第70話 アシュワース卿は何を遺したのか
世界は、ふたたび呼吸を止めた。
つい二ヶ月前、中国がロシアへの資源供給を断ち切ると同時にアメリカが経済制裁を発動したあの「チャイナ・ショック」。世界中の港から貨物船が消え、工場が停止し、スーパーの棚から食料が消え去ったあの物理的な窒息の恐怖から、人類はようやく首の皮一枚で立ち直りかけていた。
だが。
現在、世界を襲っているのは、物流の停止ではない。
それを遥かに凌駕する、もっと根本的で、もっと絶望的な【価値体系の心停止】であった。
首相官邸地下。既存技術外事象評価セルの特別会議室。
壁面を覆い尽くす巨大なマルチモニターには、世界中の金融市場のリアルタイム・チャートが、まるで血の滝のように真っ赤な下落を示して映し出されている。
「……金先物、売り気配のまま値がつきません。銀、プラチナも同様。宝飾品市場は事実上の崩壊状態です」
財務省の幹部が、まるで自分の命を削るかのような掠れた声で報告した。
「レアメタル(希少金属)市場は、ロンドンおよびシカゴの取引所でサーキットブレーカーが発動し、取引停止。資源メジャーと呼ばれる巨大鉱山会社の株価は、開場と同時にストップ安を更新し続けています」
彼は、ネクタイを緩め、汗ばんだ額をハンカチで乱暴に拭った。
「……世界経済が、二ヶ月ぶり二度目の『心停止』状態に陥りました」
「前回は、モノが動かなくなる『供給網の停止』でした」
経産省の幹部が、モニターの無残な数字を見つめながら、うわ言のように呟く。
「しかし今回は違います。モノはある。物流も動かせる。だが……それに値段をつけることができなくなった。……価値の停止です」
『万象器』。
ロンドン・サザビーズ本店という、世界で最も権威ある美術市場のど真ん中で発表された、あの狂ったアーティファクトの存在。
「あらゆる物質を創造しうる」というその機能が事実であれば、人類が数千年にわたって信じ、血を流して奪い合ってきた『希少性』という前提は、今この瞬間に完全に消滅する。
「悪夢の種類が変わっただけね」
円卓の最上座で、矢崎総理は腕を組んだまま、冷ややかな視線をモニターに向けていた。
「モノがない悪夢から、モノの価値が消える悪夢へ。……しかも今回は、アメリカの制裁解除のような『政治的な宣言』一つで解決できるような生易しい問題じゃない」
総理の言葉通り、会議室の空気は前回のショック時よりもさらに重く、暗かった。
日本の与那国島で「ガイアズ・ドリーム(治癒AI)」を公開した時、日本は『見せ札』を切る側にいた。コントロールの主導権は日本政府にあった。
だが、今回は違う。
万象器は、日本の管理外にある。イギリスのロンドンという遠く離れた地で、個人の遺産として競売にかけられようとしている。日本は、プレイヤーであると同時に、この価値崩壊の嵐に無抵抗で巻き込まれる『被害者』の立場に置かれていた。
「総理」
情報機関の幹部が、手元の暗号化端末に表示された着信コードを確認し、弾かれたように顔を上げた。
「アメリカ政府より、緊急の情報提供を受信しました」
「アメリカから?」
総理の眉がわずかに動く。
「はい。先日、我が国からアシュワース卿の失踪情報を共有したことに対する、『返礼』とのことです」
情報幹部は、送られてきたデータパッケージの暗号を解除しながら報告を続ける。
「内容は……アメリカの影の組織『セレスティアル・ウォッチ』が独自にまとめた、万象器の技術分類、推測される制約、および危険度の分析データです」
「……キャサリン・ヘイズ大統領が、返してくれたのね」
矢崎総理の目に、微かな驚きの色が浮かんだ。
「はい。極めて高密度で、かつ最高機密に属するインテリジェンスです」
外務省の幹部が、モニターに次々と展開されていく膨大な資料を見つめながら言った。
「アメリカは、本気で日本と連携(情報共有)するつもりか」
沖田室長が、険しい顔でその政治的意図を測る。
「自国で独占するのではなく、あえて我々に手の内の一部を見せてきた」
「少なくとも、現時点では、彼らも単独で抱え込むにはリスクが高すぎると判断したのでしょう」
情報幹部が、油断のない声で応じた。
「モニターのメインに表示して」
総理の指示で、セレスティアル・ウォッチから送られてきた分析データが、巨大なスクリーンの中央に展開された。
