

 ケイも耳を近づけてくる。

 アニメというからもっとロックな曲だと思ったが……これはオルゴールみたいな曲だ。聞いてて心地よくなる。

 二番に入ったあたりから思いだす。普通に聴きほれてしまってた。初めから戻した。

「俺これわかる」

「でしょ! いいよね、あのアニメ。

 ストーリーもいいし絵もすごく綺麗で、オープニングもエンディングもすっごく良くて! たまたまテレビで流れてたの見ただけなんだけど、ハマっちゃって。途中からしか見てなかったから、アニメ見れる有料アプリまで入れて初めから観たんだー」

 ギルがそこまで熱く語るほどなんだろうな、このアニメは。

 耳コピするにしては歌う声少し邪魔だが、歌声だけで聴けば悪くない。綺麗な声をして、優しい声。……聴きたいのは曲のほうなんだが。

 ある程度わかったらギルにスマホを返して椅子に座る。忘れないうちに弾こう。

 頭に残るあの楽曲を思いだしながら、鍵盤を押し始める。

 あの曲はオルゴールみたいだった。だからもう少し滑らかに優しく、誰かを包むようなそんな音色で……。

 本当にいい曲だ。

 ……けどここで上がるのか。

 弾き終わったあと、相変わらず拍手と歓声が聞こえる。

「すっごい! まんまだった! 耳コピできるのほんとすごいね!」

「な。むしろ本家より良かったかも」

「あはは。確かにれーくんかっこいいし」

 意味がわからないが……。

 そんな歓声を聞きながらも僕は少し頭を動かす。アニメを見ていないからなぜあそこで上がったのかわからない。でもあのまま上がらずに、少しだけ強くするだけでもよかったと思うんだ。

 場所は転調前のDメロ。それの少し前から曲を思いだしながら弾く。

 二番のサビ……Cメロの最後は少し悲しさを覚えるような感じ……。

「あれ、また弾くの? でもなんでそんな途中から?」

 落ち着いたところだからギルの声が聞こえる。

 Dメロに入った。本家はここで上がった。けど、曲調は変えずに、少しだけ……少しだけでいいんだ。強くさせて、そのあとまた落とす。

 そしてラスサビ。転調はさせて、今までのサビの感じも残したまま、上げすぎず、下げすぎず、誰かに手を差し伸ばすように……。

 そうか、この曲……本家はこのアレンジとは違って手を差し伸ばされる曲だったんだ。だからあそこで上がって、希望の色を見せたんだ。……けど僕はその感じを聞いて、胸のあたりがモヤッとした。

 希望の色なんて、見たことなかったから。

 弾き終わったあと、今度は拍手も歓声もなかった。ただいつも以上の静寂が聞こえるだけだった。

 静かな二人は……アレンジしたことに怒っているだろうか。

 顔を向けるとぽかんとしていた。

「……勝手にアレンジをして悪かった。そのアニメは最後、主人公に救いの手が伸ばされるんじゃないか」

 それを言ったら二人が見合わせて、さらに目を丸くさせる。

「……そこまで酷かったか」

「あ、ううん。……全然そんなことないよ。ただ……ほんとにすごくて」

「そう。なんていうか、アレンジは本家と違って、こうぐって心に響くような音だった。本家の感じは残ったままそれが表現されてて、ほんとすごくて」

「それにアニメの最後もれーくんが言った通りなんだ。れーくんアニメ見てないでしょ? でも当てちゃって、なんで当てれたのってびっくりしちゃって」

 怒ってないならよかった。

「なんでわかったの? もしかしてほんとは見てた?」

「見ていない。ただ……そんな感じがしただけ。アレンジは弾いてたときに思ったことをそのまま弾いただけ。こっちのほうがいいと思った理由を探ったら、そうなのかと思ってな」

