第33話 見物人たちの査定会
大気圏外、高度四百キロメートルの虚空に浮かぶ超弩級ステルス宇宙ステーション〈サイト・アオ〉。
その中枢に位置する観測ラウンジは、人類の運命が天秤にかけられている重苦しい地球の現状とは裏腹に、まるで映画館の最前列のVIPシートのような、ひどく弛緩した空気に包まれていた。
壁面を覆い尽くすほどの巨大な複数枚のスクリーンには、現在進行形で破局へと向かっている地球上のあらゆる座標の映像が、極めて鮮明な解像度で映し出されている。
一つは、自衛隊によって完全封鎖された出雲の深い森の俯瞰映像。
一つは、与那国島沖の深海で青白く不気味な光を放つ『龍宮の扉』と、その上で待機する海洋調査母艦内の緊迫した様子。
そして中央の最も大きなスクリーンには、他でもない日本の首相官邸地下・既存技術外事象評価セルで、国家のエリート官僚たちが取っ組み合いの喧嘩を演じている最高機密会議の惨状が、音声付きで生中継されていた。
「いやー、凄い展開になったね!」
ラウンジの中央に置かれた特大のビーズソファに深く体を沈め、ティアナ・レグリアは地球製のポテトチップスを無造作に口に放り込みながら、心底楽しそうな声を上げた。
銀河帝国最高権力者のクローン・スペアである彼は、その規格外の権力と能力に反して、まるで深夜のスポーツ中継でも観戦しているかのような軽いノリで、スクリーンに広がる地球の地獄絵図を眺めている。
「まさかあそこまで綺麗に会議が崩壊するとはねえ。山は拒絶して、海は選択を迫る……。同時進行で見れると、彼らの倫理観のテストケースを測る良い機会だよ!」
ティアナは、コーラで喉を潤しながら、どこか茶化すような余裕の笑みを浮かべた。
KAMIは、カウンター脇の棚から引っ張り出した台湾の鳳梨酥を丁寧に包み紙から取り出しながら、スクリーンを横目で眺めていた。
今日の地球菓子の掘り出し物はこれで、昨日のメキシコのチリグミを食べ終えたところである。
「あー、分岐イベント中ね」
KAMIは、一口かじりながら冷静に言った。
「デバフ盛りすぎのクソ難易度だけど、まあ、これくらいの圧がないと人類の本音は出てこないわよね」
ソファのひじ掛けの上には、賢者・猫がちょこんと座っていた。
翠の瞳を細め、スクリーンの中の官邸地下の様子を、じっと静かに見つめている。
「……うむ」
猫は、低く短く唸った。
「この者たちは、勘所が良い」
KAMIが、ケーキを食べる手を少しだけ止めた。
ティアナも、ポテチの袋から手を離した。
賢者・猫がこのトーンで喋る時は、たいてい面白いことを言う、というのが最近の共通認識だった。
「命を救うか、国家を守るか、文明の尊厳を守るか。……三つの天秤が同時に振られて、それでも彼らはまだ、誰かを切り捨てることを拒んでいる」
猫は、スクリーンの中の矢崎総理の背中を見つめたまま、静かに続けた。
「普通の生き物は、ここで一番軽いものを捨てる。一番弱いものを見捨てる。それが生存の定石というものじゃ。……だが、あそこにいる者たちは、まだそれをしていない」
「でも崩壊してますよ」
ラウンジの隅のコンソールで、血の気の引いた顔でモニタリングしていたエミリー・カーター研究員が、疲れ果てた声で言った。
「壊れながらも、まだ諦めていない、ということでしょうか」
「そうじゃ」
猫は、ひじ掛けの上でしゅっぽりと体を丸め、尻尾を体に巻きつけた。
「壊れながらも、誰かを見捨てないでいようとしている。……それは、なかなか、地球の小さい生き物にしては、見上げた気性じゃと思うがのう」
エミリーが、少しだけ目を見開いた。
だが、そのティアナの軽薄な態度に対し、真っ向から不快感を露わにした者がいた。
「……完全に見世物扱いですね!」
エミリーは、バンッとコンソールを叩き、ティアナに向かって怒りに満ちた声を張り上げた。
「あそこにいる人たちは、遊びで壊れてるわけじゃないんですよ! あなたにはコメディ映画に見えるかもしれませんが、あれは命の議論です。……未知の異星技術に人体を差し出すか、それとも自分たちの同胞を見殺しにするか。そんな残酷な選択を突きつけられて、誰も正解が分からないから、あそこまで理性を失って苦しんでいるんです! 笑って見る場面じゃありません!」
