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第51話 現実的な話、何日持つ?

 首相官邸の地下深くに位置する、既存技術外事象評価セルの拡大会議室。

 そこは、アメリカ合衆国が中国への「例外なき経済制裁セカンダリー・サンクション」の最後通告を発してから約二十四時間が経過した、深夜から早朝へと向かう時間帯の、重く淀んだ空気に支配されていた。


 普段であれば、各省庁から集められたエリート官僚たちが、自らの部署の正当性や予算を主張し、時に声を荒らげて議論を戦わせる場である。だが、今夜は違った。

 誰も、怒鳴らない。誰も、机を叩かない。

 怒りや焦燥といった「現状をどうにかできるかもしれない」というエネルギーは、すでに完全に底を突き、干上がっていた。


 彼らの目の前に広げられているのは、希望的観測を一切排した、冷酷な【数字】と【破滅の進捗】を示す資料の山だった。

『対中経済制裁発動後24h 初期影響評価』

『世界海運・保険・決済の異常停止状況』

『対露資源流通監視ログ』

『日本国内継戦・継経済能力試算』

『日本の輸入依存品目および港湾・物流の稼働率一覧』


 それらの資料が示す現実は、たった一つ。

「もう、世界は元には戻らない」。その圧倒的な絶望の共有が、会議室を不気味なほど静かにさせていた。


 持ち込まれたコーヒーの香りはとうに飛び、冷めきったカップに手を伸ばす者すらいない。

 実務責任者である沖田室長の目の下には、連日の極度の緊張と不眠による濃い隈が刻まれ、その顔色は土気色を通り越して蠟のように青白かった。防衛省の幹部も、外務省の官僚も、財務・経産の担当者も、皆一様に血走った目で、ただ黙々と手元の資料と壁の巨大モニターを見つめている。

 モニターには、世界中の市場が真っ赤な悲鳴を上げて暴落していくチャートや、主要な海運ルートが完全に機能停止していることを示す静止した船舶のアイコンが無数に表示されていた。


 そんな、墓場のような静寂の中。

 部屋の隅に置かれたパイプ椅子に、よれよれのスーツを着た一人の男だけが、相変わらず妙に落ち着いた……いや、むしろこの絶望的な状況をどこか「興味深い観察対象」として楽しんでいるかのような、飄々とした空気を纏って座っていた。

 月刊『ムー』の編集長であり、この評価セルの非公式助言者である三神だ。彼だけは、この地球という惑星の危機を、まるで分厚いSF小説のページをめくるように、一段上の視点から静観していた。


 ギィィ、と。

 重い防音扉が開く音が、静まり返った会議室に低く響いた。


 入室してきたのは、矢崎総理だった。

 彼女の足取りに、迷いや狼狽はない。だが、その表情は完全に「平時の政治家」のそれを捨て去り、血も涙もない冷酷な計算機のような、研ぎ澄まされた戦時指導者の顔になっていた。

 総理が上座に座る。誰も、余計な前置きや、無意味な挨拶を口にしなかった。

「状況説明」の段階は、すでに終わっている。今ここにあるのは、死を宣告された患者が、残された余命をどう使い切るかという、極めて事務的で残酷な確認作業だけだった。


 総理は、手元の分厚い資料の束を一度だけパラパラとめくり、そしてパタンと静かに閉じた。

 数秒の、鉛のような沈黙。

 そして、彼女は円卓を囲む官僚たちを見回し、一切の情緒を交えずに、淡々と、しかし鋭利な刃物のような問いを切り出した。


「……現実的な話をしましょう」


 総理の声が、冷たい地下室の空気を切り裂く。


「日本は、何日持つの?」


 その一言で、会議室の空気が完全に固まった。

「経済への影響をいかに最小限に抑えるか」でも、「アメリカの制裁をどう回避するか」でもない。国家としての【寿命デッドライン】を直接問う、あまりにも身も蓋もない、そして究極の現実の突きつけ。

 だが、官僚たちは誰一人として「総理、そんな悲観的なことを仰らないでください」とは言わなかった。誰も否定しない。彼らの顔には「ついに、そのラインを引く時が来たか」という、重い覚悟と諦観の色が浮かんでいた。もう、見え透いた希望的観測で誤魔化せるような段階ではないのだ。


 総理の問いを受け、経済産業省、財務省、国土交通省、農林水産省の担当幹部たちが、互いに目配せをし、分野別の細かい被害報告ではなく、国家全体の「持ち方の段階フェーズ」として情報を整理し始めた。


「……お答えします」

 経産省の担当幹部が、乾いた喉を鳴らし、手元のタブレットの数値をメインモニターに展開した。

「まず、現在のような『平時に近い国民生活と経済活動』を維持しようとした場合……。我々の試算では、【10日から14日】で、国家機能に明確な不全システムダウンが発生します」


 たったの二週間。その絶望的な短さに、防衛省の幹部が顔をしかめる。


「すでに、世界の海運と海上保険は実質的に心停止状態にあります」

 国交省の担当が、無数のコンテナ船が停泊したまま動かない港湾のマップを指差した。

「中国の銀行と港湾施設への制裁リスクを恐れ、アジア圏の物流は完全に麻痺。……結果として、我が国の製造業を支える電子部品、半導体、精密機械の部材の供給が、数日内に完全に枯渇します。一部の自動車工場や組み立てラインは、来週前半には稼働停止(休業)に追い込まれる見通しです」


「さらに深刻なのは、国民生活への直接的な波及です」

 農水省の担当が、重苦しく引き継いだ。

「食料の輸入ルートが断絶し、飼料や肥料の供給もストップ。……同時に、中東からのタンカーが保険切れで足止めを食っている影響で、エネルギー(燃料)価格が異常な暴騰を始めています。来週末には、スーパーの棚から特定の食品が完全に消え、物流トラックの稼働制限により、医療品や日用品の配送にも急速にボトルネックが生じます」


