交差する言葉 1日目
十一月の上旬の修学旅行当日。一日目の行きの新幹線。
昨日は準備のせいで遅くに寝た。いや、準備は数日前にはしていたんだ。
最終確認で荷物を見ていたが、どうもレインコートが入っていなかった。無駄な出費は避けたかったから家中探したがなかった。その時点で十一時半を回っていた。
仕方なくコンビニに買いに行った。だが、帰りに警察に止められ、補導された。
「君こんな時間にどこ行くの? 高校生でしょ?」
そのとき、制服のまま出かけたから高校生だと問われたのだろう。
「今から家に……。修学旅行に必要なものを買い忘れていてさっきコンビニで」
手に持っていたレインコートを見せた。
「家どこらへんかな。 親御さんは?」
一気に質問するな、と思いつつも早く帰らせてもらいたいので素直に答える。
「すぐ近くのところに住んでます。親はまだ仕事で、帰ってないです」
「そっか。一応所持品見せてくれる?」
ポケットから探り出したものを見せた。正直、ハンカチと財布、スマホと鍵、マルチツールくらいしか入っていない。
「これ、なんで持ってるの? 学生には必要ないんじゃない?」
そう問われたのはマルチツールだった。僕も初めは見せるのを拒んだが、隠しているのをバレたら面倒そうだったから素直に見せた。
「……これは親から護身用にと持たされてます。僕、一人っ子で心配なようで。実際使ったことはないんですが、お守りとしても持ち歩いてます」
即興で作ったお話だが。
「護身用ね。財布の中身見てもいいかな」
特に見られてまずいものなどないので許可した。それより学生一人にこんなに時間を使っていいのか? 町を守る偉い人よ。
「新藤蓮くんって言うんだね。良い名前だね。……うん、学生証もあるし。もういいよ。ありがとう。
でもこんな夜に出歩いたら危ないから、買い物は明るいうちにね。それか帰ってきてから親御さんに頼むとかしてね。じゃあ、気をつけて帰ってね」
というわけで家に着いたのが十二時前。よくも貴重な時間を奪ってくれたな。……なんてことは一瞬思ったが、実際警察のおかげで町は守られている面もある。感謝は必要だ。
だが、この二つの厄介事で時間が潰れたのは確かだ。けど時間を戻すことはできない。諦めてレインコートを修学旅行に持っていく鞄、リュックに入れ、風呂に入りベッドについた。
寝る前に確認したギルのチャットからは、いつもより長い文で修学旅行へ行くことについて楽しみだということが語られていた。僕は長文に対し、短文で「そうか、よかったな」と一言返信した。
僕も今回は楽しかったと言える修学旅行でありたいとは思う。
今晩の復習は修学旅行に帰ってからする。夜遅くまで起きるのは避けたい。アラームをかけているから寝過ごすことはないだろうが、念には念をだ。スマホの画面を消し、早々に目を瞑った。
……だが、いつもより早く寝た行為に意味を成さなかった。なぜか三時過ぎくらいに目が覚めた。すぐに目を瞑って寝ようとしたが、なぜか脳は覚醒していくばかりで、ついには眠れなくなった。
仕方なく起きることにして復習を無理のない程度にした。脳は完全に動き始めて気づけば窓から光が微かに入るほどだった。
朝を迎えたとわかれば早めの朝食を取って準備をし、時間があったので軽く部屋の掃除をした。
そしてその行動が新幹線に乗っている今になって影響し始めた。すごく眠い。暇つぶしに眺めていた修学旅行のしおりに書かれている旅館での部屋割りの文字が、掠れて見える。
「なあこの班だけ方言で喋ろうぜ」
下条がギルの後ろの席から顔を覗かせながら言った。座れ。
この新幹線は二つずつ椅子が向かい合って座る形になっていて、班で固まって座るよう設定付けられている。僕の右隣に窓の外を見ているケイ。前にはギル。その隣に総務。ギルの後ろに下条。その横に柊が座っている。
「それいいね。面白そう」
さっきの下条の言葉に総務がそう答える。
「京都はおいでやすーで、大阪は確かなんでやねーんだよな!」
「伸ばし棒は要らないんじゃない? なんでやねんじゃない?」
総務が言うが、僕から聞くとなにも変わっていない気がする。
「な、なんでやねん、違うやろ……! 大阪人はあんま……な、なんでやねんとか言わな……言わんねんで……! し、知らんけど」
ギルがそれこそカタコトだが照れながら言った。二名からの歓声を浴びる。
「ギルすげー!」
「英川くん本当に大阪人みたいだね」
「あはは。違うよー。でもちょっと勉強してきたんだ。だいたい後ろに『やねん』とか、『へん』とか付けて、語尾を上から下したらそれっぽくなるよ。京都の方言はちょっと時間なかったんだけど、大阪と同じようなところあったよ」
ヘンなことに頭を使うなら勉学に使ってほしいものだ。
「じゃあ、こうなるのか? 例えば……俺は下条真也やねん」
「たぶん。そんな感じじゃない? ……ちょっと調べてみる」
ギルがスマホを取り出していじり始めた。ギルがいじる中、下条と総務は会話を続ける。
「他にもなんか作ってみようぜ。例えば、今敬助はどこ見てるねん!」
「そこ、見てんねんのほうが良くない?」
「確かにそうかもしれへん」
「意識した?」
「した」
「あ、出てきた」
ギルが調べ終わったようだ。お構いなしに会話を遮って口を開けた。
「まるまる『やねん』はなんだーで、まるまる『やん』はじゃんみたいな。まるまる『ねん』はだよーみたいな感じだって。
他にも語尾がどうとかじゃなくて、単語自体が違うものもあるみたい。例えば『めっちゃ』がとてもとかすごくで、『あかん』は駄目とか良くないとか。……あ、これ面白い。『かんにん』はごめんなさい。『なんぼ』はいくら。ほらお金払うときにいくらって聞くときとかね。あと『なおす』は壊れたものを直すっていうのと、もとの位置に戻すっていうのだったり、新品のものを『さら』とかいうらしいよ。他にもたくさんあるよ」
ギルは全体が見えるようにスマホを寝かせた。僕は興味がないので覗くことはしない。
「へー。方言ってすごいなー」
「面白いけど慣れるまで使わないほうがよさそうだね。ヘンな意味で使っちゃうかもしれないし」
「……あー確かに」
「ギル、ちょっとスマホ貸してー」
下条が背もたれから身を乗り出してギルに頼む。ギルは上に手を伸ばし、下条がそれを受け取った。だが、そのとき下条に気づいた先生が注意する。
「下条座れー」
「あ、はーい」
下条の姿が下に消えた。
「方言ってなんであるんだろうね。仮名文字が使われた頃から、方言みたいに違う言い方があったのかな」
「……カナ……モジ?」
ギルが理解していなさそうに顔をポカンとさせる。確かに気になる。いつからなんだろう。
下条が僕の思考を遮って後ろの席から顔を覗かせながら口を開けた。
「俺は下条真也ってゆうねん! 高校二年や! えっと、好きなことはゲームすることや! このゲームなんぼするん? え、五十万? そりゃ高すぎるわ! かんにんやけどもうちょい下げてぇや!」
「おおー」
「真也くんすごい!」
二名からの歓声を浴びる。
「へっへ、すごいだろ! そのうち大阪人と間違われるようになる!」
「じゃあ下条くんだけ大阪いるとき、大阪弁で喋ってね」
総務がニコニコしながら言う。意外と面白いことを言うんだな。
「おうよ!」
いいのか。
「大阪人ってボケもツッコミもうまいんだよ?」
ギルがニコニコしながら言うが、べつに大阪人だからといってボケとツッコミがうまいわけではないと思うんだが。
「も、もちろん言えるし? じゃあなんか言ってみろよ」
「んーじゃあ……この電車すごく速いよね」
「そうだなー」
「……この電車ってどこ行き?」
「京都」
「…………」
「……ってなんで知らんねん!」
「…………」
「…………」
風が吹いたような気がした。気がしただけだ。そう、気がしただけ……。
「……なんかごめん」
「いや、俺の題振りが悪すぎたんだよ」
「いや、これは大阪人が悪い」
大阪人は悪くない。スベった下条が悪いんだ。
「そうだね。大阪人が悪い」
だから悪くない。ツッコミにくいこと言ったギルも少しは悪いんだぞ。
「はぁ……」
気づかれないほどの溜息を吐いて、持っていたしおりをリュックに入れて席を立った。
「あれ。れーくんどこ行くの?」
「トイレ」
目覚ましついででもある。
席に戻れば、なにか話している。僕の席をケイに座られて。
「新藤くんもかわいいところあるんだね」
「れーくん昔からクールキャラ貫いてたからね」
なにがクールキャラだ。これが普通だ。
「蓮は昔から変わってない」
聞いているのはギルと総務くらいだ。下条は再び注意されたのか、顔を覗かせていない。
「なんの話をしているのかは知らないが、どくんだケイ」
「せっかく席を温めてやってたのになんだその言い方は」
なにが温めていただ。豊臣秀吉か。
ケイをどかして席に座った。少しばかり温もりを感じる。
一度体を動かしたからか、かなり目が覚めた。リュックから本を取り出して読み始めた。
『もうこんな時間……。今日はもう寝よっかな』
が、こんな文章が出てくる。読むのをやめて、ケイの肩を軽く叩いた。耳を近づけるよう手を動かす。
「今日は寝てきたのか」
「急だな。……寝てない……な」
「なら今のうちに寝ておけ。京都まであと二時間ほどある。眠気で楽しめなくても知らないぞ」
「……わかった」
そう言えばリュックからアイマスクを取り出して着けた。ケイらしい。修学旅行まで持ってくるとは。
それ以来誰も口を開くことはなかった。僕は本を開き、続きを読み始めた。
二章を読み終えた頃、一度読むのをやめる。酔い止めがあまり効いてないのか、本を読んだからか、少し気分が悪くなってきた。
一度あたりを見渡す。ケイは僕の右肩に頭を預けているが、アイマスクをしているから本当に寝ているのかは定かではない。ギルはスマホをいじり、総務は首をコクコク動かしていた。どうやら総務も眠たいようだ。
胸の不快感のあまり、胸を軽くさすっていればギルが覗き込むように視界の上から入り込んできた。目の前にしゃがんでいる。
「れーくん大丈夫?」
「……あぁ。……少し気分が悪くなっただけだ。そのうち治まる」
「……そう? 窓際の席かわっ……て」
そう、窓際の席はどちらも寝ている。今のギルはどちらかを起こして代わってもらうよう言うか、迷っている頃だろう。
そんな気遣いは必要ない、と口を開けようとしたとき右肩が軽くなった。どうやらケイが起きたらしい。アイマスクを外して言う。
「蓮、席替わる」
さっきまで寝ていた奴が言えることではない。きっと今まで起きていたのだろう。頭だけ預けて。
ケイが立ち上がって、僕をさっきまで自分が座っていた席に座らせる。体の負担的にも抵抗することはできなかった。
「……ありがとう。ギルも座れ」
「うん」
酔い止めを飲もうとリュックから探って取り出した。酔い止めの箱を開けて薬を一錠を口に入れる。これは口の中で溶けるもので水がなくても飲め、酔ってからでも効くらしい有能な薬だ。愛用している。
そのあとも窓の外を眺めていれば少し落ち着いてきた。さっきから心配そうにこちらを見てくるギルにそのことを言えば、安心したような顔になる。
「蓮、また酔うかもしれないから寝ておけよ。俺のアイマスク貸すから。俺は十分寝た」
寝ていないくせして。
渡されたアイマスクを着けて背もたれに頭を預けた。こうしているだけでもかなり楽だ。言う通り寝ておくか。
今朝というよりは深夜から起きてしまったせいか、頭の中を空っぽにしていればすぐに眠りに入った。
「――きてー。れーくーん、けーすけくーん」
「んん……」
目に着けていたアイマスクを外す。
「あ、れーくん起きた」
ギルが起こしてくれたようだ。総務の姿はない。ケイは隣で目を瞑っている。今回は本当の睡眠らしい。
「あとちょっとで着くから総務さんが起こしておいてーって」
「そうか、ありがとう」
「敬助くん爆睡なんだよね」
数日間寝ていないときの反応に近いんだ。仕方ない。
「ケイ、起きろ」
「…………」
「あはは、無反応だね」
肩を揺らしてみれば、素直に起きた。
「…………」
が、すぐに僕の肩に頭を乗せて寝ようとするから、肩を動かした。これにはさすがに起きた。
「もうすぐ着くから起きておけ。十分に寝れたか」
目を覚ましたかの確認ついでに、覗き込みながら聞いた。
「……あぁ」
「二人とも起きてるね」
総務が通路から出てきた。どうやらトイレにでも立っていたらしい。
「このあと動くから、トイレ行くなら今のうちだよ。影島くんとか大丈夫? 英川くんも」
「我慢はできる」
「違うだろ。我慢するなら先に行って来い」
「あはは、敬助くん一緒に行こー」
ギルがケイの手を引いてトイレまで向かってくれた。
もう京都に着くのか、着いたのか。外の地に着いていないから違う場所にいるという感覚はない。だが、窓の外から見える景色はいつもと雰囲気が違うのだけはわかる。
未知の世界……。
「ふふっ、新藤くん楽しそうだね」
「……そうかもな。鉄の檻から出るのが楽しみだ」
「僕も」
もうすぐ着くとの先生の連絡があり、出る準備をしておけと言われた。僕は自分の席に戻り、本をリュックの中に入れる。
それと下条にここの四人のボストンバッグをこちらに送ってくるよう言った。下条と柊の向かいの席は空席だから、荷物置きに使わせてもらっていた。
少ししてギルたちが帰ってきたので、出る準備をしておけと伝えた。
間もなくして目的地に着き、荷物を持ってホームに出、点呼確認後に旅館へと向かった。もちろん無駄な荷物を置いていくために。さすがにこの重い荷物を持ちながら清水寺を参拝したいとは思わない。
旅館まで十五分ほど歩かされた気がする。もうかなり疲れた。僕らが使う部屋まで行って荷物を適当に降ろしたあと、壁を伝いながら崩れるようにしてしゃがみ込んだ。
「……疲れた……」
「あはは、れーくんお疲れー」
「……もう動く体力ない」
「そのときは俺が担いで行ってあげる」
「路上に捨てられそうだ。遠慮する」
「あはは、そんなことしないよ!」
部屋割りは活動班と同じだ。つまり、一つの活動班兼生活班に、一つの部屋が貸されている。
部屋は修学旅行の旅館にしてはかなり広くて、畳敷きだ。奥には広縁があり、外につながる窓が開けられるようになっている。なお、先生がその窓開けることを許可しているとは言っていない。押し入れに敷き布団等の就寝具が入っており、部屋の中心には少し長めの机と、人数分の座椅子が置いてある。
「この旅館すげー広かったよな!」
下条が誰に問うこともなくそう言う。確かに広かった……気がする。旅館のロビーに着いた頃には周りを見るほどの体力は残っていなかった。
「だよね、広かった。お風呂場とか広そう」
ギルが反応し、返答をする。
「露天風呂とかもありそうだったしなー」
露天風呂か……。銭湯というものが久しぶりだ。温泉や銭湯は好きだが、最近行けていない。また行こう。今度もギルは付いてくるだろう。
「荷物の準備できたら一階のロビーに集合だから、準備してね」
総務は班長だ。きちんと役目を果たしている。
僕は事前に準備をしていた。一番初めにリュックを背負って移動するのは、この清水寺の参拝だ。……一応しおりにも準備するようにとは書いていた。
それぞれ準備ができたらリュックを持って一階のロビーまで移動する。もちろんエレベーターなんてものは使えない。階段で下りた。
「あぁ……」
「あはっ。れーくん、疲れすぎてもう喋らなくなっちゃった」
「なんでこの班は七階なんて上に位置づけられたんだ……」
「男子の部屋はみんな七階以上だよ。それかれーくんだけ女子が使ってる下の階使う?」
「……遠慮しておく」
ロビーに着くなり班で並んで待つ。先生の軽い説明のあと、清水寺へ貸し切りバスに乗って向かった。
「よーし! こっから班で自由行動だー!」
近くで昼食を取ったあと、各クラス集合写真を撮り、班で集まり自由行動になる。ギルは初めに僕を見つけ、生徒の波に流されないようにか腕をがっしり掴まれている。
いつの間にかカーディガンも脱いで腰に巻いている。歩いて暑くなったのだろう。思えば旅館に着いたときには腰にあったかもしれない。僕はまだまだ寒い。
「早く集まらないかなー。れーくんの班はここだよーって言いたいけどちょっと恥ずかしいや。れーくん言って」
「誰が言うか」
「あはは。やっぱり?」
「あとは下条と垣谷と」
「わっ!」
いつの間にかケイが僕の後ろを陣取っていた。まあ、ケイは僕よりも背が高いからすぐに見つけられたのだろう。いることには気づかなかったが。
「びっくりした……気づかなかった。敬助くん背高いから見つけやすそうでいいなー。俺も背高くなりたーい」
僕の肩を掴みながら背伸びをして生徒の群衆を見る。顔の角度を変えずとも、ギルの顔を見ることができるのはなんだか新鮮だ。……それにしても、やはりギルの瞳の色は綺麗だ。
ギルの横顔を、瞳を見ていれば、視線を感じたのか僕のほうを向いた。綺麗な瞳を真正面から見れる。
「……なんか視線感じたんだけど」
「いや。やはりギルの瞳は綺麗だなと思って」
「……今も思ってるんだ。初めて会った時も言ってくれたよね。……あんまり好きじゃないけどそう言ってもらえるのは嬉しいな……」
日本語を喋る者からしたら、日本人には似合わない容姿でいるのは嫌なのだろう。だが、ギルにはもっと自分を好んでほしい。ギルは綺麗な色を持っているのだから。
少しの間待っていると、見つける。草むらに野良猫を。
「…………」
しゃがみ込んで目線を合わせる。警戒しているのか今にでも走りだしそうだ。
「蓮? どうした」
「……いや」
「腹でも痛い?」
ケイが隣でザッと靴音を立てたことで猫が走り出していってしまった。
「猫? こんなところにもいるんだな」
「…………」
総務と柊はすぐにここへ集まった。が、下条が見あたらない。そう思っていればギルが声を出した。
「あっ。真也くんあそこにいた」
指差す先を見てみれば誰かと話をしていた。きっと違う班員と駄弁っていたのだろう。全く迷惑な奴だ。
ギルが下条のもとへと向かう。僕もそのあとを追った。
「ちょっと真也くん、みんな待ってたんだよ?」
「あ、わりぃーわりぃー。つい漫画の話が盛り上がってよ。じゃあまたあとで話そうぜ」
下条と話していた奴はどこかへ去っていった。
「よーし、じゃあいろんなとこ回ってこー! 総務さん道案内よろしく!」
総務には清水寺の境内の地図が渡されている。必然的に総務に頼むことになる。
「まずここから近くの地蔵院善光寺堂に行こ」
地蔵……なんて言った。そこへ行くらしい。写真を撮った左手側にある。
賽銭を入れる箱があって、その後ろに小さな小屋がある。四角く障子が切り抜かれて中が見えることができる。そこには四、五体の像がある。真ん中にでかでかと座っているのは、手が二本以上ありハスの上に座っている像だ。手前には仏教を感じさせられる装飾がされていた。
その小屋の右には小さな赤い帽子を被った地蔵が座っていた。すぐ横には「首振地蔵」とある。
「知ってる? このお地蔵さんは首振り地蔵って言って、好きな人が住む方向に首を動かして祈れば想いが叶うっていうのがあるんだ。でもみんなあっちのほうから来てるから、同じ向きになるよね」
そう言いながらも総務は首をゆっくりと動かした。僕らが住んでいるほうだ。総務は想う人がいるらしい。
「え! 豊好きな人いるのか!」
祈願したあと、下条に振り向いて言う。
「……好きっていうか、まあ……そういうのじゃないけどね? 本当だよ?」
わざとらしい。が、本当にそういうのではないんだろう。この前世話になった総務の家のことを考えれば、そう思う。
「え、えぇーじゃあ俺もしとこ」
総務と場所を代わって下条も祈願する。そういえば好きな人がいる云々言っていたな。
「他にする人いない? ……いないなら次行くよ」
総務が歩いていく。ギルにいろいろ問われながらあとを歩く下条。明らかに楽しくなさそうな顔をした柊もあとを歩く。
今日はいろいろ楽しそうなのが見れそうだ。心を落ち着かせるために一つ溜息を吐いてから後ろを歩いた。
……ケイは?
