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第55話 観測晶

「……受けよう」


 標高五千メートルを超える絶域。崑崙の山脈の奥深くに隠された、外界の物理法則から完全に切り離された幻想的な巨大空間。

 天井から降り注ぐ未知の鉱石の淡く青白い光の下、完璧な円形に磨き上げられた黒曜石の台座と、そこにそびえ立つ『玉京ぎょくけいの門』を前にして。

 中華人民共和国の最高指導者、李天明リー・ティエンミン国家主席のその低く、しかし地の底から響くような力強い声が、清浄すぎる空気に吸い込まれていった。


 それは、中国という文明を、世界中の剥き出しの欲望と暴力の海へ、自ら生贄として投げ込むという、狂気にも似た試練への『受諾』であった。


 その言葉が落ちた後、空間は、針の落ちる音すら雷鳴のように響くであろう、深い、深い静寂に包まれた。

 李天明の背後に控える長老は、自らの呼吸すら忘れ、胸を押さえて息を詰めている。国家安全部の古参実務者は、額から冷たい汗を滝のように流しながら目を伏せ、軍から選ばれた精鋭の護衛たちは、まるで氷の彫像のように筋肉を硬直させて固まっていた。

 盲目の案内役だけが、ただ静かに、その場で深く頭を垂れ続けている。


 誰もが、目の前の虚空に浮かぶように立つ絶対的な上位存在――仙人・太乙たいいつの反応を、魂をすり減らすような思いで測りかねていた。

 もし、李天明の「己の業を肯定した上での、傲慢極まりない受諾」が、この深淵なる存在の逆鱗に触れたのだとすれば。

 中国という巨大な国家は、いや、漢民族という歴史そのものが、今この瞬間に、誰にも知られることなく地図から完全に消滅する。


 一秒。二秒。三秒。

 永遠にも感じられる無音が、鼓膜を痛いほどに圧迫し続けた。


 やがて。

 夜空の星よりも深く、人間の抱くあらゆる感情を完全に超越した太乙の瞳の奥に。

 ほんの微かな、しかし明確な『光』が差した。


『……よい』


 太乙の口から、いや、空間そのものから直接脳髄を震わせるように響き渡った声が、その張り詰めた静寂を破った。

 それは、慈愛に満ちた神の微笑みなどでは決してなかった。人間が盤上の遊戯において、思いがけず手応えのある、少しだけ長く遊べそうな駒を見つけた時に漏らすような、「退屈しのぎに足る面白さ」を発見した絶対者の響きだった。


『面白い返答だ』


 太乙は、李天明を真っ直ぐに見下ろしたまま、淡々と、しかし確かな評価の響きを込めて告げた。


『清廉ではない。……だが、己が濁りを自覚しているだけ、まだ見どころがある』


 太乙は、人間たちの無垢や善良さなど、最初から一ミリも求めてはいなかったのだ。

 血に塗れ、他者を踏みにじり、業を重ねながらも、決して自滅することなく歴史を紡いできたという、その泥臭く強烈な『継続の意志』。それこそが、この宇宙の過酷な生存競争において、最低限のラインに立つための資格であった。


『中国は最初の試金石として、悪くない』


 その宣告が響き渡った瞬間。

 背後の長老の口から、ヒュッと、押し殺していた息が安堵と共に漏れ出た。

 中国は、この苛烈な宇宙の審査において、少なくとも「即座に破棄されるべき失敗作」としての烙印を免れ、次なる段階フェーズへの切符を手にしたのだ。


 太乙が、純白のゆったりとした袖を、ほんの僅かに、風を払うように動かした。


 その瞬間だった。

 玉京の門の前の虚空から、突如として眩い光の粒子が、無から有を生み出すように凝集し始めた。

 青白く、それでいて黄金の瞬きを内包する光は、瞬く間に複雑な幾何学的な形を結び、やがて掌サイズの多面体となって、空中に静かに浮かび上がった。


 一つ、二つではない。

 空間を満たすように現れたその光の多面体は、正確に【四十六個】存在していた。


 それらは、工場で生産されたような完全に同一の形をしているわけではなかった。

 面の角度、内部から漏れ出す光の脈動の早さ、そして微かに発している共鳴音が、一つ一つ微妙に異なっている。それらはまるで、あらかじめ定められた『持ち主』の精神の形、あるいは運命の波長を、すでに反映して生成されているかのようだった。


