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第54話 試金石

 外界の烈風と、骨の髄まで凍りつくような極寒が、嘘のように消え去った。


 標高五千メートルを超える絶域にポッカリと口を開けた、その幻想的な巨大空間。

 はるか頭上の岩肌からは、未知の鉱石が星々のように青白く、淡い光を放ち、空間全体を神聖な薄明かりで満たしている。音の反響すら奇妙に吸い込まれていく清浄すぎる空気の中、その中央に静かにそびえ立っていたのは、完璧な円形に磨き上げられた黒曜石の巨大な台座と、その上に立つ『玉京ぎょくけいの門』であった。


 中華人民共和国の最高指導者、李天明リー・ティエンミン国家主席と、彼に従うごく少数の同行者たちは、その圧倒的な存在感を放つ門の前に立ち尽くしていた。


 空間は、異常なほど静まり返っている。

 誰も、口を開くことができなかった。

 軍から選抜された精鋭の護衛たちは、自らの生存本能が警鐘を鳴らし続けているにもかかわらず、携行している武器に手をかけることすらできなかった。彼らの鍛え抜かれた闘争心は、ここが「敵地」や「制圧すべき遺跡」などではなく、人間のちっぽけな暴力など一切意味を成さない『何かの前庭』であることを直感していたのだ。彼らの額には、極寒の雪山を登ってきたとは思えないほど、ねっとりとした冷や汗が浮かんでいる。


 同行した現実派の長老は、その巨大な門が放つ目に見えない圧力に耐えきれず、今にも膝を折りそうになるのを必死に堪えていた。国家安全部の古参実務者も、視線を上げることすらできず、ただ自分の足元を見つめて小刻みに震えている。

 そんな中、オカルトネットワークから引っ張り出された盲目の案内役だけが、むしろこの人外の空間の空気に安堵したように、深く頭を垂れて静かに佇んでいた。


 李天明だけが、背筋を真っ直ぐに伸ばし、門を見上げていた。

 彼の手の中に握られたあの異質な『札』は、微かに熱を帯び、布越しに青白い光を明滅させている。

 ここは、死んだ古代の遺跡ではない。

 空間そのものが、明確な意志を持って“何かの出現に備えている”のだ。空気が張り詰め、時間の流れすらも泥のように遅くなっている錯覚。


 長い、長い沈黙。

 やがて。玉京の門の前の空気が、水面に落ちた一滴の雫のように、微かに揺らいだ。


 光が集束して弾けるわけでもなく、空間が裂けて雷鳴が轟くわけでもない。

 ただ、そこに“いなかったはずの人影”が、朝霧が晴れるように、ごく自然に、最初からそこに立っていたかのように、すっと姿を現した。


 外見は、漢民族の青年であった。

 古代の道士が身にまとうような、装飾の一切ない純白のゆったりとした衣服。

 年齢は不詳。透き通るような肌と瑞々しい黒髪は完全な若者のそれに見えるが、同時に、千年の時を淀みなく生き抜いた老人のような、果てしなく枯れた気配をも纏っている。


 そして、何よりも見る者を圧倒したのは、その『瞳』だった。

 夜空の星よりも深く、あらゆる光と事象を吸い込むような絶対的な深淵。喜怒哀楽といった人間の持つ生易しい感情を完全に超越した、無機質で、それでいてすべてを底の底まで包括しているかのような眼差し。


 彼と目が合った瞬間、護衛の軍人たちも、長老も、自らが「見られている」のではなく、魂の深層、これまでの人生のすべての記憶と罪を「一瞬で読み取られている」という強烈な感覚に襲われた。


 青年の存在そのものが、周囲の空間の物理法則をわずかに歪ませている。

 軍人たちは、この瞬間、物理的に身体が動かなくなった。威圧感で筋肉が凍りついたというより、彼らの脳内の「生物としての優先順位」が強制的に書き換えられ、「この存在の前では、いかなる動作も無意味にして不敬である」と細胞レベルで理解させられたのだ。