エミリーの悲痛な叫びは、官邸地下で涙を流していた女性調査員や、死の宣告を受けた沖田室長の絶望に完全に感情移入したものだった。
「だいたい、あの与那国のAIのやり方は悪辣すぎます! 命を人質にとって、人類の倫理的成熟度がどうとか……人類という種の分岐点なんですよ! そんな軽いノリで見ていい話じゃありません!」
「あーもう、うるさいわねぇ」
エミリーの悲鳴のような抗議を、心底面倒くさそうに遮ったのはKAMIだった。
「見世物っていうか、今まさに分岐イベント中なのよ、彼らは」
KAMIは、鳳梨酥の最後の一口を食べ終えながら、エミリーを鼻で笑った。
「熱くなりすぎよ、エミリー。あんたもヘイト溜めすぎ。見てられないから運営目線で言ってあげるけど、あの官邸地下の内ゲバは、どう考えたって仕様でしょ。デバフ盛りすぎなのよ」
「仕様って何ですか! 命がかかってるって言ってるじゃないですか!」
「だからよ。……人類の倫理スコア測定クエストってだけじゃないの。感情で選ぶか、国家で選ぶか、文明で選ぶか。その全部のパラメーターを、たった二十四時間という制限時間内に同時に振られてるんだから、処理落ちしてクソゲー気味に崩壊するのは、プレイヤーの反応として極めて当然でしょ」
KAMIは、ゲームの理不尽な難易度設定を解説するように、あっさりと彼らの苦悩をシステム的な言葉で切り捨てた。
「むしろ、あそこで綺麗事ばっかり並べて誰も怒らなかったら、そっちの方がバグだわ」
エミリーはKAMIの言葉に反論しようと口を開いた。
だが今度は怒りの言葉が出てこなかった。
スクリーンの中では、医療班責任者と防衛幹部が胸ぐらを掴み合い、矢崎総理が「やめなさい!」と怒鳴り、モニター越しの沖田室長が蒼白な顔で黙って見ている。
自分が今、このラウンジでどれだけ叫んでも、あそこには届かない。そのあまりにも当然の事実が、エミリーの怒りを鋭利な刃から鈍く重いものへと変えていった。
「……私は、ここから何もできないんですよね」
エミリーは、コンソールの縁を両手でぎゅっと握りしめ、画面を見つめたまま、ひどく小さな声で言った。
「あの人たちが正解を見失って壊れていくのを、ただ見てるしかない。……地球人なのに。同じ人間なのに」
「代表およびKAMI殿の表現は遊戯的で不適切ですが、事象の構造的分析としては概ね妥当です」
流体金属のボディを持つ副官、XT-378が、無機質な声で会話に介入した。
「出雲の『魂の庭』は、外部からの接触を圧倒的な情報量で物理的に拒絶しました。対象の脅威が明確であったため、日本政府は封鎖という単一の行動原理で結束できた。……しかし、与那国の『ガイアズ・ドリーム』は違います。あれは、完全治癒という救済の形をした圧力です。利益と代償の天秤が極度に複雑化しているため、集団の意思決定プロセスが機能不全を起こすのは必然的帰結と言えます」
「ええ。与那国のAIは、単なる医療の提供ではなく、人類の集団意思決定能力そのものを試しているのでしょう」
科学部門責任者のザーラ・クォルム博士も、静かにモニターを見上げながら補足した。
「これは救済ではなく、上位文明が下位文明に対する接触規範の査定です。……ある意味で、あれは出雲以上に、人類の社会構造を内側から効率的に壊してくるアプローチですね」
XT-378とザーラの、感情の欠片もない分析的な言葉が続くのを聞きながら。
エミリーは静かに、自分がどれだけ叫んでも、この部屋の上位存在たちに「人類の苦しみ」は届かないのだということを、改めて深く理解した。
「……そうですか」
エミリーは、コンソールから手を離し、その場にゆっくりと座り込んだ。
「……ガンかー」
その、静かな諦念に似た沈黙が広がりかけていた中で。
今までラウンジの隅のテーブルで、地球のジャンクパーツをいじりながら黙りこくっていた工藤が、ぽつりと、場違いなほど間の抜けた声を漏らした。