「つまり……」

 経産担当が、冷酷な結論を口にした。

「“日本という国家が滅ぶ”のではありません。……『平時の日本が二週間で死ぬ』とご理解ください」


「平時の日本が二週間で死ぬ、か」

 矢崎総理は、その言葉を反芻し、微かに目を伏せた。

「では……平時を捨てた場合は?」


 その総理の問いに、沖田室長が、現場指揮官としての冷徹な目で応えた。


「国家の全リソースを統制下(非常事態モード)に置き、優先配分へと移行した場合。……【30日から45日】までは、国家の骨格を延命させることが可能です」

 沖田は、モニターの画面を、防衛とインフラ維持に特化したシミュレーション図へと切り替えた。

「ただし、その時の日本は、もはや我々が知る“普通の日本”ではありません」


 沖田の言葉には、血も涙もない『切り捨ての論理』が含まれていた。

「軍需(自衛隊の稼働)、通信インフラの維持、最低限の電力網、基幹医療、そして食料の配給輸送。……これら国家の『生命線』だけに資源とエネルギーを全振りします。

 その代償として……家電、嗜好品、エンターテインメント、そして民間サービスの多くは、完全に供給を切り捨て(シャットダウンし)ます。当然、関連する企業群の連鎖倒産と、前例のない規模の大量失業は不可避です。……国民は、国が『持っている』とは到底感じられない地獄を見ることになります」


「一か月持たせることは可能です。ですが、その時の日本は別の国です」

 沖田は、静かに、しかし断固として宣告した。


「もっと長く持たせられるか?」

 総理のさらなる問いに。


 官房長官が、重い口を開いた。

「……理論上は、可能でしょう。配給制をさらに厳格化し、国内の全資源を国家が強制的に徴用し、完全な『戦時統制国家』へと移行すれば。数ヶ月、あるいは半年……。ですが、そこまで行けば、現在の政治体制も、民主主義的な生活秩序も完全に変質(崩壊)します。国家が持つことと、国民が“持っていると感じる”ことは別です。……国民の不満は爆発し、暴動が起きるでしょう」


 二週間で平時が終わる。一ヶ月で別の国になる。それ以上は、戦時統制国家という名のディストピア。

 それが、アメリカが引いた「経済の自爆スイッチ」によって、日本という島国に突きつけられた、逃げ場のない余命宣告だった。


「……分かったわ」

 矢崎総理は、その絶望的なカレンダーを脳内に刻み込み、一切の感情を交えずに、次の問いへと駒を進めた。


「アメリカは?」


 自分たちをこの地獄に道連れにした張本人。そのアメリカ合衆国自身は、この経済の心停止状態を、どれだけ耐え抜くことができるのか。


 外務省、情報機関、そして財務省の担当者たちが、即座にアメリカの耐久力に関する分析データを提示した。


「アメリカの短期的な耐久力は、我が国とは比較にならないほど強固です」

 情報機関の担当が、ペンタゴンの地下施設や、国家継続プロトコル(COG)の資料を展開した。

「仮に、ワシントンD.C.がロシアのサイボーグ大隊によって物理的に攻撃され、首都機能が麻痺したとしても。彼らには堅牢な地下シェルター群、明確な大統領権限の継承順位、そして全米に分散された軍事指揮通信システムが存在します。……彼らは『首都がやられても即死しない国』です。政府の骨格は、間違いなく維持されます」


「経済面(中期的な持久力)においても、アメリカの体力は怪物級です」

 財務省の担当が、ドル基軸通貨体制と、アメリカの内需・資源のグラフを示した。

「中国への全面制裁の反動は、当然アメリカ国内にも甚大なダメージをもたらします。物価は天文学的に跳ね上がり、失業者は溢れ、州によっては連邦政府への反発から暴動や議会の反乱が起きるでしょう。3〜4週間で、国民生活はかなり荒れ果てるはずです。

 ……ですが、それでも。彼らにはエネルギー(シェールオイル等)と食料(広大な農地)の自給能力があり、ドルという絶対的な基軸通貨の強みがある。さらに、戦時生産法制を発動して軍需産業をフル稼働させれば……」


 財務担当は、忌々しげに、しかしその国力の差を認めるしかないという顔で結論づけた。

「アメリカは、国民生活をかなり壊してでも、国家としては【2〜3か月】は確実に持ちます」


 その報告を聞き、部屋の隅に座っていた三神編集長が、フッと鼻で笑った。

「死なないでしょうね、あの国は。……世界中から、そして自国民からも、かなり好かれなくなるでしょうけど」


「つまり……」

 矢崎総理は、冷たく目を細めた。

「『アメリカが国内の経済的ダメージに耐えきれなくなって、先に制裁の手を緩める(音を上げる)』ことは、期待しない方がいいのね」


「はい。ヘイズ政権は、サイボーグという物理的脅威を完全に排除するまで、自国の血を流してでも止まらないでしょう」

 外務担当が同意した。

 アメリカの狂気は、一時的なパニックではなく、圧倒的な持久力を伴う『怪物化』なのだ。彼らが音を上げる前に、日本を含む同盟国の大半が先に経済的なショック死を迎える。


「世界経済は? どこで“戻せない”になるの?」

 総理は、休むことなく問いを重ねた。


 財務と経産の担当が、顔を見合わせ、重苦しい三段階のフェーズ分けを説明し始めた。


「第一段階。……『市場マーケット』については、すでに壊れています」

 財務担当が、真っ赤な株価チャートを指差した。

「株、商品先物、海上保険、そして銀行間の決済信用(ドル調達)や為替。これら金融の血液は、アメリカの最後通告が出た時点で、すでに機能不全の初期段階に突入しています。信用という概念が、一瞬で蒸発しました」