前にはいない。なら後ろを、と振り向けば軽く走って僕の隣に付いた。
「なにをしていた」
「い、いや……その、首戻しとこうと思って」
「そうか」
確かに、ヘンな方向のままだとかわいそうだしバチが当たりそうだ。
本殿までの道のりで、総務が目にしたいものを見ながら進んでいく。家の付近では絶対に見れないような建物があったり景色があって、僕も数十枚はスマホで写真を撮っている。楽しい。
けど……。
ついに本殿に足を踏み入れる。
「……うわぁーすっごい」
「たっけー。どんくらいの高さなんだろ」
清水の舞台に今立っている。さすが観光名所だ。道のりより人が多い。もちろん僕らの通う学校の生徒がいるから余計にということはあるんだろうが。
手すりに手を掛けて下を覗き込んでみる。確か、ここから下までは約十三キロメートル。現代の建物でいう四階の高さだ。
「清水の舞台から飛び降りる」ということわざがあるように、江戸時代に実際にここから飛び降りた人がいるらしい。ここから飛び降りたら願いが叶うとされて。ここから飛び降りても生存率は高いという結果は出ている。
「ねえねえ、みんなで写真撮ろ!」
ギルがそう言うと真っ先に僕も腕を掴んで引き寄せてくる。ギルからは逃れられない。
自然の赤をバックに内カメラで構える。柊の姿がない。
「柊さんも」
カメラ外にいた柊を引き寄せる。
「じゃあ、撮るよ」
カウントダウンが零になったあと、シャッター音とともに写真が撮られた。ギルが確認する。
「よし。うまく撮れた。あとでみんなに送るね」
「ありがとな! ギル。一緒に写真撮ろうぜ」
「撮ろ撮ろー」
そんな二人の傍から離れた。
人が多いからか、いつもながらのあれなのか、少しばかり気分が悪くなってきた。冷や汗を感じる。
手すりを背に、胸の不快感のあまり胸をさすっていた。
「すごい高いな」
ケイがいつの間にか隣に来て言う。
「……ああ」
「……気分悪いのか?」
「……歩き疲れただけだ」
「無理すんなよ」
「…………」
もっと景色を見たいが少し座りたい。人が少ないところへ行こう。舞台から離れるとき後ろからケイが付いてきているのはわかった。
ここなら人が少ない。リュックを下ろして壁にもたれてしゃがみ込んだ。落ち着くのを待っているとめまいがしてくる。もう少し早かったら歩けずにいた。
ケイは下ろした僕のリュックからなにかを探っている。取り出したのは、三百ミリリットルの小さな水のペットボトルだった。数口飲んで少し減っている。
無言で差し出すので受け取って数口飲んだ。そのペットボトルの大きさになにか物申したそうだったが構わず口をつける。
「こういうところ苦手なのか」
「……苦手なつもりではないんだが、人が多いところに行くことはあまりしないから……」
「無理なら無理ですぐ言えよ。誰も文句は言わないんだからさ」
「…………」
ケイがスマホを取り出す。なにか操作したあと言った。
「ギルくんからどこに行ったって。動けそう?」
「……ああ」
少し落ち着いた。
ゆっくり立ち上がってリュックを背負う。ケイに手を引かれながら人の群れに入っていく。
「あ、いた! 無事合流。舞台がすっごい広いわけじゃないけど人多いからね。今度は見失わないように行こ」
ギルに手を引かれて総務のあとを行く。ケイにももう一方の腕を掴まれていたので逃げることはできない。囚人のようだ。
次に着いた場所は本殿を出て左側に進んだところだ。鳥居をくぐる前に「地主神社」や「えんむすびの神」「良縁祈願」という立て札があった。
鳥居をくぐったあとには階段があり、階段の途中には恋結びのお守りと縁結びのお守りが置いてある。その奥に進めば恋占いおみくじがあった。
下条は早速買って引いていた。意外にもケイもこっそり買っていた。ギルたちは下条の結果が気になって、ケイが買っているということに気づいていないみたいだ。ケイも僕が買う様子を見ていたということに気づいていないみたいだが。
「えー? 凶?」
「良くないんだって。結んだほうがいいらしいよ」
「真也くん残念だったねー」
「くそー。俺の恋は実らないのかなー。お守り買いに行こ……」
「俺も行くー」
下条たちは柊を置いて奥へと進んで行った。あっちは確か行き止まりだからここへいてもいいだろう。その間にケイにも聞いてみようか。
「ケイはどうだったんだ。おみくじ」
「えっ! ……べつに引いてないさ」
後ろ手になにか隠す素振りを見せる。まあ、知られたくないならべつにいいか。とても気になるわけでもない。
戻ってきた下条たちは僕らを「行こ」と誘って階段を上っていく。僕らもあとを追った。
上り切ったあと、躓いて転けそうになった。なにもないところでではない。大きな石があった。
「大丈夫か」
すぐに傍にいたケイに心配される。その声に前にいた三人が気づいて振り返った。
「こんな石あったんだ。左のほうから上ってたからわかんなかった」
「ってかこれあの石じゃん!」
あの石? この石には紐が一周しており、階段がある側には「恋占いの石」とあった。
「ほら、修学旅行に行く前に言ってた石。目瞑ってもう一個の石のところまで行けたら恋が叶うっていう」
あぁ。確かにそんな話していたな。
「真也くんこれする?」
「するに決まってんだろ!」
「じゃあ、俺らもう一個の石の前で待っとくね。気をつけてね」
「おうよ!」
もう一個の石は本当に真っ直ぐにあった。そこにはこの石についても書いていた。曰く、両目を閉じてもう片方の石にたどり着けば恋が叶う。一度でできたら早く願いが叶い、できなければ叶うのも遅くなる。他人からアドバイスをもらって石に着けば、願いを叶えるためにも他人の助けが必要になってくる。だそうだ。
下条は手を軽く伸ばして少しずつ進んでいった。右に逸れながら。
「あー。右に逸れちゃってるね。ぶつかる前に声かけてくるね」
ギルが下条の傍に言ってなにか話す。目を開けたら驚いたような顔になり、またさっきの石の場所ヘ戻っていった。ギルが帰ってくる。
「もう一回するって。これでできなかったら諦めるって」
諦めが早いんだな。つまりは下条のその恋も諦めが早いという暗示じゃないか?
再び手を伸ばしてゆっくり進んでいく。だが今度は左に逸れていった。
「次は左寄りだ」
もうここの石までたどり着けないと思ったのか、ギルは下条のもとへ行った。諦めるんだな。
「ケイはしなくていいのか」
「はっ」
「え、影島くんも恋してるの! 聞きたいな」
「し、してない。べつに……してないさ」
ここでさっきのおみくじのことを言えば総務は問い詰めるだろうが、秘密を漏らすのはかわいそうだ。言わないでおこう。
「くっそー、できなかったー」
下条が戻ってきた。
「あ、下条くん。ここにおみくじ結ぶところあるよ」
「結ぶかー」
すぐ横にある。その様子を見届けたら少し戻ったところにある、人形祓い所に行こうとギルが言う。これは人をかたどった紙製の人形に意識を吹きかけ、身代わりになって水に流していろんな悩み事を祓うものらしい。二百円する。
「俺これちょっと気になってたんだー。れーくんの体の悪さ書いてあげようと思って」
ためらいもなく二百円を奉納箱に入れて人形を一枚取ってペンを持つ。本当に書く気なのか? だが、人形の一番大きなところに英川ギルと書いた。自分のことを書くらしい。よかった。そのあと、左には性別と年齢、右には悩み事を書く。初め、右側に「見た目」と書いていたが二重線で消して「友だちの不健康さ」と書いた。
僕が見ていることに気づいたギルは、にっと笑って人形に息を吹きかける。
「……好きにしろ」
「えへへ」
優しく水に浮かべたら、すぐに水に溶けて消える。
すぐ横からも手が伸びて人形を浮かべたかと思えば、柊の手だった。柊もなにか祓ったらしい。溶けかけた一瞬で見た人形の右側には「自分」と書かれていた。
ギルの気が済んだら奥へ進む。だが、どうやら行き止まりみたいだ。
「行き止まりだ。引き返そー」
「いや、あそこになにかあるよ」
総務が指差すのは緑をした扉がある左側だ。実際に行ってみればあった。
「水かけ地蔵さま? なんだろ」
地蔵が座るすぐ横に説明が書いてある。どうやらこの地蔵は厳しい修行をして亡くなったが、それだけ願いを叶える不思議な力を持っているらしい。どういうことかはわからない。
「お水掛けてあげるんだって。掛けてあげよ」
楽しそうに近くにあったひしゃくを取って流れる水を入れ、地蔵の頭上から水を垂らす。そんないきなり頭に掛けたらびっくりするだろ。
「えっと、お願い事……。みんなが楽しく健康で過ごせますように。あとれーくんがもう少し体調崩さない体になりますように」
最後のはお節介だ。
「みんなもしていきなよ」
「僕もしよっかな」
それぞれひしゃくを手に取って順番に掛けていく。柊はしないみたいだ。
「れーくんもしときなよ」
「願うことなどない」
「えー? あるでしょー。例えばずっと健康でいられますように、とか」
「健康であれ、事故などしたら意味がない」
「なら、事故も事件もなく、ずっと健康で、成績もずっといいままにしてください、とか」
「強欲」
「えへへへ。言ったもん勝ちかなって。とにかくれーくんもしよ。叶わなくても願うだけでも一歩つながるんだから」
まあ、それもそうだな。今ふと思いついたこともある。
ひしゃくを取って水を入れて、肩から掛けて頭に掛けていく。ひしゃくを置いてしゃがみ込み、合掌する。
ギルやケイたちがいつまでも幸せで、もし苦しいことがあっても立ち直ることができますように。
清水寺の参拝が終えたら、周辺で食べ歩きをすることになる。食べ物を食べられるとわかったギルと下条は参拝時よりもワクワクしているようだった。
僕も抹茶の食べ物を食べられると思うと、ずいぶん心をくすぐられるというものだ。
「れーくんあーん」
口を開けて食べる。
「……やっぱり今日素直だよね」
「なにが」
「俺がれーくんにあーんってしたらいつもしなかったり、ちょっと嫌そうな顔するのに今日全然しない。もしかしてあーんの魅力伝わ」
「伝わっていない。……ただ、抹茶味がおいしいからだ」
「なるほどー。れーくん抹茶好きだもんね。じゃあ今日はとことんあーんしてあげる」
……僕は僕で買ってあるからしなくてもいいんだが。けどおいしくて体が抗えない。さすが本場の宇治抹茶が使用される菓子だ。
しばらく抹茶味、他に和菓子を堪能しながら歩いていた。ずっと口角が上がっている自覚がある。それにはギルがすごくニコニコして何度も顔を覗き込んでいる。ケイも物珍しそうにときどき覗き込んできていた。
「……ねえ」
呼び止めたのは総務。
「……これ……気になって」
指差すのは着物レンタル屋。……僕も気になる。
「みんなは着ない……?」
不安そうに首をかしげる総務。それを吹き飛ばすようにギルが、
「俺着たい! れーくんも着るでしょ!」
「……まあ」
「俺はべつにいいー。食いもんに金使いたいし」
下条はそうだろうと思った。
「着たい人だけ着てこようか。着ない人は待たせてしまうが」
「敬助と実琴は?」
「俺は……着ようかな。着物なんてなかなか着る機会ないし」
「……キョーミない」
柊はそっぽを向いて歩きだす。
「あ、柊くん一人行動は」
「すぐそこ見るだけ。なんか悪い? それに着物着るんでしょ。さっさと着てきてくれない?」
やはり当たりが強い。
「……ごめんね。すぐ着てくるね」
「下条、悪いが柊から離れないでくれ。気になるものがあるかもしれないが、それはあとで一緒に見よう。だから今は柊と離れないでくれ。この人の多さではぐれるのはまずい」
「ほーい」
不安になる返事を聞いたあと、僕らは店の中に入った。
旅館の室内に入ってリュックを下ろしたあと、壁にもたれながら座り込んだ。すごく疲れた。今すぐに寝たい。
「あはは、れーくんお疲れさまー。いっぱい歩いたもんね」
「……寝る」
「寝ちゃ駄目だよー。このあとクラスの団らんと夜ごはんと、お風呂があるんだから。あともう一踏ん張り!」
「もう一踏ん張りどころじゃない。三踏ん張りくらいしているじゃないか」
「あははは」
けど、本当に疲れている。普段より多く歩いたのもそうだが、いつも以上に人が多くて疲れた。清水寺ほどの有名な観光名所となれば外国人も多くなる。ああいう場所はどうも気乗りしない。
この時間は体操服に着替えて荷物の整理をする時間だ。荷物の整理は明日にしよう。今日はもう眠たい。まあ、まだ寝れないが、今する体力もない。
体操服に着替えて壁にもたれていた。着替えたことで今まで着ていた制服に体温が全部持っていかれ、すごく寒くなる。上からブレザーを腕に通さずに掛けた。
「夜ごはんすっげー楽しみ! どんな料理出るかな」
「この旅館が和風だから、和食とか? れーくん和食好きだもんね」
「……あぁ」
疲れている中、あまり声を出させないでくれ。どうしても声量が小さくなってしまう。
「蓮マジで疲れてるじゃん。まだ一日目だぞー? まだ二日あるぞー?」
「……るさい」
駄目だ。寝てしまいそうだ。通路の途中に自販機あったよな。リュックから財布を抜き出して靴を履く。
「蓮? どこ行くんだ?」
「コーヒーを買いに行く。ケイもいるか」
「……俺も行く」
ケイと廊下を歩いていく。外につながる窓はもうほとんど暗くなっていた。冬も近づけば陽が落ちるのも早くなり、気温も下がっていく。やめていただきたい。
窓に反射して僕の姿が見える。そういえば、ブレザーを肩に掛けたままだった。だが、もう暖かくなってきたから取るのも気が引ける。コーヒーで温まってからでいいだろう。
「ふぁ……」
「蓮は小中の修学旅行どこに行った?」
「中学……。知らない。憶えていない。この眠気で冴えない頭ならなおさら思いだせない」
「……そっか。べつに無理に思いださなくてもいいさ」
「…………」
知ったような口ぶりだ。
「そう言うケイはどこ行ったんだ」
「……行ってないさ。面倒臭かったし」
「……そうか」
僕も行かないなんて選択ができたのならよかったのに。小中の修学旅行なんて……思いだしたくもない。
だから今回は良いものになってほしいと微かに望んでいる。まあ、今のこの生活に敵になるような奴はいない。今のところ僕の体力との勝負だ。
自販機に百十円を入れて温かいコーヒーのボタンを押す。取り出し口から取り出せば、両手で持って温めてもらう。温かい……。
軽く手が温まったら心地いい音を出して開け、数口飲む。体が温まってきた。
ケイが手に取ったのを確認してから言う。
「戻ろうか」
「……ああ」
一瞬悲しそうな顔をしたのは気のせいか?
部屋の番号を確認してから扉を開ける。靴を脱いでいれば、ギルが勢いよく抱きついてきた。
「っ……危ないだろ。危うくギルの頭からコーヒーが掛かって火傷を」
「あぁ、ごめんごめん。でも真也くんがさー」
「……あとでゆっくり話を聞くから一旦座らせろ」
火傷の怖さを知らないからそんなのんきでいられるんだ。まあ、火傷の場所や範囲によったりするのも確かだが、なににしろ掛からなくてよかった。
広縁にある椅子に座りながらギルの話を聞いた。曰く、下条が冷たい手で首元を触ってくるそうだ。ハロウィンの日に冷たいギルの手で腹を触られたことは憶えているからな。
そのギルと下条のじゃれ合いは今も畳の上で行われている。ドタドタと籠もった音が室内に響いてうるさい。
コーヒーを持って外の冷たさを感じられる広縁の窓を開けて、空を見上げる。寒いのはあまり好きじゃないが、ツンとしたこの冷たさが好きだ。
窓の縁に腕を置いて、もう片方の腕はコーヒーを口に流し込む。
さすがにうるさいな、ギルと下条が駆ける音は。近所迷惑になりそうだ。広縁から外を覗くのをやめようとしたとき、声が上がった。
「おーいどたどた走り回るんじゃなーい。下の階まで響くんだー」
担任の先生だ。
「あ、はーい」
「あとそこ……新藤か。窓開けるなー。映画のワンシーンみたいで憧れるけどな」
「……すいません」
少し意味がわからない。どういうことだ。
それからはずっと静かに椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。ずいぶん眠気が覚めてきた。やはり眠気にはカフェインが効く。
団らんのあと食事会場に行く。各クラス、各班に決められた机があり、そこでは自由に座る。白いテーブルクロスが机一面に被っており、三脚ずつ椅子が向かい合って並んである。僕が端に座ればギルが隣に、ケイが向かいに座った。
「すっげぇーうまそう!」
対角線上にいる下条の声がここまで聞こえてくる。そう、目の前にはもう食事が用意されていた。
隣のギルの腹が何度か唸ってから、学年主任が前に立ち、ほんの少しの話のあと、
「では皆さん、手を合わせてください。今日ここで作ってくださった方々、その他の命に感謝の気持ちを込めて、いただきます」
「いただきまーす」
ギルが楽しそうに言う声が聞こえる。
いただきます。
料理は和風をテーマとした食事だった。ぱっと見皿が多くて量が多いように見えるが、中に入っている量は基本少ない。そばと天ぷら、刺身やそれにつける醤油、他に体が温まる茶碗蒸しや白米。漬物などが置いてあった。
お茶を数口飲んでから箸を持って食べ始める。
まずメインであろうそばから。そばはそうめんの次に好きだ。夏に食べるそうめんは本当においしい。そばは年越しそばなどと言って、冬の寒い日に温かいそばで食べるのが好きだ。
今回は同じく器に温かな汁とともにそばがあって、ネギと天かすとかまぼこが入っている。
数本持ち上げて息で少し冷ましてから、熱気に乗った香りを感じながら音を立てないように食べていく。すすりながら食べたら、いつの間にか服や周りに跳んでいることがあるから、ゆっくり食べるようにしている。
そばは今年の初めに一、二度食べたくらいだからすごく久しぶりだ。香りに煽られながら食べるそばほどおいしいものはない。いや、あるかもしれないが。
数口そばを食べたあと、サクッと揚げられた天ぷらを食べる。ネタはレンコン、大葉、なすび、海老、かぼちゃがあった。
なすびをつゆに付けて食べる。やはりこの天ぷらを食べるときに付いてくるつゆと食べるのはおいしい。併せて白米も食べる。
白米の入る茶碗を持ったときに気づいたが、べつで抹茶塩があった。抹茶塩で食べる天ぷらもおいしいんだ。天ぷらの入る容器の端に出して、海老を付けて食べる。おいしい……。抹茶塩も用意されているなんて、どれだけサービスが利いているんだ。
天ぷらを食べていれば、温かい茶碗蒸しがあるのを思いだした。器がまだ温かいのを確認してから蓋を取る。蓋を開けると温かそうな湯気が出る。よかった。温かいものは冷めないうちに食べるのが一番だ。茶碗蒸しなど特に。
スプーンに持ち替えてすくって口に入れる。
僕は茶碗蒸しが好きだ。温かいうちに食べると口の中で火傷しそうになりそうだが、その分口の中でとろけて、すっと食道を通る。それがなんともたまらない。
中に入っている具材も場所によって違うが、入っているものが豪華なときがある。例えばこの茶碗蒸しに入っている海鮮系のホタテや海老。かまぼこも入っている。この茶碗蒸しには僕が好きな具材ばかり入っている。他にもちくわ、肉団子、短めに切られたうどんなどが入っていた。なんとも豪華だ。すごくおいしい。
以前ギルと回転寿司に行ったときに茶碗蒸しを食べた以来だから、余計においしく感じる。口がとろけそうだ。
「えへへへ。れーくんが幸せそうな顔してるー」
横から言われるギルの言葉に、頬あたりに力が入っていることに気づいた。さっと顔を逸らして平常を装おうとする。
「わ、悪かったな」
「いいんだよー。なんならその顔俺に見せてくれてもいいんだよー?」
きっと振り向けばギルはスマホを握っている。だからこういう場合は落ち着くまで振り向いたらいけないんだ。ギルの取説ではそう書いてある。
一度深く息を吐いて、落ち着かせてから前を向く。目の前には嬉しそうに口角を上げたケイがいる。そうだった……。目の前にはケイがいたんだ。きっと僕の顔は始終見られていた。だからこんな顔をしている。
「かわい」
「……はぁ」
少し羞恥に浸りながらも茶碗蒸しを一口頬張る。そしてその羞恥心は茶碗蒸しによって遠くへやってくれた。おいしい。さっきのことに対してはもう、微笑んでいた。
「れーくんあーん」
振り向けば、ギルが漬物を箸で掴んで差し出してきていた。
「しない」
完食し、背もたれにもたれて軽い眠気に襲われていれば、ギルに漬物を食わせようとされる。漬物以外は食べ終わってるみたいだ。
「一回食べてみろ。案外おいしく感じるかも知れない」
今回出されている漬物は輪切りにされたきゅうりの塩漬けだ。きっとギルでも食べられると思う。
「えー? そうかなー。俺酸っぱいの嫌だよー? 酸っぱいもん」
そうだな。酸っぱいものを食べれば酸っぱく感じるだろうな。