『これを配れ』


 太乙は、宙に浮かぶ四十六個の多面体を李天明に示し、静かに命じた。


『党幹部と長老ども、全員にだ』


 その数は、現在の中華人民共和国という巨大な帝国を実質的に支配し、最高意思決定を行う中枢メンバーの数と、完全に一致していた。

 李天明は、その光の多面体を見つめながら、これが単なる宝飾品や、一時的な魔法のアイテムなどではないことを、政治家としての本能で理解した。これは、中国という国家の指導層を、根底から『別の存在』へと作り変えるための装置だ。


『それは「観測晶かんそくしょう」』

 太乙の古鐘のような声が、その物質の真の性質を定義づける。

『中枢を担う者が皆これを持って、初めて中国は余の弟子となる』


 その言葉の響きに、長老や実務者たちの胸が激しく高鳴った。「仙人の弟子」。それは、中国の長い歴史の中で、あらゆる皇帝たちが夢見ながらも決して辿り着けなかった、究極の神話の実現に他ならない。


 だが、太乙の次の言葉は、彼らが頭に思い描いていた「不老不死になって永遠の権力を楽しむ」という俗物的な幻想を、あっさりと打ち砕いた。


『不老無病など入口に過ぎん』


 その恐るべき言葉に、後ろで控えていた長老の肩がビクッと跳ねた。

 人間にとっての究極のゴールであり、これ以上ない恩恵であるはずの永遠の命や健康が。この存在にとっては、単なる「入門のおまけ」、あるいは「ゲームの参加チケット」程度に過ぎないというのだ。


『所持者は仙人への道が開ける』

 太乙の言葉が、彼らの常識の枠組みを、宇宙のスケールへと強制的に引き伸ばしていく。

『外見は大きく変わらぬ。だが肉は全盛へ戻る。病は消え、老いは止まる』


 病は消え、老いは止まる。

 その事実だけでも、老いに怯え、権力の座から引きずり下ろされることを恐れていた長老たちにとっては、脳が沸騰するほどの歓喜であった。


『……だが、それで満足するなら凡俗のまま終わるだけだ』


 太乙の冷ややかな一瞥が、彼らのその浅ましい歓喜を冷水で洗い流した。

 観測晶は、ただ寿命を引き延ばすための薬ではない。それは、世界の在り方そのものを変容させ、認識を宇宙の深淵へと接続するための『修行の羅針盤』なのだ。

 太乙は、この道具を通じて、彼らがどこまで精神を研ぎ澄まし、登り詰めることができるのかを試そうとしていた。


 太乙は、静寂に包まれた一行を見渡し、最初の、そして最も根源的な『師としての教え』を、彼らの脳髄に直接刻み込むように語りかけた。


『精神と物質、意識と宇宙、そのすべては「大いなる一つ」だ』


 難解な数式でも、複雑な魔術の呪文でもない。

 あまりにもシンプルで、だからこそ、解釈を間違えればどこまでも堕ちていく、底知れぬ深さを持つ宇宙の真理。


『分けて考えるな。だが混ぜて濁すな』

 太乙の深淵のような瞳が、李天明の魂の芯を射抜く。


『考えることを止めるな』


 それが、太乙から与えられた唯一にして最大の戒めだった。

 世界を一つの響きとして観る。主観と客観の境界を再編する。思考を放棄し、与えられた奇跡にただすがり、権力に酔いしれるだけの者は、この道から即座に脱落する。

 それは、徹底した唯物論を掲げてきた中国共産党のトップに対する、あまりにも強烈なパラダイムシフトの要求であった。


 だが、その厳格で宗教的な教えの直後。

 太乙は、古代の仙人という浮世離れした厳格なイメージを根底から覆すような、ひどく俗っぽく、それでいて圧倒的なスケールを持った言葉を紡いだ。


『肉を喰らい、美味いものも食え。女を抱け。欲望のままに生きてもよい』


「……っ」

 護衛の軍人たちや実務者が、思わず顔を見合わせた。

 禁欲的な聖者になれ、俗世の欲を捨てろと言うのではない。むしろ、人間の持つ泥臭い欲望や快楽すらも、世界を観測し、魂を練り上げるための『薪』として完全に肯定しているのだ。太乙は、道徳教師ではない。