「第二段階。『実体経済』です」

 経産担当が引き継ぐ。

「先ほど日本の試算でも申し上げましたが、【2〜3週間】で世界的な急性期を迎えます。部材の枯渇、海運の完全停止、保険の無効化、港湾の機能停止……。これらが連鎖し、世界中の工場の生産ラインが完全に止まります」


「そして、第三段階。『修復可能性』の限界点ですが……」

 財務担当は、喉をゴクリと鳴らした。

「現状の制裁と物流停止が、もし一か月で解除されれば、世界経済は『重傷』で済みます。何年かかければ、元の形に近い状態まで回復できるでしょう。

 ……ですが、二か月続けば、サプライチェーンは完全に破壊され、元に戻らない『恒久損傷(不可逆的な構造変化)』を引き起こします。

 そして……【三か月】を超えれば」


 財務担当は、絶望的な未来図を口にした。

「もはや、“元のグローバル経済に戻す”という発想自体が怪しくなります。完全にブロック化された、分断経済(あるいは戦争経済)の時代へと、強制的に移行せざるを得ません」


「一か月なら危機管理です。二か月で構造変化、三か月で時代が変わります」

 財務担当のその宣告に。


「三か月は……長すぎるわね」

 矢崎総理は、深いため息をついた。日本の体力が二週間(もって一ヶ月)しか持たないのに、世界経済が回復不能になるまで三ヶ月も待っていられるはずがない。


「ええ」

 三神編集長が、総理の言葉に同意するように静かに言った。

「そこまで行くと、“復旧”ではなく、“新秩序の形成”です。……誰も、元の世界には帰れませんよ」


 アメリカは止まらない。世界経済は確実に死に向かっている。

 その絶対的な共通認識が、会議室の盤面として完全に確定した。


「じゃあ、聞き方を変えるわ」


 矢崎総理は、視線をアメリカのデータから、ユーラシア大陸の巨大な赤い領域――ロシア、そしてその背後に広がる中国の地図へと移した。


「中国が付いたロシアは、時間経過でどうなるの?」


 その問いは、地政学と兵站のリアルな『時間軸』へと、議論の焦点を劇的に修正するものだった。


 沖田室長、防衛省、経産省、情報機関の担当者たちが、一斉にこの巨大な脅威の再評価に入った。


「短期的な視点で見れば、ロシアのサイボーグ兵は、いくら強力であっても『限定的な局地戦力』に過ぎません」

 沖田室長が、シベリアの軍事施設の映像を示しながら口火を切った。

「現在、彼らが独力で確保できるレアアースや特殊合金の備蓄量では、戦場医療ロボットによる最適化(サイボーグ化)を施せる兵士の数は、多く見積もっても数百名程度。……もちろん、それでも戦術的な脅威としては破格ですが、国家の戦争全体をひっくり返すには、まだ『弾数(数)』が足りません」


「だが、そこに【中国】が本気で付くとなれば、話が根本的に変わります」

 情報機関の担当が、シベリア鉄道の異常な貨物トラフィックのデータを提示した。

「中国は、アメリカの警告を完全に無視し、国境を経由してロシアへの資源供給ルートをフル稼働させています。……中国が本気で背後から支えるならば、ロシアの軍需産業は、単なる『一過性のチート兵器の実験場』ではなくなります。我々は、これをロシア単独の脅威ではなく、【中露ブロック】という巨大な一つの戦時産業体制として評価すべきです」


「中国の支援の恐ろしさは、素材の量そのものよりも、『生産の持続性』を担保できる点にあります」

 経産省の担当が、資源の精製プロセスとサプライチェーンの観点から補足した。

「サイボーグの部品製造に必要な、極めて高度なレアアースの精製技術、安定した物流網、工作機械の供給、そして欧米の制裁を迂回するための金融決済ルート。……これらすべてを、中国は提供できる。中国の巨大な産業基盤がロシアの背後に接続された状態が続けば……」


 経産担当は、戦慄の予測を口にした。


「問題は、“今、何人のサイボーグがいるか”ではありません。……“その増加曲線(量産ライン)を、誰がどれだけの期間、支え続けることができるか”です。……時間が経てば経つほど、ロシアのサイボーグ部隊は、十人から百人、百人から千人へと、確実に増殖していきます」


「つまり」

 沖田室長が、防衛の観点からその絶望的な構造を総括した。

「中国が付く限り、ロシアはアメリカの制裁で“いずれ尽きる側”ではなく、時間を養分にして“育つ側”なのです」


 その的確な分析に、三神編集長が、腕を組みながら深く頷いた。

「ええ。短期で見れば、彼らの動きは荒削りで雑です。機械を無理やり回しているだけですからね。……ですが、長期で見れば、これほど厄介な相手はいません」

 三神は、地球文明の枠組みを俯瞰するような目で、冷酷に告げた。

「ロシア単独なら、いずれどこかで資源が尽きて息切れする。だが、中国が本気で背後から無尽蔵の資源とインフラを注ぎ込み続けるなら……。中国が居る限り、ロシアは“いつか尽きる国家”ではなく、“時間経過と共に最強側に近づいていく怪物”になります。……地球文明圏の地政学的な話としては、皆様のその認識で完全に正しいですよ」