そこには、ケンドール博士らによって精緻に構築された『レプリケーター分類』のマトリクスが、冷酷な論理の束として並べられていた。
エネルギー直接物質化型。原子核変換型。分子再構成型。情報テンプレート出力型。
さらには、概念変換型や量子確率選別型といった、現代物理学の枠組みを完全に逸脱した超常領域の仮説群。
それらの分類ごとの『できること』『制約』『廃熱やエネルギー源の謎』、そして『グレイ・グー(自己増殖による世界崩壊)』に至るプロセスが、恐ろしいほどの緻密さで記述されている。
そして、その膨大なデータの末尾に記された、セレスティアル・ウォッチの【暫定結論】。
『万象器は、単純な錬金術の釜や魔法の箱ではない。……未開の星を改造するための、惑星開発用の複合型物質編集端末である可能性が高い』
「……これは」
科学技術担当の幹部が、モニターにへばりつくようにしてその数式と論理構成を読み込み、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「単なるオカルトの推測資料ではありませんね。完全に、未知の超物理学を現行の工学の枠組みに無理やり落とし込み、リバースエンジニアリングの足がかりを作ろうとしている。……すさまじい解析能力だ」
円卓の隅で、いつものようによれよれのスーツ姿で座っていた三神編集長が、ふっ、と短く笑い声を漏らした。
「なるほど。良く調べてある」
三神は、腕を組み、モニターの記述を満足げに眺めた。
「さすがはセレスティアル・ウォッチですね。あの狂乱のサザビーズの会見映像と、黒焦げのノートの断片だけから、数十分でここまで論理を組み上げるとは。
万象器をただの『何でも作れる魔法の箱』として恐れるのではなく、“エネルギー源はどこか”“質量保存はどうなっているか”という『制約のあるシステム』として解体しようとしている。……このパニックの中で、彼らは極めて冷静です」
「三神編集長」
矢崎総理が、彼を真っ直ぐに見据えた。
「このアメリカの分析は……どこまで信用できますか?」
三神は、いつもの飄々とした軽薄さを少しだけ引っ込め、真剣な顔で答えた。
「分類の立て方は、非常に妥当です。SFの思考実験のようにも見えますが、異星のテクノロジーを論理で縛るアプローチとしては、これ以上ないほど正しい」
三神は、モニターの記述を指差した。
「……少なくとも、【方向性は事実】です」
会議室の空気が、一気に凍りついた。
「では、あの万象器が『惑星規模の物質編集』を行い、さらには『グレイ・グー(自己増殖による環境破壊)』を引き起こすという最悪のリスクも……本物だということか」
防衛省の幹部が、戦慄して呟く。
「ええ、事実です」
三神は冷酷に肯定した。
「使い手が一歩間違えれば、地球上のあらゆる物質が均等な灰色の塵に変わる。……そのリスクは、確実に存在します」
総理は、アメリカからの資料と三神の言葉を頭の中で繋ぎ合わせ、そして、ヘイズ大統領がこの結論に至った後の『次なる行動』を予測した。
「……キャサリン・ヘイズ大統領は、この自国の分析結果を受けて、どう動くと思います?」
総理は、外務と情報のトップに問うた。
「表向きは、英国政府との同盟国としてのプロトコルに則った協議、サザビーズへの安全確認要求、そして国際社会との協調をアピールするでしょう」
外務省幹部が、外交的な建前を述べる。
「しかし、裏は全く違います」
情報機関幹部が、アメリカの恐るべき本性を口にした。
「万象器がこれほど危険な代物であると、彼ら自身が結論づけた以上。……アメリカは、自国の安全保障のため、あるいは世界の覇権を維持するために、何が何でも、どんな手段を使ってでも、あの装置を『押さえ』に行きます」
「まずは、無制限の予算による落札を狙うでしょう。だが……」
防衛省幹部が、最悪のシナリオを付け加えた。
「もしそれが失敗する、あるいは現物がロシアや中国といった敵対勢力に渡る危険があると判断した場合。
……【非合法な武力接収(強奪)】も、アメリカの選択肢に入るでしょう」
その重い予測に、会議室が再び静まり返る。
金で買えないなら、軍隊(特殊部隊)を使ってでも奪う。世界を滅ぼすスイッチを他国に委ねるくらいなら、同盟国の首都で血を流すことも辞さない。それが、超大国のリアルだ。