『だが、修行を重ねれば……』

 太乙は、その言葉の最後に、とんでもない極地への到達可能性を提示した。


『単体でこの小さき惑星ぐらいは制圧できるぞ』


 ピタリ、と。

 空間の温度が、一気に絶対零度まで下がったかのような錯覚に陥った。

 単体で、惑星を制圧できる。

 それは、比喩でも誇張でもない。太乙が提示したその先の風景は、現在ロシアが国家予算をすり潰して血眼になって量産しようとしている「サイボーグ兵士」などというものが、いかに矮小で、悲しいほどに旧時代的なブリキのおもちゃに過ぎないかを、残酷なまでに思い知らせるものだった。

 一人で地球を制圧できる域。それが、仙人への道の先にあるのだと。


『せいぜい極めてみるがよい』


 太乙の唇に、ほんのわずかな、孤高の存在特有の歪で、しかしどこか楽しげな笑みが浮かんだように見えた。


『迷った時は来るといい。儂はいつもここにいる』

 太乙の姿が、現れた時と同じように、静かに、朝霧が薄れるように空間に溶け込み始める。


『正直、退屈している。せいぜい儂を楽しませろ』


 その、気まぐれで、残酷な上位存在としての本音を最後に残し。

 仙人・太乙の姿は、完全に玉京の門の前から消失した。


 直後。空中に浮かんでいた四十六個の観測晶が、一斉に眩い光の束となり、まるで主の元へ帰るように、吸い込まれるように李天明の懐へと飛び込んできた。

 確かな熱と、ずっしりとした質量が、彼の胸元に収まる。


 門と台座が放っていた圧倒的なプレッシャーが、潮が引くように静まり返った。

 空間は依然として清浄であったが、先ほどまでの「何かの出現に備えている」という張り詰めた緊張感は消え去り、そこにあるのはただの静かな、超高地の冷気へと戻っていた。


「……主席」

 長老が、震える足でようやく立ち上がり、絞り出すような声で李天明の背中に呼びかけた。

 その声には、信じがたい奇跡を目の当たりにした興奮と、これから世界を相手に大立ち回りを演じなければならない恐怖がないまぜになっていた。


「下山する」


 李天明は、門を振り返ることなく、短く鋭く命じた。

 もはや、ここに留まる理由はない。彼の手の中には、中国という文明の未来を根本から書き換える『劇毒であり最高の切り札』が、確かに握りしめられているのだから。

 これを用いて、いかにして盤面をひっくり返すか。政治家としての彼の脳は、すでにフル回転を始めていた。


 帰路の道のりもまた、往路と同じく、異常なほどに円滑であった。

 本来ならば命を落とす危険があるはずの断崖や、吹き荒れるはずのブリザードは、彼らの進む道だけを避けるように、不自然なほどの静寂を保っている。

 だが、行きと違っていたのは、彼ら自身の『感覚』だった。


「……息が、全く切れません」

 先頭を歩いていた軍の護衛が、不思議そうに自らの胸を叩き、深呼吸をした。

 同行した長老も、杖をつくことなく、まるで若者のような足取りで雪の斜面を下っている。膝や腰の痛みは消え、視界は恐ろしいほどにクリアだった。

 まだ観測晶を正式に受け取っていないにもかかわらず、その場に立ち会い、太乙の波動に直接触れただけでも、彼らの肉体は確実な『変質』の恩恵を受け始めていたのだ。


 しかし、李天明は道中、ほとんど口を開かなかった。

 彼にとって、自らの体が軽くなったことなど、些末な事象に過ぎない。彼の脳内はすでに、この手の中にある四十六個の観測晶をどう政治的に運用し、アメリカの制裁で首を絞められかけている現在の地球の盤面を、いかにして『根底からひっくり返すか』という、冷徹な国家戦略の構築で完全に埋め尽くされていた。


 ***


 数日後。

 北京、中南海。国家安全委員会の極秘拡大会議室。


 外部とは完全に遮断されたその分厚い壁に囲まれた部屋には、中国共産党を実質的に動かす最高幹部たちと長老たち、計四十六名が、一人残らず集結していた。


 部屋の空気は、恐怖と、興奮と、そして信じがたい現実を突きつけられたことによる強烈な『戸惑い』に支配されていた。


 李天明は、崑崙の山奥で起きたすべてを――太乙との問答、観測晶の機能、不老無病という恩恵、仙人への道、そして、それを世界に公表し「殺せば奪える」と宣言しなければならないという最悪の条件まで――一切の隠し立てなく、彼らに説明し終えたところだった。