「……つまり、長引くほど、こちら(西側陣営)が不利になるのね」

 矢崎総理は、眉間を深く揉み込みながら、その残酷な時間軸の構造を理解した。

 アメリカは時間をかけて経済を自傷しながら耐えようとしているが、その間に中露ブロックは着実に怪物を育て、力を増していく。待てば待つほど、事態は悪化するのだ。


「……では、国内の状況に話を戻しましょう」

 総理は、再び視線を国内のデータへと向けた。

「その“長引く時間”の中で、日本国内は、どこからどう壊れていくの?」


 国家の生存と、国民の生活。そのズレを、会議の場で明確に数値化するための問い。


 官房長官と、警察、自治体連携の担当、そして沖田室長が、冷徹な『崩壊のスケジュール』を提示した。


「【7日目】」

 官房長官が、重苦しい声で予測を読み上げる。

「スーパーや小売店での深刻な買い占めが全土で発生します。SNSでは物流停止に関するデマが飛び交い、燃料や一部の生活必需品の価格が暴騰。……中小の物流業者や下請け企業から、資金繰りの悪化による悲鳴が上がり始めます。この段階で、政府の対応に対する『政治不信の芽』が、確実に出始めます」


「【14日目】」

「スーパーの棚から商品が消え、流通の停止が誰の目にも明らかな形となります。部品不足による大規模な工場停止レイオフが連日ニュースを騒がせ、医療機関での物資不足、介護施設や地方交通網の維持に深刻な不安が生じます。……人々の不満は『生活の不便』から『生存への恐怖』へと変わり、この問題を巡る激しい政治化(政府批判)が本格化します」


「そして、【30日目】」

 官房長官の声が、さらに沈み込んだ。

「大規模なデモ、ストライキ、暴動の発生。連鎖的な企業の倒産と、前例のない規模の大量失業。……国民の間で、『なぜ、遠い国のサイボーグ戦争のために、日本がここまで経済を破壊され、巻き込まれなければならないのか』という、強烈な被害者意識と反米感情が爆発します」


「国家が持つことと、国民が“持っていると感じる”ことは別です」

 沖田室長が、現場の皮膚感覚を代弁するように、静かに、しかし重く言った。

「数字の上で国家が30日延命できたとしても、その時、街の治安と国民の心は、すでに完全に壊れ切っています」


「……」

 矢崎総理は、目を閉じ、その悲惨な国内の未来図をしっかりと脳裏に焼き付けた。国民にどれほどの血を流させることになるのか。為政者として、その痛みから目を背けることは許されない。


「アメリカは今、日本をどう見ている?」

 総理は、再び目を開き、同盟国という名の『最も厄介な変数』についての確認を求めた。


 外務省の担当官が、慎重に口を開く。

「対露・対中の制裁網を構築する上で、日本の経済力と地政学的な位置は、アメリカにとって極めて『有用』です。……現在のところ、ワシントンは日本を重要な同盟国として扱い、共同歩調を取ることを求めてきています。彼らにとっても、今は味方が多い方が得ですから」


「だが、それはあくまで『表面上の休戦』に過ぎません」

 外務担当の言葉を遮るように、三神編集長が、冷笑を浮かべて真実を突きつけた。


「アメリカが、出雲の『魂の庭』や、与那国の『龍宮の扉』の存在を忘れたわけではない。……ただ今は、ロシアのサイボーグという別件の脅威が大きすぎて、日本を制圧する優先順位が下がっているだけです」

 三神の目が、鋭く光る。

「本質的には、彼らの覇権主義は何一つ変わっていない。……今のアメリカは、我々の味方ではありません。ただ、獲物を横取りされないように牽制し合っている、【一時休戦中の捕食者】ですよ」


「忙しくなっただけで、こちらの詰み筋(アメリカに奪われる、あるいは国ごと焼かれる未来)が消えたわけじゃないのね」

 総理は、自虐的に微かに笑った。

 アメリカは、今は制裁で忙しい。だが、それが一段落すれば、必ずまた日本の深淵を覗き込みに、牙を剥いてやって来る。


 会議室は、完璧な絶望のロジックによって、隙間なく塗り固められていた。


 平時の日本は二週間で死ぬ。

 世界経済は一ヶ月で重傷になり、三ヶ月で新秩序へと変質する。

 中国の支援を受けるロシアは、時間と共に最強の怪物へと育っていく。

 そして、同盟国であるはずのアメリカは、一時休戦中の捕食者でしかない。


「……最悪」


 矢崎総理は、円卓の官僚たちを、そして三神を、真っ直ぐに見据えた。

 彼女の口から、この会議室で誰もが心の奥底で考えながらも、決して口に出してはならない【禁忌の議題】が、ついに放たれた。


「……最悪、ロシアに付くという選択肢は?」


 ピタリ、と。

 会議室の空気が、数秒間、完全に静まり返った。

 空調の音すら聞こえなくなるほどの、絶対的な硬直。

 西側陣営の主要国である日本が、独裁国家であり、狂気のサイボーグ兵器を量産するロシアの陣営に寝返る。それは、戦後の日本のアイデンティティと外交方針を根底から否定する、究極のタブー(禁じ手)だった。


 だが。

 誰も、その総理の言葉を即座に「狂っている」「あり得ない」と否定することはしなかった。

 むしろ、彼らの顔には「ついに、その最悪のカードまでテーブルに並べる時が来たか」という、国家の生存戦略としての『極限の現実主義リアリズム』の色が浮かんでいた。

 この政府が、本気で、形振り構わず「生き残ること」だけを考えている証拠だった。


「……理屈だけで言えば」

 外務省の幹部が、乾いた唇を舐め、タブレットのデータを操作しながら、あえて『利点』から語り始めた。それが、会議としてのリアルだった。

「勝ち筋に見える側(中露ブロック)へ寄る、という発想はあります」


「第一の利点。アメリカからの過剰な圧力(出雲や与那国の接収要求)から、物理的に離脱できる可能性があります」

 防衛省の幹部が、地図上の勢力図を指差して補足する。

「どうせアメリカの陣営にいても、最終的に我々の特異点が狙われ、主権が奪われる運命にあるのなら。……先に別陣営(ロシア・中国側)に庇護を求め、アメリカの干渉を軍事的なパワーバランスの盾で弾き返す、という理屈は成り立ちます」


