六日目 ー夜5ー
美月は食堂棟から渡り廊下を経由して、一年生寮に入った。手には破壊具付きの懐中電灯のみである。食堂には、リリイに会おうと押し掛けて来た連中が携帯していた、様々な武器があったが、どうせ使いこなせないので、持って来なかった。正面玄関をくぐったところで、談話室の扉が開いているのが分かった。光が漏れている。かすかに甘い匂いを捉えた。初めてリリイとあったときも、似たような状況だった。そう思い、身を隠しつつ、首だけで談話室の中を覗く。談話室は現実世界で見るそのままで、これまでリリイと会ったときの、あの豪華な装いではない。中央付近の机に突っ伏して、黄色というより黄金色のドレスを纏ったリリイがいた。髪も金の上、いつも通りの談話室なので、黄金メッキの彫像が放置されているようにも見えた。美月は無言のまま、静かに近づいた。手を伸ばせば届くほどの位置になって、リリイが誰かの接近に気付いたのか、顔を上げた。半分眠っているような、焦点の定まらない金色の瞳が、美月の顔を映した。
「なあに?」
「どうすれば、皆は、魅入られている状態から解放されて、眠りから覚めますか?」
リリイの傍らに立ち、美月は尋ねた。リリイは惚けた様子で、美月を見ている。美月の言っていることが理解出来ないのか、単にとぼけているのか、判断が付かなかった。
「このままでは、皆の命が危険です」
「いのち…」
「死んでしまうかもしれません」
「死?死ぬの?みんな?それは、大変。あなたは?あなたも死ぬの?みんなに死なれたら、わたし、どこに行けばいいの?」
「移動出来る場所はありません。あなたはどこにも行けない」
通常、夢魔は自力で他者の夢をつないで移動する。だがそれは、人間一人分の精気を奪い尽くしてやっと成せる術である。寮生たちの精気を奪っていたとは言え、その後やみくもに術を行使していたリリイには現在、自力で他の夢をつなぐことは不可能だ。リリイはくすくすと笑い出した。
「そう、そうなの。それは、残念」
「魅了を解いて、眠りも覚まさせる。そうすれば、皆、死にません。わたしも。あなたはどこにも行かなくて良いんです」
嘘は言っていない。現実世界において、最終的には合田の言っていた『専門家』が、何かしらの対処をリリイにするだろうが、それは恐らく、リリイを美月のもとから、他のどこかに行かせるようなものではない。リリイは美月の言葉を聞いてもまだ笑っている。美月はリリイの笑みが理解不能だった。
「どうして、笑うのですか?」
「だって、みんなは、幸せだもの」
「…どういう意味ですか?」
「幸せよ、幸せ。みんな、そう言うの。わたしといると、幸せなの。わたしは残念だけど、最後までわたしと一緒にいられるのは、みんな、もっと、幸せ」
最後まで、とリリイは言った。リリイが自身の消滅をどう感じているかははっきりしないが、少なくとも、リリイの言う『みんな』の死は理解している。美月はそう思った。
「…解放する気はない、と」
「ねえ、どうして、そんな顔をするの?ああ、あなたは違った。女のひとだった。だからだめね。幸せじゃあない」リリイは暗い顔をした。「変えられないのよ。どうしてかしら。女のひとには男のひとの姿じゃないと駄目なのに。何故かしら」
美月が知る由もないことだった。しいて言えば、石野が、夢をつなぐ対象に女性が含まれることは考慮していなかったためだろうか。だが美月は口にしなかった。リリイに教える義務はない。
「…みんなも、あそこでは、おかしかった。水が降っていて、冷たかった。探したのに。開けてくれたのに。みんな、いたのに。みんな、わたしをわたしではないように、見てた。でも今は違う、違う、違う」
美月の存在を無視したように、独白していたリリイの顔が、再び晴れた。その美しい笑顔に、美月は無言で、懐中電灯の破壊具を振り下ろした。手応えは、少なくとも、木や合成樹脂や、陶器や硝子とは異なっていた。美月は鈍器で人間を力任せに殴った経験はなかったので、その手応えが、人間の骨を砕き肉を裂く際と同じものなのか、少しは似ているのか、全く違うのか、判断が付かなかった。リリイは殴られた衝撃で、椅子から転げ落ち、床に倒れた。顔を上げ、美月を見つめる。破壊具が当たった筈の場所は、特に変化がない。ただ少し目を見開いて、驚いているような素振りを見せる。本当に驚いているのか、振りをしているのかは分からない。