「……なるほど。この齢で仙人の弟子になるとはな……」


 重苦しい沈黙を破ったのは、かつて徹底した唯物論を説き、宗教的迷信の排斥の先頭に立っていたはずの、古参の長老の一人だった。

 彼は、自らのシワだらけの手のひらを見つめながら、自嘲気味に、しかしどこか人間臭い可笑しみを含んだ声で呟いた。


「孫が読んでいる創作仙人物が笑えん」


 その一言に、張り詰めていた会議室の空気に、ほんの一瞬だけ、奇妙な苦笑のようなものが漏れた。

 彼らは皆、徹底した現実主義者であり、血で血を洗う政治闘争を勝ち抜いてきた怪物たちだ。その彼らが今、揃いも揃って「仙人の弟子になって不老無病を得る」という、まるで三流のファンタジー小説のような事態に直面し、それを真剣に国家戦略として組み込もうとしているのだ。

 その圧倒的なギャップが、彼ら自身の常識の回路をバグらせていた。


 だが、その微かな笑いは、すぐに氷のような現実の重圧によって掻き消された。


「……しかし、主席」

 党の理論を司る幹部が、青ざめた顔で立ち上がった。

「我々が不老無病を得て、それを公表するということは。……世界中のあらゆる国家機関、暗殺組織、そして永遠の命を渇望する狂信者たちが、我々四十六人の首を狙って、あらゆる手段で襲いかかってくるということですぞ」


「分かっている」

 李天明は、表情一つ変えずに冷たく応じた。


「まだ約束の発表をしていない。今なら引き返せる……」

 別の長老が、すがるような、怯えを含んだ目で李天明を見た。

「この観測晶とやらを処分し、崑崙の件を永遠の秘密として封印すれば……我々は今まで通り、ロシアを支援しながら、現実の地政学の枠内でアメリカと戦うことができます。……国家中枢を、わざわざ世界の餌にする必要はないはずだ!」


 彼らの言うことは、平時の政治判断としては極めて正しい。

 自らを標的にするような選択は、安全保障上、最悪の手だ。アメリカの経済制裁の痛みには耐えられても、世界中から命を狙われる物理的な恐怖には、人間の精神はそう簡単に耐えられない。


 李天明は、その恐怖に駆られた幹部たちの声を黙って聞いていた。

 そして、彼ら全員を見回し、最後の確認を行った。


「今なら引き返せる。それは事実だ」

 李天明の声が、中南海の地下室に低く響く。

「ここでこれを捨て、これまで通り、ロシアのサイボーグの盾の陰に隠れ、アメリカの制裁に首を絞められながら、泥水のように時間を稼ぐ道を選ぶか。……それとも」


 李天明は、机の上に置かれた重厚なケースを開いた。

 中には、青白く脈動し、かすかな和音を奏でる四十六個の観測晶が、星の海のように輝いている。


「すべての恐怖と欲望を引き受け、我々自身が『次の時代の文明』の中心として、世界を強制的に書き換えるか」

 李天明の瞳が、猛禽類のように鋭く光る。


「反対する者はいるか?」


 長い、長い沈黙が流れた。

 恐怖はある。暗殺の恐怖、世界中から狙われるプレッシャー、そして自分たちの築き上げてきた共産党という唯物論のイデオロギーが根底から崩壊することへの恐怖。


 だが。

 彼らは皆、政治の頂点まで登り詰めた『権力の亡者』であり、同時に、中国という国家を何よりも重んじるエリートたちであった。

 目の前に、世界を完全にひっくり返す絶対的な力(不老無病と、惑星を制圧し得る修行の道)が提示されている。それを、「命が惜しいから」という理由で手放して、ゆっくりとアメリカに嬲り殺される道を選ぶような腰抜けは、この部屋には一人もいなかった。