 李天明は立ったままであったが、懐の札を握る手に、ギリッと強い力が入った。

 一目で分かる。これは、アメリカが血眼になって探すような単なる兵器のAIでもなければ、過去の記憶を保存するだけの自動システムでもない。

 人類の理屈やイデオロギーなど一切通用しない、明確な意志を持った『上位存在』そのものだ。


 青年は、動けなくなった一行を、高い場所から見下ろすように静かに見やった。

 そして、その口が開かれる。


『――久方ぶりだな。この玉京の門前に、人の子が足を踏み入れるのは』


 声は、青年の口から発せられたのか、それとも彼らの脳の聴覚野に直接響いたのか、判別できなかった。

 その音色は、数千年前の古い青銅の鐘のようでもあり、あるいは背後にそびえる崑崙の山脈そのものが地鳴りを上げて喋っているような、途方もない重さと広がりを持っていた。


 一拍の、重い間。

 そして、青年は淡々と、自らの名を告げた。


『余は仙人・太乙たいいつである』


「太乙……!?」

 長老が、声に出せない悲鳴を心の中で上げた。

 漢文化、道教の深層に通じた者であればあるほど、その名の持つ意味の重さに血の気が引く。万物の根源、宇宙の真理を司る絶対的な神格の一つ。

 軍人や実務者はその名の宗教的な意味を正確には理解できなかったが、彼が放つ理不尽なまでの存在感に、ただ生物として圧倒され、完全に平伏させられていた。


 李天明は、乾いた喉を微かに動かし、中国という国家の最高指導者として、交渉のテーブルにつくべく自ら名乗ろうと一歩前へ出た。


「我々は……」


『語るな』


 太乙の言葉が、李天明の声を、鋭い氷の刃のように即座に、そして完璧に遮った。


『そなたらが何者であり、何を求めてここへ至ったか。……大体の事情は、すでに把握している』


 その一言で、太乙は人間の見え透いた「説明フェーズ」を完全に圧殺した。

 彼が把握しているのは、目の前にいる中国人たちの素性だけではなかった。


『米国は己が都を守るため天下の商いを焼き、露西亜は鉄で肉を置き換え己を強くしたつもりでおり、日本は保留と賭けの狭間で踊り、そして中国は……まだ己が札を定めきれぬまま、盾と審判の間で揺れている』


 太乙の口から淡々と語られたのは、現在進行形で地球上の覇権国家たちが繰り広げている、血で血を洗う盤面のすべてであった。

 アメリカが世界経済を道連れにしてレアアースの供給を断とうとしていることも、ロシアがシベリアでサイボーグ兵士を量産していることも、日本が出雲と与那国を抱えて暗闇の綱渡りをしていることも。

 この標高五千メートルの絶域にいる仙人は、すべてを俯瞰し、完全に理解している。


『それらはすべて、余には見えている』


 太乙の視点は、中国という一国家の守護神などという矮小なものではない。地球という惑星全体を、盤上の遊戯として観察する圧倒的な外部の目だった。

 李天明は、相手が「事情を聴取して願いを聞き届ける存在」ではなく、「すべてを知った上で、ただ価値観の査定だけを行う存在」であることを正確に理解した。


 太乙は、静寂の中、真っ直ぐに李天明を見据えた。

 そして、国家主席に対する一切の配慮もなく、彼らの拠って立つ前提そのものを粉々に砕く、極限の問いを突きつけた。


『李天明よ』


 太乙の瞳の深淵が、李天明の魂の底を覗き込む。


『中国という国が、この瞬間に消え失せてもよいのか?』


「……っ!」

 軍の護衛たちの顔色が、極限まで蒼ざめた。

 長老は、まさにそれを最も恐れてこの地へ足を踏み入れたのだ。彼らは「国家を存続させるための力」を求めて来た。それなのに、最初の問いが「国の消滅」の容認である。長老は完全に言葉を失い、呼吸すら浅くなった。


