六日目 ー夜4ー
「開いてるよ」
そう、声がかけられるのと、坊坂が食堂に飛び込むとが同時だった。その意味で、声は遅かったと言える。坊坂に続いて食堂に飛び込んだ美月の目に、行儀悪く食堂のテーブルの上にあぐらで座っている角の生えた八重樫と、椅子にまたがって、背もたれに肘を乗せているくまみみ付きの藤沢が入った。
「おす!」
八重樫は、片手を挙げ、満面の笑みとともに挨拶して来た。美月は一瞬、挨拶を返しかけ、八重樫と藤沢の体が向いている方に、食堂のテレビがあることに気付いた。間接照明が二つ三つ点いているだけの、ほの暗い食堂の中で、液晶の放つ光が思いのほか明るく見える。テレビには何かの番組ではなく、食堂側から武道場方向に向けての、校舎一階の東西を貫く廊下が映っていた。学院内にはない筈だが、ちょうど監視カメラの映像のようである。
「八重樫、あんた…」美月が声を上げた。「見てたの!?ただ、見てたの!?」
藤沢が少し気まずそうに目を逸らした。藤沢の態度が、美月の予測…八重樫と藤沢が廊下を通ってくる美月と坊坂をここで傍観していた…が正しいことを証明していた。八重樫はけたけたと本格的に笑い出した。
「なんで来てくれなかったの!?」
「えぇ、そりゃ、邪魔しちゃ、悪いかなって」
「どういう意味だ」
低い声は頭上から聞こえた。美月も同じことを思ったが、その声の方が早かった。美月が横を見ると、食堂に突入した時にはまだ美月より小さかった坊坂が、いつの間にか美月の背を越していた。服装も変わっていて、学院の詰め襟制服姿である。替え糸の着いていないモップを持っている姿は、掃除道具を壊して途方に暮れている生徒のようで、少々間抜けに見えた。八重樫は肩をすくめた。
「そのままの意味」
「そのままって…いや、それはいい。それより、なんなんだ二人して、その格好は」
美月は見慣れ過ぎてしまった姿だが、坊坂は、現実世界の人格としては初めて見る。八重樫の軽口よりも遥かに気になった。
「そこかよ」
八重樫は大げさに溜め息を吐いてみせた。
「おかしいだろ。須賀も大概アレだけど、何で鬼?くまみみ?」
「ちょっと、何でわたし、八重樫、藤沢と同列にされてるの?」
美月は抗議の声を上げた。断じてあれらと同類にされたくはなかった。
「なんでって、いや、むしろ、須賀が一番…なんというか、突っ込みに困る。正しい対処法だけど、なんだろう、自然過ぎるというか…」
「違和感がないな」
藤沢が言葉尻を引き取った。深く感心している。二人の反応で、美月は自分が制服着用の女子高校生姿であることを思い出した。反射的に八重樫を見やったが、八重樫は顔を斜め下に伏せて肩を振るわせていた。美月としては、藤沢や八重樫と同じ範疇で語らることは絶対に避けたかったのだが、だからといって何と反論してい良いのか分からず、押し黙った。
「女夢魔への対処法としては、最善なんだから、いいじゃない」
八重樫が、笑いを噛み殺しつつ、口を挟んでくれた。
「それは分かっている。けど、須賀の本分は治癒だろう。精神操作を仕掛けてくる人外生物への対抗なんてしたことないだろうに、夢の中とはいえ性別ごまかすとか、無茶が過ぎる。大体、子供だったとはいえ、俺が、女の人だと思い込んで呼びかけるって相当だぞ」
「逆だろ。治癒能力者なんて、治癒対象の精神に引きずり込まれたら終わりなんだから、そっち系統の力への、とっさの自己防衛本能は他の能力者に比べたら高いだろ」
どうも八重樫は『美月は女夢魔への対処のために、女性の姿になっている』という話しに持っていこうとしてくれているらしい。それは有り難いのだ、そうなると今ここで美月が女子高生姿であることへの説明はつくもの、現実世界でリリイに乗っ取られた件については、説明がつかないのではないかと思った。とはいえ、美月は口を挟まなかった。八重樫が色々暴露しないでくれているだけでも御の字なのだ。