「なに、するの」
「…『わたしをわたしでないように』、ってそれは当然。それはわたしだったのだもの」
「なにを言っているの?」
美月はもう一度、今度はしっかり体重を乗せて、懐中電灯を振り下ろした。リリイのこめかみ付近に命中して、リリイは床に突っ伏した。リリイは血を流すようなことはしなかった。その代わり、談話室全体と、室内の家具や備品がくにゃりと歪んだ。粘土で出来ていたものが、力を加えられて変形したようである。色も、それぞれの色の一部が急に剥げ落ちたように白くなり、元の色の部分とでまだら模様になった。
美月は無性に腹が立っていた。八重樫は言葉を濁したが、リリイが美月を乗っ取って、何かやらかしたことは確実である。事情を察知している八重樫はとにかく、他の生徒に自分がどんな風に思われたかと思うと、冷静ではいられなかった。美月を乗っ取っていた、という感覚がないらしいリリイには、美月の思考など理解出来る筈もなく、ただ戸惑った表情のまま、殴打を受けていた。
「『わたしといると、幸せ』?冗談じゃない。あんな、所構わず暴力振るうようなみんなの、どこが幸せ?あんな状態のまま死なせることのどこが、幸せ?」
美月は激情の赴くまま、床の上のリリイに馬乗りになると、頭部に何度も破壊具を叩き付けた。何度目かにリリイの頭部が歪んだ。リリイの頭部が粘土かホウ砂で作った玩具のスライムのように変化し、人間の頭部を模して形成しかけた、不健康な人間の内臓にも似た淡い桜色の塊と化した。緩く波打っていた金髪も頭部と一体化したようで、単なる塊の上の筋になっている。破壊具が当たっても、表面が凹むだけで、衝撃は吸収されてしまい、手応えらしい手応えもない。美月は懐中電灯を投げ捨てると、まだ形を残している首の部分を両手で締め上げた。
『きたか!きたか!きてくれたか!』
周囲から一斉に、声が響いた。談話室は既に部屋としての有り様になっていなかった。天井は消え失せ、壁だったらしい白っぽい色の、胸ほどの高さまである不格好な薄い板のような塊が、四方に存在しているだけである。消えた天井の上、壁だったものの向こう側、全てはただ白い空間が続いている。家具や備品などはもう形もなく、床から変化した白っぽい色の地面と一体化して、微かに盛り上がっていることで、以前はそこにあったという主張をしているだけだった。その壁だったらしいもの、床だったらしいものから、いくつもの大きな鳥や魚の頭部が生え出して、声を上げていた。
「うるさいっ」
美月は顔も上げずに一喝した。鳥や魚は一瞬、頭部全体を振るわせると、崩れた。美月はそれらに構っている暇はなかった。美月の手の中で、リリイの首から下も形を崩していた。固形物と液体の中間のような流動体になると、ぬるりと美月の手の中から落ちた。落ちた先の地面と一体化する。美月は自分の足首や膝が、リリイだったものと地面が混ざったものに、沈み込んでいることに気付いた。微かに桜色をした甘い匂いを放つそれが、更に少しずつ美月の足に粘り着き、軟体生物が這うような調子で、上ヘ上へと這い上って来ていた。美月は手でそれを払ったが、逆に美月の手に付着して、糸を引いた。そのまま手から手首に向かって、少しずつ移動してくる。それを振り払おうと手を闇雲に動かしつつ顔を上げると、美月を取り囲むように、地面から隆起した半固形で薄い桜色の流動体が、波打ちながらにじり寄って来ていた。思わず先程投げ捨てた懐中電灯を探ったが、既に地面に呑み込まれたのか、影も形もない。
美月の足は、太腿の辺りまで、淡い桜色に埋もれてしまっている。動かそうとしても、粘性の高さ故動かない。美月は、無意味に辺りを見回し、両手で太腿の周囲の流動体をかき分け、足を抜こうと試みたが、上手く行かなかった。その内に背中側からよじ上って来たものに引っ張られ、上半身を地面に倒されかけた。なんとか肘をついて、上半身、特に頭部を地面に打ち付けることは防いだ。