「第二の利点。中露ブロックの『時間の優位性』です」

 情報機関の担当が続く。

「先ほどの分析の通り、中国の資源とロシアの異星技術が完全に噛み合えば、彼らは時間経過とともに最強の怪物へと育ちます。……短期的な制裁の痛みを耐え抜けば、最終的な勝馬に乗れる(長期的な勝ち筋になる)可能性は否定できません」


「第三の利点。ロシアの新兵器技術、および中国の巨大な素材・経済圏へのアクセス」

 経産担当が、冷徹な計算を口にする。

「アメリカが作り出す『制裁圏(経済の焼け野原)』の外側へ逃げ出し、ユーラシア大陸の巨大な経済ブロックの中で、独自の生存圏を確保できる可能性があります。……少なくとも、アメリカの自爆スイッチ(世界経済の崩壊)に、最後まで付き合わされる義理はありません」


 少なくとも、“時間は中露の味方”という冷酷な読みを前提にするならば。

 ロシアに付く(寝返る)という選択肢は、完全に荒唐無稽な妄想などではなく、国家の生存戦略として、十分に検討に値する極めて『合理的な毒薬』であった。


「……なるほど。理屈としては、十分に魅力的な悪魔の契約ね」

 矢崎総理は、少しだけ顔を伏せ、その毒薬の味を頭の中で咀嚼した。


 だが。

 その『ロシアに付く』という悪魔の選択肢の甘い皮を。

 今度は、防衛、情報、そして三神編集長が、一気に、そして無慈悲に剥ぎ取り、その内側に潜む『猛毒』を次々と机の上に叩きつけ始めた。


「しかし、総理。ロシアは絶対に信用できません」

 外務省の幹部が、即座に否定のターンへと入った。

「彼らは日本を対等のパートナーとして扱う気など毛頭ない。……利用するだけ利用して、用済みになればあっさりと切り捨てる。我々がロシア側に寝返った瞬間、彼らは日本を、アメリカや欧州の怒りを逸らすための『極東の巨大な肉の盾(防波堤)』として最前線に立たせるだけです」


「それに、ロシアに付くということは、実質的に【中国の支配圏】へ入ることを意味します」

 情報機関の担当が、さらに致命的な地政学的リスクを突く。

「現在のロシアのサイボーグ量産を支えているのは、中国の資源と物流です。……日本がそのブロックに加われば、地理的にも、経済規模的にも、我々は完全に中国の強大な覇権システムに呑み込まれ、国家としての独立性を完全に喪失します」


「海洋国家としての日本の構造的な死も意味します」

 経産担当が、首を横に振った。

「ロシアに寝返れば、当然、アメリカと欧州からの全面的な海上封鎖と制裁を受けます。米欧日を結ぶ主要航路、海運、保険、金融ネットワークのすべてを喪失する。……大陸国家である中露と違い、資源を海からの輸入に頼る島国・日本にとって、西側経済圏からの完全な孤立は、数ヶ月での餓死(国家崩壊)を直結させます」


「そして何より……」

 防衛省の幹部が、最も恐ろしい事実を突きつけた。


「ロシアも中国も、結局は我々の足元にある『出雲』と『与那国』を欲しがる側に回ります。……彼らが、アメリカの代わりに我々の特異点を『親切に守ってくれる』保証など、どこにもないのです」


 アメリカの牙から逃れるために、ロシアと中国という別の飢えた獣の檻の中に、自ら飛び込むようなもの。

 それが、「ロシアに付く」という選択肢の、真の絶望的な正体だった。


「仮に中露がアメリカに勝利し、世界の覇権を握ったとして」

 外務幹部が、暗い声で締めくくった。

「その勝った後の世界で、裏切り者である日本が、独立した主権国家のまま、彼らの陣営の中で安全に生き残れるとは……到底思えません」


「……理屈としては、一度机に載せるべき選択肢でした」


 その絶望の羅列の最後に。

 三神編集長が、飄々とした、しかし有無を言わせぬ絶対的な冷酷さを持った声で、最終的な『死刑宣告』を下した。


「ですが、絶対にお勧めしません」


 三神は、腕を組み、総理を真っ直ぐに見据えた。


「ロシアのサイボーグ技術は、短期的な『暴力(破壊)』には極めて向いています。……ですが、長期的な『秩序の形成』には全く向かない代物です。人間の肉体と尊厳を切り捨てるシステムは、必ず内側から破綻する」

 三神の目が、鋭く光る。

「日本が彼らの船に乗ったところで……それは、泥船が沈む時に、一番派手な音を立てて沈むだけの話です。……そして何より、彼らもまた、必ず出雲と与那国の『深淵』に魅入られ、我々からすべてを奪い取りに来ますよ」