「……やむを得ないわね」
矢崎総理は、目を伏せ、アメリカのその非道な決断を、ある意味で『肯定』するようにつぶやいた。
「総理……!?」
外務省幹部が驚いて顔を向ける。
「市場を見なさい」
財務省幹部が、暴落するチャートを指差した。
「すでにこれだけの被害が出ています。オークションが開催される一ヶ月後まで、この状態が続けば、実体経済は完全に死滅します」
「もしグレイ・グーの危険が実在するなら、もはや所有権やビジネスの問題ではありません」
科学技術担当も同意する。
「誰の持ち物かなど関係ない。あれは人類全体に対する時限爆弾です」
「ロシアや中国にあの兵站無限化の装置が渡れば、世界は完全に取り返しがつかなくなる」
防衛省幹部が、軍事的な絶望を語る。
「ロシアのサイボーグ兵士が、無尽蔵の弾薬と装甲を得る。中国の仙人が、永遠の命に加えて物質の法則すら支配する。……そんな未来を許容するくらいなら」
「たとえ非合法な手段を使ってでも、どこかの『安定した陣営』が、武力で押さえ込んで封印するしかない」
官房長官が、現実的な諦観を込めて言った。
「ええ。アメリカが押さえるというのなら、日本としても、それを裏から黙認し、情報面で協力する道を……」
総理が、苦渋の決断を下そうとした、まさにその時だった。
「――ロンドンで、戦争をする気ですか?」
沖田室長の、氷のように冷たく、そして鋭利な刃物のような声が、総理の言葉を真っ向から遮った。
会議室の空気が、ピタリと止まる。
「……どういう意味だ、沖田室長」
防衛省幹部が、怪訝な顔で問う。
「アメリカだけが、そう考えるはずがない、と言っているのです」
沖田は、円卓の全員を、冷徹な現場指揮官の目で見回した。
「万象器の危険性を理解し、『自分たちこそがこれを押さえる(管理する)べきだ』と考えるのは、アメリカだけではありません。……ロシアも、中国も、EUも、ヘルメス協会も、そして裏社会の富豪や闇勢力も、全員が全く同じ結論に至ります」
沖田は、机の上のロンドンの地図を強く叩いた。
「もし、アメリカの特殊部隊が非合法接収に動けば。……ロシアのスペツナズ(あるいはサイボーグ部隊)は、必ず対抗して武力介入します。
中国の仙人も、黙って見過ごすはずがない。刺客を送り込んでくるでしょう。
EUと英国本土の軍隊は、自国の主権を真っ向から侵害されたとして、全軍でそれを排除しようとする。
ヘルメス協会は『我々の精神的試練を力で奪う気か』と、狂信者を差し向ける」
沖田の描く未来図は、あまりにも生々しく、そして凄惨だった。
「結果として何が起きるか。……ロンドンという大都市のど真ん中が、世界各国の超人、サイボーグ、特殊部隊、そしてドローンが入り乱れる、【最悪の市街地戦場】になります」
防衛省幹部が、青ざめた顔で反論する。
「それでも……万象器の暴走を止めるためには、誰かが血を流してでも動くしか……!」
「万象器を止めるために、第三次世界大戦の火蓋をロンドンで切る。……それは、本当に『世界を救った(止めた)』ことになるのですか?」
沖田は、容赦なくその矛盾を突きつけた。
「市街地で超技術が激突し、数十万人の一般市民が巻き込まれ、英国という国家が崩壊する。……それを『やむを得ない』で済ませるのですか」
沈黙。
圧倒的な、逃げ場のない沈黙。
矢崎総理は、唇を強く噛み締め、政治家としての激しい葛藤を顔に滲ませた。
「……それでもよ、沖田室長」
総理は、絞り出すように言う。
「ロンドンが戦場になっても、止めなければならないものはある。……万象器がもし本当に暴走してグレイ・グーを引き起こせば、ロンドンどころか、国家がいくつ壊れるか、いや地球がどうなるか分からないのよ。
現に、市場はすでに恐怖で死にかけている。これを『所有権の尊重』なんていう平和ボケしたルールで放置できるというの?」
誰も、すぐには答えられなかった。
非合法接収は、世界大戦を引き起こす危険なトリガーだ。
だが、放置すれば、世界経済が崩壊し、最悪の場合は地球が灰になる。
奪うべきか、見守るべきか。
まさに究極のジレンマの中で、会議は完全に手詰まりとなっていた。
その、誰もが正解を見出せない重苦しい沈黙の中で。
「…………」
これまで、アメリカの分析結果を見てからずっと口を閉ざしていた三神編集長が。