 少しの空白な時間があったあと、

「……蓮ってもしかしてだけど、今異次元にいる?」

「……は?」

 思わずもれた。

「いや、曲だけでラスト当てるとか意味わかんなすぎて……」

 そうだろうか。曲を聞いて作者の気持ちを考えるというのはやっていたから、そこまですごいものでもないんだがな。

 しばらく二人の余韻に浸るのに付き合っていたが、飽きて思いついた曲を弾いていた。

 ずっとあの曲が頭に残って、再構成されたものがいくつも出てくる。あの曲がすごく気に入ったわけではないはず。でもあの曲を僕の色に変えたい。

 オルゴール調は変えずに、全体敵にもう少し強く、けど柔らかくさせたAメロ。底に落ちきった苦しさのBメロ。這い上がろうとしても駄目なCメロに、希望だった色は黒く染まって、ただ呼吸だけをするようなDメロ。少しの希望が見えた、でもやっぱりそれは黒色で、自分で立ち上がるしかない。だからもう少しだけ強くさせたAメロに似た音を入れてラスサビを……曲を終わらせる。

「…………」

 この曲は……僕が感じたものをそのまま……。あの終わり方は……。

 拍手が聞こえてハッとする。

「なんかすっごくすごかった!」

「さっき弾いてたのとはちょっと違ったけど、またアレンジ?」

「……アレンジだろうか。オルゴール調は変えなかったが、それ以外はほとんど書き換えた」

「へえ? 書き換えか。……え? じゃあそれって」

「アレンジじゃなくてもうれーくんの曲じゃん! すごい! 曲作れるんだね! 名前はなににする? 『俺の愛しのれーくん』って名前にしない?」

「しない。曲名もつけない。売るわけでもないんだ」

 それにしてもあの終わり方……なんであんな終わり方をしたんだ。普通なら今までのサビの形のまま少しだけ変える。けどあれはAメロを少し変えただけだ。

 Aメロのままなら、あれは終わってなんかない。また始まりを作った……? なんでまた始まらせたんだ……。

 頭のなかでぐるぐると思考が巡る。答えが見つかったようで見つからなくてモヤモヤする……。

 それでも忘れないように思いだしながら五線譜にシャーペンを走らせて、弾きながら上書きして、気づく。

 ギルたちのいたほうへ顔を向けると、どうぞ続けてくださいとでも言いたげな手を出してくる。待たせたてはいけない。少しだけメモしてシャーペンを置いた。

「悪い。続きをしようか」

「あれ、終わっちゃったの? まだしててもよかったのに」

「むしろしてほしかったな。顔が凛々しくて」

「れーくんと長くいるけどそんな真剣に五線譜見てるの見たことなくて、なんだかドキドキしちゃった。俺の知らないれーくんいっぱい写真に収めたんだから」

 ギルの前でこう五線譜と向き合うところを見せることはしなかったからな。家に上がらせることもなければ、学校の授業でそんなレベルの高いこともさせない。

 いい機会だ。あの曲をもう少し練って、満足のいく形に仕上げよう。今年の目標だ。

 次はなにを弾いてほしいのか聞けば、ピアノじゃなくてバイオリンを弾いてほしいと。バイオリンもきちんとチューニングしている。

 床に寝かせていたバイオリンをカバーから出す。が、先に譜面台をクローゼットから引っ張り出してきた。一緒に、バイオリンを弾くときに絶対弾く曲の楽譜も癖で出した。が、きっと見ずとも弾ける。この前も弾いた。

 譜面の間に白い封筒が挟まってないかだけ確認した。

 一応譜面台に立てかけるだけ立てかけて、バイオリンを持って構える。

「すごい……! 本物だ……!」

 なぜか小さな声で言うギル。

「……弾いてみるか」

「だ、駄目だよ! 俺弾いたら壊しちゃうよ!」

 そう簡単には壊れないと思うが。

「先に一つだけ弾かせてくれ」

 目を瞑って、あの音を思いだす。母さんが弾いてたときに聞いた綺麗な音。心を惹かれたあの音を、僕はいつまでも出せなかった。きっと今日も無理だ。

 バッハベルのカノン。

 弾き始めから思っていたが……やっぱり音が汚い。耳障りのする音。腕が落ちているのもあるだろうが、さすがに酷い。

 途中でやめたくなったが、二人が楽しそうに聞いてくれているから我慢した。……本当に酷い。

 音に満足できないまま、曲が終わってしまった。本当に耳障りだった。この前弾いたときはそんなことなかった……。いや、久しぶりにバイオリンの音を聴いたから綺麗に感じただけか。