八重樫と坊坂が、治癒能力者や感応能力者の精神操作系統の耐性云々について真剣に議論を始めてしまったため、手持ち無沙汰になった美月は、テーブルにもたれ掛かりつつ、食堂全体を見回した。そこで初めて、食堂の隅の暗がりに、動かない人の体らしきものが積み上げられていることに気付いた。
「夢魔に魅入られているとかで、夢魔に会いに来た奴らだ。会わせると面倒だからって、ここで八重樫と、来る奴らを片端から、のしていた」
美月の視線に気付いた、同じく暇そうにしていた藤沢が解説してくれた。八重樫が、坊坂への弁舌を中断すると、いかにも重労働しましたという様子で、続けてくれた。
「大変だったんだぜ。みんな、女夢魔に魅入られちゃってるそのまま、夢世界で活動するんだもん。彼女はどこだ彼女はどこだって、うるせえの」
「藤沢は…」
美月が知る限り、藤沢も魅入られていた筈である。
「あ、俺がなんとか正気に戻した。意外となんとかなるものだな。で、藤沢が手伝ってくれたからこいつらもなんとか出来た。一人じゃこの人数はきつかった」
「おい、説明しろ」
現況を美月ほどには理解していない坊坂が、口を挟んだ。
「ああ、はい。現実世界で起こったことのおさらいからね。石野は女夢魔を飼っていた。それを誰かさんが須賀に移した。女夢魔は何故か須賀を乗っ取れた。で、学院全体を魅了した。ここまでは良い?」
坊坂はうなずいた。特に疑問を感じていない様子からして、少なくとも現実世界で魅了されていた記憶はあるらしい。
「そのあと、一回須賀は意識を取り戻したんだけど、また女夢魔に乗っ取られた。そのあと、女夢魔が、今度は全員を夢世界に引き入れた。眠らせたのね。現実世界だと活動時間が限られるからなのか、夢世界と勝手が違うことが嫌でそうしたのか、深い理由はなくなんとなくやっただけなのかは不明」
八重樫は一息吐いた。美月が乗っ取られた点に関しては、見解を放棄している。坊坂がそこに何か疑問を呈すのではないかと美月は内心ひやひやしていたが、幸い、誰も口を挟まず、八重樫の次の言葉を待っていた。
「そしてここは須賀の夢世界。俺らが入ってきているのは、石野が自分の夢と一年生寮の就寝者の夢をつなぐ術を施していた関係だな、多分。その術のせいで、今は女夢魔が眠らせた全員の夢がつながっているか、最低でも、須賀の夢とはつながっている。で、魅入られている皆さん、この先にいる女夢魔に面会に来られました。誰かが女夢魔と会って、女夢魔がそいつの夢に移動されると面倒だから、全部阻止したけど」
「魅了されていた人たち全員来たの?」
美月はやや驚きつつ尋ねた。食堂の隅には確かに結構な量の人体が重ねられている様に見えるが、倉瀬や代田といった、夢世界で色々と無茶をしていた面々がこぞって押し寄せて来たのなら、振りではなく、実際にもの凄い重労働である。
「いや、なんかうちのクラスの奴は少なかった。だから、夢で女夢魔と会っていた奴らのほうが、夢世界においては、より深い魅了状態にあるんだと思う。ほらほら目の前に、自分で自分に制限かけて、夢世界での、女夢魔の影響を防いだ奴もいるし」
八重樫は顎で坊坂を指した。
「制限?」
「子供になってたろ。夢魔の術って小さな子には影響が薄いんだ。一番確実なのは、夢魔と同じ性別に変化してしまうことだけど、まあ、なったことないものになるって、難しいから」
「女夢魔は、この先に、いるんだな」
八重樫が喋りきったと同時に、坊坂が威嚇するような低い声で呟いた。
