四日目 ー昼ー
美月が入寮した翌日から昨日まで、藤沢は常に美月より早く起きていた。大体起床時間の一時間前には起きているようで、美月が起きだす頃には準備万端、起床時間とともに開けられる正面玄関を出て、運動場で朝のトレーニングに励んでいた。しかし今朝は話しが違った。起床時間を知らせる放送が流れ終え、美月が身支度を整えた後も、ベッドの上でもぞもぞと動いているのが、カーテン越しで分かった。自分の目覚まし時計とともに床に下りた美月は、目安針を動かしわざと音を鳴らすと、ベッドの上、横になった藤沢の頭部があるであろう側に近づける。一回、二回、三回、と音の切れ目を数え、六回目でカーテンが引き開けられた。
「おはよう」
「…おう」
美月がことさらわざとらしく挨拶すると、半眼の藤沢が応えた。美月は目覚ましを止めると、机の上に置き、椅子に腰掛けた。美月はいつでも食堂に赴けるのだが、藤沢が二度寝してしまわないかが気にかかり、そのまま藤沢の支度を待つことにした。藤沢は制服を身に着ける間も、手元がおぼつかず、なんどもボタンをかけ損ねた。
「ねみい…」
「昨夜、暴れ過ぎたんだろ」
「…なんだって?」美月の言葉に、藤沢はぼんやりした表情でボタンから顔を上げた。「俺、暴れたりしたのか?」
「…え?」
美月はまじまじと藤沢の顔を見た。藤沢は気まずそうに目を逸らした。
「寝ぼけて、眠るの邪魔したか、悪い」
「あ、いや、そこまでひどくはないんだけど」
美月はとっさに曖昧にごまかしたが、頭には疑問符が浮かんでいた。藤沢は表情を曇らせたまま着替えを終えた。美月はいつものような活力がない藤沢を率先する形で、部屋を出た。他の生徒は殆ど退室済みらしく、寮の廊下は静まり返っていた。
正面玄関を出たところで石野寮監と遭遇した。寮の正面玄関は、主錠以外に、門落とし…扉の下側に取り付けられた金具を、たたきに穿たれた穴に落とし込んで掛ける形…の内鍵がある。それがそのまま、玄関を開放しておく際にドアストッパーの一つになる。その門落としを受けるための穴が、おりからの強風で飛ばされてきた砂とほこりで埋もれてしまい、役割を果たさなくなっていたらしく、その砂を取り除いていた。
「ーーーー」
しゃがみ込み、元はフォークだったらしい道具で砂を搔き出している石野寮監に、すれ違い様、藤沢が声を掛けた。石野寮監が顔を上げた。美月がリリイからの言葉を伝えた時には、やけに驚いた様子だったが、今回は特に表情を変えなかった。微かにうなずく。
「藤沢君、合格ね」
簡潔に言うと、すぐに作業に戻った。
美月は藤沢の顔を見上げた。相変わらずどこかはっきりしない表情のままである。自室でのやりとりで、藤沢が昨夜の夢世界での出来事を覚えていないのではないかと疑ったのだが、きちんと記憶していたらしい。美月は胸を撫で下ろした。
昨日は初めて体育の授業があったが、今日は初めての芸術の授業があった。体育と同じように学年合同で行われる授業で、準備に時間が掛かることもあり二時限連続である。内容は選択制で、書道、音楽、美術の三種に分かれている。美月は書道を選択していた。一組からの書道の選択者は美月と田中だけだったので、余り人気がないのだろうなと思っていたが、案の定、学年全体で七人しかいなかった。その七人は、基本的に特殊教室は普段鍵が掛けられていて、担当教師によって解錠されるまでは教室の前で待つしかない、書道教室の位置が、美術室・音楽室と異なり二階の、しかも廊下の奥の突き当たりで、用事がない限り他の生徒が通らない位置にある、という理由により授業の始まる前からみっちり顔を合わせることになった。
一昨日の部活見学のときから坊坂の信奉者になっている田中は、少し水を向けると実によく坊坂のことについて喋ってくれるし、誰かに水を向けられなくも勝手に喋っている。美月への良い情報提供者でもあるが、同時に話す内容の大半は中身のない賛辞であるので、実際に美月が必要としている情報は、その内の一割を切る程度しかなかった。鍵が開くのを待つ間も、田中はずっと喋っていた。美月はいつものことなので適当に相槌を打って済ましていたが、他の組の五人の生徒は、果てしないお喋りを呆れた様子で見守りつつ、美月に軽い同情の視線を送っていた。
その中には代田と三組の組委員の里崎がいた。