 満足しない顔を作ったままでいても、二人からの拍手が聞こえる。触ってなかった分、もっと練習しなければ。

「弾いてくれた曲俺知ってた!」

「あれは有名だよな」

「昔から好きな曲だ。……けど本当に酷い音だった」

「え、そう? すっごく綺麗な音だったよ?」

「僕からしたら酷かったんだ」

 曲のリクエストはなかったから、楽譜の入ったファイルを全部取り出して、曲名だけ見て弾きたい曲を次から次へと弾いていった。けど、そのどれもが汚い音しか出ずに、弾けば弾くほど腹が立つばかりだった。

 途中で弾くのをやめて、初めから弾いても変わらない。

「くそ……」

 そんな様子を見てか、弾いてる途中でもギルが声を出した。

「れーくん。……ごめんね弾いてる途中に。でも、ちょっと休憩しよ! れーくん……楽しそうじゃない」

 楽しそうじゃ、ない……。

「……そうだな」

 そうだ、楽器は楽しんで弾くものだ。楽しまずに弾く場面もあるかもしれないが、少なくとも今は楽しんで弾くときのはずだ。

 それができないのなら今はやめるべきときだ。

 一度息を吐いて肩を落とす。休憩しよう。

 バイオリンをカバーの中に寝かせて、床に座り込む。……なんだか一気に疲れてきたな。

「それにしても、あんなにかっこいい姿なのにモテないほうがおかしい」

「敬助くん違うんだよ、れーくんはモテてるけど、れーくんが嫌がるからいつまでも彼女できないんだよ? あんなかっこいいの見せたらもっとモテると思うけど、れーくんが嫌だからって。

 そんなこと言っても中学の合唱コンでピアノ任されてたけどね。あはは。それで初めてれーくんのピアノと合わせた授業が終わったあと、女の子がれーくんの周りに集まっちゃって。あはは」

 あのときはミスをしないかと肩を上がらせながら弾いていて疲れていたのに、終わったあとさらに疲れそうになったからギルを連れてトイレまで逃げた。本当に勘弁してほしかった。

 あれ以来学校でピアノやバイオリンを弾けるということを隠しているから、あのときほど酷いことにはなっていない。

「れーくん顔もかっこいいから、モテモテなのに。ほんともったいないよねー」

「……まあ、蓮がヘンに関係作りたくないならそれでいいんじゃない?」

「そんなこと言うけど敬助くんもかっこいいじゃん! 彼女とか作らないの?」

「作りたくないかな。ほら、もし外したらいろいろ面倒だろ?」

「うーん、確かに?」

「ギルくんは作りたいとかないんだ?」

「うん、女の子まだちょっと怖いから。それに俺はれーくんがいたらそれでいいし!」

 類は友を呼ぶというが、こういうことなのか?

 ケイもギルも、容姿が酷いというわけではない。自ら作らないだけで。二人にそういう意欲が湧けばあっという間に恋人を作っていそうだ。……二人はどんな人が好みなんだろうな。

 僕やギルが満足するまでバイオリンを弾いたあと、ケースに入れて蓋を閉めた。

 これで演奏会は終わりといったところか。

 バイオリンや譜面台をクローゼットに直していたとき、ギルがクローゼットを覗きに来た。下着が丸出し、なんてことがないかだけ確認する。

「……服も置いたままなんだね」

「……なんとなくな」

 母さんが帰ってくる。そんな期待をどこかで抱えているのかもしれない。帰ってくることなんてないはずなのに。

「あれ、それって……?」

 指差すのはカバーの掛かったクラシックギター。

「父親が使っていたものだ。クラシックギター。あいにく僕は弾けない」

「……ふーん。クラシックギターって音楽でやったやつだよね? アコースティクってやつ」

「そうだな」

「……俺ちょっとだけ弾いてみてもいい……? 俺あの音ちょっと好き」

 ギルが音について口出しするなんて珍しい。クラシックギター、もといアコースティックギターはエレキギターとは違った音を出して、僕もどちらかといえばアコースティックギターのほうが好きだ。