「この漬物はそこまで酢が利いていないから、ギルでも食べれると思う。少し食べてみろ」
「……うーん」
ギルは僕に差し出すのをやめて、自分の口へ運んで小さくかじる。だが、小さすぎて味がわからなかったのか、今度は丸々口へ入れた。
「意外と……おいしいかも」
「……どうだ。まだ食べるか。食べないなら僕がいただくが」
「ううん、食べる。おいしい」
漬物はおいしいということを伝えられて少しばかり嬉しさが込み上げてくる。
まあ、僕でも食べられないほど酸っぱいものがあったりするが、それでも一口は食べている。食べてみないとその味はわからない。
おいしさを知った漬物をパクパクと食べるギルに向けて言う。
「まあ、自分の口に合わないと思ったなら無理に食べる必要はない。口に合うか否かは人それぞれだ」
「うん。でも今度から食べたことないのとかちょっと食べてみる。ハンバーガー屋さんとか行ったらいつも同じのしか頼んでないし……。まあ、俺にとっていつも食べてるのが一番おいしいって思ってるんだけどね。他の食べたらそっちに移っちゃうかも。あはは」
「好きにすればいい」
食べるのは本人なんだからな。
ここの机でまだ食べているのは総務とケイだ。と言ってもケイはもう食べ終わりそうだ。総務はあと四分の一っていうところか。時間はまだ数十分ある。
下条はすぐ後ろの机にいる人に話しかけて、柊はスマホをいじっている。
僕は目を閉じて食べ終わるのを待っていた。
だが、一瞬意識が飛びそうになる。寝てしまいそうなのでやめた。食後三十分ほど空けておかなければ消化不良を起こしかねない。
「ふぁ……」
「ふわぁー」
ギルとあくびが重なる。
「えへへ。今一緒だったね。れーくんも眠いの? 俺はごはん食べたからか眠たくなっちゃって……。あはは。まあ、今日いつも以上に動いたからねー。俺でもちょっと疲れちゃってる。
お風呂上がり自由時間あるじゃん。そこからみんなが寝るまでの時間保つかなー」
とまあ、あくびが重なったことからどんどん話の軸を逸らせながら話されていく。僕はべつに自由時間で遊ぶつもりはないが、だからといって寝るつもりもない。というかきっと寝れない。寝ることに期待できる時間は十二時以降。
「下条がいつまで起きるのかは知らないがあまりおそ」
「なんで俺なんだよ」
「…………」
いきなり話に入ってくる。べつに下条を呼んだつもりではなかったんだが。
「遅くまで起きていそうなのが下条だったから。家でも夜更かししてゲームとかしているんじゃないか」
「してねぇーよ。たまーにしてるけど」
してるじゃないか。
「いつもはギルとか他の友だちとかとチャットで話してるから、ゲームはしてない」
ゲームでなくとも夜更かしをしているのは確からしい。
「そういう蓮は何時に寝てるんだよ」
「基本十二時以降」
「ほーら蓮も夜更かししてんじゃん」
「していることは認める。だが、僕はゲームなどではない。勉強をしているんだ。……休日は小説を読んでいることが多いが」
「ゲームじゃなくても夜更かししてることには変わりねーじゃん」
「……左様」
これはなにか重要な話だっただろうか。数秒前の僕に言ってやりたい。
「……で、なんの話だっけ。忘れちゃった」
「同じく」
下条が横から入ってきたことで僕も忘れた。それに、こんな対角線上で話をこじらせるな。
下条の前の皿が目に入れば、なにかが残っているのを見つける。あれは……茶碗蒸しに入っていたシイタケか。落としたのだろうか。
「下条、それ落ちたのか」
「え、これ? ……俺キノコ嫌いだから残してる」
「食べないのか」
「食べへん」
……急に関西弁だな。
「シイタケは味が染み込んでいておいしかった。シイタケは食べたことあるか」
「ねぇーけど、キノコ全部同じだろ?」
「それぞれ種類も違えば味も違う。一回食べてみろ」
「えぇーいらねー。豊あげるー」
箸で掴んだそれを総務の皿に置いた。
「おい」
「んふふ、いいよ。貰うね」
食べておいしさを知ってほしかったんだがな。少しの悲しさを覚える。
確かに好き嫌いは人それぞれと言ったが、初めから食べずに嫌いと言うのはあまり好まない。食わず嫌いはあんまりしてほしくないんだ。
「あはは、敬助くんもだね」
ん? ケイがどうした。ケイにも関係があるように言うもので、視線を戻して前を見る。白しかない皿にはよく目立つ、シイタケが残っていた。
「苦手なのか」
「……まあ」
ケイがシイタケ、もしくはキノコに苦手意識があったとは初めて知った。少し意外だ。
「けど……昔に一回食べたことがあるだけだったから、もう一回食べてみる」
「よく言った」
他人に苦手なものを押しつける下条とは違う。
ゆっくり口まで運んでゆっくり噛み始めたと思えば、噛むのをやめた。そしてこちらを見てくる。やはり駄目だったか。ティッシュに吐かせようか。
近くにあったティッシュを取ろうとしたとき、
「おいしい」
ケイは言った。
ケイに目を向けて手をもとの位置に戻す。ケイの噛む速さは遅くなくなった。口に合ったらしい。
「それはよかった」
僕は少し微笑んでいた。なにかを成し遂げたような気分になる。
「ありがとうな」
「僕はなにもしていない」
「したさ」
「……さあ」
夕食後、一旦部屋に戻り、数の小さい班から順に風呂に入っていくことになっている。僕らはまだだ。その間に準備をしておけと総務から言われている。
日用品が入っているボストンバッグから入浴後に着る衣服類を取り出した。手軽に持って行けるようにより小さく畳み込む。
少しの間、他の人が準備できるのを待つ。あたりを見渡すと僕はケイに目が止まった。鏡を見てあまり準備をしていないように思えたからだ。
傍に行くと、僕は初めて見る光景を目にする。ケイが目から鱗を出していた。……いや、ただのコンタクトだ。
「目が悪かったんだな」
僕の存在に少し驚いたケイが言う。
「……ああ。あの事故のあとに、夢と一緒に視力も低下してきたんだ。まったく、困ったものさ。ていうかハロウィンのときに家に泊まったから眼鏡かけてた気がする……いや、あの日は眼鏡忘れてたっけな」
「…………」
僕は憶えていないからなんとも言えないが。けどケイが眼鏡をかけていたとしたら、さすがの僕も憶えているはずだ。そう結論付ける。
僕の視力は落ちていないから、眼鏡もコンタクトもしていない。つまり、視力の悪い奴の苦労はわからない。
けど、目を悪くしていいものなんてないだろう。気をつけよう。
「準備はできてるのか」
「だから今コンタクト外してるんだ。外したら準備できないからさ」
「……そんなに目が悪いのか」
「まあな」
コンタクトをケースに入れてこちらに振り向いたと思えば、顔を近づけてきた。拳一つくらいの距離にケイの顔がある。僕には近すぎて見続けるのは厳しい距離だ。思わず他へ視線を移す。相当目が悪いようだ。
「この距離でしか毛穴は見えない」
「誰が毛穴の見える距離を表せと言った。なんだ、その距離でしか見えないのかと思ったら」
「いや、でも」
今度はもう二つ分くらいの間を空けて言う。少し離れた。
「はっきりピントが合うのはこの距離から」
ケイが傍に置いてあった眼鏡ケースから眼鏡を取り出して、かける。なんだか……新鮮だ。眼鏡だけでこんなにも印象が変わるんだな。
「ケイが眼鏡をかけるとすごく真面目に見えるんだが」
「俺はもとから真面目……すごく真面目だろ」
わざわざ言い直すな。
「どの口が言っている。普段から夜更かしに課題はしてこない。授業中の居眠り、なんてことは言ってやらないが、課題は自分でできるだろ」
「ほら、寝ててわかってないから」
「そのための教科書があるのだろ」
「蓮は優しいからなぁ」
「見せなくていいなら見せないが」
「ごめんって。でも蓮はほんとに優しい。それは変わらないさ」
なんだ……急に。ケイはわざとらしく笑う。べつに僕は、優しくしているつもりなんて……。
ただ傷つけたくないだけだ。
「かわい」
小さく呟いて微笑む。だからなんでそういう言葉が出るんだ。意味がわからない。まだ、小動物に言うならまだしも。……ケイは僕のこと小動物に見えてるのか……?
「僕は人間だ」
「え? ……そう、だな?」
「…………」
べつに小動物には見えていなかったらしい。なら、なんであんな単語が出てくるんだ。ケイの心情はいつまでも読めない。
「あのー風呂、次」
「あ、うん、ありがとう」
開けっぱなしの扉がノックされたかと思えば、部屋全体に聞こえるように言われる。奴の正体は知らない。誰だ。まあ、僕らの班の前に入っていた班員なんだろう。総務が答えると去っていった。
僕らの番が来たらしい。やっと温まれる。
「みんな準備できてるよね。行こっか」
部屋から出て僕らは大浴場の脱衣所に向かった。
大浴場は旅館の一階にある。階段で一階まで下りたからもう疲れた。風呂ももういいと一瞬思ったが、ギルに腕を引かれるので男子の脱衣所に入る。
まだ着替えている者もいれば、脱衣所につながる洗面所で髪を乾かしている者もいる。誰も見たことがない。誰なんだか。
脱衣所には壁に沿ってロッカーが設置されていて、もちろんそれぞれに鍵が付いている。
身近の空いてあるロッカーを開いて一旦ロッカーへ荷物を入れた。腕が疲れる。ロッカー内は仕切で二段になっていて上段にはカゴがあった。上にはハンガーが掛けられている。
上段には出たときスムーズに着替えられるようにタオルとバスタオルを上に置いた。タオルは髪の毛を拭くように持ってきたが、面倒臭がって拭かないかもしれない。
セーターを脱いで畳み、下段に置く。ネクタイと腕時計はカゴの中に入れておく。シャツだけハンガーに掛けて、他も脱いでいった。
「…………」
やはり、こういう人のいる場所での風呂は、少し恥ずかしさが芽生える。寒いし早く入りに行こう。
ロッカーの扉を閉めてからバンド付きの鍵を抜いて、バンドを腕に通した。けど行こうとすればギルに止められる。
「あーちょっと待ってれーくん」
振り向く前に隣まで来る。寒いのでそのまま風呂場へと歩いていった。
「わぁー、すごい広い」
ギルの声が響く。確かに広い。ここを六人で使うのは少しもったいない気がする。
先に入っていたケイがギルの声に振り向いた。
「ギルくんと……蓮か?」
あぁ、そうだったな。目が悪いんだったな。
「違うと言えば」
「いや、その声は蓮だ」
そりゃどうも。
「早いな」
空いているケイの隣に座りながら言う。
「まだ濡らしただけさ」
ギルがケイの傍に立って話しかける。
「敬助くんのその髪って邪魔じゃないの?」
「少しだけな」
「切らないの?」
「切れるものじゃない」
「へぇー?」
ギルは頭に疑問符を浮かべさせられたのだろう。僕もなにを言っているのかわからない。小学校の頃は僕と同じように短かったんだがな。伸ばしているのだろうか。
ギルは僕の隣に座り込む。そのとき、シャンプーやリンスーが置いてあるカウンターになにかを置いた。見てみれば、
「それ……シャンプーと……」
「あぁ、これ? そうなんだー。マイシャンプーとコンディショナー」
少し自慢げな顔をして言うが、すぐに笑い飛ばす。
「俺、べつに要らないって言ったんだけど、お母さんがわざわざ買ってきちゃって、使わないと申し訳ないなって思って」
「いい心がけだ」
「あはは。れーくんも使うならいいからね」
「ここので十分」
僕はシャワーを頭から浴びる。家のと違って、出したときから温かい。気分がいい。
髪を十分に濡らしたらこの大浴場に付いているシャンプーで髪を洗う。いいやつなのかはわからないが、いいニオイがする。
十分に泡立ててからシャンプーの泡を流していく。目にかかる邪魔な前髪をかき上げた。
体を洗おうとしたが、僕がいるところにボディーソープがなかった。他のところにはあるらしい。ギルのところから借りよう。
「ギル。そこのボディーソープ貸してくれないか」
「……いいけど、もう髪洗い終わったの?」
「ああ」
「コンディショナーした?」
「……いや」
「やっぱり。俺の貸してあげるから一回使ってみてよ。すごく指通り良くなるよ。ちょっと待ってね」
ギルがさっと髪を洗い流してから、コンディショナーを手に持って僕の後ろにしゃがんだ。コンディショナーを少量手のひらに出し、立ち上がった。コンディショナーを手全体に広げて言う。
「ほんとはトリートメント先に付けてからのほうがいいんだけど、ないからねー」
毛先を触ってなじませてくれる。
なじませたあと、クシで解かれる。そのとき髪の毛が目に当たった。そして徐々に痛みだしてくる。コンディショナーの付いた髪が目に当たったんだ。痛い。思わず目を固く瞑った。
「流すよ」
頭に水が流される。
「よーし、終わり!」
ギルは満足げに言う。が、その間にも僕はシャワーヘッドを探す。目を早く洗い流したい。
「ん? れーくんなに探してるの? っていうかなんでまだ目瞑ってるの?」
「……目に入った」
「え! 早く言ってよ!」
ギルがシャワーヘッドを握らせて水を出してくれた。痛む目に当てる。
「ずっと我慢してたの?」
目に痛みを訴えなくなった。若干の違和感はあるが、コンディショナーは流せただろう。
「もっと早く言ってよ! ちょっと目見せて」
ギルに無理やり両頬を掴まれて自分に向けさせる。
ギルの綺麗なアイビーグリーンの目が見える。見入ってしまうほど綺麗だ。本当に。
「ちょっと充血してる……。ほんとにもっと早く言ってよ……」
「ギルが丁寧に洗ってくれているから言い出しづらかった」
「言い訳はいらないよ」
少しムスッとした顔になる。悪かったな。
「冷えるから早く体洗って入ろう」
「ふーんだ」
いつものだ。演技染みた言い草をすれば、笑って破顔する。
「でも、今度からは遠慮せずに言ってよね。わかった?」
「…………」
「わかったー?」
ギルに頬を人差し指でぐりぐりさせられながら言われる。……少し痛い。
「わかった。早く体洗え」
「れーくんまだ終わってないのに」
やっと自分のところに帰ってくれた。シャワーで一度温まってから、体を洗っていく。
「…………」
水を止めて一息吐く。やっと洗い終わった。
隣を見るが、ギルはまだ綺麗になることを嬉しそうに体を洗っていた。先に温まっていようか。
腕に鍵があるのを確認して立ち上がる。と、泡だらけのケイが僕を呼んだ。
「蓮、悪いんだけど背中お願いできる?」
「……断る」
「えぇ……」
ケイのその弱った反応と表情は初めて見るもので、おかしく笑った。
「わかった、洗う」
不思議そうに顔を傾けるが、
「……ありがとう」
ケイの後ろにしゃがみ込めば、ボディーソープを近くに置いてくれた。それを使ってケイの大きな背中を洗っていく。そういえば髪はどうしたのかと思えばゴムで雑にまとめられていた。
筋肉が少しばかり目立つ背中だ。なんだ、筋肉のない僕をからかっているのか? ……いやケイがそんなこと考えるはずがないか。
「なにかスポーツでもやっているのか」
「ん? べつにしてないけど」
「部活は入ってないよな。ならなんでこんなに筋肉が発達しているんだ」
「……さあ」
ケイ自身も心当たりがないのか。少し気になるな。なにもしていないのにこんなにも筋肉が付くなんて……。
「あーあれかも。昔の馴染みで運動しにいってるからかもしれない。走ったり腹筋とかそこら」
決して楽して筋肉を付けているわけではなかったみたいだ。昔の馴染み……ケイがしていた習い事のことだろうか。
「それより、修学旅行は楽しめてるか?」
「まだ一日目だ。……けど、小中に比べたらずいぶん楽しめている」
「それならよかった」
「洗い終わった」
「ありがとう。先に入ってて」
もとからそのつもりだ。
湯船は二つほど分かれている。なにかの効果がありそうなほうとなさそうなほう。そして小さな湯船もあり、それは水風呂だった。どうやら他にも外につながる露天風呂があるみたいだ。
効果のなさそうなほうには総務が端に、効果のありそうなほうには下条がど真ん中にいた。そういえば、ギルはどこに行ったのだろうか。柊はまだ洗っているみたいだが、ギルが見当たらない。
そう思っていれば、下条の傍からギルの顔が出てきた。
「四十九秒」
「んー。まだもう少し息続きそうなのになー」
まさか、どれだけ息が保てるか計っていたのか。
「そこ二人。ここはプールじゃないんだ。大人しく浸かっておけ」
「あはは、はーい」
笑い事ではないんだがな。
注意を受けたらギルが近づいてきた。
「れーくんも一緒に入ろ」
「…………」
ギルが入っているほうとは違う、もう片方の湯船に入った。
「えぇー! なんでそっち行くのー?」
そして付いてくる。
階段をゆっくり下りて浴槽に足を浸かす。熱すぎず、ぬるすぎずちょうどいい。少し歩いて肩までゆっくり浸かる。体がすごく温まる。
「はぁ……」
自分の声が癒されている気がした。
「あったかいねー」
ギルが近くに座り込む。
「寝れそう」
今日は普段より体力を使った。本当に目を瞑れば寝れそうだ。
「寝たら駄目だからね? のぼせるよ。それに溺れるよ」
「寝ないと思う」
「そこは言い切ってよ。怖いじゃん」
「寝ません」
「さっきの言葉聞いてからだとすごく不安」
言い切れと言ったのは誰だ。
それにしても本当に温かい……。
時間になる十分前には先生が来て、追い出される。あとどれくらいあったかわからないが、まだ時間はあると思う。
壁にもたれる。駄目だ。意識がもうろうとしてきた。もうこのまま寝てしまい……たい……。
「ちょっとれーくん?」
ギルの声に起こされる。危ない。そうだ、ここで寝たら最悪死ぬ。顔を振って眠気を払う。
「今絶対寝ようとしてたでしょ」
「してた」
「認めないでよ。……そういえば、露天風呂あるみたいなんだけど行く?」
「ああ」
ゆっくりと浴槽から上がれば一気に寒さを感じる。早く行こう。
「へー、サウナとかもあるんだ」
露天風呂を行く道の横にあったサウナ室にギルが目を付けた。
「俺サウナとか入ったことないや」
「よく聞くのが『整う』だな」
「うん。なにが整うのかわかんないけど」
僕もわからない。
ただ、汗をかくことは知っている。でも汗をかくのは嫌だからきっとこの先使わない。
露天風呂につながる二重扉の一つ目をギルが開ける。二つ目の扉を開けると冷たい空気が舞い込んでくる。
「うっ、さむ……早く入ろ」
ギルが少し駆け気味に露天風呂へ入った。僕はそのあとを追って、ゆっくりと肩まで浸かった。冷え込んでいた体が温まる。
「あ、れーくん上見て! すっごい綺麗だよ!」
ギルが湯から少し手を出して上を指した。だが、寒かったのかすぐに水面下に戻す。
見上げると一面に星が輝いていた。雲一つ無い快晴に星が浮かんでいた。
「綺麗だ。……星を見るのはいつぶりだろうか」
「そんなにないの?」
「外に出ることがないからな。特に冬場は」
「あはは。れーくんが真冬の時期に外出たらほんと動かなくなるからね」
「外は寒すぎる」
夏はエアコンを、冬はこたつを持って歩きたい。何度もそう願っている。犬の散歩のように勝手に付いてきて体温を調節してくれたらいいのに。まあ、コンセントが挿せないんだから、そんなのは非現実的すぎるんだが。
「今度寒いときに、れーくんに外でごはん食べよーって誘っちゃおっかなー」
「そのときはなんとかして家で食べさせるようにする。外は寒い」
「あはは。なら俺は絶対外に連れて行こーっとあはは」
勘弁してくれ。本当に凍え死ぬ。
「……じゃあいつもは外食とか行かないの?」
「外食するくらいなら自分で作る」
「自分で作れるって便利だねー」
「すごく便利だ」
ただ、食材をスーパーにまで買ってこなければならないから、ほんの少し面倒だ。だが、傷みの有無を自分の目で見て確認できるから、そこは安心できる。
「俺が一人暮らしすることになったられーくんに料理教えてもらおっかなー」
「まずいものならいくらでも教えてやる」
「えぇー、いつもおいしいのばっかり作ってくれるのにー」
「ふっ……。まあ、いくらでも教えてやる」
そもそもギルが一人暮らしをするのかどうかだがな。ずっと親のもとを離れなさそうだ。
「……もうそれか、れーくんの家に住もうかな」
「それはやめろ」
「あははは。もし住んだら、今度は俺がれーくんにおいしい料理ごちそうする!」
ギルが「おいしい」を強調して言った。
「それは楽しみだな。住ませないが」
「えへへへ、駄目か」
どさくさに紛れて住もうとするな。まあ、そうは言っても何度も泊まらせているから住んでいるようなものなのかもしれないが。
「邪魔するぞー」
扉の開く音がしたあと、声が聞こえた。見るとケイがいた。
足早に浴槽に足を付けた。僕の隣まで来てゆっくりと肩まで浸かる。
「あ、さっき『邪魔するぞー』って言ったよね」
「……言ったな」
「え、えっと、邪魔するなら帰ってー……」
「…………」
え?