「ちょい待ち。坊坂、あんたまさか直接対決するつもり?無理無理。わざわざ非力な子供にならなきゃ対抗出来なかったてことは、この系統の術に対して耐性低いんだろ」
「…あんたは高いみたいだな」
「ま、ね。俺はとある女怪の支配下にあるから、女夢魔ごときの魅了じゃ効かないよ。流石に眠りこけることまでは防げなかったけど」
八重樫は肩をすくめた。
「八重樫、ひょっとして、女夢魔が巣食ってるの知っていて、学院に来たのか?」
「ん、半分正解。女夢魔だと断定していたわけじゃない。去年のゴールデンウィークに久井本さんが出稽古に来たんだよ。そのとき、微かにだけど、魅了の影響を感じた。あ、俺じゃなくて、もっと走査というか、そちら方面の力が強い奴がいてね、そいつが気付いた。三月の春休みに来たときはそんなものは感じなかったっていうから、一ヶ月ちょっとの間になにかあったんだろうと。なにかといってもここに入学して寮生活になったくらいしかないから、原因は学院にあるんじゃないかなと思って、生徒も職員も色々調べて、魅了を使う何か、が暗躍していることは確信出来た。あくまで、何か、ね。まあそれで、久井本さんみたいな堅物を魅了せしめるのはどんな存在かって気になったし、ちょうど俺も寺から出たかったしで、入学決めた。いやあ、あんなに必死で勉強したことなかったわ」
八重樫はけらけらと快活に笑った。
「というわけで、俺は坊坂が疑っているような回し者ではありません」
宣言されて、坊坂は顔色を悪くした。八重樫は、手紙盗み見の一件の発端が八重樫に対する坊坂の疑いであることに気付いている。その点を真っ正面から指摘されて、坊坂はかなり堪えた様子だった。
「それでねえ、みつきちゃん、お手数だけど、女夢魔をどうにかして来てもらえる?」
「はい?」
「冗談いうなよ。須賀は治癒能力以外使えないだろ」
坊坂の顔色など無視して、八重樫は軽い調子で突如話しを美月に振った。振られて美月も戸惑ったが、一瞬で立ち直った坊坂の口出しが、かなりきつい口調だった。八重樫はけろりとしている。
「だってこれ須賀の夢世界だし。俺が行ってもいいけど、他人の夢で無茶をやって、須賀になにか影響あったら困るでしょ。それに、須賀は一番、対処出来ているし」
八重樫の言葉に、無言で坊坂の視線が美月に向いた。坊坂に上から下まで眺め下ろされ、美月はいささか居心地が悪かった。
「わたしでも、どうにか出来るものなの?」
「出来るよ。話しが通じて、みんなを解放してくれれば一番いい。けど、話し合いが不調でも、あれは眠らせて魅入らせる以外に、使える術なんかない。弱いものだよ、何とでも出来る。あ、石野の術と違って、夢魔が消滅すれば、少なくとも魅了状態は解放されるから」
「無理に須賀にどうこうさせなくても、夢魔が弱るのを待っても良いんじゃないか。多数相手に術を連発していて、長時間持つとは思えない」
「須賀と俺は野外にいるんだよ。雨降ってたろ。この時期、この高度、この気温の野外で、眠り込んだまま雨に打たれるって、健康優良児でも命に関わる。ましてや須賀は、体の造りが、周りと違うだろ。早く終わらせた方がいい」
「…」
うってかわって真面目な口調で説明され、美月はもちろん、坊坂も黙った。
「という訳で、お願いします」
「了解です」
美月はうなずいた。自分の命に関わることで、否応はなかった。それに、例え美月がどうにかすることに失敗しても、リリイはいずれ弱って消滅するのだ。問題はない。坊坂は口を開け、何か言い掛けたが、結局何も言わなかった。藤沢は、恐らく事前に八重樫から説明を受けていたのだろう、自分が無力であるという状況に不機嫌そうだったが、何も言わなかった。