 ギターを取り出してカバーから出す。が、ギターは弾かないと思ってチューニングをしていない。ピアノの蓋を開けて、緩い弦に張りを戻していく。

「……これでいけるはずだ。ピックはいるか」

「ううん。大丈夫」

 少し嬉しそうに、照れくさそうに口を緩ませながらスマホをいじってピアノに立てかける。

「座りたければピアノ椅子に座ればいい」

 僕はベッドに、ケイの隣に腰掛ける。他者の演奏する姿なんて、見ものだ。どんな姿を見せてくれるのか。

 ピアノ椅子に座り込んで足を組んで構える。隣ではケイがスマホを構えていた。

「えっ……と」

 手が少し震えている。僕は慣れていたが、人前でしたことがなければ緊張もするか。

 僕はギルを呼んだ。顔を上げたのを確認して、

「ここには僕らしかいない。間違えてもいい。自分が楽しみたいと思う気持ちで、気ままに弾け」

「……うん!」

 少し顔が柔らかくなった。

 左手で弦を押さえたのを確認したら、右手で弦をなぞる。そして初めの一音が鳴った。

 ……これは、さっき弾いたアニメの曲か。確かにあの曲にクラシックギターもよく合うだろうな。柔らかい音が特に。

 テンポは少しゆっくり。でも音の柔らかさや、曲の特徴は残ったままだ。綺麗な音。思わず目を瞑って、音だけで出てくる映像に浸る。

 前奏が終わった。と思えば、ギルの声が聞こえてくる。か細く、自信なさげに。でもいつも以上に優しく柔らかい声で。

「語り弾き……」

 ケイが口にする。

 思わず口が緩む。こんなことができるなんて、ずっと黙ってたんだな。

 語り弾きは最後までは弾かず、一番のサビが終わると同時に音が止んだ。それを合図に僕は手を合わせて音を鳴らす。

「綺麗な音だった。歌声も」

「……えへへへ」

 照れくさそうに口をぐにゃっと曲げて頭をかく。本当に、こんなことができるなんて知らなかったな。

「お父さんが持ってたから、音楽でギターの授業が終わったあとちょっと貸してもらって弾いてたんだ……。あの曲弾けたらいいなって、思って……」

 感想を述べ終わったらそそくさとギターを僕に渡してきた。ついでかのように胸に顔を埋める。相当恥ずかしがっている。

「もう弾かないか」

「うん……もうい……」

 頭をぽんぽんと撫でる。ギターも後ろの空いているところに寝かせた。そうしたら顔の埋める場所が増えたとばかりに脚に尻を載せて胸の中に縮こまる。それに応えてギルの背中に腕を回した。

 隣で微笑む音が聞こえたから振り向くと、ケイと目が合う。僕も思わずこの現状に笑みをもらす。

 昔よりずいぶんと成長したギルだが、まだほんの少し昔のギルが残っている。けどそんなにすぐに成長を続けていても疲れるだけだ。少しくらい、サボってもいい。

「早咲きの蓮華は地面咲いた」の十一作目、そして最後のお話になる「早くに咲いた蓮華は春を知る」を投稿しました。

 最後の話、といっても本作と次のお話の「過ぎた優しさに希望はなくても」は二つで一つと思っているので、まだもう一つお話が続きます。

 最後にあたるお話、それに蓮にとって大切な日の大切なお話なのでいつも以上に力を入れました。

 痛くて重たくて、でも優しくて温かくて、そんな大切なお話になっていればと思います。


 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 最終話の「過ぎた優しさに希望はなくても」に話が続きます。ぜひ続けてお読みください。

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