八重樫の予測では代田の方が美月に接触してくる筈だったが、実際は倉瀬の方が先に声を掛けてきた。倉瀬は、藤沢に対してはっきりと勧誘活動をしていることもあるので、声を掛けて来たのも目的あってのことなのは確かだったが、代田については、どの程度勧誘欲があるのか分からない。今までのところ美月は代田本人はおろか、取り巻きを含む他の三組の生徒ともこれといった交流がなかった。書道の授業の前後の時間は、美月に接触を試みるには絶好の機会であるが、今のところは田中の、坊坂へのとめどない賞賛に完全に引いてしまっている。書道を担当する、四十代半ばの、薄くなってきている髪を整髪剤で盛り立ててなんとかしようとしてる教師ががやってきて、田中はようやく口を閉じた。
幸いというか、田中は授業中は静かだった。そもそも書道などというのは、初めに教師の説明を聞いた後は、ひたすら文字を書く授業である。初回ということで、今後の授業についての再確認、道具の置き場所と片付け場所などの説明などが行われてから、実際に筆をとっての授業に入った。題材が般若心経だったのは、仏教系故である。美月は画数の多い漢字に悪戦苦闘しつつ一時限を終えた。間の休み時間に入ると、美月を黙って話しを聞いてくれる理想的な聞き手と見なしているらしい田中は、制服に墨汁が飛んでいないか心底心配で、袖や膝など入念に確認している美月に、再び延々喋り掛けていた。
「ぞうこく、って何?」
制服を検査し終えて、それまで聞き流していた田中の話しに耳を傾けようとした時、美月の耳にその言葉が飛び込んで来た。
教室内に失笑が漏れた。
代田が、今後の授業予定に記載されている篆刻の授業を『ぞうこく』と読んだのだった。名前をまだ覚えていない二組の生徒の一人が、ラテン語よりまず日本語勉強しろよ、と呟くのが聞こえた。横で田中が再度笑いかけたが、昨日調べるまで読み方を知らなかった美月に横目で睨まれて、笑いを押さえ込んだ。里崎が代田に正しい読み方と篆刻が何であるかの説明している。代田が、里崎への応答にしてはどう考えても過剰な、肩をすくめる仕草と声量で、言葉を発した。
「いままでの人生で印なんか使ったことないからな。スィグネチャーはあるけど」
恐らく代田は笑いを取ろうとしたのだと思う。もしくは精一杯格好付けようとした可能性もある。ただどちらにとっても失敗していた。美月や、ラテン語云々で冷やかした生徒を含めた一同の間に微妙な空気が漂った。運が良いことにそこで教師が入室して来て、同時に授業開始のチャイムが鳴った。授業開始のチャイムがこれほどまでに生徒達から歓迎されたことはなかった。
紙と墨に集中し過ぎていたらしい。美月は、四時限目の授業終了の合図にはっと顔を上げ、時間の感覚を取り戻すまで、全く無我の境地に浸っていた。教師は時間厳守で終了の挨拶をする。生徒はそれぞれに道具を片付け始める。普段使ったことのない筋肉を使ったためか、微妙に張りのある右腕をさすりつつ、美月も他の生徒に倣った。教室内に備え付けてある専用の洗い場で、なかなか墨汁の落ちない筆を何度もゆすいでいる最中、そういえば田中が話しかけてこないな、と思い、教室内を見渡し、田中が既に撤収済みだということに気付いた。授業の終わりまで紙に向き合っていた美月と異なり、他の生徒たちは終了時間が近づいた時点で、片付け作業に入っていたので、美月よりかなり早く片付けを完了させていた。もう昼休みで、食堂なり何なりで、同類たちと好きなだけ盛り上がることが出来るわけで、田中が喋り掛ける相手として美月を待っている必要はないし、美月も別に待っていて欲しかったわけでもないが、自分は一方的に喋るのに、用済みとなったら一言声掛けもせず去ってしまう切り替えの早さに少々憮然とした。
「それ、窓際の棚」
筆を片手に持ち、動きを止めた美月に、筆の乾燥場所を代田が示した。どこに片付けたらよいか分からなくなっていると思ったらしい。
「ああ、ありがとう」
美月は素直に礼を言うと、水気を払い、筆を片付けた。教室には、施錠のため生徒の退室を待っている教師と、里崎、代田、美月が残っていた。教師と里崎は書道用品のものらしいカタログを間に、何かを話し合っている。代田は里崎を待っているようで、手持ち無沙汰なのか、無造作に置かれている硯を、きっちり真っ直ぐになるように整頓していた。美月が残りの半紙や文鎮を片付けを終えるのと、里崎が教師と話しを終えるのがほぼ同時だった。そのため必然的に三人ひとかたまりで普通教室の方に戻ることになってしまう。美月のやや後方を歩いている代田と里崎は、消耗品であるため購入することになる篆刻の石について話し合っていた。というより里崎が説明し、代田が質問する、の繰り返しをしていた。