 やがて。

 最長老がゆっくりと立ち上がり、深く息を吐き出して、誰に命じられるでもなく、その言葉を口にした。


「党と人民のために犠牲になる」


 それは、建前でもあり、偽らざる本音でもあった。

 暗殺の標的になるという「犠牲」。世界の欲望を一身に浴びるという「犠牲」。そして、自らの自我すら変容するかもしれない未知の修行に、国家の器として身を投じる覚悟。

 その最長老の言葉に続くように、次々と幹部たちが立ち上がり、力強く頷いた。


「党と人民のために犠牲になる」

「犠牲になる」


 ここに、中国中枢は完全に一枚岩となった。恐怖を共有した上での、圧倒的な決断の統一。


 李天明は、彼らの覚悟を確認し、満足げに頷いた。

 そして、彼は自らの手で、机の上のケースから観測晶を取り出し、一人一人に直接手渡していった。


 その瞬間だった。


 四十六人全員の手の中に、観測晶が渡り切ったその刹那。

 部屋の空気が、爆発的に『膨張』したような錯覚が全員を襲った。


「……っ!!」


 全員が、一斉に息を呑み、その場に立ちすくんだ。

 観測晶が手のひらから融けるように消え、彼らの肉体と魂の奥底へと直接吸い込まれていく。


 視界が、信じられないほどにクリアに広がる。

 細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるように活性化し、血管の隅々まで、全く新しい、清浄で圧倒的なエネルギーが奔流となって駆け巡っていく。

 長年の激務で蓄積されていた腰や膝の痛み、内臓の慢性的な疾患、そして脳にこびりついていた疲労の霧が、文字通り一瞬にして『蒸発』した。


 白髪が急激に黒くなるような、漫画じみた派手な若返りはない。

 だが、彼らの姿勢は自然と真っ直ぐに伸び、濁っていた瞳には全盛期の若者のような鋭い光が戻り、声の張り、筋肉の躍動、そのすべてが、彼らの人生における『最も完璧な状態』へと、強制的に巻き戻されていた。


「これが……」

 車椅子を手放せなかったはずの長老の一人が、自らの足でしっかりと立ち上がり、震える両手を見つめながら感涙に咽び泣いた。

「これが……不老無病……。仙人の、弟子……!」


 彼らは今、完全に『人間』の枠を一つ踏み越えた。

 病に怯えることも、老いに絶望することもない。無限の時間を手に入れ、そしてその先にある「大いなる一つ」に至るための、途方もない修行の入り口に立ったのだ。


 だが。

 その神秘的な感動に浸る時間を、最高指導者は一切許さなかった。


「では、戦略を練るぞ」


 李天明の第一声が、感動に打ち震えていた幹部たちの脳を、一撃で冷徹な『政治の戦場』へと強制的に引き戻した。

 彼が手に入れたのは、不老無病という奇跡ではない。世界を叩き潰すための最強のカードだ。


「感想を言っている場合ではない。我々は仙人への道に入ったのだ。……ならば、地球側の盤面も、即座に切り替える」

 李天明は、部屋のメインモニターに、世界地図と、現在進行形のアメリカの経済制裁の状況を示す真っ赤なチャートを表示させた。


「まずロシアは切る」


 その一言に、軍担当の委員がハッと顔を上げた。

 つい数日前まで、「アメリカの制裁に耐えてでも、ロシアを支援して盾にする」と決めていた方針の、180度の完全な転換。


「主席、よろしいのですか? ロシアを見限れば、我々はアメリカと直接対峙することになりますが……」


「構わん。というより、もはや我慢ならん」

 李天明の顔には、かつてないほどの強烈な【嫌悪感】が浮かんでいた。

 観測晶を体内に取り込んだことで、彼の精神はすでに太乙の教えである『精神と物質の調和』の方向へと大きくチューニングされ始めていた。


「我々は仙人になるのだ」

 李天明は、吐き捨てるように言った。

「魂の向上を放棄し、穢れた鉄に身体を置き換えて強くなったと錯覚するような、あんな醜悪な物質主義(サイボーグ路線)の国と歩調を合わせることなど、到底我慢出来ない。……あのような野蛮な連中に、我が国の貴重な資源をこれ以上一滴たりともくれてやる必要はない」


