四日目 ー夜2ー
八重樫は、それまで律儀に一段ずつ上っていた石段を、静止した状態から一気に数段飛び越し、一瞬で一番手前にいた生徒に肉薄した。気が付いた時には、その生徒は八重樫に制服を掴まれ足を払われ、石段の下に投げ落とされていた。
「ああああぁ」
投げ落とされた生徒の悲痛な叫びが、石段の下に向かって消えていく。二組の生徒全員の注意が八重樫に向かった。その瞬間、藤沢が普通の階段を駆け上がるような、先程までとは比べ物にならない速度で石段を駆け上がった。くまみみが付いているが、熊というよりは猪の突進である。その勢いと迫力に、藤沢の進行方向にいた生徒たちは、迎撃するどころか道を開けて巨体を通した。藤沢は、数人の横を通り過ぎると、直進の勢いをそのまま回転運動に変え、雄叫びをあげつつ、肩から下ろした戦斧を体ごと振り回した。同じ段と下の段にいた生徒が二人、戦斧に引っ掛けられて倒れ臥した。藤沢は二人を引っ掛けた後もそのまま止めることなく戦斧を振り切った。空を切った戦斧は、最後に石段にあたり、破片…といっても美月の顔くらいの大きさがある…を散らす。藤沢は戦斧を片手持ちに替え様、空いた片手で宙に舞った破片を掴み取ると、下方にいる、先程藤沢に道を開けた一人に投げつけた。西瓜に鋭い角のあるコンクリート片を投げつけたら多分このようになるのだろう。ぐしゃりという音ともに、石段の破片を顔面に食い込ませ、声すら上げることなくその生徒は落下した。犠牲者の近くにいたばかりに、その光景をまともに目撃した生徒の一人は、蒼白になり、失禁した。
投げ落とされた一人目の生徒のが上げた叫び声が消えるより早く、八重樫は手近にいた一人に飛びかかった。その生徒は一応抜き身を下げていたのだが、刀を使用するより早く、八重樫が放った突きで鼻を潰され、顔を覆って膝をついた。八重樫は、己のほぼ肩の高さにある、上の石段に両手を付くと、足下の石段を蹴った。前方倒立回転の要領である。両腕で己の体重を支え、更に一段上にいた生徒の足を、脚で絡めとる。体勢が不安定なのは、明らかに逆立ち状態の八重樫の方なのだが、思わぬ方向からの攻撃に狼狽した生徒の方が体勢を崩し、石段からずり落ちつつ、腰をしたたかに打った。八重樫は回転の途中で一人に攻撃を加えたことなどなかったように、華麗に両足で着地し体を起こすと、次に向かった。次の生徒は袴姿で刀を正面にきっちり構えていた。そのまま正対すれば徒手空拳の八重樫が不利なことは明白だが、速度を緩めることなく、迫る。刀の間合いに入る寸前、その生徒は突如悲鳴を上げて刀を手放すと、両手で顔、特に目の辺りを覆った。がら空きになったその腹に突きが叩き込まれる。呻き声とともにその生徒は崩れ落ちた。八重樫は崩れ落ちた生徒の体を振り払い、地に落ちていた刀を遠方へ蹴り落とすと、次に向かおうとして、ふっと横にそれた。影が落ち、上から倉瀬が切り掛かって来た。続けざまに繰り出された鋭い刀の閃きをかわしつつ、八重樫は後退した。
「風か?」
斬り掛かりつつ、倉瀬が短く尋ねる。八重樫は答えなかった。代わりに身を翻して数段上の石段に飛び上がると、着地し様に周囲の、まだ立っていた二組の生徒たちを睥睨した。全員が同時に顔を押さえて呻く。一人がよろめきざまに足を踏み外して落下した。八重樫は再び大きく跳んで、追いついた倉瀬が放った斬撃を避けた。
失禁した生徒は膝をがくがくと震えさせていたものの、もはや倉瀬を除けば立っている最後の二組の生徒だったが、藤沢から投げられた一瞥を受けると、ひいっという悲鳴を上げて、尻餅をついた。己でたった今こさえた水たまりに、デニムの乾きにくい生地が浸った。
「無事か?」
少し視線をずらして、藤沢は美月に確認した。美月は背後にいる藤沢からは見えもしないのに、つい無言で手を挙げて応えた。幸い藤沢には雰囲気で伝わったらしい。藤沢は顔を上げ、突進の結果、すぐそこの距離にまで迫って来ていた門扉に目をやった。
「藤沢っ!」
八重樫が上げた大声が耳に届くのと、藤沢の周囲が青白い炎に包まれるのとがほぼ同時だった。藤沢と美月を中心として半径一メートルほどに、円を描くように不可視の壁が出来た。炎はその外を渦巻いている。炎の直撃は免れたものの、光と熱は藤沢と美月のもとまでしっかり届き、目と呼吸器とを焼いた。蛋白質の焦げる、嫌な匂いが漂い、誰か複数の、正に断末魔の叫びが響き渡った。炎は一瞬だけ暴虐の限りを尽くし消滅した。炎と熱気の影響を受け、辺りの霞が晴れていた。藤沢が目を焼かれる直前に目に止めた光景そのままに、石段の上の門扉が開いていて黒い僧衣姿が佇んでいた。
「ああ、うん。…やっぱりあれだ、鬱憤、たまってんだなあ」
僧衣姿を眺めつつ、八重樫が間延びした声を上げた。倉瀬はつい先程己のいた位置に目を向ける。溶けた石段が溶けかけたものを固め直したアイスクリームを思わせる、奇妙な曲線を描く形状になっていた。倉瀬も、というよりこの場にいた者全てが炎の攻撃を受けたのだが、倉瀬と八重樫は回避が間に合い無事で、藤沢とその背にいた美月は、八重樫が風を使った防御を施したため、即死状態は免れていた。その他の連中は、いたのであろう場所の石が溶けて煤けていることで痕跡を残すのみだった。
美月は一度焼かれた目を開いた。首を伸ばすと両腕で顔をかばったままの藤沢の顔が見えた。
「開けて良いよ」
美月の落ち着いた声が耳に届き、藤沢は手をどけ、まぶたを開き、大きく呼吸をした。
「すげえ」
感嘆は美月に向けられたものだった。腕でかばいはしたものの、一瞬遅く、美月ほどではないにしろ感覚器官と呼吸器官を傷めていた。だが、美月のささやきとともに全てが一瞬で完治していた。
美月は背負子から滑り降りた。この状況ではどう考えても背に人ひとり背負っているのは枷をはめて闘うに等しい。既にこの場には、倉瀬以外の二組の生徒はいない。その倉瀬は八重樫と対峙している。外野からの攻撃を心配をする必要もなかった。藤沢は目線をしっかりと門前の僧衣姿に合わせたまま、無言で空になった背負子を下ろした。その様子を横目で確認しつつ、八重樫は、隙なく身構え、坊坂と八重樫を警戒する倉瀬に問い掛けた。
「あんたはどうするの?」
倉瀬は冷たい視線を八重樫に向けた。
「初めに、坊坂の同一化を阻むつもり、と説明したが?」
「わりい、聞いてなかった」恐らく、八重樫の先制攻撃がなされた辺りで言っていたのだろうが、正直誰も聞いていなかった。「というかあんた、自分の話しが聞いてもらえる価値あると思ってんの?」
八重樫は満面に不適な笑みを浮かべた。倉瀬は表情一つ変えなかった。
そのとき、地面が揺れた。