 だが、李天明は、太乙のその恐るべき問いから、決して目を逸らさなかった。


 太乙の意図は明確だ。「我々は国を守るために来たのです」という、人間社会の薄っぺらい大義名分や建前を、最初の段階で完全に破壊すること。

 ここは、国家保全サービスを提供する窓口ではない。文明の器を問う場所だ。


 李天明が沈黙を保つ中、太乙は彼の内面に渦巻くロジックを、まるでそこに書かれた台本を読み上げるかのように、正確に、そして残酷に言語化し始めた。


『そなたの肚の底にある理は、見えているぞ』


 太乙の声は、批判でもなく、怒りでもない。ただの冷徹な朗読に近い。だからこそ、心の奥底を完全に暴かれているという恐怖が際立つ。


『そなたは言う。漢土は清廉ではなかった。残酷であり、誤りも犯した、と』

『だが、それでも消えなかった、と』

『そして今の数と継続こそが、その選択が完全に誤りではなかったことの証左である、と』


 それは、李天明が国家を率いる上で根底に置いている、冷酷で強靭な「文明継続論」そのものだった。

 太乙は、李天明のその傲慢とも言える理屈を、そのまま彼の眼前に突き返した。

 李天明の理屈が、今、神仙の『採点対象』としてまな板の上に載せられたのだ。


『そなたは、踏みにじる側の理をよく知っている』


 太乙の言葉が、李天明の論理に最初の鋭い刃を入れる。


『国家を存続させるための最適解。最大多数を生かすための冷酷な算盤。……だが』


 太乙の瞳が、無慈悲な光を放つ。


『では、踏みにじられる側の痛みを、どこまで知っている?』

『体制を維持するために呑み込まれた者、歴史の影で削られた者、名すら残せず消え去った者たちは……そなたのその“最適解”に、素直に頷くと思うか?』


 具体的な事件名や王朝の虐殺の歴史を並べ立てるよりも、遥かに重く、根源的な問い。

 長老は、この問いに胸を深く刺され、目を伏せた。

 軍人は、これは政治的なイデオロギーの議論だと思いつつも、仙人の放つ圧倒的な「真理の重さ」に、一言も反論できなかった。


 だが、李天明は、ここで一歩も退かなかった。

 怯めば、その瞬間に中国の歴史はすべて「単なる野蛮な殺戮」に成り下がる。


「……頷かないだろう」


 李天明は、太乙の眼差しを正面から受け止め、はっきりと認めた。


「踏みにじられた者が、踏みにじった者を肯定する道理はない。彼らは我々を恨み、呪いながら消えていった。……それは事実だ」

 李天明の声は、冷たく、そしてどこまでも強固だった。

「だが。……それでも、歴史は進んだ。消えた側に、歴史の舵取りを委ねることはできない。我々は、怨嗟を背負いながらでも、この巨大な器を維持し、前に進めることだけを選んできた」


 その返答は、あまりにも冷酷で、ある意味で非人道的ですらあった。

 だが、太乙はそれに怒ることはなかった。ただ、さらに鋭く、李の理屈を絞り込む。


『数が多ければ、天命に近いのか?』

 太乙の問いが重なる。

『増えたもの、残ったものは、皆、正しいのか?』


 人口の多さや、領土の広さ、存続していることそのものを正当性の根拠とする李天明のロジックへの、本質的なカウンター。

 ただ虫のように増殖しただけの種族が、宇宙の真理に近いとでも言うのか。


 李天明は、己の論理をわずかに修正し、より研ぎ澄ませた形で返した。


「『正しさ』ではない」

 李天明は、首を横に振った。

「我々が常に正義であったなどと主張するつもりはない。……だが、少なくとも、国が完全に滅び、文明が途絶するほどには『致命的に誤ってはいなかった』という証拠だ。

 生き残ったという事実は、いかなる高尚な道徳や綺麗事も及ばない、絶対的な重みを持つ。……我々は、歴史の淘汰の波に抗い、この星に存在し続けている。その最低限の『適格性』は、証明しているはずだ」