いつもの軽薄な笑みを完全に消し去り、真剣な眼差しで、壁面のモニターを見つめ続けていた。
アメリカの緻密な分析データ。
サザビーズの会見で読み上げられた、アシュワース卿の研究ノートの断片。
そして、あの会見で最後に放たれた、『選ぶのは、汝らだ』という言葉。
三神は、それらを頭の中で繋ぎ合わせ、何かを測るように、深く思考の海に沈んでいた。
「……三神編集長」
矢崎総理が、すがるような思いで、彼に呼びかけた。
「あなたには、何か……別の見え方がありますか?」
三神は、すぐには答えなかった。
彼は、机の上で組んでいた指をゆっくりと解き、そして、会議室の全員の視線を一身に受けながら、静かに口を開いた。
「……皆さん」
三神の声は、低く、しかし奇妙なほど澄み切っていた。
「アシュワース卿が、本当に【何を求めているのか】。……そこから、推測しませんか?」
その、視点を完全に180度切り替える問いかけに、会議室の全員がハッとした。
「我々は今、“万象器を誰が落札するか(どう奪うか)”という話ばかりをしています」
三神は、立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み出た。
「しかし……遺言を残したアシュワース卿本人が、本当に求めているのは、そこ(単なる所有権の移転)でしょうか?」
「どういう意味です?」
沖田が問う。
「あのサザビーズの会見。……あれで、遺言の【すべて】が公開されたと、皆さんは本気で思っていますか?」
三神は、ホワイトボードのマーカーを手に取り、大きく一つの円を描いた。
「……遺言は、一つとは限らない」
「!?」
「今公開されたのは、ただの【第一段階(フェーズ1)】に過ぎないかもしれない」
三神の目が、推理の喜びに怪しく光る。
「あのサザビーズの会見は、世界を無意味に混乱させて滅ぼすためのものではなく。……世界中のプレイヤー(国家と富豪)を、強制的に同じテーブル(オークション)に引きずり出すための、【号砲(撒き餌)】だったのではないですか」
「……彼は、無意味に世界を火の海にするような狂人ではないと?」
総理が、確認するように聞く。
「少なくとも、私が過去に彼を取材した時の印象では、違います」
三神は、かつての記憶を辿りながら言った。
「彼は、確かに自分のコレクションを見せびらかすのが好きな、劇場型の御仁ではありました。……ですが、無意味に火をつけて喜ぶような、安い愉快犯や破滅主義者ではない。
彼は、火をつけるなら……必ず【何かを照らし出す(炙り出す)ため】に、火をつけるタイプです」
「分かりました」
矢崎総理は、姿勢を正し、会議の方向性を完全に「奪取の検討」から「意図の解読」へと切り替えた。
「では、考えましょう。
アシュワース卿は、なぜこんな遺言を残したのか。
なぜ、国連でも裏社会でもなく『サザビーズ』なのか。
なぜ、秘密裏に渡さず『公開』したのか。
なぜ、誰でも参加できる形ではなく『特別招待制』なのか。
なぜ、即日ではなく『一ヶ月後』なのか。
なぜ、研究ノートを『断片』だけ出したのか」
総理は、ホワイトボードの前に立つ三神に頷きかけた。
「推理を始めましょう」
「では、まず【仮説1:単純な破滅主義者説】」
情報機関の幹部が、最も最悪なシナリオから提示する。
「単純に、世界を混乱させ、文明を破壊することが目的だった可能性は? 死後に自分の名を歴史の破壊者として残すための、究極の自己顕示欲です」
「可能性はゼロではありません」
三神は、少し考えてから否定寄りの回答をした。
「ですが、彼の性格とは合わない。アシュワース卿は、自らのコレクションを心から愛していました。文明を本気で破壊したいなら、万象器のロックを解除してその辺の闇市場に放り投げるか、中国かロシアにこっそり無償で譲渡して暴走させればいい。
……わざわざ『研究ノートの危険性』を世界に公開し、各国に警戒させる必要はありません」
「確かに」
沖田が頷く。
「あれでは、破壊する前に封じ込められるリスクが高すぎる」
「では、【仮説2:人類への試験説】」
科学技術担当が、ロマンのある仮説を提示する。
「研究ノートの最後にあった言葉。『神の玩具か、悪魔の罠か。選ぶのは汝らだ』。……これは明らかに、人類全体へ向けた問いです」
「ええ」
三神も同意する。