 総理は、少しだけ顔を伏せた。

 ロシアに付くという選択肢は、魅力はあるが、入った瞬間に国家の主権と魂を売り渡す、完全な『バッドエンド・ルート』であると、完全に理解した。


「……忠誠で、国家は守れないわね」


 総理は、顔を上げ、前半の絶望的な盤面整理と、ロシア案の否定を総括するように、静かに、そして苦々しく言った。


 アメリカに尽くしても、いつかすべてを奪われるか、経済の自爆に巻き込まれて死ぬ。

 ロシアに寝返っても、盾にされて使い捨てられ、やはりすべてを奪われて死ぬ。

 中国はまだ読めないが、彼らの掌の上で踊る気はない。

 出雲と与那国という、世界を終わらせる爆弾を二つも抱え込んだ日本は、軽率にどちらの旗を決めた(陣営に属した)瞬間に、その重みで自滅する運命にあるのだ。


「……今の日本に必要なのは、忠誠ではありません」

 総理は、円卓の官僚たちを見回し、この絶望的な会議の、とりあえずの【暫定結論】を口にした。


「必要なのは、『保留』です。……どちらの旗も、今の日本には重すぎる」


 誰も、反対しなかった。

 反対しないのではない。それ以外に、日本が今日を生き延びるための選択肢が、本当に何一つ残されていないことを、全員が骨の髄まで理解していたからだ。


 会議室に、再び重く、冷たい沈黙が降りた。

 納得ではない。圧倒的な消耗の共有。

 誰も、勝った気などしない。ただ、死刑執行の期日を、ほんの少しだけ先延ばしにしただけの、虚しい結論。

 沖田室長も、官房長官も、絶望的な顔のまま、手元の資料を閉じかけ、この息の詰まる会議を終えようとしていた。


 ……極めて『日本政府らしい』、苦く、そして何一つ解決していない、無力感に満ちた締めくくり。


 だが。

 その、完全に沈み切り、誰もが諦めかけていた会議室の空気に。


「……総理」


 三神編集長が、ふと、いつもの飄々とした、しかしどこか悪戯っぽいトーンで、唐突に口を開いた。

 声の大きさは、いつも通り。だからこそ、その静かな空間で、全員の意識が嫌でも彼へと引き寄せられた。


 三神は、資料を閉じようとしていた矢崎総理に向かって、全く脈絡のない、そしてこの場にはあまりにも不釣り合いな【問い】を投げかけた。


「総理は、賭けをしたことは?」


「……え?」

 総理は、一瞬、その質問の意味が全く分からず、怪訝な顔で三神を見た。


「賭け?」

 総理は、苦い顔で返す。

「悪いけど、私は元々手堅く調整していくタイプなの。そういう一か八かのバクチは、少し……」


「まあ、ですよね」

 三神は、小さく苦笑し、軽く肩をすくめた。

「賭け事はしないタイプですもんね。政治家としては正しい資質です」


「……唐突に、何を言っているんだ?」

 官房長官が、今の絶望的な流れと全く噛み合わない三神のふざけた発言に、苛立ちを隠せずに口を挟んだ。

 沖田室長も、怪訝そうに眉をひそめている。会議室全体が、三神のこのタイミングでの脱線に、強い不快感を抱き始めていた。


 だが。三神は、彼らの苛立ちなど全く意に介さず、ニヤリと笑って、その『切り返し』を放った。


「いえいえ」


 三神は、パイプ椅子からゆっくりと立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み寄った。


「……ひとつ、手があります」


 ピタリ、と。

 全員の動きが止まった。


 三神の口から出た「手がある」という言葉。それは、この完璧に詰んだ盤面において、唯一の『光(あるいはさらなる狂気)』の存在を示唆するものだった。


 三神は、ホワイトボードのマーカーを手に取り、総理に向かって、極めて淡々と、しかし恐ろしいほどの爆発力を秘めた提案を口にした。


「……【中国に、アーティファクトを見つけさせる】……ってのは、どうです?」


 会議室が、数秒間、完全にフリーズした。

 総理も、沖田室長も、すぐにはその言葉の意味が理解できなかった。


「中国に……アーティファクトを、見つけさせる……?」

 外務省の官僚が、呆然と、オウム返しにその言葉を口にした。


「ええ」

 三神は、平然と頷いた。

「そうすれば、中国は、ロシアと組むメリットが薄れる。……さらに、見つけたアーティファクトの『種類(思想)』によっては、中国がロシアを見限り、西側寄り(あるいは全く別の独自の立場)になるかもしれない」


 総理は、意味が読めず、少しだけ身を乗り出した。

「……どういうことですか?」


 沖田室長は、直感的に「極めて危険な話だ」と理解したが、まだ三神を止めなかった。この男の放つ“危険な提案”が、時として現実の膠着状態を一段先へ(良くも悪くも)進める起爆剤になることを、彼は過去の経験から知っていたからだ。


(敵(中国)に、あえて強大な武器アーティファクトを与えろというのか……!?)

 官僚たちは、まだそれが「逆転の策」だとは気づいていない。むしろ、「これ以上、敵陣営の怪物を増やしてどうするんだ」という、強烈な拒絶反応を示しかけていた。


「まず、星間文明というものについて、少し知っておかないと駄目ですね」

 三神は、普段のオカルト雑誌の編集者然とした空気のまま、ホワイトボードにマーカーを走らせ、急に『宇宙文明学』の講義を始めた。


「皆さん、宇宙のどこかにある『星間文明』というものは、どういう経緯で成立すると思いますか?」

 三神は、振り返って問いかけた。


 防衛省の幹部や官僚たちが、戸惑って顔を見合わせる。

 総理が、半ば付き合う形で、探るように答えた。


「……惑星の統一を、経なければならない?」


「正解です!」

 三神は、パンッと手を叩き、少しだけ楽しそうに笑った。久しぶりに、自分が完全に「話の芯」を握ったことへの悦び。


「この宇宙には、星の数ほど星間文明が存在します。ですが、例外なく、彼らは『惑星の統一』というプロセスを経ています。……そして、その惑星統一とは、単なる領土の統合(武力制圧)ではありません。その過程で、その文明が持つ【主要な思想や価値観】が、極限まで収束・凝縮されるのです」