 ただの成功主義ではない。あらゆる外部からの圧力と内部の矛盾を抱えながらも、破綻せずに存在し続けているという、文明としての「耐久力の証明」。

 この応答に、李天明という指導者の知性と、冷酷なまでのリアリズムが明確に表れていた。


 太乙は、その返答を聞き、微かに目を細めた。

 そして、国家主席にとって最も痛く、最も危険な問いを放った。


『ならば問う。……党と漢民族は、同じか?』


「……っ!」

 長老と実務者が、一斉に顔色を変えた。


『国家と文明は、同じか?』

 太乙の声が、容赦なく中国中枢の矛盾を抉り出す。

『もし、片方だけを残せと言われたら……そなたは、どちらを取る?』


 この問いは、李天明個人への刃であると同時に、中国共産党という組織全体の存在意義を揺るがすものだった。

 党の支配こそが中国の安定をもたらしているという建前。それを「文明と切り離して天秤にかけろ」と迫られているのだ。


 李天明は、わずかな沈黙の後、党の最高指導者としては極めて危険な、だが文明の代表者としては唯一の正解である言葉を口にした。


「……国家も、党も、文明を支え、時代を渡るための『形式(器)』に過ぎない」

 李天明は、長老の戦慄を背中で感じながらも、はっきりと言い切った。

「環境が変わり、時代が求めれば、形式は変わり得る。……だが、中心となる『文明』そのものは、いかなる器に形を変えようとも、継続せねばならない」


 党という器が砕けても、中国文明が残るならそちらを取る。

 李天明の異質さが、ここに極まった。彼は権力への執着よりも、文明の存続というより巨大なスケールで物事を見ているのだ。


 太乙は、李天明から視線を外し、その背後に控える者たちへと視線を移した。

 個別に名前を呼ぶことはない。ただ、彼らの本質と弱点を、一言で見抜くように宣告していく。


『そなたらは、過去の栄光を守りたいのか。それとも、己の権威を守りたいのか』

 太乙の言葉が、長老の胸を深く抉る。


『そなたらは、中国という国を守りたいのか。それとも、ただ自らが握る指揮系統を守りたいのか』

 軍の護衛たちが、その言葉に凍りつき、己の職業軍人としての本能の浅さを恥じた。


『そなたは、秩序を愛しているのではない。ただ、予測可能な安全を愛しているだけだ』

 国家安全部の実務者は、官僚としての事なかれ主義を完全に見透かされ、深く頭を垂れた。


 その場にいる全員が、「自分たちの最も隠したい本性」を、この仙人に見透かされていると理解した。

 李天明一人だけの対話ではない。彼ら全体が、今、文字通り丸裸にされて査定されているのだ。


 太乙は、再び李天明へと視線を戻し、ここまでの問答を受けた『第一評価』を、静かに下した。


『……醜い』


 太乙の口から出たのは、称賛の言葉ではなかった。


『だが、薄くはない』


『歪んでいる』


『だが、空ろでもない』


 その言葉は、中国という文明の血生臭さと傲慢さを否定しつつも、同時にその歴史の積み重ねがもたらした「圧倒的な質量」を認めるものだった。


『少なくとも……他の人の子(国々)よりは、己の重さと業の深さを、正しく理解しているようだな』


 中国側は、一瞬だけ、微かな「希望」を持ちかけた。

 許されたわけではない。だが、少なくとも「対話に値する存在(テストを受ける資格がある)」と認められたのだ。


 だが。

 太乙は、彼らがその安堵に浸る隙を与えなかった。


『李天明よ』


 太乙は、話題を唐突に切り替えた。

 そして、彼ら権力者にとって、この世で最も魅力的で、最も恐ろしい【褒美】を、淡々とした声で提示した。


『そなたと、中国共産党の中枢を担う全員の幹部・長老ども……そうだな、四十六人全員を。

 ……今ここで、【不老無病】にしてやることはできる』


 ピタリ、と。

 玉京の門前の空気が、完全に凍結した。


 一瞬、全員がその言葉の意味を理解できなかった。

 不老無病。

 老いもせず、病にもかからない。肉体の衰えが完全に停止し、永遠に近い時間を生きることができる。

 それは、秦の始皇帝をはじめ、古今東西のあらゆる権力者たちが血眼になって追い求め、決して手に入れることのできなかった究極の夢。最高の権力者にとって、これ以上ない究極の誘惑である。


 長老が、信じられないというように目を見開き、呼吸を荒くした。

 実務者は言葉を失い、軍人は顔色を劇的に変えた。

 李天明も、この唐突すぎる、そしてあまりにも巨大すぎる提示に、一瞬だけ沈黙した。


 彼らは、技術や兵器をもらいに来たつもりだった。だが、提示されたのは「永遠の命」だ。


 だが、李天明は絶対にその誘惑に食いつかなかった。

 タダでそんなものが与えられるはずがない。ましてや、先ほどまで彼らの罪を冷酷に査定していた存在が、いきなり恩寵を与えるなど、論理的に破綻している。


 空気が欲望で揺れかけた、まさにその瞬間。

 太乙は、冷徹な声で宣告した。


『だが、これは恩寵ではない』


 太乙の瞳が、深淵の闇を湛えて彼らを見下ろす。


『【試金石】だ』


 その一言で、不老無病という夢のような提案は、一気に不気味で恐ろしい方向へと反転した。

 これは中国への勝利の報酬などではない。人類全体を炙り出すための、恐ろしい「装置」なのだ。


『秘される力は、腐る』

 太乙は、静かにその思想を言語化した。

『隠して保つだけの力に、価値はない。……圧倒的な力(恩寵)を手にした時、それが世界中の欲望に晒されてなお、その器を保てるか。それでこそ、その文明の真の器量が分かる』