「彼は、誰に渡すかという答えを自分で決めなかった。封印するでもなく、特定国家に譲るでもなく、世界の前に提示した。……つまり、人類がこの究極の力に対してどう振る舞うかを、死後に『見よう(試そう)』としている」
「死んだ後に?」と総理が訝しむ。
「ええ。遺言という形で」
三神は微笑む。
「だが、試験だとして……採点者は誰です?」
沖田が、極めて現実的な矛盾を突いた。
一瞬、会議室に沈黙が落ちる。
死人が試験を課して、誰がその合否を判定するのか。
「……それが、問題です」
三神は、意味深に呟いた。
「ならば、【仮説3:危険人物を炙り出す罠説】」
情報機関幹部が、インテリジェンスの視点から推測する。
「『特別招待制』という形式は、参加者を限定し、記録するためのものかもしれません。誰が万象器に手を伸ばすか。誰が非合法に接触(強奪)しようとするか。……世界中の強欲な者たちを一網打尽にするための罠です」
「あり得ますね」
三神は頷く。
「アシュワース卿は、かなり意地の悪い知性の持ち主でした。世界中の強欲な権力者たちを、一箇所に集める舞台装置として、サザビーズ以上の場所はありません」
「つまり、万象器はただの『餌』だと?」
防衛省幹部が問う。
「あるいは、餌に見せかけた【鏡】です」
三神は答えた。
「それに群がる者たちの醜悪な本性を映し出すための、ね」
「私は、【仮説4:共同管理体制を作らせる誘導説】を推します」
外務省幹部が、最も建設的で外交的な仮説を提示した。
「卿は、一国が万象器を独占することの危険性を誰よりも理解していた。特定国家へ秘密裏に譲れば、残りの国家が必ず奪いに来て戦争になる。隠し通しても、発見された時に世界大戦になる。
……ならば、最初から世界へ大々的に公開し、『皆で管理しなければ世界が壊れる』と恐怖を煽ることで、強制的に【国際的な共同管理体制】を作らせようとしているのではないでしょうか」
「……その可能性は、非常に高いです」
三神は、外務幹部の推理を高く評価した。
「ですが、それにしては、市場への被害が大きすぎる。……皆を協力させるための荒療治だとしても、やり方が乱暴すぎます。
だからこそ。……まだ、【仕掛け】が足りない」
三神は、ホワイトボードにマーカーで文字を書き込んだ。
「【仮説5:遺言は複数段階に分かれている説】」
第一遺言:存在を公開せよ
第二遺言:参加者を選別せよ
第三遺言:条件を提示せよ
第四遺言:真の所有者を決めよ
三神は、ペンを置き、全員を振り返った。
「今回のサザビーズの会見は、第一段階に過ぎません。存在を公開し、世界を混乱させ、全員に『これは絶対に放置できない』と認識させるためのショック療法です。
……次に、サザビーズから『特別招待制の条件』が発表されるはずです。その条件こそが、彼の仕掛けた【本命】かもしれません」
「金額ではなく、条件?」
沖田が鋭く反応する。
「ええ」
三神はニヤリと笑った。
「万象器のような、世界の価値を破壊する代物に、オークションの『落札額(ただの紙切れの量)』だけで所有者を決めるとは思えない。彼なら、もっと悪趣味で、もっと知的な【条件】を用意しているはずです」
「……つまり」
矢崎総理が、推理のピースを繋ぎ合わせる。
「招待状は、単に『買う権利』を与えるものではなく……」
「試験会場への【入場券】でしょうね」
三神が、総理の言葉を補完した。
「では、招待された者全員が、落札者候補ではなく……【受験者】」
「そう見るべきでしょう」
三神は深く頷いた。「サザビーズはただの売り場ではなく、彼が用意した『舞台』です」
「となれば、【仮説7:落札額ではなく“提案”を競わせるオークション説】も浮上しますね」
財務省幹部が、市場のルールを裏返して言う。
「価値を壊す品に、貨幣で値段をつけること自体が矛盾している。ならば、競われるのは金額ではないかもしれない。……共同管理案、封印計画、使用制限条約。そういった『どう管理するか』という提案を競わせるオークションです」
「ええ。サザビーズは売り場ではなく、国際審査会になる」
三神が頷く。
「……そもそも」
情報機関幹部が、ふと、根本的な疑問を口にした。
「【仮説8:アシュワース卿は、本当に死んでいるのでしょうか】」
三神は、それを聞いて、心底楽しそうに苦笑した。
「さあ?