 三神は、ホワイトボードに雑な対立軸を書き出し始めた。


『自由主義 ⇔ 権威主義』

『軍国主義 ⇔ 平和主義』

『排他主義 ⇔ 受容主義』

『競争主義 ⇔ 協同主義』

『物質主義 ⇔ 精神主義』

『産業主義 ⇔ 環境主義』


「結果として、星間文明は、大別すると【十二種類の思想陣営】に分類できると言われています」

 三神は、マーカーでボードをトントンと叩いた。


「そして、ここからが重要です。……彼らが地球に落としていった『地球外テクノロジー(アーティファクト)』は、単なる便利な道具(機械)ではありません」

 三神の目が、鋭く細められる。

「その多くは、それを作った文明の『思想・価値観・設計思想』を、濃厚に背負っています。……だから、使う側(地球の国家)の思想との間に、【相性】があるんです。対極の思想を持つアーティファクト同士は、利用者の認識や国家方針のレベルで、強烈に反発し合う」


「……」

 総理も、沖田も、三神の語る壮大な宇宙の法則に、完全に引き込まれていた。


「現在の地球の盤面に、これを当てはめてみましょう」

 三神は、ホワイトボードに、現在世界で暴れているプレイヤーたちの名前を書き込んだ。


「アメリカが地中海で手に入れた『アポロンの矢』。あれは汎用型で、中道寄りのアーティファクトです」

「そして、EUおよびヘルメス協会が起動させた『ミノスの星円盤(アカイア人の技術)』。あれは、極端な【精神主義】のアーティファクトです」

「対して、ロシアがシベリアで掘り当てた『ヴォストーク(サイボーグ化技術)』。あれは、肉体を機械に置き換える、極端な【物質主義】のアーティファクトです」


 三神は、EUとロシアの間に、太い対立の線を引いた。


「……だから、ヘルメス協会(EU)は、ロシアのサイボーグを『魂への冒涜』だとして、あれほど異常なまでに怨敵と定め、聖戦を叫んだのです。……単なる地政学の対立じゃない。アーティファクトに宿る【思想の絶対的な反発】が、彼らを戦争へと駆り立てている」


「なるほど……!」

 総理が、ハッと息を呑んだ。

 ここで初めて、EUの異常な狂い方(過激化)に、完璧な理屈(宇宙規模の思想的対立)が通ったのだ。


「では、現在の中国はどうでしょう」

 三神は、ホワイトボードの中国の欄を指差した。

「彼らは今、対米対抗という現実的な利益のために、ロシアを背後から支援しています。ですが、それはあくまで『現状の盤面における最適解』に過ぎません。……もし、中国が自国で、自国の文明に相性の良い【別系統のアーティファクト】を手に入れたら、どうなるか?」


 三神は、ニヤリと笑った。

「中国という文明圏は、歴史的に見て、精神主義や環境主義、あるいは『天命』『調和』『変容』といった概念に寄るアーティファクトと、極めて高い親和性を持つ可能性が高い。

 ……そうなれば、物質主義の極みであるロシアのサイボーグ路線は、中国が新たに得た『宇宙の教え(思想)』にとって、完全に邪魔なノイズ(異端)へと変質します。

 つまり、中国はロシアを『利用する側』から、『ロシアを見限る(あるいは敵対する)側』へと、オセロのようにひっくり返る可能性があるのです」


「……中国が、精神主義のアーティファクトを手に入れたら……ロシアから離反する?」

 総理は、三神の描く圧倒的な逆転のシナリオに、震える声で確認した。

「そして、アメリカの制裁を逃れ、世界経済へと復帰する……?」


「正っ解!」


 三神は、指を鳴らし、はっきりと、そして少しだけ楽しそうに答えた。


「それに」

 三神は、さらに追い打ちをかけるように、ゲームの『裏技』のような理屈を付け加えた。

「新規参入プレイヤーって、案外、最初の一枚アーティファクトが強いんですよ」

 彼は、ニヤッと笑う。

「【ビギナーズラック】、ってやつです。中国はまだ、アーティファクト保有プレイヤーとしては“新規”です。彼らが最初に引く一枚は、その文明の今後の進路を、決定的に、そして強力に方向付けるはずです」


「……」


 会議室の空気が、完全に変わった。

 前半までの「どうやってもジリ貧で死ぬ(保留しかない)」という絶望のどん底から、一気に「盤面を強引にひっくり返して動かせるかもしれない」という、強烈な【勝負手の匂い】へと変貌したのだ。

 沖田室長でさえ、ほんの少しだけ押し黙り、その突飛だが圧倒的に理にかなった戦略的価値を計算し始めている。官僚たちの表情にも、初めて「希望」ではなく、「血なまぐさい逆転劇への興奮」が浮かび上がっていた。


「……それを、どうやって実行するの?」

 矢崎総理が、身を乗り出し、三神に具体的な『手段』を問うた。

 いくら理屈が通っていても、中国に都合よくアーティファクトを発掘させる方法など、あるはずがない。


 だが、三神は、よれよれのスーツのポケットに手を突っ込んだまま、極めてあっさりと、そして恐ろしいほど平然と答えた。


「私は、中国に沢山の“友人”がいます」


 三神の目が、細められる。

「その独自のルート(裏社会やオカルトネットワーク)を通じて。……中国国内に眠っているアーティファクトの【正確な場所(座標)】を、彼ら(中国指導部)に、こっそりと教えてあげます」


 ピタリ、と。

 官房長官、防衛大臣、そして外務省のトップたちが、一斉に硬直した。

 彼らはここで初めて、「ああ、この男の提案は、単なるオカルトの講義ではない。日本国家の命運を懸けた、完全な【超・国家級の諜報・工作活動】なのだ」と、その恐るべき実態を理解したのだ。


「……中国という巨大なプレイヤーに、我々の手で『別の勝ち筋』を見せてやるんです」

 三神は、冷酷な目で円卓の面々を見回した。

「ロシアと一緒に泥舟で沈むより、自分たちだけが宇宙の力で勝てる(覇権を握れる)という、圧倒的に魅力的なルート(餌)を目の前にぶら下げる。……彼らがそれに食いつけば、ロシアへの資源支援の優先順位は確実に落ちます。最悪でも中露の一体化を崩せる。最良なら、中国がロシアと切れて、世界経済の息の根が吹き返します」