 それは、単なる地政学的な損得勘定ではない。

 文明としての、思想としての、完全な【拒絶】だった。


「ロシアとの取引を即刻中止する。国境を封鎖し、レアアースを含むすべての戦略物資の輸出を完全に断ち切れ」

 李天明の命令に、経済担当の委員が即座にタブレットを叩く。


「そして、西側(アメリカ・EU)と合流する」

 李天明は、次なる巨大な一手を示した。


「すでにアメリカの経済制裁から七日経過している」

 李天明は、モニターの暴落し続ける世界市場のチャートを指差した。

「世界のサプライチェーンは死に絶えかけ、我々の国内経済も深刻なダメージを受けている。……世界経済を復活させるには、すぐにでも発表が必要だ。遅れれば、我々が得たこの『札』の価値すら薄れてしまう」


 アメリカに屈服して制裁を解除してもらうのではない。

 中国が自主的に、「ロシアの非人道的な路線を見限り、新たな文明の境地に至ったからこそ、世界経済を回してやる」という、圧倒的な上から目線の建前を構築するのだ。


「世界に向けて、直ちに緊急の特別首脳会見をセッティングしろ」

 李天明の目に、底知れぬ野心と、世界を支配する覚悟の炎が燃え上がった。


「党幹部・長老の四十六名が、仙人・太乙の弟子となり、『玉京の門』を経て不老無病の肉体を得たことを、世界に発表する」


「……主席! 本気ですか!?」

 宣伝部を担当する幹部が、悲鳴を上げた。

「我が党の根幹である唯物史観を、自ら完全に否定することになります! 国内外の混乱は計り知れません!」


「事実を隠して腐らせる力に価値はないと、太乙も言っただろう」

 李天明は、一切の迷いなく切り捨てた。

「そして、殺せば恩恵が移ることも公表する」


「……っ!」

 軍と情報機関のトップが、顔面を蒼白にして立ち上がった。

「それは、世界中のテロリストや各国の特殊部隊に、我々の暗殺許可証を配るようなものです! 警備計画が根本から破綻します!」


「破綻させずに守り抜け。それがお前たちの仕事だ」

 李天明は、一歩も退かなかった。

「天下の欲をこの中国に一身に引き受ける。……アメリカの稚拙な経済制裁など、この『永遠の命の簒奪戦』という巨大な盤面の前では、一瞬で吹き飛ぶ。すべての国家の視線、欲望、そして恐怖が、我々中国だけに向く。……これこそが、我々が真に世界の中心(中華)となるための、最高の試金石なのだ」


 李天明は、最後に、中国の新たな国家理念を高らかに宣言した。


「声明の骨子はこうだ。我々は精神と物質、意識と宇宙のすべては『大いなる一つ』であることを貫く、と。……この新しい教義をもって、ロシアの薄汚いサイボーグ路線を時代遅れの遺物として完全に切り捨て、世界を我々の精神的覇権の下に再編する」


 会議室にいた四十六人の『仙人の弟子』たちは、もはや誰一人として反論しなかった。

 彼らの目には、恐怖よりも、自分たちが人類を次の段階へ導く先導者となるのだという、強烈な高揚感と傲慢さが宿り始めていた。


「では、準備にかかれ」

 李天明が、会議の終了を告げた。

 その言葉に合わせて、四十六人の幹部と長老たちが、一斉に席を立った。

 誰もが、背筋を伸ばし、その瞳に静かな光を宿している。そこにはもう、権力闘争に明け暮れていた「元の中国中枢」の姿はなかった。

 世界もまた、もう元には戻らない。


 その夜。

 中国は、ロシアをアメリカの攻撃に対する盾として使うだけの国家であることをやめた。

 代わりに、自らを世界の果てしない欲望と暴力の標的として差し出す、『新しい文明国家』になることを選んだのである。


 観測晶を体内に宿した四十六人は、まだ真の仙人ではない。

 だが、彼らはすでに、地球上の枠に収まるような、単なる「人類の政治家」でもなくなっていた。


 ロシアの鉄は切り捨てられ、世界経済は再起動の気配を得るだろう。

 だがその代償として。今度は中国という超大国そのものが、世界中の欲望、信仰、陰謀、そして暴力の、巨大な『中心ターゲット』として、最悪の形で世界の表舞台へと姿を現すことになる。


 中国はその夜、同盟を変えたのではない。

 文明の所属先そのものを、完全に変えたのだ。



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日本の賭けは一応成功したか。
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