「なんだそれ」
「な、なんか大阪の定番ネタみたいなのが……」
水面に沈んでいった。どう反応すればよかったのだろうか。
「もう! 敬助くんは料理できるの!」
顔が出てきたと思ったら、恥ずかしさを紛らわすためかの質問。まあ、確かにできるのか少し気になる。
「んー俺はー……少しならできる」
「え! できるんだ。なに作れるの?」
予想外の答えだったのか、ギルの声に羞恥心のようなものはなかった。
「チャーハンとかハンバーグとかなら」
「意外に本格的な料理だな」
少し驚いた。ずっと家でも寝てるイメージしかなかった。
「妹が好きな料理なんだ。俺の家共働きだから親の帰りが遅いとき、俺が作り方を調べて作ることがあってさ」
「へー。きっかけが素敵だね」
素敵なものなのだろうか。僕はただケイの親が育児放棄しているようにしか思えない。まあ、他人の家庭事情に口出しをしたいわけじゃないが。
「あー俺二人の料理食べてみたいなー」
「蓮も作れるのか?」
「作れなければ今までなにを食ってきたってなる」
「……あ、そっか。そう……だよな……」
ケイの顔が明らかに暗くなる。
「なんでこんなときまで暗くなる」
僕は親の死を悲しいものとは捉えていないと、何回言えばわかるのだろうか。
ギルが明るく、普段通りに言う。
「そうだよ! いつか二人のごちそう食べてあげるからさ!」
「そのときは腹いっぱい食わせてやる。ギルの苦手なものを集めてな」
微笑んでみせる。
「ひ、酷い! けど……れーくん優しいからそんなことしないでしょー」
まあ、するつもりはさらさらない。そんな苦を与えたいわけではないからな。
「……ちょ、ちょっとトイレ行ってくる」
腹でも痛くなってきたのだろうか。駆け足気味に出ていった。
静かな夜だ。やはり、この夜の冷たい空気は好きだ。寒いが、好きだ。
「月……見えないな」
上を見る。ただ星が輝いているだけだ。まだ早いのだろう。
風がびゅっーと吹いて口に付くくらいまで沈める。寒い。けど……とても温かい。
そして僕が温かさに浸っている顔でも見たのかケイが、
「蓮は温泉とか銭湯とか好き?」
「……まあ。昔はあまり好きではなかったが。
温泉は修学旅行とか以外で、一度ギルと行ったことがある。中学三年の、受験シーズンに入る少し前だったか。僕が勉強のしすぎで酷く体調崩してたから、勉強させないようにって体の癒しも含めてな。初めは断ったが、断る理由を言えば……大丈夫と言ってくれた。
正直、あのとき温泉に行ってよかったのだろうと思う。行っていなかったら今もこうして温まれなかったかもしれない。……温泉でも銭湯でも入ること自体は好きなんだ。温かくて気持ちいいのには変わりない。ただ……心の根っこから拒否しているだけで」
「…………」
気づいたら、視線が下がっていた。慌てて顔を上げて声を出せば、
「ヘンなことをいっ……」
「…………」
ただ静かに抱かれた。……ケイの体、温かい。
ケイは心配しているのだろうか。僕のことを。ケイには過去の全てを知られているように扱ってくる。たったの一年しか過ごしていないというのに。ギルですら僕の過去の半分程度しか知っていないだろうに。
ケイの鼓動を感じる。少しばかり速い気がする。
「ごめんな。ほんとに」
「……ケイが謝ることではない。ただ、ケイに出会えたから救われたのは確かなんだ。会えなかったことを想像したくない」
「ごめん」
「……過去はもう変えられない。でもありがとう」
ケイの抱く力が強くなる。それほど僕のことを思ってくれているのだろうか。本当に大切な存在ができたものだ。
露天風呂につながる扉が開かれる音がして、さっとケイは離れた。
「寒い寒い寒い……ふぅー寒かった……」
ギルがじゃぼっと浸かって水面が揺れる。ケイを横目で見れば顔を曇らせていた。本当に、なんでこういうときにまでそんな顔をするのだろうか。
空を見上げれば暗闇にただ、星が冷たく輝いていた。
「もー、なんでこんなときまでのぼせるのー?」
「よくなるのか?」
「いっつも忘れた頃になるの。それで俺が気づくまで黙ってて結局気づいて俺に怒られて、どこかで横になって安静にする。もういつもの流れだよ」
今はその流れの横になっているとき。
露天風呂から上がろうとしたときには違和感を覚えていたが気のせいだと流し、着替えている途中に気分が悪くなって座り込んだ。すぐ横で着替えていたギルに気づかれたら「もーまた? 大丈夫?」と、呆れられた。
上の服だけ着てしまって、今はすぐ後ろにある長椅子で横になっている。
「なんか蓮倒れてんじゃん」
べつの場所で着替えていたらしい下条が覗きながら言う。
「のぼせちゃったみたい。ほんとよくなるんだから……」
「先生に言ってきたほうがいいよね。僕言ってくるよ」
髪の濡れた総務が視界に現れる。
「悪い」
「いいよ、ゆっくりしてて」
そしてそれぞれ視界から消える。
今は動ける状態ではないに等しいが、だからと言って次に風呂に入る班がいる。待たせては申し訳ない。
体を起こせば額に置かれていたタオルが落ちる。
「ちょっと、どうしたの?」
「ズボン取ってくれ」
「なんで?」
「ズボンはかせないまま行動させる気か」
「れーくん服長いしギリギリ隠れるよ」
「そういう問題じゃない」
「えー?」
と、笑いながらズボンを渡してくれる。座りながら足にズボンを通して、支えてもらいながらはく。顔を動かすと気持ち悪くなる……。
タオルを肩に掛け、服をまとめるだけまとめて動きやすいようにする。荷物を持ってロッカーに手を付きながら立ち上がった。
「ちょ、ちょっとれーくん、なにしてるの! じっとしてないと危ないでしょ」
「部屋に戻る」
「それなら俺も一緒に行くからちょっと待って」
「…………」
仕方なく壁にもたれながら待った。座ってしまえば立ち上がるときの負担が大きい。
ギルの準備ができたようで、行こうと声をかけられた。自立してギルに支えられながら部屋に向かった。そのときギルに半分くらい荷物を奪われた。
部屋に戻れば床に座らされて、変わらずタオルドライをされる。だが、髪を乾かすよりも先に水が欲しい。
「ギル、水適当にくれないか」
「え? あ、そっか。あはは。れーくんのリュックに入ってる?」
「持ってきていない」
「もーばーかー。俺のも全部飲んじゃったんだよね……。ちょっと買ってくるからじっとしてるんだよ! ちょっとでも動いてたら今日ずっと抱きつくから」
なんだそれ。そう吐き捨てたら部屋から出ていった。少しはマシになったが、あまり気分が優れているわけでもない。少し動けば悪化しそうだ。さらさらに動くつもりはない。
僕の傍に放置された荷物から細かいもの、腕時計とネクタイ、ベルトを靴下などを入れている袋を取り出して上に置いてまとめる。
「あのさ」
「っ……」
びっくりした。洗面所からいきなり柊が出てきた。他に人がいるとは思っていなかった。
「話し相手は僕であっているのか」
「他にいない……でしょ」
「まあ」
柊は僕の前に立っって姿勢を低くさせる。そして少し照れくさそうに視線を逸らす。
「あの時……ありがと」
あの時? なにかしたか。
「悪いがなにも憶えていない」
「……あっそ。べつに憶えてないならいいけど」
柊はすぐ隣に座り込んだ。僕はいつ、柊と距離を縮めただろうか。
「なんかあったの。さっき英川が脅すようなこと言ってたけど」
「あぁ、大したことではない」
「っそ」
ギルが帰ってくるまで動くことができない。ちょっとでも動いたら、今日ずっと抱きつかれるらしいからな。さすがに嫌だ。勘弁してくれ。暖かいのはいいのだが、動きづらい。
このあとは自由時間兼就寝、翌日の荷物の準備時間だ。僕は静かに本を読んで過ごしたいのだが、そうはさせてくれないのがギルだ。今日は普段より動いたから足を休ませたいのだが、果たして休ませてくれるだろうか。
「風呂はゆっくり浸かれたか」
互いに沈黙は気まずいだろうと思い、なんとなく聞いてみた。意味はない。べつに他人の風呂がどうだったかの感想なんぞ興味ない。
「……浸かってない。洗ってすぐ出た」
なんてもったいないことを。露天風呂だってあったのに。
「……鏡あるから」
鏡?
「鏡があるせいで、前向いたら気持ち悪い自分の顔が映る。見たくないのに。目に入って気分損ねた」
「…………」
なにか言ってやる言葉が思いつかない。
僕も確かに僕自身が好きではないから極力見ないようにしている。が、どうしても鏡なんてものはそこら中あってしまう。スマホを内カメラにしても、夜に窓の外を覗いても、金属製のスプーンの凸になっているところを見てみても。鏡を見たくないと思っても、世界中の鏡を割るなんてことできないんだ。
「蓮くんはいいよね。綺麗な顔してて。羨ましいよ」
「べつに綺麗なんかじゃっ……」
柊に横から肩を押されて畳に背を付ける。横に置いていた服がクッションになって頭は守られた。
「蓮くんはさ! ……自覚ないかもしれないけど、周りと比べてすごく綺麗なんだよ? ぼくなんかよりずっとずっと、綺麗でかっこいいんだよ……」
「綺麗かどうかは」
「うるさい! 黙れ!」
「…………」
「蓮くんのこと、羨ましくて仕方ないんだよ。顔も性格もかっこよくて、大人で、友だちもいて……こんなぼくにも優しくして……。蓮くんと全部入れ替えたいくらいだ。本当に、本当にキモチワルイ」
「柊は自分で行動したことがあるのか」
「はあ……? なんだよ急に」
「僕の知り合いにいるんだ。中身が男で外見が女の人が。だが、その人はその人らしく男として生きている、誰になにを言われようと。自分で行動したときだってあるんだ」
自殺をしに、だが。
「だがお前はどうだ。他人を妬んで行動したことがあったか。自分の気持ちを晴らすために他人を妬むような言葉しか吐いてないじゃないか。それだけでお前の周りは変わっていくんだ。それだけでお前の周りから離れていくんだ。お前のメンタルの強さは聞いていない。自分中心に動いていると思うな」
「っ……」
肩を掴まれる力が強くなる。それと同時になにかの雫が顔に落ちてきた。柊の涙だ。キツく言いすぎただろうか。
そう思っていたが次第に微笑みだす。
「蓮くんだけだよ……。ぼくのこと見てくれて、叱ってくれるの……。ほんとに何者なんだよ……」
柊は次第に僕の腹に顔を埋めた。こんな姿を見るのは初めてだ。さすがに困惑してしまう。どうすればいいものか……。だが、こんな姿を見れたからこそ、柊は僕と変わらない人間なんだと、再確認してくれる。
「れーくんお水買ってきた……よ」
扉が開いたかと思えば、ギルがペットボトルを持って入って来た。タイミングが悪いと思ったのは柊を思ってだろうか。
「ひ、柊さん! 大丈夫? どうしたの?」
ギルの存在に気づいた柊は顔を上げて一瞬ギルを見る。傍の壁を殴って立ち上がったかと思えば、ギルを避けて部屋から出ていった。
「……れーくんなにか酷いこと……してないか。れーくんに限って。なにがあったの?」
「……柊のために、黙らせてくれ」
「……わかった」
柊のような性格の奴は、ああいう弱音を吐く姿なんて見られたくないだろう。弱音を吐いてしまった理由すらも。
起き上がって、少し頭痛がする。
「……れーくん押し倒されてたけど、どこも怪我してない? 頭大丈夫?」
「ああ。服で守られてな。心配ない」
ただ、倒されたときに頭が酷くズキズキと痛んで、一瞬気分が悪くなった。まあ、こんなこと言わないが。
「あ、はい。お水」
「ありがとう。あとで返す」
「……返す? なにを?」
「金を」
「……え! いいよそんなの。なんでもかんでもお返ししようとしないで」
普通しないものなのだろうか。買ってもらったなら、その分金を払うのは当たり前ではないか?
ギルから貰ったペットボトルを開けて、喉に水を通していく。プラシーボ効果かもしれないが、徐々に良くなっている気がする。
ギルに髪をタオルドライをされていれば、部屋に下条たちが入って来た。ケイはまだだ。
「ギルと蓮はや! もう部屋戻ってんじゃん。蓮椅子に倒れてたはずなのにいないと思ってたけど」
「あはは、れーくんがゆっくりせずに部屋に戻ろうとするからそのまま。お水も飲めたし、ちょっと顔色良くなってきてるから結果オーライだよ」
「よーしじゃあ、枕投げするぞー!」
部屋に戻ってきて、第二の話題にするものじゃないだろ。それに、先に着替えた衣服類を鞄に入れてから言え、そういうのは。
「駄目だよ。俺もだけどれーくん髪の毛乾かしてないし、布団も出してないよ」
「え? 髪の毛乾かしてねぇーのか? なら乾かさないまんま来たんだな。あっちにドライヤーとかあったぞ」
「……れーくんが部屋に戻る戻るうるさいから気づかなかった。あはは」
人のせいにするな。
「そこまで言うなら先に乾かしてこい。洗面所にあっただろ。僕のことはいいから」
「うーん。じゃあ、先に乾かすね。終わったられーくんの乾かしてあげるから」
「必要ない」
「必要あるよ。するからね」
ギルが自分のボストンバッグからクシとなにか小さめの容器を取り出して洗面所に入っていった。少しするとドライヤーの音が聞こえてきて部屋が少しうるさくなる。
柊はどこかへ行き、総務は黙々と荷物をまとめ、下条は布団を出し始めている。まだ部屋が荷物でいっぱいというのに。僕も荷物を片付けようか。
すぐ横に置いていた荷物は一部、ギルのもある。それを分けて、ギルのはギルのボストンバッグの上に置いておいた。僕のも自分のところへ入れていく。明日使う制服類は畳んでリュックの上に置いておいた。
「あっ、なあ、ここに浴衣あるぞ」
敷き布団が入っていた襖とは反対側を開けた下条が言う。
「これ着ろってことかな」
「確認するね」
下条が適当な答えを出す前に総務がしおりを出して確認する。寝るときに着る部屋着は二泊だからと二着持ってきているが……。
「……特に記載はないから使ってもいいんじゃない? 旅行気分味わえると思うし。来たくない人はそのままでいいと思うし」
「なら俺着よー。せっかくだから蓮たちも着とけよ」
なぜ僕。
畳まれていただろう浴衣は、投げられて形をなくす。
「なあギルー」
洗面所に入っていく下条。
そして間もなく「着たい!」とドライヤーに負けない声。
……せっかくだから着ようか。
結局ケイと柊以外着ることにするらしい。
……けど少し寒い。羽織なんてものはないだろうか。……ないか。下にズボンをはいて、中には部屋着を着ておこう。……いや少しごわつく。寝る前に脱ごう。
話し相手もいなくて暇になる。本を読みたい気分でもない。こういう風呂上がりはゆっくりしたいものだ。
この和室に似合う座椅子を窓の下にある文机まで持ってきてそこに座り、外の景色を見た。窓の外は暗いが、その分月がはっきりと綺麗に見えていた。月が見える時間になったみたいだ。しばらく月を眺める。
月の形なんてなんでもいいと思っているが、こうも綺麗な満月なら、見とれるというものだ。細い三日月も美しく感じる。月を見るのも久しぶりだ。
「蓮」
誰かが呼んだかと思えば、ケイが座椅子を寄こしてきて隣に座り込んだ。いつの間にか部屋に戻っていたらしい。気づかなかった。
髪が乾いた状態であれば、眼鏡をかけている。やはり眼鏡姿は新鮮だ。
「髪、乾かすの大変じゃないか」
「んーまあ、大変だけど……切れそうにもないから」
……どういうことだろう。なにかケイなりの信念があるのだろうか。それとも、過去に対しての思いなどか。
僕は髪を乾かすのは面倒でやらない。もしそんな長い髪を持っていたらギルが呆れそうなほど痛んだ髪を作りそうだ。……この髪でも痛んでいるか。
「ケイは浴衣着ないんだな」
「んーまあ。動きにくそうだし?」
「昔寝るときに使わせていたくらいなんだがな」
「まあまあ。俺そういうの合わないから」
着物はよく合っていたのに、どの口が言う。
「のぼせたのもう平気? 気づいたらいなくなってたから焦ったんだけど」
「次の班の奴らを待たせないようにって思って。……次の班に空いたって伝えたか」
「いや」
立ち上がって扉に向かう。
「いや、俺が」
扉を開けようとしたとき、先に開かれた。目の前には総務が立っていた。
「あ……お風呂上がり大丈夫だった? 一応先生には伝えておいたよ。でものぼせくらいなら水飲んで安静にしておいてって言われて」
「もう大丈夫だ。ありがとう。それより、次の班に風呂が空いたこと伝えたか」
「うん。僕が戻ったときにね」
「そうか。ありがとう」
素直にきびすを返す。
ケイは変わらず隣に座っていた。さっきは「俺が行く」みたいなこと言っていたくせして。まあいい。
また月を眺め、感性に浸っていようと戻れば今度はケイが立ってしまう。ちらとなにをしに行ったのか目を移すが、ボストンバッグをあさるケイの大きな背中しか見えなかったから諦めて月に目を向けた。
ケイが隣に戻ってきたときにふと顔を見る。と、
「……どうした、なにかあったか」
「え?」
ケイの目から水が流れていた。頬に伝って一粒ケイの手に落ちる。それで気づいたのか、わかりきっているようにあぁともらす。
「べつに泣いてないさ。さっき目薬差したからそれで。ティッシュ持ち歩いてないから。べつに服で拭いてもいいんだけど」
頬に作った筋を拭って、目元も軽く拭う。特に嘘をついたような言動はない。声色も表情も、嘘をついてはないようだ。
泣いていないのであればいいか。心配させる。
さっきチラッとケイを見たときに下条がせかせかと机を隅に寄せているのも見えた。僕も手伝うべきなのだろうが、風呂上がりに汗をかくのは嫌だ。悪い、断る。
「……月が綺麗だな」
そう言われて月に目を移してから、ああと答える。綺麗な満月が空に浮いている。
「あ、あのさ……」
「……なんだ」
「いや、その……」
ん、なんだ。ケイが珍しく気圧して喉が閉まるなんて。そんなつもりはさらさらないんだが。
「なんでもない」
そっぽを向いたケイの耳は赤くなっていた。熱でも出したか?
「れ、蓮は昼と夜どっちが好き? 俺は夜」
話を逸らしたかったのか、本音なのか。
昼夜のどちらかか。正直どちらでもいいが、
「どちらも好きだ。昼は騒がしい時間が過ごせて、夜は静かな時間を過ごせる」
「……それ矛盾してない? 静かな時間を過ごしたいけど、騒がしい時間も過ごしたいのか?」
「ああ。矛盾はしていない」
「…………」
ケイは、僕がどちらも好む理由を知り得ないだろうな。ギルでもきっと無理だ。僕はそれを誰にも見せないから。
月はなにもかも見透かしたように輝いている。目を伏せて月を見るのをやめた。
「髪、乾かさないのか? まだ濡れてるぞ」
ケイが僕の髪を触りながら言う。
「ここまで乾いてるなら自然乾燥のほうが楽だ。なにより、ギルが使用中」
「そっか。蓮の髪ってなんか癖付いてるよな。昔はもっとこう、さらっとしてたのに」
「ドライヤーを省けばケイもなれる」
「……遠慮しとく」
ドライヤーを面倒臭がってこうなった。誰でもタダでなれる。
「なあー布団敷くの手伝えよー」
下条の声が後方からする。
「あ、ごめんね。これ終わったらでもいいかな」
「違う、豊じゃない。豊なんかしてるのは知ってるから。そうじゃなくて、そこ二人! なんもせずにただ窓の外見てよ」
「わかった。ただ、蓮はいいだろ。こういうのに向いてない」
間接的に力がない、と言われている。確かに向いていないのかもしれないがだな……。
「まあ、敬助が手伝ってくれるなら……」
ケイが立ち上がって下条の手伝いをする。僕も少しくらい手伝うつもりで、僕とケイが引っ張り出した座椅子を机の傍にある束に重ねる。他に、荷物を広縁まで運ぶ。
「れーくん空いたよ。髪の毛乾かすよ」
近くにある扉が開いたかと思えば、
「……わかったから、少し力を緩めろ。痛い」
「だって逃げるもん」
ギルに腕を掴まれて洗面所に連れて行かれた。入らされるなり、なぜか髪を少し濡らされてタオルで水気を取れば、なにかの液を髪に塗られる。
「ちょっとれーくんしゃがんで。届かない」
「…………」
仕方なく膝立ちをする。
「それはなんだ」
「これは流さないトリートメント。部屋に置いてきちゃってたからちょうどよかったよ。これでちょっとさらさらになるんだ」
塗り終えたらしい。ドライヤーを起動して耳元がうるさくなる。
「熱かったり痛かったりしたら言ってね」
「……ああ」
ギルがクシで解かしながら髪を乾かしていった。目が乾燥するので目は瞑ったままでいる。こうして誰かに乾かしてもらうというのは、やはり楽でいいな。そんな最低な思考を巡らせながら、ギルが満足する髪になるまでじっとしていた。
「よぉーし……あとは、あ、まだ目瞑ってて」
まだか。ドライヤーの音が消されたかと思うと、今度は熱気の強いものが髪に当てられているようだ。なにをしているのだろうか。
「あつっ」
「あっごめん! 大丈夫?」
「……ああ」
一瞬なにか熱いものが頭皮に当たった。あんな熱いものを髪に当ててなにをしているのだろうか。
もうしばらく待っていれば、その熱いものは当てられなくなり、クシで解かれるのがメインになる。
「よし! できた。えへへ、もう開けていいよ」
この笑い方はなにか企んでいるときの笑みだ。なに企んでいる。
目を開ければ鏡に映る。いつもと少し……だいぶ変わった僕が。鏡の中の僕は、髪が真っ直ぐになっていて、顔に沿って弧を描いている。いつもの癖っ気の髪はなかった。一瞬誰かわからなかったほどだ。
「……なにした」
「さっきの流さないトリートメントと、アイロンだよ。れーくんの家に泊まってもアイロンとか持ってきてなくてできてなかったから。れーくんの髪にやってみたかったんだよね。昔のれーくんみたいでかわいい」
僕はべつにこの髪型であることに苦は感じていない。ただ、ヘアアイロンで髪が真っすぐになった分目に掛かって少し邪魔だ。まあいいか。
「先に出てて。俺アイロンとか片付けるから」
「悪いな」
ギルの片付けるを手伝ってもよかったが、ヘンに触って壊してしまうのは怖い。先に出て布団敷きの手伝いでもしようか。
扉を開けてみれば、もう下条たちが布団を敷き終わって、寝転びさえしていた。僕が手伝う必要すらなかった。
中央に三つずつ布団が並んでおり、カードゲーム類が広げられていた。つまりはやりたいということだろうな。体を動かすことではないからべつにいいんだが、正直あまりやる気はない。見るだけでいい。
トランプ、UNO、オセロ、将棋、すごろく……人狼……ゲーム?