周りが近づいて来ているのと、不安定な体勢で地面との距離が近づいたせいで、美月は周囲が放つ甘い匂いにむせ返った。不意に美月は、その匂いが、初めてリリイとあったときに寮内を漂っていたものとは違う、別の機会に嗅いだものの気がした。美月の記憶は溯った。夢ではなく、現実世界。学院に来る前。
美月は笑い出した。
「ああ、そう。これだ。あんたはこれだ。周りを浸食して行く、悪いもの」
腰が痛いといって診療所を訪れた患者の一人。美月には治すどころか、なにがなんだか分からず、対処の仕様がなかった。翌日、患者が急死し、死因を聞いて、なんだったのか分かった。増殖する悪い細胞。それが患者の内臓を浸食し、腰部の痛みに変わっていたのだ。今、美月の周囲を満たしている匂いは、その患者の治癒を試みたときに、訳が分からないなりに記憶に残していた、鼻孔の奥に侵入して来た匂いだった。
美月は夢魔への対処法など知らない。だが、これならなんとか出来る。治せば良い。現実世界では無理だが、夢世界であれば、大丈夫。これから学院で、学び、知識を増やし、方法を探れば、現実世界でも治癒出来るようになるかも知れない。
「あんたのものじゃない」みんなと、一緒に笑ったり、馬鹿なこと言ったり、勉強を手伝ったり、将来のことを話したり、それは。「全部、わたしの、ものなの」
しつこい雨は止んでいた。しかし山霧が出て、視界は雨が降っていた時より悪い。立ち入り禁止状態の一年生寮を除いて、学院内の建物は点けられるだけの明かりが点けられている。破壊された電源と降り込んだ雨水で、漏電する恐れもあるのだが、構っていられなかった。食堂は臨時の医務室になっていて、怪我や低体温症でうめく生徒や職員が床に転がっている。無事だった電話回線で集落の診療所に連絡が取られ、『ないほう』の医師は時間外労働を強いられることになった。
藤沢と坊坂は、外に出て八重樫と美月を探しまわっていた。懐中電灯の明かりが、霧と闇を切り裂く。時折、大声で呼びかけてみるが、今まで返事はなかった。だがその時、石がコンクリートを打つ音が聞こえ、坊坂の足元に小石が転がって来た。武道場と倉庫の間からである。坊坂と、坊坂の様子に気付いた藤沢はそちらに急いだ。倉庫の裏、僅かに軒が張り出ていて、多少は雨を避けることが出来る場所。夢魔の術に掛かって眠らされるまでの少しの間に、八重樫はそこに美月を引きずり込んで避難していた。
「いた…」
「無事か?」
坊坂が安堵の息を漏らし、藤沢が声を掛ける。八重樫はうなずいて、膝の上に抱え込んでいる美月を示した。
「気を失っているだけ。ちょっと体温低くなってるから、医務室に、お願い」
八重樫の声にはいつものような元気がなく、掠れていた。短時間で済んだとはいえ、さすがにこの気温の中で、意識を失っていたことは体に堪えていた。八重樫は一応藤沢に美月を頼んだのだが、坊坂が素早く抱え上げて、歩き出してしまった。残された八重樫と藤沢はその後ろ姿をしばし呆然と眺め、顔を見合わせた。気を取り直して藤沢が尋ねた。
「で、お前は?立てるのか?」
「立ては出来る。歩くとなるとちょっと。肩貸してくれると有り難い」
藤沢は言われた通り、倉庫の外壁を背にして座り込んでいる八重樫に、肩を貸した。八重樫は、その肩につかまり、立ち上がると、足許は覚束ないながら歩き出した。少し前を、運動場を横切って、美月を抱えた坊坂が進んで行く。
「藤沢」
八重樫は、肩を貸してくれている友人に問い掛けた。
「何だ?」
「あんた、どんな夢見てた」
「夢?」
「寝てたろ。夢は見なかったか?」
「見てねえよ。そんな暇ねえ」
「そうか」
夢を見るのに暇が必要かどうかはさておき、藤沢は夢世界での出来事を記憶していないらしい。八重樫は前を歩く坊坂と、荷物のように抱えられている美月を見た。美月は恐らく記憶がある。問題は坊坂が果たしてどれだけ覚えているかである。どちらにしろ、眼前の女性治癒能力者は、目覚めた端から最大の修羅場に突入することになるだろう。
運動場の土の上は、雨で完全に散った桜の花弁が敷き詰められている。その上を、生徒たちは進んで行った。
手は入れるかもしれませんが、完結です。お読み頂きありがとうございました。