法的な死亡扱いにはなっていますが、遺体は出ていない。失踪ですからね。……本当に死んだのか、誘拐されたのか、あるいは意図的に姿を消し、オークション会場をどこかから観測しているのか」
総理は息を呑んだ。
「つまり、死後の遺言ではなく、現在進行形のゲームかもしれないと」
「その可能性もあります」
三神はホワイトボードの前に立ち、総括した。
「私の暫定結論です。アシュワース卿は、万象器を無意味に世界へ投げたわけではない。彼は人類に問いを投げ、同時に強欲な者を炙り出し、共同管理体制を作らせようとしている可能性が高い。
そして、遺言は複数段階に分かれている。……次に出る情報こそが、本命です」
「では、今やるべきことは?」
沖田が、作戦の方向性を確認する。
「奪う準備ではなく、次の条件を【読む】準備です」
三神が、明確に答えた。
「方針を決定します」
矢崎総理は、立ち上がり、明確な指示を下した。
「第一に、アメリカとの情報連携の継続。ヘイズ大統領の非合法接収への傾きを抑えつつ、万象器の制約や停止方法について、情報共有を図る。
第二に、英国政府およびMI6との非公式接触。サザビーズの警備状況と、遺言管理人の動向を確認。
第三に……日本政府独自の【万象器共同管理案】の策定準備」
「買う案ではなく、預かる(管理する)案を作るのですね」
外務省幹部が確認する。
「ええ。それが一番、あのアシュワース卿の『趣味』に合う解答かもしれないからね」
三神が笑う。
「日本は、少なくともロンドンを戦場にする側(強奪者)には回らない。……知恵と交渉で、この盤面を乗り切るわ」
総理の決断により、日本政府の行動方針は完全に「意図の解読」へとシフトした。
会議が終盤に差し掛かった時。
「……総理!」
情報機関幹部が、手元の端末を見て、血相を変えて立ち上がった。
「サザビーズ関係者から、特別招待制オークションの『事前通知』に関する新情報が入りました!」
「内容は?」
総理が身を乗り出す。
「招待状は、各国の政府代表だけでなく……一定の条件を満たした個人、財団、宗教組織、企業。
……そして、【アシュワース卿が、生前に直接指定した人物】にも、送付される見込みとのことです!」
会議室が、どよめいた。
生前に指定した人物。
沖田室長が、ハッとして、円卓の隅に座る男を見た。
「……三神編集長」
沖田の目が、鋭く彼を射抜く。
「あなたも以前、彼に取材をしたことがあると言っていましたね。……あなたにも、その招待状が来る可能性があるのでは?」
三神は、少しだけ驚いたような顔をして、それから困ったように笑ってごまかした。
「いやあ、どうでしょうね。私はただの、うだつの上がらないオカルト雑誌の編集長ですよ? あんな貴族の……」
ブーッ、ブーッ。
その瞬間、三神の胸ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
会議室の全員の視線が、彼の胸元に突き刺さる。
三神は、少しだけ気まずそうにスマホを取り出し、画面を見た。
そこには、見知らぬ海外のサーバーを経由した、暗号化されたメールの通知が表示されていた。
差出人の欄には、こう記されていた。
『Ashworth Estate Executor Office(アシュワース財団・遺言執行局)』
「…………」
会議室の空気が、完全に凍りついた。
それは、世界が万象器を奪い合う地獄のレースが始まる前に。
アシュワース卿が最初に選んだ「観測者」の一人が、すでにこの日本の地下会議室にいたことを告げる、死者からの招待状であった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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