なんだ人狼ゲームって。人狼は人間に化けた狼、またはその逆で狼に化けた人間のことを言うが。人間に化ける狼が満月の光を見ると、人間に戻ってしまい、正体がバレるというのは創作の話でよくあるものだな。それにちなんで人狼ゲームとは満月を見ないようにするゲームか?
「あ、蓮。ギル帰ってきたら……どうしたんだよその髪」
下条の言葉で部屋にいる、柊以外の注目を浴びる。柊はいつの間にか帰ってきて、部屋の隅に座ってスマホをいじっていた。もう涙なんて流していなかった。
「ゆうき」
突然のケイのその言葉で、一瞬ドキリとする。
「勇気? なにが」
下条がわからなく、聞き返すがケイはなにもないとごまかした。
「……ギルにヘアアイロンを当てられた」
「なんか……ヘン。蓮じゃないだろ」
「僕だ。それにヘンとか言うな。それに昔はこうだった」
「え、嘘だ。絶対嘘だ。いつもの癖っ毛が本物の蓮だ!」
僕は僕でしかないんだから、そう言われてもだな。べつに疑いを晴らしたいというわけでもなかったので「好きに思っていろ」と言って話を流そうとする。だが、僕の過去を知っているケイは、
「蓮は、昔はこうだったんだ。……懐かしい」
そう言って淡い夢を見ているように微笑む。
「えー、マジかよー」
「あはは、そうなんだー」
洗面所から聞いていたらしいギルが、ヘアアイロンや流さない云々を手のひらに絡ませて出てきた。
「れーくんがこうだから小さいときに戻ったみたい。あはは。懐かしいなー。……いろんな思い出が蘇ってくるよ」
少し悲しそうな表情をする。まあ、思いだしたくもないこともその「いろんな思い出」として蘇ってしまったんだろう。僕は昔に戻りたいとは思わない。進みたいとも思わないが。
「髪型は昔と同じだけど、昔のれーくんとはなんか違うんだよねー。なんていうか……わかんないけど。もちろん成長したってのもあると思うけど、それだけじゃないと思うんだよね」
「やっぱりギルくんもそう思う? 昔の蓮とは少し違う感じがする」
そんなこと言われても、僕に自覚はないからどうしようもない。
「昔のれーくん、ちょっと馬鹿っぽかったからかわいかったんだよねー。今もかっこいいしかわいいけど」
馬鹿とはなんだ馬鹿とは。学力で言ったらギルも同じく馬鹿だと思うんだが。
「今も十分かわいい」
続けてケイも言う。
「二人とも一度口を閉じろ」
「あははは」
「そういうところがかわいい」
うるさいな……。耳を塞ぎたくなる。
適当に空いている端の布団に寝転ぶ。寝転んだことでか、急に体が重くなる。もう動きたくない。今日は本当によく動いた。今日の寝つきは良いかもしれないな。
「さむい……」
「あはは、れーくん寒がりだもんね」
手を絡ませながらも腰あたりにあった掛け布団を肩まで掛けてくれる。気が利く。
「ありがとう」
「あはは、いいよー。風邪ひかれたら困るし。……それよりそれ髪邪魔じゃない? 目にすごい掛かってるけど」
「邪魔だ」
「あははは。ヘアゴムあるからポンパみたいにくくる?」
……ポン……パ……? ポンポンするパーティーか?
「それなら俺ヘアピン持ってる。ヘアピンのほうが跡付かなくていいだろ。女の子が付けそうなやつだけど」
「女の……妹か」
「そう。お守り代わりにって、持ってきてる」
ケイは早速立ち上がって取りに行ってくれる。
お守りってだけで、ケイの妹はもう存在しないということまで連想できるのは、真実を知っている者だけだろう。だが、それを悟られないようにか、知っている者でも一つも表情を変えない。
「敬助妹いたんだな」
「僕も驚いたよ。何歳の子?」
「…………」
今も生きていたら十四歳頃だろうか。学年にして中学二、三年生。
「……女性に年齢を聞くなんて失礼な」
その返しはうまい。
「いいだろ敬助の妹の年齢くらい」
「…………」
まあ、確かに下条の言う通りなのかもしれないが。今はケイの気持ちも理解してやってほしい。
ケイは振り返ることなくリュックに手を突っ込んでいる。
「だいたい二、三歳くらい歳離れてたりするよね。僕のお兄ちゃんは四歳離れてるけど」
「俺とれーくんはひとりー。でもその分、俺ら兄弟みたいだもんねー」
一度も兄弟とは思ったことはない。
「あった」
帰ってきたケイは僕の目の前にしゃがみ込み、前髪を横に流す。前が一気に見えやすくなる。が、普段はここまで見やすいというわけでもないから、少し落ち着かない。
「これでどうだ」
「ありがとう。見えやすい」
「わー。れーくんの前髪横に流してるの初めて見たー。これもなんかいいね。俺は昔みたいな髪型がいいけど」
「…………」
昔の髪型に戻ることはないだろう。なにかを思いだしてしまうくらいなら、戻そうとも思わない。
「あの、僕班長の集まるのがあるから行ってくるね。全然トランプとかしてていいからね」
「はーい」
班長は大変だなぁ、と他人事に思っておく。なにより、総務は自ら班長に立候補したが、僕らが総務に班長を押しつけたようなものなのかもしれない。
総務が開けた扉が閉まりきってから、下条がトランプを乱雑に取り上げて声を出す。
「じゃあ、まずババ抜きからしようぜ!」
ギルのみの返事を聞けば、四カ所に配り始めていく。
「あ、柊さんも……入らない?」
なにも言わなくても時は流れたはずのものを、ギルはそうしない。ギルらしい。ギルの言葉が無駄にならないように付け加える。
「……入るなら入れ。配る枚数が変わるから早めに」
「…………」
ギルのときはなんとなく背いている感じがしたが、今はどこか満悦しているように思える。一瞬のためらいを見せたあと、僕の向かいの布団にあぐらをかいた。
「お、実琴もするか?」
ミコト? ……柊の名前か! ここに来て初めて知った。いい名前をしているじゃないか。それに、下条とはそれほどの仲みたいだな。
「……嫌いだから、下の名前で呼ばないでくれる? ってかいつぼくの名前……」
……そういうわけでもないのか。いつものキャラを演じた言い方ではなく、あれは完全に素の柊だった。本当に嫌みたいだ。
「二年の初めの自己紹介の時に言ったの憶えてた」
憶えていたのか……。僕のときもそうだったが、やはり記憶力がいいのか? だが勉強は得意ではないらしい。なら、仲良くなりたいと思った人にだけ発揮される力があるのかもしれない。
「えー、じゃあなんて呼んだらいい? 俺は実琴って呼びたいけど」
「だからっ……呼ぶなって。……適当に呼んでくれたら」
「じゃあ、実琴って呼ぶな!」
「はっ……」
それは柊の返事が悪い。
五カ所に配り終え、それぞれ手札を見て数字が揃っていれば捨てる。二ペア捨てて手札は六枚になる。ジョーカーは持っていない。
それぞれ捨て終えたら、やる気満々のギルと下条がじゃんけんをし、下条から時計回りになった。つまり下条、ケイ、ギル、僕、柊の順だ。
下条がケイにカードを突き出す。ケイがそれを一枚取り、表を見る。少し呆然としていた気がする。ジョーカーでも引いたか?
続いてギルがケイのカードを一枚取る。なんの反応もなくカードを手札に入れた、かと思えばさっきのカードと一緒にもう一枚のカードを引っ張り出して捨てる。揃ったようだ。
そして僕に五枚のカードを突き出す。五枚と言っても真ん中のカードが明らかにどのカードよりも突き出ていた。ギルの顔を見ればものすごくニヤリとしている。心理戦が開戦する。
こういうのは二パターン用意されている。一つ、単純に取ってほしいもの、今で言うジョーカーを取ってほしくて目立たせている。一つ、それの裏をかいて、両端などに手が向くように仕向けている。つまり、考えても意味がない。この二つに分かれるだろうが、そもそもギルがジョーカーを持っているという確信もなく、ほぼお手上げ状態なのが現状だ。
ギルの目を見れば、やはり綺麗な瞳を向けてくる。顔の表情はともかく。
「蓮、そんなところで心理戦なんかすんなよー。どう足掻いてもカードの中身わかんねーんだから早く取れよー」
うるさいな。ババ抜きはこういう心理戦が楽しいものじゃないか。
ギルの目をもう一度見てから、なんとなく一番右のカードを取った。残念ながらジョーカーでなければ、手札に揃う数字でもなかった。
カードを適当に差し込んで柊に突き出す。僕に少し近づいて一枚カードを取っていった。揃ったみたいだ。
これを何度か繰り返してカードを減らしていく。
ギルがケイのカードを取ってケイが上がる。下条がギルのカードを取って二枚あるカードを混ぜる。ギルがカードの前で手を左右に弄び、下条の変わらない表情を見て、左を抜き取る。
「やった! 揃った!」
「くっそー! 負けたー!」
ギルは二枚のカードを捨て、下条はジョーカーを投げ捨てる。最後にジョーカーを持っていた下条が最下位という結果になった。一位は柊だった。こういうのは言い出しっぺが負ける。そういう法則で成っている。……知らないが。
ババ抜きが終わり、下条が中央に捨てられているカードを集めてまとめる。僕は肘を突くのをやめて肩を下ろし、枕に顔を埋める。この体勢に疲れてきた。肩に負担がかかる。
「んふふ。負けちゃったね」
途中で戻ってきた総務は近くで見ていた。
「次は総務さんも入れてやろ!」
「だな!」
「あー。あの、僕トランプもいいんだけど、オセロ……やりたいなって……」
「オセロ?」
オセロは確かにここにあるが、オセロは一対一の戦いで、残り四人が暇になってしまう。ギルはそういう気まずい雰囲気は避けたそうな表情だ。
オセロは白と黒の駒を使う、単純なゲームだが、意外と難しく、ギルといい勝負をしていた気がする。……昔オセロで遊んだことを思いだしたことによって、将棋をしたことも思いだした。
「将棋ならできる」
「確かに出てるけど絶対駄目。れーくん強すぎるもん」
少しムッとしながら言う。ギルに向けて少し微笑んでやった。そしたら悔しそうに表情が深まる。
「んー、悔しいよー。思いだしただけで悔しい。……でもれーくんあれ以来やってないでしょ? だから衰えてるかもしれないってこと。れーくん将棋しよ! 絶対勝つ!」
ギルが珍しくやる気だ。確かにいつかも憶えていないときにした以来、やった記憶がない。
「じゃあ、オセロは、豊と……敬助か実琴する?」
「いや、俺はいい」
柊は横に頭を振る。
「なら、俺としようぜ! で、ギルと蓮は将棋! 敬助と実琴もなんかするならしてていいぞ」
「…………」
「…………」
下条、きっとこの二人を関わらせてはいけない。ケイがイライラしだしそうだ。
「ケイ……はギルのサポートを頼めるか。将棋……できるなら」
「もちろん」
表情が緩み、微笑む。なんて切り替えの早い奴なんだ。
それぞれ準備をして、
「金と銀って順番こうだっけ?」
「……逆だ。王将の隣に金将だ。それに飛車と角行も逆だ」
「あははは……。もう無理な気がしてきた」
それぞれ開始する。
「お願いします」
軽く腰を曲げる。
「お、お願いします」
崩していた足を正座にして腰を深く曲げる。隣にいたケイも軽く曲げていた。
「えっと、どっちから?」
「ギルからでいい。長くなるから持ち駒は打たないでおこう。少し厄介ではあるが」
ここに指せば……。僕は見られていなくともケイに微笑する。
「……あれ? これって……」
「……負けました」
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
「おおー」
ギルはのんきに拍手をする。
途中からケイの指示が多くなり、気づけば選手が交代していた。つまり、途中からだが、ケイとの戦いだったということだ。
「久しぶりにすごく楽しかった。ありがとう」
「蓮強すぎ……」
そう言って手を後ろにつく。僕も正座を解いてあぐらに座り直す。少し痺れ始めていた頃だった。
「残念ながら劣ってはいなかったな」
「れーくんに勝てる人いないんじゃない?」
「それはない。もっと強い人はいる」
最も、大会などに出られるほど強くはないんだ。
「やっと終わったか。オセロ四回戦目に入るところだったぞ」
オセロのほうでは対戦相手を総務と柊にしていた。下条はすぐ横にいる。
「悪いな。そっちも楽しめたか」
「一回目は俺と豊で俺負けて、二回目は俺と実琴で俺負けて、三回目は豊と実琴で引き分け。豊もだけど、実琴もつえーんだよ」
どちらにも負けた下条は弱いということだな。
「でも楽しかったよ。また時間あるとき、柊くんとも戦いたいな。引き分けのままだとちょっとモヤモヤするし」
「なら今してしまえばいいんじゃないか。四回戦目もするつもりだったんだろ」
「そうだけど、下条くんが人狼ゲームしたいってずっと言ってるから」
「え! 人狼ゲームするの! したいしたい! 一回やってみたかったんだよねー」
「……英川くんもしたいみたいだしね」
僕、その人狼ゲームとやらのルールを知らないんだがな。単純なゲームであってほしい。
それぞれの板や駒を片付けていく。
ケイとの対戦はなかなかに面白かった。またどこかでできないだろうか。そうは言っても、僕の家に将棋がないからできないんだが。
それぞれきちんと片付けたら、下条が人狼ゲームの箱を開ける。箱には白く光る満月と二本足で立つ狼が描かれている。本当に、満月を見ないようにする単純なゲームか?
何枚かのカードと説明書を取り出す。説明書に目を向けながら口を開ける。
「役職は人狼一人と村人二人と占い師一人。それ以外はない。いや、あるけど人数多くないし、ややこしくなるからこの三つだけな。俺がゲームマスターする」
役職……? ゲームマスター……? 満月を見ないようにするゲームではないようだ。
役職とやらに人狼と村人と占い師がいると言っていたな。それぞれどんな役割があるんだ? ……というか、やりたいと言いながらゲームマスターをするんだな、下条。
カードが一枚、裏に向けられたまま配られる。そこには箱の表紙と同じ絵が描かれている。いったい、どういうゲームなんだ。
「じゃあ、表見て自分の役職確認してくれ。他の人に見せたら駄目だぞー」
表に向けて見てみた。そこには「村人」と書かれた文字と平和そうな村を背景に人が描かれていた。「村人」は今回のゲームで三人いると言っていた。だから、僕以外にもう二人の村人がいて、他に人狼と占い師が一人ずついるわけだ。
「確認したな。村人側の勝利条件は人狼を処刑すること。人狼の勝利条件は村人側を一人にすること」
占い師は……村人の味方みたいだな。村人の勝利条件を言うときは「村人側」と言っていたのに対し、人狼の勝利条件を言うときには「人狼」と特定した言い方だった。とにかく、村人は人狼を処すればいいんだな。……どうやって?
「よし! 始めるぞ!」
「おー!」
いまいちわかっていないまま始まった。ギルが楽しそうでなによりだ。
下条がゲームマスターが言うらしいセリフを、紙を見ながら読み始める。
「みなさん、明るい朝がやって来ました。話し合いをして人狼を推理して処刑しましょう」
推理……。なるほど、そういう系か。僕の口元に笑みが浮かぶ。このゲームが終わるのは人狼の処刑か、村人の殺戮。どのみち、平和的解決はないみたいだ。
「今から二分間くらい話し合ってくれ」
一気に自然な話し方になった。
話し合いとはなにを話すんだ。とにかく黙って様子見をしておこうか。
「みんなどうする? 初めはやっぱりパスする?」
「そうだね。そっちのほうが安心だと思う」
パス? なにを。
「あ、俺村人だよ! れーくんは人狼じゃない?」
「……村人だ」
正直に答えていいのかわからなくて、ヘンな間ができてしまった。こういう場合正直に答えていいんだな。ギルがためらいもなく言っていたし。
「柊さんは?」
「……村人」
誰も話さないからギル自ら聴取しているのか。今のところ村人が三人出てきたが、総務とケイがどう言うかだ。
「総務さんは?」
「僕は占い師だよ」
占い師。となれば、残りはケイ。そしてケイが人狼、ということになるがこんなに簡単でいいのか?
村人側の勝利条件は人狼を処すること。つまり、人狼になった人は処されないように、嘘などをついて生き延びて村人を殺さなければならないんだな。だから、人狼が自ら「人狼だ」と言う展開はないに等しい、というわけか。
「敬助くんは?」
「……俺も占い師」
ほら。なんとなく理解してきた。
「……えぇ?」
一人しかいないはずの占い師が、二人目が出てきてギルは困惑する。しかし、これがギルの演技で実は人狼だったということもあるんだろ? 面白いゲームじゃないか。
「総務さん占い師?」
「うん。占い師だよ」
「敬助くんも?」
「ああ」
「いきなり仕掛けてくるね。じゃあ、もうどっちも殺しちゃお!」
そんな笑顔で物騒なことを言うなギル。それに、こういうゲームは一気に二人を殺すことができないんだろう。つまり、
「それは危ないからやめておけ」
「え? なんで?」
「これは一人ずつ殺すことが可能なんだろ。クールタイム的なのがあって」
「クールタイムって……。れーくんもしかしてルール知らない?
人狼ゲームは朝と夜の時間があって、朝はこうやってお話しして、言わば会議みたいな。時間が来て、必要なら一人処刑もできる。で、夜はそれぞれ行動できる時間なんだ。人狼は夜の時間に一人殺すことができて、占い師は誰か一人を占って、人狼か人狼じゃないかを知ることができるんだ。……で、なんで危ないの?」
そこまで言っておいてわからないか。ただ、これで絶対にやめておくべき行動になったのは確かだ。
「もし、総務とケイのどちらかが人狼であったとしても、殺す順番によっては人狼が有利になってしまう。例えば、もしケイが人狼で、二人のどちらかを処するとしよう。そして、初めの一人をケイではなく、総務にしたとする。なら、死んだのは村人側の総務だ。そして人狼の勝利条件は人狼と同じ人数、今回なら一人にすることだが、誤って味方の村人を殺してしまえば、人狼にとっての敵は四人から三人に減る。それに……ないかもしれないが、もし、どちらも人狼でなかった場合は考えたくもない。……人狼が有利になってしまうことがわかったか」
ふぅ、と息を整える。だから長く口を動かすのは好きじゃないんだ。
「なーるほど」
「まあ、この人数で両方とも吊れば、村人の勝ちは確定しているが、それはそれで面白くないだろ」
ケイを見て言う。
「なんで俺見るんだよ」
「なんとなく」
「はい、しゅーりょー。もう二分経ったぞ」
「もー、れーくんがなっがーい話するから」
この次にあるであろう処刑時間に吊ってやろうか。
「えっと、この時間、誰か吊りますかって吊らねーな。じゃあ、次」
勝手に決めるな。まあ、大したことも話し合ってない。無差別に誰か吊られるほうが困る。
「えー、恐ろしい夜がやって来ました。みなさんは目を閉じて下を向いて見えないようにしてください……。見たら駄目だぞ!」
念を押される。言われた通り、目を瞑って枕に顔を埋めた。
下条は続ける。
「えっと……。人狼は目を覚まし、今夜襲う人を一人決めて、指を差してください」
「…………」
静かな時間が流れる。……寝れてしまいそうだ。
少ししたら下条が続ける。
「占い師は目を覚まして今夜占う人を一人決めて指を差してください」
少しの間が空いてから続ける。
「みなさん、目を覚ましてください。明るい朝がやって来ました」
決まり文句なんだなそれ。
僕は顔を上げて目を開ける。……眩しい。
「昨晩殺された人はいませんでした。それでは話をしてください」
「……面白くなってきた!」
目を輝かせながらギルが言った。が、怪しい奴を二人とも吊ったときの危なさをわかっていなかったのに、本当に面白いと思っているのか?