 完璧なロジック。完璧な逆転の一手。

 会議室に、一瞬、熱病に冒されたような「いけるかもしれない」という興奮の波が差し込んだ。


 だが。

 三神は、そこでニコリとも笑わず、声のトーンをさらに一段階低く、冷たく落として、彼らのその熱を強制的に凍りつかせた。


「……良いですか?」

 三神の目が、矢崎総理を真っ直ぐに射抜く。


「ここからが、本当の【賭け】の話です」


 三神は、カタルシスに酔いしれかけた彼らに、この策が同時に孕む『最悪の猛毒』を、容赦なく叩きつけた。


「中国にアーティファクトを見つけさせるということは。……つまり、我々の手で、意図的に【新たな怪物(敵)を一つ増やす】ということです」

 三神は、冷酷に事実を並べる。

「中国が精神主義系に寄れば、確かにロシアからは離れるかもしれない。……だが、もし彼らが引いたアーティファクトが、我々の予想と全く違う、もっと凶悪な思想を持っていた場合は?

 あるいは……中国がそのアーティファクトの力を使って、アメリカやロシアを出し抜き、最終的にこの地球で【最も強いプレイヤー(覇者)】になってしまった場合は?」


 三神は、ホワイトボードを叩いた。


「その時。……我々日本は、『地球の未来を、世界の勢力図を、中国の手に差し出した側』として、歴史に永遠に名を刻まれることになります」

 三神の言葉が、重く、重く会議室にのしかかる。

「世界中の人々の未来を、我々のこの一つの決断で、全く別の形にねじ曲げ、奪う形になる。……それは、ロシアのサイボーグ以上の、手のつけられない新たな『化け物』を生み出す可能性すらある」


 三神は、最後に、矢崎総理に向かって、究極の覚悟を問う決定打を放った。


「……ロシア以上の化け物を生み出す覚悟は、ありますか?」


 再び、会議室に沈黙が落ちた。

 だが、前半の「何もできない無力感」からくる絶望の沈黙ではない。

 今度の沈黙は、「打てる手はあるが、その代償(責任)が世界を滅ぼすほどに重すぎる」という、血を吐くような究極の選択を前にした、重圧の沈黙だった。


 ここで、矢崎総理が本当に試される。


 総理は、しばらく黙った。

 誰も、急かさなかった。

 前半では、ただ「日本は何日持つか」という持久日数を数えるだけの、死を待つ会議だった。

 だが今は、「生き残るために、どれだけ自らの手を汚し、世界の未来そのものを盤面のチップとして賭けられるか」という、悪魔のゲームの決断を迫られている。


 数秒の沈黙の果てに。

 矢崎総理は、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情には、調整型の政治家が持つ曖昧さは一切なく、国家と世界の運命を背負って泥を被ることを決意した、冷酷で強靭な『勝負師』の顔があった。


「……保留だけでは、もう持たないのね」


 総理は、低く、しかし絶対に揺るがない声で言った。


「だったら、賭けましょう」


 その決断の言葉に、官房長官も、防衛大臣も、息を呑んで総理を見つめた。


「日本が、生き残るために」

 総理の目は、燃えるような覚悟の光を放っていた。

「世界の未来まで盤面のチップとして賭けることになるとしても。……ここで何もせずに、ただ黙って国が餓死し、ロシアのサイボーグに世界が蹂躙されるのを待っている方が、もっと悪いわ」


 総理は、三神を真っ直ぐに見据え、最終的なGOサインを出した。


「やりましょう。……ただし、この工作が失敗し、あるいは最悪の結果を招いた時の責任は……すべて、私と、日本国政府が国家として引き受けます」


 三神は、総理のその狂気にも似た覚悟を正面から受け止め、少しだけ目を細めた。

 それ以上は、笑わなかった。


「……了解しました」

 三神は、短く、そして重く頭を下げた。


 沖田室長も、顔を上げ、もはや迷いのない、覚悟を決めた指揮官の顔になっていた。

「……では、その前提で動きます」

 沖田は、即座に実務への落とし込みを開始する。

「内調の特別班を動かし、三神氏の『友人』への接触ルートの安全確保と、情報偽装のバックアップを行います。中国側への『餌付け』のスケジュールを至急策定します」


 会議が終わろうとしていた。

 前半では、「日本はあと何日で死ぬのか」という絶望の寿命を数えていた。

 だが後半では、その寿命を一日でも延ばすために、世界の未来そのものを盤面に叩きつけてでも強引に状況を動かすという、狂気的な『賭け』の話になっていた。

 机の上の資料は同じでも、会議室の空気は全くの別物になっている。


 誰も、楽観はしていない。

 だが、前半の“死を待つだけの絶望の静けさ”ではない。盤面に、確実に『毒を孕んだ強烈な一手』が打ち込まれた、確かな感触がある。


 現実的な話をすれば、日本は長く持たない。

 だから彼らは最後に、現実的ではない一手へ、国家の命運を賭けるしかなかった。

 平時の日本は二週間で死ぬ。世界経済は一か月で重傷になり、中露は時間で育つ。

 だから矢崎総理は、冷酷な数字の会議の最後に、数字では決して測れない狂気の賭けを選んだのだ。


 忠誠では守れず、保留では足りない。ならば次に必要なのは、勝ち筋の薄い、しかし世界を巻き込む劇薬のような『賭け』だった。

 その夜、日本政府は初めて「何日持つか」を数えるのをやめ、最後に「何を賭けるか」を自分たちの意志で決断したのである。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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日本のアーティファクトを必要としない思想だと良いけど、あそこも結構な拡大思想じゃないかな?
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