 太乙は、李天明に冷酷な【条件】を提示した。


『受けるなら、公表しろ』


「……なっ」

 長老が、思わず声を漏らした。


『そなたら中国の頂に立つ者たちが、仙人の力によって老いも病も失い、永遠に近い時を生きる存在となったと……天下に、世界中に告げよ』


 秘密裏に保持できない。

 それは、中国共産党の幹部たちが「不老の超人」になったという事実を、世界に知らしめるということだ。

 国家機密としての運用を完全に封じられ、中国は一気に、世界中の注目と疑惑の中心となる。


 だが、太乙の提示する残酷な条件は、それだけでは終わらなかった。


『さらに、告げよ』

 太乙の声が、氷のように冷たく響く。


『そなたらを殺せば……その不老無病の恩寵を、奪い取れる可能性がある、と』


「……!!」

 空気が、完全に、そして絶望的に凍りついた。


 軍の護衛たちが、最初にその言葉の持つ【軍事的な意味】を理解し、顔面を蒼白にした。

 長老は絶望に近い顔で膝を折りそうになり、実務者は「それは国家主席を餌にするということか」と戦慄した。


 殺せば、奪える。

 その情報を世界に公表すれば、どうなるか。

 アメリカの政治家、ロシアのオリガルヒ、中東の王族、欧州の貴族。世界中のあらゆる権力者と、死を恐れるすべての富裕層が、永遠の命を求めて中国に牙を剥く。

 暗殺、陰謀、クーデターの扇動、そして直接的な軍事侵略。

 国家主席をはじめとする中国の指導層は、文字通り「世界中の欲望と暴力の標的」となり、国家そのものが巨大な狩り場(餌場)と化すのだ。


 李天明は、そのあまりにも悪趣味で、残酷な試練の全容を理解し……ここで初めて、ほんの微かに、口角を上げて『面白い』と感じた。


『力とは、隠して抱えれば腐る』

 太乙は、中国を試金石にする理由を明かす。

『欲望に晒してなお保てるかで、その文明の器量が分かる。

 ……国も、民も、敵も、味方も、世界中のすべての存在が、そこ(そなたらの命)へ群がり、そして己の底の浅さを露呈するだろう。皆、そこで量れる』


 太乙は、すべての存在を試すつもりなのだ。

 そして、汚れを抱えつつも継続し、欲望にも暴力にも慣れきっている中国こそが、そのための「最初の実験台(鏡)」として最適だと判断されたのである。


 太乙は、最後の問いを、静かに置いた。


『どうだ、この試練を受けるか?』


 圧倒的な静寂。


『不老無病を得る。だが、それを秘せぬ。天下の欲を一身に引き受ける。

 ……踏みにじる側であったそなたらが、今度は世界中の牙に晒される側となる。

 それでもなお、自らを次の時代の器と、継続する文明であると言うか?』


 長い、長い沈黙が続いた。

 誰も、李天明より先に答えることはできない。

 長老も、軍人も、ただ国家主席の背中を見つめることしかできなかった。

 ここで李天明に求められているのは、政治家としての損得勘定ではない。中国という文明を、世界中の悪意の海に投げ込む覚悟があるかという、文明代表としての決断だった。


 李天明は、一瞬も怯まなかった。

 彼は、太乙の提示した条件の重みを、そのもたらすであろう地獄のような未来をすべて飲み込んだ上で。

 ゆっくりと、しかしどこまでも力強い声で、返答のロジックを展開した。


「……悪くない試験だ」


 李天明は、太乙を見据えて言った。


「中国は元々、数千年にわたって、欲望と暴力に晒され続けてきた。……外からの侵略も、内からの反乱も。王朝の交代も、革命も、すべて血の海の中で経験してきた。

 世界中の牙に晒されること自体は、我々にとって今更、新しいことではない」


 李天明の言葉には、血塗られた歴史を生き抜いてきた文明としての、強烈な自負があった。


「力を得るなら、それに伴う欲望と暴力も引き受ける。

 貴方の言う通り、隠して守るだけの力に価値はない。……世界中の欲望を引き受け、すべての敵意を向けられてなお、我々が生き残り、国を保てるのであれば。

 それこそが、我々が次の時代へ進む資格の、何よりの証明となる」


 そして、李天明は、この試練が中国だけを試すものではないことを見抜いていた。


「試されるのは、我々だけではない。

 アメリカも、ロシアも、日本も、欧州も。……我々の命(不老無病)を前にして、彼らがどう動くか。そこで彼らの本性が、世界の盤面に明快に炙り出される。

 天下の欲が中国に向くなら、むしろ今後の覇権ゲームとしては分かりやすい」


 李天明は、大きく息を吸い込み、最終的な決断を下した。


「それで我々が壊れるなら、中国はそこまでの文明だったということだ」

 李天明は、太乙に向かって、深く、力強く頷いた。


「……受けよう」



最後までお付き合いいただき感謝します。


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