確かに僕もこれは面白いと思える状況だとは考える。占い師は一人しかいないはずなのに二人いる。おかしな状況だ。ケイか総務が人狼である可能性は高い。
「ねえ、占った結果言っていい?」
「うん」
総務が占い結果を言うらしい。本当に占ったのであれば。
「占った結果、柊くんは人狼だったよ」
「ボク、村人って……」
柊は初めから村人と言っていた。だが今こうして矛盾が生じる。だがこれも、ケイが占い師と名乗らなければの話だ。
「じゃあ、俺からも。俺は蓮を占った。結果、人狼だった」
「…………」
占い師が二人出たと思えば、人狼が二人出る。面白いじゃないか。
ケイの言葉で少しの焦りが現れたが、それでも僕の口元は微笑んでいた。
ケイが人狼である可能性は高くなる。だが、これは僕が自分の役職を知っているからだ。なにも知らないギルにはこの言葉が本当のように聞こえるだろう。逆に、僕からしたら柊が怪しく聞こえる。これも占い師が二人いなければの話だが。
「面白いことを言うんだなケイ」
「面白いだろ」
「とても」
「れーくん人狼? 俺に嘘ついたの……」
そんな悲しそうな顔をして精神的攻撃をするのはやめてくれ。それに嘘はついていない。ついていたとしてもそういうゲームなんだ。許してくれ。いや、本当に嘘をついていないから許してくれもないんだが。
「言っておくが答えはノーだ。そんな顔をして根本まで疑わないでくれ。そういうゲームだ。それに、今のケイの言葉をこの状況で信じられるか考え直すんだな」
「うーんそれは確かに……」
僕を人狼とするにはまず、占い師が二人いる状況をなんとかしなければならない。人狼が占い師を装って、あとから人狼だと言うのはいくらでもできる。
「僕は言っておく、ケイが怪しいとな。……少し聞きたいんだが、総務が柊を占ったのには理由があるのか」
「……ううん。なんとなくだよ」
なんとなく、か。いったい人狼は誰なんだろうな。
「柊とギルは村人と言っていたな」
「うん。言ったよ」
今のところ、真っ白で疑いの余地すらないのがギルだ。ギルがこの状況をどこまで理解できるかが鍵になってくるかもしれない。
僕にとってはケイが怪しい。僕は村人であるのにも関わらず、人狼と言う。本当の占い師ならば、なぜ嘘をつく必要があるのだろうか。そこがわからないから、ケイを人狼と言い切ることもできない。
「はいそこまで。次夜だ。寝ろ」
雑になってないか? 枕に顔を埋めた。
下条が人狼と占い師の行動を誘導し、間もなくして夜が明ける。
「はい朝。誰も死んでない。話し合え」
やはり雑になってるな。ゲームマスターに飽きてきたか。
「まず僕の占い結果言っていい?」
「どうぞ」
僕が勧めた。ここで、占い師と名乗る二人がどう発言するかだ。
「英川くんを占ったんだけど、村人だったよ」
「あぁ、よかった……」
べつに自分が村人なら心配する必要ないだろ。それかなんだ、人狼と言われるのが怖かったのか? 今まで人狼を匂わせる発言はしていなかったが、それも作戦のうちだったりするのか?
「ケイはどうだ」
いつもなら総務のあとにすぐ言うケイだが、今回は口を開こうとしない。
「……柊は村人」
「…………」
少し嫌そうな顔をして言う。なるほど、占った相手が気に食わない相手だから言うのを拒んだのか。ケイらしい。
柊はもとから村人と言っていて、総務の占い結果は人狼、ケイの占い結果は村人だ。いきなり大きな矛盾が生じる。柊自身で人狼なのに村人と言うことはいくらでもできるが、占い師がこうも違えば、怪しむこともできない。ケイが僕を人狼だと言ったが違うのは確かだ。今回の柊を村人だと言ったのもなにか考えがあるのかもしれない。
「んー誰が人狼かわかんないよー。俺以外みんな怪しすぎる。誰信じたらいいの? 俺の大切な大切なれーくんが嘘ついてるかもしれないし……」
だからそういう攻撃やめろ。それに嘘はついていない。
……まあいい。一度、今までのことを整理しよう。
初めにギル、柊、僕は村人、ケイと総務は占い師と言う。誰も吊らず狩られず、朝を迎える。
総務が一度目に占ったのは柊で人狼。二度目に占ったのがギルで村人。だが柊もだが、ギルはもとから自らを村人と言っていた。つまり、占い師でなくともギルを村人だと言うことは誰でもできてしまう。
ケイが一度目に占ったのが僕で人狼。二度目に占ったのが柊で村人。僕の占い結果は一致していない。だからケイは僕から怪しまれている。逆に周りからは僕が怪しまれているだろう。ただ、ケイが本当に占い師なら僕を人狼だと言う理由がわからない。だから余計にケイが怪しくて仕方がない。
柊に関しては矛盾が生じた。総務は人狼と言い、ケイは村人と言う。僕からしたら、僕を人狼だと言ったケイが嘘をついているように思う。が、もしケイが人狼だとして、僕を人狼だと仕立て上げたとする。そこで、疑われるのはもちろん僕で、僕を殺すことは簡単だ。だが、総務の占い結果で柊が疑われたときは人狼を否定した。わざわざ殺す機会を減らす必要はあるのだろうか。だからケイが人狼だと言い切ることもできないし、占い師と言い切ることもできない。
人狼は今まで夜になってから誰も殺していない。理由はいくつか思いつく。僕のように人狼ゲーム未経験者でどう立ち回ればいいのかわかっていない。あとは、今疑われているのはケイと総務と僕と柊だ。そんななかで疑われている誰かを殺してしまえば、疑われる人が減り、確実に刃が向くのは残りの疑われる奴だ。ヘンな行動はできない。
とは言っても、真っ白なギルを殺すことはできると思うんだが、なぜそれをしないんだろうか。それとも僕の思考以上に考えていることがあるのか?
広場に血は飛び散らずに朝を迎え、話し合いの時間になる。
「僕占い結果言うね。新藤くんが村人だった」
少しの間沈黙が続く。ここでも矛盾させるのか。まあ、今回は総務の言う通り、僕は村人だ。総務が本当の占い師だろうか。
「……ケイはどうだ」
「俺は初めに蓮が人狼って言った。新たに白を増やしたところで、変わらないだろ」
確かにそうではある。が、果たしてケイの行動に意味はあるのだろうか。
一番疑いを持たれていないギルの顔を覗いてみる。ギルはなにも理解できていない様子で、ぽかんとしていた。この感じギルは本当に村人のようだな。顔に出やすい奴は扱いやすい。
「真っ白なギルは今誰が怪しいと思っている」
「真っ白って……」
「っ、違う。白黒ハッキリさせるとか言うだろ」
ギルの肌のことを言ったわけではないんだ。
「あぁ……。れーくんが言うわけないもんね。あはは、びっくりしちゃった」
悲しそうな顔から笑顔に戻る。そういう言葉には敏感に反応してしまう癖が付いているのだろう。関連付けられる言葉を言うのは控えよう。
「んー。みんな怪しいよ。総務さんと敬助くんが占い師って言うから、どっちかが人狼な可能性あるし、れーくんも柊さんも人狼って二人から言われてるし」
……そうか。占い師はもとから一人のはずだ。村人が占い師を装って、嘘の情報を流してしまえば、自分が吊られる可能性が高くなるリスクがあって、そんな発言はしないはずだ。つまり、確実に占い師と言ったこの二人のどちらかが人狼なんだ。ギルも柊も人狼である可能性は低い。一度、今の状況をそれぞれの視点で考えてみよう。どう立ち回れば、どんな利点があるのか。
ケイは人狼を僕と言ったが、嘘である。もし、ケイが人狼であれば僕を浮かすことで刃が僕に向いて、人狼の勝利条件を満たしやすくなる。……だが、僕をそうして吊ってしまえば、確実に不利になってしまう。僕を吊ってもゲームが終わらなければ、ケイが疑われるのはもちろんだ。
総務は柊を初めに人狼と言った。これはケイが人狼であったときと同じだ。殺しやすくなる。だが、今回は僕と違って柊の本当の役職はわからない。本当に総務が占った結果が人狼であれば……。
「っ……!」
あることに気づいてパッと顔を上げる。
「わっ。急にどうしたの?」
「……寝てしまいそうだった」
そんなことはない。きっと話し合いの時間がもうすぐ終わるだろう。
「下条、時間はあとどれくらいだ」
「もう終わるぞー」
「そうか」
なら、この時間はやり過ごしたほうがいい。ここでわかったことを次に話すなどと宣言していれば、この次の夜に殺されるだろうからな。せっかくわかったことを次の話し合いの時間で話せなくなってしまうのは勘弁だ。
「はい終わりー。次夜な」
言われずとも枕に顔を埋めた。ただ、殺されないようにと、息を潜めながら時間が経つのを待った。
このゲームが始まってから、初めて鼓動をうるさく鳴らす。
「朝だぞー起きろー」
恐る恐る顔を上げて、下条を見る。もうそろそろ人狼も焦ってくる頃だろう。今まで誰も殺していないんだ。きっと誰か一人を、
「今日はなんと! 誰か殺されました! 誰でしょーか」
「いいから早く言え」
「つまんねー。殺されたのは」
下条の目の前にいる人間の肩を叩く。
「ギル。どんまい」
「えー! 俺なの? んー、もっとゲーム楽しみたかったのにー」
「ギルは発言禁止な。じゃあ他の人は話し合って」
喋られなくなったギルは僕に向けて眼差しを向けてくる。なんだ。
「んーんー、んんんーんんんんっんー?」
「なにを言っているかわからない。それに、死者に口なしだ」
「酷い! あ……」
えへへと笑ってからは、僕の背中に乗り上げて寝転ばれている。
「重たい。胸が圧迫されて息がしづらい。どけ」
「れーくん酷いー……俺泣いちゃうよ?」
心中で言っていたはずなのに、口から出ていたらしい。背中でギルの顔が埋まるのがわかる。……少しくすぐったい。
「声が漏れていた。正直に言う。どけ」
「れーくんが酷いよー、敬助くーん」
ギルがどいたかと思えば、ケイの背中に移動した。ケイも僕と同じような反応をする。
「ギル喋ったら駄目だぞー。まあ、関係ないことならいいけど。っていうか話ししなくていいのか?」
僕はギルを見た。
一つ咳払いをして口を開こうとする。が、
「もうそろそろ誰か吊ったほうがいいよね」
先に総務に越される。
「この時間はそれについて話し」
「話し合う必要はない。吊るのはお前だ総務」
「え! れーくん誰かわかったの!」
「…………」
ギルは本当に人狼によって殺されたのか? 普通に喋っているが。
「どうして僕なのか聞いてもいいかな」
「ああ、もちろん。そのために昨夜殺されないことを願っていたんだ。無事に殺されたのはギルだった」
「んー。れーくんの性格が悪くなっちゃってるよー」
「蓮はもとはああじゃなかったのに。あぁ、悲しいな」
ケイ、無理にギルに付き合わなくていいんだぞ。そんな演技染みた言い草でなくとも。
「このゲームは占い師が一人のはずだ。なのに序盤から二人出てきた。僕はその二人を人狼だと考えた。村人がわざわざ占い師を装う必要がないからな」
「れーくんなんで?」
「…………」
誰かギルの口を縫い合わせられないか。
「村人が占い師を装って、占ってもいないのに不確かな情報を流してしまえば、自分が吊られる可能性が高くなるからだ。例えば、ギルは村人なのに占い師と名乗り、僕を占った結果は人狼と言ってしまう。だが、そうして僕がギルを疑うのは当然だろ。それでなんとか僕の口実を周りが信じれば、嘘を言ったギルはどうされる」
「……吊られちゃう」
「だから、村人がわざわざそんなリスクを冒して占い師と名乗るわけがないんだ。つまり、確実に占い師と言った総務かケイのどちらかが人狼なんだ」
「なるほど……」
そこまで言えば、すぐ下に視線を移したところにあるケイの口は笑っていた。
「正直、初めはケイを疑った。村人である僕を人狼と言ったからだ。だがそれは、僕自身が村人であると知っているからであって、ギルや柊はその事実を知らない。だから、ケイのその発言で僕は疑われることになる。そこでもし、ケイが人狼であれば僕に刃を向けることで人狼の勝利を得られやすくはなるが、そこで僕を吊ってしまえば嘘を言ったケイが確実に吊られる。
それは総務が人狼であった場合も同じだ。柊を人狼と言ったが本当は違う。人狼であると言った柊を吊って、嘘がバレたら総務も吊られる。同じことだ。
一見、ケイと総務は同じことをして、互いに浮かせているのは確かだ。だが、条件として一部違う。僕は自分の役職を知っている。
占い師の二人のどちらかが人狼であることは確定している。なのに、総務は進んで柊が人狼であると言った。おかしいだろ、占い師のどちらかが疑われているなか、新たに疑わせる奴を増やすのは。それは総務が人狼であって、誰かを殺したい欲が出てしまったからだ」
「でも待って。それだと影島くんも同じじゃない? 殺したいって思ってるから新藤くんを人狼って言って……」
「ああ。確かにケイは僕を人狼と言った。だが、僕は村人だ。さっき言った通りに当てはめれば導かれるはずだ。
総務とケイの一番の違いは、自ら進んで役職や占い結果を言っているか否かだ。ケイはあとから役職を言い、あとから占い結果を言った。だが、べつに人狼でなければ言わなくてもよかったことなんだ。占い師を装ったのが総務とわかっていたから。わかっているのであれば、総務が人狼だと言えばいい。だが、そんな根拠もなしに誰が信じる。あとから俺は占い師だった、だから総務が人狼だ、なんて言っても誰も信じない。きっと、ケイは信じてもらえないことをわかっていたから、占い師だと名乗り出たんだ。
それともう一つ、こういうのもあるかもしれない。総務が占い師と言って、ケイは村人だと言えば、人狼は村人を殺し放題だ。誰も疑いがかけられないからな。嘘の占い結果で白だと言い続けて、白と言った奴を殺していけば、あっという間に人狼が勝利してしまう。こういうのも避けたかったのかもしれない。……ふ……」
長く話しすぎた。もう疲れた。が、
「ただ、総務に一つ聞きたいことがあるんだ。なんで、夜になってもなかなか殺さなかったんだ。殺してもいいはずだろ」
「うん。いいよ。……でも、ヘンに動いたら疑われるかなって慎重になっ……て……」
満足だ。思わず笑みが浮かぶ。
総務も気づいたみたいだが、もう遅い。
「人狼ゲームとは面白いゲームだな」
「面白かっただろ?」
「そんなことを言うがケイ、なんで総務が人狼だと一言も言わなかったんだ。それに、柊の疑いをなんで晴らそうとした。疑いがかかっていれば総務も容易に殺せなかったはずだ」
「蓮の推理する時間をあげた、ってところかな」
「……ヘンなことをする」
体が熱くなってきた。一気に話したせいだろうか。もともと楽しんで体温が温まっていたが、気づかなくて、今気づいたのだろうか。掛け布団を腰あたりまでほうった。服を揺らして肌に風を当てる。
「新藤くんのこと、初めて怖くなったよ。僕の負けだね」
「ヘンな手を使って悪かったな」
「ふふっ。楽しかったからいいよ」
「なら、総務を吊って終わりだ。人狼ゲームは幕を閉じた」
「勝手に終わらせんなよ。えーじゃあ、吊る人を指差して決めてください」
死体蹴りのような胸くそが悪い感じがしたから、ここで終わろうと思ったのに。顔を枕に埋める。
「蓮も豊でいいな? よし」
勝手に進めるな。
「えー豊が吊られて人狼は処刑され、ゲーム終了です」
「ふぁーあー」
ギルの気が抜けた声が聞こえる。僕はまだ枕に顔を埋めている。ヘンなところで頭を使ってすごく疲れた。
「なんか後半意味わかんなすぎて、なんかの呪文かと思ったぞ。ギルわかったか?」
「あはは、全然わかんなかった。俺も呪文に聞こえた」
人の推理を呪文なんて言うな。
「れーくん、どういうことだったの?」
「っ……」
再び背中に乗られる。
「乗るな」
「え、なんて? 声籠もってて聞こえなかった」
「……はぁ」
「あはは、諦めちゃった」
ギルに説明するのも疲れる。そう解釈したならそのままでいい。
左腕を出して腕時計を見ようとするが、あいにく風呂に入るために外したままだった。たぶん明日着る制服の上に置いてある。スマホもそこらへんに置いたんだろう。ポケットに硬いものが入っている気がしない。
「ギル、今何時だ」
「さあ。自分で見たら? 俺に酷いこと言ったんだから」
「……言われたくないなら、ど……けっ」
「わわわっ」
枕で頭を打たないようにだけして、ギルを振り落とした。自分の布団で寝転べ。
「れーくん酷いー! せっかく俺乗ってたのに!」
「人の上に乗るな」
「えへへへ」
立ち上がって荷物を置いたところへ行く。確かにそこには腕時計とスマホが置いてあった。時間は二十一時頃。就寝時間は二十二時であと一時間程度。
スマホの充電の残量を見るために画面を付けたら、通知が来ていることに気づく。チャットではない。小説の新刊についてだ。
アプリで通知が来るようにしている。有名作家や有名でなくとも知っていたり、好きな作家の新刊が出たときに通知されるように設定している。だが、ジャンルは絞れなくてさまざまなジャンルの新刊の情報が通知される。
そのため、パッと見たときにあまり得意としないファンタジーものや戦闘ものという情報があれば、すぐに通知を飛ばして見なかったことにしている。
だが、今回の通知はミステリらしい。ロックを解除してその情報を開いてみる。
見出しにはこう書かれている。
『六年ぶりに帰ってきた! デビュー作【探偵の休日】を初め、その他数々の人気作品を作り上げたミステリ作家✕✕✕✕✕先生の新作【真実を知る月】が発売決定!』
「えっ」
僕は幻覚でも見ているのか……?