普通教室を前にして、何故か階段から上って来た藤沢に出会った。食堂は校舎の一階と渡り廊下でつながっている。美術と音楽の選択者はそのまま食堂に向かうものと思っていたので、ここで会ったのは意外だった。
藤沢は美月を見つけて、明らかにほっとした表情とともに、声を掛けて来た。
「終わったか。メシ食いにいこう」
「…ああ、うん」
約束していたわけではない。同室であるために夕食は一緒に摂ることが多く、今朝のような例外もあるものの、基本はそれぞれに行動している藤沢と美月である。藤沢が食事の誘いをしてくるのは珍しかった。一瞬怪訝に思ったが、藤沢の後ろから倉瀬が現れたのを美月は目に止めた。倉瀬から離れる理由が欲しいのだ、と直感した。
「じゃあ、一緒に…」
にこやかな笑みとともに倉瀬が声を上げかけて、止めた。美月の後ろに視線が止まる。
代田とは先程のやりとりが唯一の会話らしい会話だったのだが、他者の目には代田と里崎という三組の生徒と美月が楽しく会話しながら戻って来た、と見えた。美月には千里眼や透視能力はない。なので背後にいる代田と里崎の表情が分かる筈もないのだが、警戒とも嫌悪感とも取れる気配がだだ漏れで伝わって来た。たまたま居合わせた他の生徒たちも含め、周囲の時の流れが一瞬、止まったようだった。
「あっれれえ、どうしたの、こんなところに、ひとが、かたまってるよお」
素っ頓狂な声が耳に響き、生徒たちが一斉に声を上げた主を見やる。止まった時が流れ出した。一組の教室から出て来た八重樫だった。ひときわ楽しげな笑顔を張り付かせている。音楽選択なので、美術や書道に比べて片付けなどが早く済んで、一旦教室に戻ってきていたらしい。倉瀬が、八重樫に視線を当てたまま口を開きかけて、その後続に坊坂がいることに気付いて閉じた。坊坂は倉瀬の様子ははっきり見て取れた筈だが、全くの無表情のままだった。
「じゃあまた、来週ね」
代田が爽やかな笑顔と口調と動作でぽんと美月の肩を叩き声を掛けると、軽やかに傍らをすり抜け、三組の教室に入っていった。里崎が続く。美月は感心した。実際にはろくに話してもいないのに、今の光景を目撃した生徒は全て、美月と代田が親しいと思い込むだろう。大した手腕だった。
代田たちに続いて、倉瀬が去った後、藤沢に八重樫、坊坂まで加わって、食堂でテーブルを囲むことになった。藤沢は食堂に着くまでは、げんなりした表情だったが、今日のメニューにカレーがあると知ると俄然元気を取り戻した。食堂のメニューは給食に近い。日替わりの主菜と汁物、主食がそれぞれ三種類で、一種類は厳格な食事制限のある生徒のための精進料理である。主菜一品と汁物一品と主食は無料、というか学費に含まれていて前払いだが、それ以外に追加で主菜や副菜を頼むとその度に清算が必要になる。
「で、なにがあったわけ?」
八重樫にしては珍しく、追加清算して頼んだ皿を前に、興味津々という表情で藤沢に尋ねた。
「いや、なんかスカウトされて、さ」
「スカウト?」
美月は聞きとがめて思わず箸を止めた。
「ああ、高校卒業したら倉瀬のところに就職しないかって」
「…」
「なんか、俺と同じような地の神の力が強い、その手の能力者が倉瀬のところにいるから、育成には自信があるとか」
美月はまじまじと藤沢の顔を見つめた。奇をてらう様子でもなく、淡々としている。昨夜、夢世界で倉瀬は全く同じことを藤沢に言った筈なのだが、倉瀬が今日また同じことを繰り返したことを奇妙だとは思っていないようだった。
「まあ、事実だな」
八重樫はトッピングを変えた二皿目のカレーに取りかかりながらあっさりと言った。
美月は、朝一番に藤沢に声を掛けた時のことを思い出した。寮監に間違いなく合否判定の『言葉』を伝えたことで、藤沢は夢世界での記憶があると思い込んだのだが、やはり覚えていないのではないか。或いは試験に直接関連する部分のみ記憶しているのか。
藤沢に正面切って尋ねようとしたが、既に話しは倉瀬の件からは離れていた。二皿のカレーを食べきった三者は、三皿目に挑戦するかどうかを話し合っていた。その様子が余りに真剣そのもので毒気を抜かれた美月は、余計な口を挟むことはせず、野菜の煮物を口に運んだ。