「そんな驚いてどうした?」
僕のすぐ後ろで寝転んでいたからか、ケイに気づかれる。僕はそんなケイにスマホ画面を見せた。ケイはのそのそと近づいてくる。
「……え! ほんとかこれ!」
「たぶん……。新作が出たりするときに知らせてくれるんだ」
「今調べる」
なぜここまで驚いているのか。この「探偵の休日」をデビュー作とする作家は、事故に遭って片目の視力を失い、もう片方の目も僅かに見えるくらいで、新作や続編は望めないとされていた。
だから、今こうして新作が出るという情報を目にして驚きを隠せない。
「蓮、ほんとに発売されるみたい」
ケイのスマホを覗き込んでみる。
「発売日は……あった。十一月十二日。修学旅行終わった次の日だ。修学旅行の翌日って確か休みだし、一緒に買いに行こうぜ」
「ああ」
自然と口角が上がる。相当楽しみなんだろう。
この作者のデビュー作はケイとの仲を深めることができた思い出深い一冊でもある。そういうのもあるからかもしれない。
「嬉しそうだな」
「嬉しくならないわけないだろ。この人が作るミステリは本当に面白い。それにただミステリなだけじゃなくて、人間性や友情といった描写も事細かく書かれていて、どの作品を読んでもどこか必ず脳裏に焼き付けられる。出会えて本当によかったと思う」
「……俺も」
ケイに肩を寄せられる。
「こんな大切な人に出会えてよかったと思う。……もう手放したくない」
「…………」
「ほーられーくんも敬助くんも! そんなところで肩寄せあいっこしてないで、布団に寝転んで! 恋バナするんだって!」
今のは……なんだったんだ。言葉のどこかに、探しても出てこない失せ物を探し出せた、そんな言葉が込められた感じがした。思わずケイに顔を向けるが、微笑みを返されるだけだ。
「二人ともってばー!」
「わかったよ。今行く」
ケイは僕の肩を少しさすってから離れていった。本当になんだったのだろうか。
「れーくーんも!」
腕を掴まれて連れて行かれる。スマホの充電をしようと思っていたのに。手に持ったままのスマホの画面を付けて残量を見てみれば、まだあるみたいだ。
アラームが鳴らないことだけ確認して、布団に寝転んだ。そして、なにも言っていないのに隣に寝転んだギルが掛け布団を掛けてくれる。
「…………」
ギルの顔を見てみれば、感謝しろと言わんばかりに目が輝いていた。僕はべつに掛けろとは言っていない。が、
「ありがとう」
「えへへへ」
嬉しそうに笑う。
「一番初め誰からいく?」
「はい俺! 俺の恋愛事情聞いてくれよ!」
聞く人が半分、聞かない人が半分いる、男しかいない部屋で、恋についての話をするらしい。いわゆる恋バナ。
今思えば、こういう話をするのは、今まで行ってきた修学旅行の中で初めてかもしれない。ギルがここまで外交的ではなかったのが一番の要因だろう。
聞く人はギル、下条、総務。聞かないであろう人は柊と僕。ケイはわからない。そういうのには興味あるのだろうか。関心の目を向けることなく、ただ聞くだけかもしれない。
「俺さ、一年生に好きな人いるんだ。同じ部活で、めっちゃかわいいんだよ。バスケ部なんだけど、シュートするときとかもさ胸が揺れてよ」
「……最低」
総務は眉を寄せてそう言い、さっきまでニコニコとして聞いていたギルの顔は赤くなる。
「じょ、冗談だって! でもめちゃくちゃかわいいし、バスケしてるときはめっちゃかっこいいんだぞ! 気づいたら目で追っかけちゃうっていうか」
がっつり恋愛話をするんだな。今の下条の話を聞いて、聞く気が失せた。男がこんなのばっかりだから、先輩に抱くなんてことされたんだ。
枕に顔を埋める。が、息がしづらく顔だけ横に向ける。
「でさ、俺夏に告白したんだぞ!」
「積極的だね」
「真也くんならオッケー貰えたんじゃない?」
「それが無理だったんだよなー。でも、友だちになろって言われて連絡先交換できた! たまに連絡とかくれるから、そのたびに嬉しくなる」
「あはは、今もすごく嬉しそうだよ」
「えっへぇ? そうか?」
嬉しそうだ。その想いを寄せている奴の胸を想像していたときくらい。
「お、俺話したんだから次誰か言えよ! 豊とか!」
「僕? 僕は……女の子じゃないけど、お兄ちゃんなら好きだよ。とっても」
兄? 総務の家ならあり得るか。確か、総務は兄のところに住んでいるんだったな。
「え、兄ちゃん好きなのか」
「あ、そういう恋愛対象とかじゃないけど……お兄ちゃんはいつも優しくて、味方してくれて、ゲームもときどき一緒にしてくれて……」
総務は照れ気味に兄を紹介する。家族を本当に大切にしようと思える奴ほど、恵まれた家庭で育った奴はいない。僕はこれっぽっちも大切にしようなんて思いもしない。
「お兄ちゃんは……僕大好きだよ」
「女子でいないのか?」
「うーん。好きとかではないけど、他のクラスの総務委員をしてる女の子が、テキパキと仕事できてすごいなーって尊敬はするよ」
「なんかもっとこう、恋愛っていう恋愛のこと言える奴ここにいねーの?」
少し呆れた様子で言う。
僕やギルは論外。ケイは知らない。柊もそういうのは興味なさそうだ。……残念だったな。いないみたいだ。
「実琴はー?」
「…………」
無視か。顔を上げて見てみるが、そうではないらしい。壁を向いて目を瞑っていた。寝ているらしい。
「え、もう寝たのか? こういう話興味ねーのかな」
柊は細く目を開けた。なるほど、べつに寝たわけではないが、話に加わりたいというわけでもないのか。僕もそうすればよかった。
顔をさっきのように置いてギルの横顔を見る。やっぱりギルの瞳や髪色は綺麗だ。
「あ、でもね」
そう切り出したのは総務だ。さっきの続きだろうか。
「中学のとき彼女……なのかな、そんな人はいたよ。誰も知らないから名前までは言わないけど。押しが強くて、頑固な子。あんまり得意じゃなかったな」
「なのに付き合ったのか?」
「うーん。その子に事情があったみたいで、仮でいいから付き合ってって言って聞かなくて、仕方なくっていうか……。それで、もう事情も解決したみたいだから、付き合わなくてもいいって言われて、ならもういいのかなって思ったけど『今度は本当に付き合って』って言われて」
「おぉー!」
「聞いてるこっちまでドキドキしちゃう」
中学生で告白か。……考えられない。
「それでそれで? 答えは?」
「……僕もその子といるときは自分でいれたのかなって、オッケーしたよ」
「うぉー! したのか!」
「ふふっ。でも、学年が上がるとクラスも変わって、知らない間にべつの人と付き合ってたみたいだよ」
「えーなんだよー」
「途中までいい話だったのに、バッドエンドみたい」
「んふふ。でも付き合うなら本当に好きって言える人とがいいなって思ってたから、いい機会だったと思うよ」
総務に本当の恋人ができたときは、浮気なんてしなさそうだ。将来幸せそうな家庭ができていそう。
僕に、そんな相手はできるのだろうか。べつに新藤家を継ぐつもりもないから、できなくても困りはしないが。家庭を築いたところで幸せになるという保証もない。築いて自由を奪われるくらいなら、死ぬまで独身を選ぶ。
「じゃあ次は……ずっとなんも喋ってない蓮と敬助はどうなんだよ。敬助とか彼女いそうだけどな」
ケイと目が合う。先に言え、と顔を上げる。
「俺は……彼女なんていないさ」
「えー? 背高いし頭いいからいそうだけどなー。顔も意外といいし」
「意外とって言うな。……べつに、女に好きな奴なんていない。スケベな下条みたいに女の顔とか体なんて興味ねぇよ」
「スケベって言うなよ。男にとって女の子は女神だろ」
なに言ってるんだ。
「なに言ってんだ」
ケイと重なる。
「……こ、告白とかされたことねぇのか? まあ、俺はないけど告白したし?」
ヘンなところでマウントを取るな。
「仕方なく張り合ってやるけど、何回かはある。興味なくて数なんて憶えてない」
「は!」
「……全部断ったし」
「はあー?」
「……黙れ、うるさい」
「ごめんって。うっわー、顔意外といいくせに何回か告られて全部断ったとか、すっげー腹立つ!」
その言葉にギルやケイから微笑が聞こえる。張り合おうとした下条が悪かったな。ケイは確かに背が高ければ顔は良い。モテそうな奴に手を出した下条が悪い。
「くっそー。蓮! お前はどうなんだよ!」
僕に回ってきたか。軽く肩を起こして顔を上げる。べつに多くは話さないはずだ。
「あ、俺も知りたい! れーくんの恋愛事情どんな感じなんだろうってずっと思ってたんだよね。聞いても教えてくれないし」
「……そうだ。教えない」
「…………」
「…………」
「はー!」
うるさい。黙れ。近所迷惑。
「なんで教える必要がある」
「いや、俺ら言ってきたし、蓮だけ言わないはないだろ!」
「下条たちが勝手に言ってただけだ。下条に迫られて」
「た、確かにそうかもしれないけどさー?」
「れーくん」
ギルに肩に手を置かれる。そして、
「教えて教えて教えて」
肩をぐわんぐわんと前方後方に、左右に揺らされる。
「や、やめろ。酔う酔う……よ……」
「あぁ、ごめん」
解放されたら枕にぼすんと顔を埋めた。気持ち悪い。気持ち悪い……。
「ギル、余計に喋られなくしてどうするんだよ!」
「えへへへ。忘れちゃってた」
僕ら何年前から一緒にいるんだったか答えてみろ、ギル。
……駄目だ。めまいもしてきた。……気持ち悪い。
ゴソゴソと体を動かして体を起こす。
「れーくん?」
壁に手を付きながらトイレに向かった。途中、ケイが気づいたのか一緒に来てくれる。
本当に……。
「敬助くん。れーくんは?」
「トイレでゆっくりしてる」
「あ……。そっか」
ギルくんって蓮が酔いやすいの知ってるよな。知っててやってたんだよな。ギルくん……。
「蓮って酔いやすいもんなー」
「大丈夫かな」
「そのうち戻ってくるさ」
たぶん。
俺は三半規管が鈍感だから酔った感覚はわからない。乗り物に乗っても酔わないし、車とかでスマホとか本を読んでも酔わない。けど、蓮みたいに酔いやすい人はつらそうだな。
「じゃあしばらく蓮の恋愛事情聞けねぇーじゃん。ギルー」
「あははは、ごめんごめん。俺も知らないから気になっちゃって」
ギルくんって、ああいうのって無自覚でやってるのか? 蓮とは幼馴染みなんだよな。だから酔うってのも知ってるだろうし。抜けてるにもほどがある。
「じゃあ、代わりにギルの聞かせてくれよ」
「……俺? 俺は、好きな人もいないし、彼女も……いたことはないよ」
「ギルもそういうのー? 好きだった人とかいないの」
「うん。……俺同じくらいの年齢の女の人得意じゃないから。あはは……」
「なんで?」
「えっとー……それは……」
ギルくんは悲しそうな顔をする。なにかきっかけがあったんだろうな。
ギルくんが口をつぐんでいると、バンッと廊下から音がした。ふすまが開かれていてなにが鳴ったのかわかる。蓮がトイレの扉を開けた。そして俯きながら姿を出す。
「蓮、もう大丈夫なのか」
俺はすぐに起き上がって傍に行く。
「ギルから……事情を聞くのはそれくらいにしろ」
あんまり良くない表情をしたまま顔を上げたかと思うとそんなことを言う。ギルくんを庇ってるのか。まず自分のことを心配しろよ。
「……お、おい」
そして崩れて座り込む。
「まだもう少しゆっくり……落ち着いてからそういうのは言えよ」
またトイレに入れさせて、背中をさする。蓮はトイレを覗き込むようにしたまま、口を開ける。
「ギルの……あの話から逸らしてくれ。誰にだって言いたくない過去はある。僕はもういいから。……頼む」
「…………」
扉だけ閉めて布団にもぐり込んだ。
蓮の言う通り話を逸らす、までもなかった。いつの間にか恋バナから、小中の修学旅行はどこに行ったという話になってた。
ギルくんは蓮の言ってた話を話したのかどうか。言ってたら蓮の行動が無駄になる。
「俺はね、小学校のときはほんのちょっと遠い遊園地で、中学校のときは広島と香川だよ。れーくんも同じ学校だったから同じ場所」
「広島県いいな。僕も行きたかった。広島は原爆とかそういう被災地のことについて知れるから。家族で旅行とかもしないから、行ってみたかったなー」
相変わらず垣谷は勉強熱心だ。原爆とか興味ない。……っていうのはちょっとまずいか。
「敬助は?」
「……行ってない」
「え?」
「行ってない」
その頃には悪夢を見るようになってたからな。それに友だちなんて言える奴いなかったし、行っても意味ない。金が無駄にかかるだけだ。母さんたちは行っとけとか言ってたけど。行きたくなかった。今回のは……蓮がいたから行こうって思えただけだ。
「なんで行ってないんだ?」
「……誰にだって知られたくない過去はある。蓮が言ってた」
「……敬助のそれは知られたくない過去ってこと?」
「そういうこと」
小学校のときは引っ越しが重なったとか、そんな理由だった気がするけど、中学は普通に体調崩した。学校にかなり行きたくなかった時期だったのもある。どこに行けどもいじめは発生する。……腐った世界。
蓮大丈夫かな。もう十分くらい経ったと思うけど……。様子見に行ったほうがいいかな。
そう思っていれば、トイレの扉が開かれた。今度はいつもと同じ表情だった。よかった。……なぜか浴衣脱いで部屋着姿だけど。
「あ、れーくん!」
隣にいるギルくんが立ち上がって蓮に勢いよく近づく。
「っ……待て」
蓮は向かってくるギルくんを避けて壁にぶつかる。
「ぶへっ」
「……悪い。手洗ってないから。それと一応服も替える」
白い鼻を赤くしたギルくんだけど、すぐに蓮に向き直った。
「れーくんさっきはごめんね」
「もう済んだことだ。ただ今度から気をつけてくれ」
「うん……」
本当に反省しているのか、ギルくんが小さくなる。常に意識していれば事は起こらなかったと思うんだけど。
蓮は脱いだ服の裏面でドアノブをひねって洗面所に入っていった。あの格好のままじゃ寒いだろ。服持っていったほうがいいよな。てか浴衣は?
立ち上がってさっきまで蓮がいたトイレに入る、前に浴衣が脱ぎ捨てられてた。吐くってわかったから脱いだのかな。
それを持って部屋に戻り、蓮のボストンバッグを開ける。服は丁寧に畳まれて、日用品はまとめられて隅のほうへ置かれていた。
開けたけど、やっぱり閉める。荒らさないように服を取ろうって思ったけど、それなら俺の服を貸せばいい。
今度は俺の荷物を置いているところに移って未使用のロンTを取り出す。少しだけでかいかもしれないけど、それはそれでいい。……想像するだけでかわいい。ヘンに顔を曲げてしまう。
ボストンバッグを閉めるときに、蓮との中身を思い比べてみる。……酷い有様だ。
服を持って、洗面所の扉をノックして入った。中には洗面台に向かって服をゴシゴシするインナー姿の蓮がいた。……えろい。
「蓮これ。服着ないと風邪ひくぞ」
「あぁ、ありがとう。……置いておいてくれないか」
俺には目もくれず、服は絞られて水が垂れていく。
「いいよ。俺それするから。先に服着な。蓮じゃ力弱いと思うし」
「……最後のはいらなかった。けど、完全に綺麗に洗ったわけではないから、触らせられない。それに、もう終わる」
まだ水が垂れはするけど満足に絞ったらしく、隣にある風呂場の扉を肘で開けて、中にある物干し竿に掛けた。そして手を洗う。風呂場なんて開けてなにをするのかと思ってたけど、そう使うのか。やっぱり家事には慣れてる。
手を洗い終わった蓮はタオルで拭いたあと、近くにあった消毒液を手に振りかけて馴染ませる。
「……まだいたのか」
「……まあ」
べつにいる意味はないけど、あるようなものでもある。
蓮が服に手を伸ばして気づいたようだ。
「……これ……誰のだ」
「俺の。俺はべつにいいから」
「僕のところにも替えの服はある。わざわざ出してくれたのはありがたいが、そっちを使う。それに案外ごわつくから寝る前には脱ぐつもりだ」
「わざわざ綺麗に畳んで、綺麗に入れてたところから出したのに、それが無駄になるのか。あー残念だなー」
「…………」
べつに綺麗に畳んでないし、雑に入れたところから出しただけで、言った通りのところから出したわけじゃない。……ただ、着てほしい。
「……家に帰ったら洗って返す」
「そりゃどうも」
蓮の家のニオイ付くかな……。
早速服を着てた。けどやっぱり少しでかいみたいでぶかっとしてる。むしろ襟元からインナーが見える。……えろかわいい。
けどすぐ浴衣を着られて見えなくなる。残念。
「寒い……。早く布団に戻ろう」
「あ、蓮帰ってきた! 蓮の好きな奴は?」
まだその話をするのか。
布団に入ればギルに肩まで掛け布団を掛けてもらえる。ありがとう。
「教えないと言っただろ」
「あ、もしかして、人に言えないことしたとか! 例えば」
「していない。僕はべつに恋愛対象で好きな奴なんていな……」
ふと先輩の姿を思いだす。太腿にあるホクロを思いだしては心臓をドクッと鳴らす。
「え?」
「いや、なんでもない」
「今ぜってーいるときの反応してたよな」
「うんしてたね」
「れーくん教えない?」
下条にバレるなんて、不覚。いや総務にもバレていたか。
「……教えない。好きな相手などいない。いたとしても……相手は気づいていない」
「えー! なにそれ! 片思いじゃん! れーくんいつも澄ました顔してるのにいっつも好きな人のこと考えてたんだー? へー!」
「もっとその話聞きたいな」
「話さない。もう、本当にずっと音沙汰なしなんだ。あの日以来会っていない」
「ってことは一目惚れ?」
「……そうではない。……一時期会っていた相手だ。会うたびに……」
って、なに話してるんだ。
「いいから、もう次の話題に移れ。これ以上はなにも話さない。口を縫ってでも」
そっぽを向いてこれ以上口を裂かないことを示す。それに僕はべつに、先輩のことが好きなどでは……否定できないか。
それ以降問い詰めてくる声になにも反応しないでいれば諦めてくれた。
「くっそー、ほんとになんも喋んなくなったーつまんねー」
「でも思えば真也くんもだけど、れーくんもちゃんとした恋バナだったね。ほんと、俺びっくりだよ。あの無表情でなに考えてるかわかんないれーくんが恋だよ? 俺ずーっと一緒にいるけどそんなこと一回もなかったもん」
「ねえ、音沙汰ないっていうのはどれくらいなの?」
今年の初夏。とても長い期間を過ごしたわけではない。
「あ、れーくんって関わる人極端に少ないからどれくらいかわかったら俺わかるかも!」
「……教えない」
「あーもうギルがそんなこと言うからー」
「あれ、今の俺のせい?」
とても。
もうしばらく下条やギルから粘られるが、答えなければもっと恋バナはないのかと追及している。その間もずーっとケイからの視線が絶えなかった。
「敬助……はさっきので腹立ったからもういいけど、他はー? もっと小さいときのとかさー」
「あ、真也くん。俺好きな人、大好きな人いるよ!」
「え! マジ!」
「うん! えへへ、俺はね」
布団に入って手を顔の下に敷いた姿勢から、起き上がって僕に近づく。そして大きく手を広げて腕を回す。
「れーくん好き! 大好き!」
なんとなく想像はついていた。布団にずっと入っていた奴の体は温かいな。冷えた体が温まる。
「……そういうのは求めてません。はい、終わりー」
「えー? 好きな人って言ったられーくん大好きなのにー」
「ふふっ。いいと思うよ。僕もお兄ちゃん大好きだし。好きの対象は誰でもいいからね」
「そうそう! 絶対女の人じゃないといけないみたいなのはないし。まあ、そうは言っても結婚したいっていう大好きとはちょっと違うんだけどね」
「わかるよ。なんていうか……大好きみたいな」
ギルと総務にしかわからない。が、きっと「友人として」や「家族として」というものじゃないのか。
「はいはい、そういうのは求めてないですー。その話終わりー」
下条が手を広げてなにかをかき消すように振り回す。ギルと総務はそれを見て笑っていた。
ギルの腕がどけられたあと、静かに聞いてみる。さっきトイレの壁越しに聞こえて止めに入ったが、そのあとは気持ち悪くてそれどころじゃなかった。
「ギル。さっきの話したのか」
「さっき……。あぁ、ううん。話してないよ。ありがと。そういうところれーくんの大好きなところ」
ギルはにっと笑う。話してないのならばいいか。
ギルは過去に同年代の女からズボンを下ろされたことがあった。嫌がらせ、いや、いじめに含まれる行為だ。幸いにも下着が脱げることはなかったが、それでもかなりのダメージを負っていたみたいだ。同時に年齢に応じた卑猥なことも言っていた。確かあの時はギルが本当に男なのかという、くだらない疑惑が立っていた気がする。
ギルが女を嫌いになった理由はこれだろうな。男も同じくらい嫌いなのかもしれないが。
それで、一度だけギルに好意を寄せた者から告白を受けたが、怖くなったようで泣き出していた。
一つの言動でその人の人生は大きく変わる。まだそういうことをわかっていない年齢だとしても、ああいう奴を許してはいけない。
「あははは」
こんなに笑っていても。
……ところでなんでそんなに笑っているんだ?
「それならね、れーくんも面白かった話あるんだよ」
僕の話?
「去年にね、名前なんだっけ……。いっぱい遊べるところ……」
「遊園地?」
「ううん。そういうのじゃなくて、室内とかでゴルフとかテニスとか、ダーツとかできるところ」
「あー、あそこか」
「そこで遊んだんだけど、れーくんどれやっても駄目駄目だったんだ」
遠回しに運動音痴と言うな。事実であっても。
「で、特に面白かったのが、球を使うの全般」
ほとんど全部じゃないか。
「バッティングは当たんないし、ピッチングはボール弱いし、ボウリングは玉が重たいって言って振りが弱くて結局レーンに落ちるし。ビリヤードもしたんだけど、狙ってたのに外してれーくんも笑ってたんだよ? でもね、アーチェリーだけうまいの」
だけって言うな。
「アーチェリーだけ狙ったところ外さないし、全部勝っちゃうんだ」
「ははは! 蓮って相当運動音痴なんだな。でもアーチェリー『だけ』うまいんだなー、へー?」
だけを強調して言うな。アーチェリーがうまいくらいいいだろ。どれもできないんだから。
……きっとあれだけうまくいくのは中学に入ってからすぐに弓道を習わされていたからだろうな。体力がキツくて親が死んでからはすぐにやめたが。
「あとそういうのと、ロータースケートとかゴーカートもしたんだけど、ロータースケートはすぐ転ぶし、ゴーカートはすぐどっか行っちゃうしで、とっても楽しかったんだ」
それはつまり、僕の愚かな姿を見て楽しんでいたということだな、ギル?
「あ、あとね俺的に楽しかったのはシューティングゲーム! エアガン使って的を当てるんだけど、それでれーくんと当てれた数で競ってたんだ。結局負けちゃったけど、すっごい楽しかったんだ!」
確かに射撃は本格的で楽しかった。
……というか、なんで僕との思い出話をしているんだ。
「俺もそういうのしたいなー」
「今度みんなで行こ! テニスとか人数多くてもできるのあるし、多いほうが楽しいよ!」
「じゃあ、修学旅行終わったら休みあるし行こうぜ!」
「修学旅行終わりは駄目だ。蓮と本を買いに行く」
そういえばそんなことも言っていたな。その遊びと本屋なら、僕は本屋を選ぶ。
「じゃあ……それはまた決めよっか! でも絶対みんなと行きたいから、みんなが予定空いてる日行こ! この修学旅行メンバーで行こ!」
「それにあいつは入ってるのか」
ケイは柊に指を差す。人を差すな。指を真っ直ぐピンと立てて。
「もちろん! みんなでだからね」
それを聞いたケイは不満そうな顔をする。
柊は目を細めて目を瞑る。手を強く握られていた。
「じゃあ次俺の話を」
ケイは拗ねてか、急に静かになる。体を起こして見てみれば、ギルたちにスマホ画面を見えないようにしていじっているようだった。話に飽きたのだろうか。少しちょっかいをかけに行こう。
布団から出てケイの隣に寝転んだ。ケイはハッと驚き、体を起こす。
「なに見てるんだ」
「……べつに」
画面を消される。その一瞬、「悪夢」という文字が見えた。……まだ悩むものなんだろうな。
「薬は飲んだのか」
「……飲みたくない」
「でも飲んだほうがいいんだろ」
「……飲めって言われてるけど、飲むのは……嫌だ」
飲むか飲まないかはケイの自由だ。無理に飲む必要もないだろうし。
「でも……最近薬なしでも寝れるときが増えたんだ。ぐっすり寝れたって思ったときは悪夢なんか見ないし。理由はわかんないけど」
「それはよかったな」
改善されてるみたいだ。このままいけば薬なしでも寝れて、悪夢を見ることもなくなるかもしれない。
「ただ、思い当たるのがあって、その悪夢を見ないで起きれたのが、この学校に転校してから数週間後とか。それで、前までの学校になくて、この学校にあるとすれば」
ケイはギルたちに視線を向ける。
「俺を友だちだと思ってくれる人がいる。それだと思う。今まで教室にあふれた笑顔が憎くて、苦しかったんだ。でも、この学校に来てからはそんなことなくて、俺も一緒に笑ったりして。……あと、あるとすれば」
今度は僕に目を向ける。ケイの瞳も真っ黒で綺麗だ。クマも、再開したときより薄くなっている気がする。
「蓮がこの学校にいてくれたこと」
それだけ言って優しく微笑まれる。
「……寒いだろ。入れよ」
ケイが自分に被っている布団を広げてくれる。応えて近くに寄った。
「悪いな」
「いいさ。風邪ひくなよ」
肩に触れた掛け布団は温かくて、なんだか心地良かった。
「……やっぱり、飲む。動いてるときに倒れて迷惑かけられない」
「……そうか」
ケイが布団から出たとき、外の空気が入り込んできて一瞬寒くなる。ケイは自分のボストンバッグがあるところにしゃがんでガサゴソしだす。
僕も悪夢は見ることはあるが、ケイとは違う。ただの悪夢だ。ケイのはトラウマが悪夢に変化して襲ってくる。そんな感じなんだろう。トラウマが寝れば襲ってくると考えるだけで、吐き気がする。ケイはそんな奴と闘っているんだ。……尊敬する。
薬を飲み終えたらしいケイが戻ってきた。今度は掛け布団を掛けてやる。ケイは嬉しそうに微笑んでいた。
就寝時間は二十二時。時間になれば先生がやって来て寝るよう言われる。あと十分ほどで時間になるだが、楽しそうに駄弁っているギルたちは気づいているのだろうか。
「あ、あとね、こんなのもあったよ。れーくんがお水買ってくるって言って買ってきたの炭酸水だったの。それで、気づかずに飲んで、すっごい嫌そうな顔してたの!」
あぁ、あれか。寝ぼけてたのか間違えて自販機で炭酸水を買って、水だと思って飲んだらすごくまずかったやつか。炭酸水は苦手だ。
「よくそんな昔のこと憶えているな」
「もっちろん! れーくんと過ごした時間忘れるはずがないよー。特にれーくんの面白エピソードとかね、あはは」
「それと、もうそろそろ静かにしておけ。柊が起きる」
今度は本当に寝ているみたいだ。スマホを触っていないし、微かに寝息が聞こえる。
「……じゃあもうここらへんにしとくかー。この話はまた明日な」
「え? でも明日は三人ずつ分かれちゃうよ?」
「……うーん。まあ、いなかった奴はまた今度してやるから。それかまた今度誰かの家でこうやってお泊まりみたいなのしようぜ!」
僕はしたくない。
「うん、しよ! お泊まりとなればできる人とできない人いるかもしれないけど……今度は総務さんが途中で抜けないような日にしよ!」
「……ありがとう」
もう途中で抜けることはないだろうな。
「ふわぁ……眠たくなってきちゃった……。いつもならもっと遅い時間まで起きてるのに」
またゲームばかりしてるんじゃないだろうな。
「あ、そうだ。クリーム塗らないと」
ギルが布団から出て、ボストンバッグからなにやらチューブ型の容器を出した。蓋を開けて手の甲に出して、蓋を閉じる。手の甲をこすり合わせながらこちらに歩いてくる。
僕の隣でしゃがみ込んだかと思えば、近くにあった僕の手を引き出して塗られる。
「……おい」
「あはは。ちょっと取りすぎちゃったの。れーくんもカサカサだったからちょうどいいじゃん」
なにがだ。
ハンドクリームはべたつくからあまり好きではないんだ。ギルはそれを知っているはずだ。塗った箇所が赤くなるというわけではないからいいが……。
仕方なく両手に塗り合わせて広げていく。微かに華やかな香りがする。いいニオイだ。……ん、手に広げたらすぐに肌に浸透して、べたつきがなくなった。
「これすごいな」
「べたつかないやつ?」
「ああ。べたつくと思っていたんだが」
「そうだよ。これべたつかないんだー! すごいでしょ。れーくんべたつくの嫌って言ってたし、俺もちょっと嫌だったから違うやつに変えたんだ。それにいいニオイもするし」
ギルは自分の手のひらを鼻に近づける。自分で嗅いだあとは、下条たちにもニオイを確かめてもらうように近づけ、下条たちはそれに応える。
「……確かにいいニオイだね。お花のニオイかな」
「トイレのニオイする」
……トイレ?
「あ、確かに真也くんの家のトイレってこんな感じのニオイかも。真也くんの家のトイレね、なんかすごくいいニオイするんだ」
下条の家に上がったことがあったんだな。
花のニオイがするトイレか。花嫌いにとっては入りたくないだろうな。
「…………」
そういえば、ケイ静かだな。すぐ隣に視線を移して見る。ケイは体を横向きにして寝ていた。気づかない間に。僕の背中に腕も回されていた。
ケイの寝ている顔……。少しかわいらしさを覚える。が、眼鏡かけたまま寝るな。危ないだろ。
起こさないようにそっと眼鏡を外して枕の近くに置かれていたケイの眼鏡ケースに入れておいた。やっぱり、眼鏡をしていないほうがしっくりくる。
そろそろ布団に戻るか。腕を先に下ろしてから起き上がって、ケイに布団を掛け直そうとしたとき、気がつく。ケイの背中には布団が掛かっていなかった。全部僕のほうへ来ていたらしい。きちんと掛けたはずなんだが……。
もしかして、ギルたちの話を聞く前に掛け直されでもしていたか? 僕にどれほど気を遣うんだ。
今度はきちんと掛け直して、いつの間にか掴まれていたケイの手を服から離し、自分の布団のところへ戻った。
布団を肩まで掛けて壁を向くように寝転ぶ。が、ごわつきを覚えてさっと中の服を脱ぐ。……寒い。畳んだらさっと布団にもぐった。
今日は眠気が一段と酷い。いつもなら十二時頃に眠たくなるのに。それだけ動いたのだろう。
目を瞑る。眩しい。枕が低い。布団が温まっていなくて寒い。……今日は寝れないかもしれない。
「えー? れーくんもう寝ちゃうの?」
ギルが肩をポンポン叩いてくる。もう寝ると言っても、もうすぐ就寝時間だ。騒がしくしていたら怒られる。
「先生が一回、見回りに来てやり過ごしたら枕投げしようぜ」
中学生か。
「したい! ふわぁ……」
眠たそうだが。
「就寝時間だー」
就寝時間になったそうで、ノックのあと、担任の先生が覗きに来た。
「半分くらいもう寝てる……早いなー。電気消すぞー」
電気が消されて、廊下からの光で先生の顔を把握できる。
「じゃあ、ここの扉とかも閉めるからな。寝るんだぞー」
「あ、先生。……その、ちょっとだけ開けてて。俺真っ暗なの怖いから……」
「……英川、こんくらいでいいか?」
「うん。ありがと先生」
「……先生には敬語使えよー。……俺はべつに敬語じゃなくていいけどな」
嬉しそうだな。
先生からのおやすみという言葉のあと、少しの明かりが漏れるだけで、ほとんど真っ暗になる。
「もうちょっと開けてもらえばよかった……」
僕は真っ暗な状態で寝たい。腕で目を隠す。
「……じゃあ、そろそろ寝よっか。おやすみ」
総務の眠たそうな声が聞こえる。
「いーや、ここからだ!」
「下条。もう二人は寝てるみたいだし、枕投げをしようというのは諦めろ。それに、最悪障子に穴が空く。空いて怒られるのは僕らだ。下条だけじゃない。僕らの連帯責任。言っている意味がわかるか。下条のせいで、周りが怒られるんだ」
「……蓮が……怖い」
「わかったのなら諦めろ。いつか誰かの家で泊まるんだろ。そのときにでもしろ。今するときではない」
「くっそー。しょーがねーなー。やる気だったギルも寝てるしー」
……早いな。
「じゃあ、蓮さ、俺と話すの付き合ってくれよ」
「断る。僕も寝る。それにこれ以上の会話は周りを起こしかねない。寝ろ」
「ケチー。修学旅行はこういう夜の時間が楽しいのに。なあ豊」
「…………」
「残念だったな。もう起きているのは下条だけのようだ。僕ももう寝る」
「えー」
掛け布団を頭まで掛けて、明かりを遮断する。枕が少し硬いが……この眠気なら寝れそうだ。
一つあくびをする。寝よう。思いだして、髪に付くヘアピンを踏まれない位置に置く。
「れんー」
「うるさい」
「起きてんじゃん。なんか話そうぜ」
「うるさい。寝ろ。それにさっきのこと聞いてたか。周りを起こすから、下条ももう」
「わぁったわぁったって。おやすみ」
「……おやすみ」
おやすみ……か。最近はギルが泊まっていなかったから、久しぶりに聞くし、久しぶりに言う。
今度は、朝起きたらおはようと聞くし、言うことになるのか。……起きるのが楽しみになった気がする。
ギルの腕が腹に回ったことを自覚してから、眠りについた。
「――ん。ねえ、起きてれーくん」
「ん……」
ギルの声に起こされた。
「……なんだ」
寝起きの汚い声が聞こえる。
廊下からの微かな光でギルの姿を捕らえた。少し髪がはねている。
「トイレ……」
「……すぐそこだろ。明かりも……少しついているから行けるだろ」
「ううん。開かないの」
開かない?
寒くて出たくなかったが、仕方なく起き上がってトイレの扉の前に立つ。ドアノブをひねってみるが、確かに開かない。誰か使っているのだろう。……が、妙に音がしない。
「……漏れそうなのか」
「朝までは無理」
「……確か館内の廊下のところどころにもトイレがあった。そこまで行ってこい」
「……付いてきて……?」
泣き出しそうなギルの顔。
「……仕方がない」
ギルは昔から一人、暗い、怖いは苦手だ。この状況は揃いに揃っている。廊下は就寝時とは違って暗さが増している。電気代節約のためにだろう。
部屋の扉に貼られている脱出経路が書かれている館内マップでトイレの位置を把握し、靴を履く。扉をそっと開ければギギッと音が鳴る。ギルはその音にびっくりして腕にしがみ付く。
一度、廊下を覗いて見張りの先生がいないか確認するがいないようだ。時間的に先生も寝ている頃なんだろう。何時か知らないが。
落ち着いた明るさで妙に静かだ。理由は明白で、今は先生も寝ているほどの夜だからだ。足音を立てて廊下を歩いていく。ギルに腕の自由を奪われながら歩いていく。
廊下の窓から見える景色は真っ暗で月や星も見えない。薄らと光るなにかがあるなと思うくらいだ。
「ここ……じゃない?」
腕を引かれて立ち止まる。窓の外を見ていて通り過ぎるところだった。
「絶対待っててよね。それか一緒にトイレ入って」
「……扉の前で待っている。入るのは狭い」
ここは部屋にあるトイレと違って、いくつかの個室があるトイレだった。その一番手前の個室の前で待っている。
「れーくんいる……?」
「いる」
「……やっぱり一緒に入ってよ……。怖い……」
「怖くなる前に早く済ませろ」
今は何時かと左手首を出すが、腕時計を着けながら寝ない。なら、スマホを取り出そうと、ポケットに突っ込むが、あんな硬いものを入れて寝るなんてこともしない。
ただトイレの扉を見つめて待っていれば、突然その扉が開いた。ギルの泣きそうな顔が映る。用を済ませて出てきたかと思えば、違う。まだズボンを下ろして便座に座っている。
「……馬鹿か。人がいたらどうする」
「いないから開けたの。れーくん入って。怖い。それかずっと開けたままだよ」
「…………」
なんて卑怯な手を使うんだ。仕方なく、開いた扉を閉めて、体で開かないように押さえた。
「な、なんで? 閉めないでよ。入ってきてよ」
「それ他の奴がいるときに言うなよ」
誤解されかねない。
「じゃあ、入ってよ。お願い……」
「…………」
扉を少し開けて、ギルの顔を捕らえる。
「早くしろ。夜だからと言って他の人が入ってくるかもしれない。先生が来たらなんで部屋のトイレを使わないなどと言われそうだ」
……そもそも、なんで部屋のトイレは開かなかったんだ。開いていればこんな危険な道のりをたどらなくてよかったんだ。音はしていなかったから、もしかしてただ立て付けが悪かっただけか?
「れーくん」
うるさく水の音が終えていくなか、見ればズボンをはいて立ち上がっていた。終わったのか。扉から離れて個室から出す。が、
「っ……」
「なっ」
耳に刺すような、腹をえぐるような鋭い話し声が聞こえて、ギルと一緒に個室に入って鍵をした。ギルを守るように、ギルの口を塞いで息を殺す。
妙に狂気染みたものを感じた。
「────」
「────」
二人。若い女。学校の先生ではない……のだろうな。きっと寝ているのだから。なら、学校外の客か、従業員。だが、もし従業員だとしたらあんなに声を立てて話すものか? なら客……なのか。
声が消えた頃、ギルの口を塞いだままトイレの外を覗く。……誰もいないみたいだ。いまさら鼓動が速まっていたことに気づく。
ギルの口を解いた。
「……誰だったんだろ、こんな遅くに」
「……本当に誰なんだろうな、こんな遅くにトイレに連れ出すのは」
「えへへ……。手洗うから待ってて」
無音だった中、水の音がして少し落ち着きを見せる。
廊下を覗いてみるが、さっきの声を出していたらしい人らはいなかった。廊下には誰もいなかった。
「ギル、何時か知っているのか。さっきこんな遅くにと言っていたが」
「うん。深夜の二時半過ぎ」
「…………」
本当に「こんな遅くに」だな。
「手は洗ったか」
「うん。戻ろ」
振り向いてトイレから出ようとしたとき、いた。
「っ!」
「わっ!」
「おぉー、しんどうとえいかわー。ふたりもトイレかー。先生もおじゃまするぞー」
先生が。
「……びっくりした……」
ギルが泣きそうな声で言う。僕もびっくりした。
先生は寝ぼけているのか、僕らがなんでここにいるのか問わない。寝ぼけているならちょうどいい。ギルの手を引いて廊下に出て、部屋に向かった。手首を握っているからか、腕をがっしり掴まれることはなかった。今離したらどうなるんだろうな。
「なんだか、おばけ屋敷にいるみたいだった。女の人と先生」
部屋までもうすぐだ。
「……僕らがここへ来る理由はなんだった」
「え? トイレが開かないからでしょ?」
「なんで開かないんだ」
「……えっ」
部屋の扉を開けようとしたギルが固まる。
「お、お化けなんて言わないよね……。俺……無理だからね」
「…………」
扉を開けようとすれば、背中に回ったギルにしがみ付かれる。服が伸びそう。これケイのなんだ。伸ばさないでくれ。
静かに扉を開ければ、ギギッと音が鳴る。狂気染みたなにかがいる気配はしない。下条のいびきがうるさいくらいだ。
「……大丈夫そうだな」
「俺もう寝れる気しないよ……」
部屋に入ってふすまを開けて、下条や総務が寝る姿を見てホッとする。ギルからもしがみつきはなくなった。
「れーくん一緒に寝て。俺……怖い」
「……ああ。ただ、トイレが開くかだけ確認していいか」
「えぇ、いいでしょ、しなくて。なにかいたらどうするの」
不審者がいれば警察沙汰なだけだ。幽霊なんぞ、この世にはいない。……いるかもしれないがいない。
ギルに再びしがみ付かれながら、トイレのドアをひねる。と、今度は開いた。そこには、
「えっ」
「…………」
ケイがいた。地面に座って壁にもたれている。ギルは安心したのか僕から離れた。
「……蓮にギルくん」
どこか、具合の悪そうな顔をしていた。
「なにかあったのか」
「……途中で目が覚めて……腹痛くなって……」
「今は大丈夫か」
「まあ……ちょっとマシにはなった」
「いつからいた」
「さあ。でも蓮たちがまだ寝てたときだから……」
つまり、ギルに起こされたときはケイが入っていたんだな。でもなんで返事しなかったんだ。
「ギルが入ろうとしてたの気づかなかったか。僕らの声も」
「……さあ」
声が聞こえていなかった? 声を出していなくとも、開こうとする音は聞こえるだろ。僕が酔ってゆっくりしていたときも聞こえていたくらいだ。痛すぎて聞こえなかったという可能性はあるかもしれないが。
「でも俺、確か鍵かけてない。誰も入ってこないって思って」
「え……?」
「…………」
鼓動が速まっていく。どういうことだ。ギルが開けたときは鍵がかかってたみたいだが、入っていたケイはかけていない? 確かにあの時扉は開かなかった。それはつまり、
「こ、怖いこと言わないでよ……」
そう言いながら僕の前に立って抱かれるように僕の腕を回す。
「……とにかく。また開かなくなるかもしれない。出られなくなる前に……立てるか」
ケイの背中に手を回して立たせ、トイレから出す。電気を消そうとすれば暗くなるからやめろとギルが言う。
「も、もう布団入ろ? 俺怖くて死にそう。心臓ドラムくらい鳴ってる」
「ケイ、腹はどうだ」
「マシになってきた。ありがとう。布団行こ」
歩き出す前にトイレの電気を消したら、ギルが前に引っ付きながら布団まで向かうから歩きにくい。
布団に入ってからはケイとギルにおやすみ、と交わして眠りにつこうとする。が、
「れーくんこっち向いてお願い怖くて寝れない」
ギルに背を向けて寝ているからか、耳元で言ってくる。仕方なく反対側に背を向ければ、ギルが僕の布団まで入ってくる。ギルを包み込むようにして抱いてやった。
「これでいいか」
「ありがと……。朝までずっとこれでいて。朝になったらすぐ起こしてね。怖いから」
「気が向いたらな」
「えっ」
「ギルは起こしても起きない」
腕の中でギルはムスッとした顔になる。
「おやすみっ」
「……おやすみ」
ギルがさらに引っ付いてきて、ギルの鼓動を感じる。それは異様に速かった。本当に怖いみたいだ。
睡眠の質を少しでも良くするようにと、苦しくならない程度に強く抱いてやる。温かい。
ギルは安心できたのか、すぐに眠りについていた。僕は眠りにはついたが、金縛りに遭っていた。体が動かなく、息が苦しい。
あんなことがあったときに、金縛りに遭うのは運が悪い。さすがに恐怖を覚えてくる。金縛りの仕組みは知っているから、霊的なものではないというのも知っている。が……女の笑い声がするのは卑怯だろ……。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
「交差する言葉 2日目」に続きます。