工藤は、ドライバーを片手に首をひねりながら、スクリーンの中の女性調査員のカルテ(子宮ガン・ステージ4)の数値を眺めていた。
「確か、かーなり昔に色々作ったなー」
工藤は、まるで昔の夏休みの工作でも思い出すように、ひどく軽いノリで語り始めた。
「ガン治療シリーズ。……『消しゴム君』とか、『がんしぼり』とか、『ザルすくい君』とか!」
そのネーミングセンスの圧倒的な緩さに、エミリーの頭から一瞬、重苦しい空気が綺麗に抜け落ちた。
「……は?」
「今考えたら、どれも子供だましみたいな粗い作りだったなー。まあ、悪い細胞だけ物理的に削り取ったり、フィルターで濾しとったりするだけの単純な仕組みだったし」
工藤は、ポリポリと無精髭を掻きながら、感心したようにスクリーンの中の深刻な議論を見つめた。
「でも、そっか。ガン治療って、こんなに重い感じだったんかー」
工藤のその言葉に、ラウンジが一瞬、奇妙な静寂に包まれた。
「昔はあんまり深く考えて無かったけど……治らない病気を治すって、結構凄いことなのでは?」
工藤は、心底不思議そうに、そして感心したように一人で納得して頷いていた。
「……ガン治療を工場ライン感覚で作ってた人間がいるのはこのステーション的には普通の話なんですけど」
エミリーが力なくXT-378に確認を求めると、副官は無言で頷いた。
「そいつ、多分あんまり理解してないわよ」
KAMIが、次の菓子を棚から探しながら工藤を指差し、深い溜息をついた。
「どうせ、コスパと効率と工場ラインの都合だけで設計してるんでしょ。『病気で労働力が減ると生産ラインの効率が落ちるから、とりあえず治す機械ばら撒いとけ』くらいのノリでしょ」
「えー、でも治るなら良くないですか?」
工藤は、全く悪びれる様子もなく、首を傾げた。
「病気って普通に面倒じゃないですか。痛いし、寝込むし。直せるならサクッと直した方が工数減るし、歩留まりも良くなるし」
「ほら見なさい!」
KAMIが天を仰いだ。
「……それでも」
ひじ掛けの上の賢者・猫が、静かにその会話に割り込んだ。
「それでも、救われる者がいる。……動機が何であれ、結果として命が繋がるなら、それはそれで悪いことではなかろう」
猫は、翠の瞳でスクリーンの中の女性調査員を見た。
蒼白な顔で診断書を握りしめている、その手を。
「あの者は、ガン治療の理屈がどうであれ、ただ生きたいと思っておる。……それに応えられるならば、動機などというものは、二の次じゃ」
猫は、前足でぺろりと顔を拭い、それきり黙った。
「……猫さんが、まともなことを言っている」
エミリーが、複雑な顔で黒猫を見た。
「ワシはいつもまともじゃ」
猫は、澄ました顔でそう返した。
「代表。あなたは、彼らがどうなるか、全く気にならないんですか?」
今度は怒鳴りつける代わりに、エミリーはひどく疲れた声で、ティアナに問いかけた。
「未来視ができるなら、日本政府がどういう結論を出すか、もう分かってるんじゃないですか?」
そのエミリーの問いに、ティアナはポテトチップスの最後の一欠片を飲み込み、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まっ、実は未来視で見てたから知ってたんだよね!」
ティアナは、あっさりと、自分が事前にこの事態の展開を知っていたことを明かした。
「海底から日本語で話しかけてきて、沖田のおじさんの脳腫瘍をバラして脅迫するってところまでは、ちゃんとビジョンで見えてたよ」
「知ってたなら、どうして教えてくれなかったんですか」
怒鳴りつけでも嘆きでもなく、純粋に問う声だった。
「でもさ、エミリー。未来視ってさ、サイコロを振る前に『出た目』が分かるだけの能力じゃないんだよ」
ティアナは、少しだけ真面目な顔になり、人差し指を立てて左右に振った。
「僕が見る未来は、あくまで可能性の高いルートの一つに過ぎない。観測が入るとズレるし、選択肢が増えると分岐が暴れる。特に出雲のシステムとか、他の上位存在の遺物が絡むと、ノイズが多すぎて未来の確定ラインがグニャグニャに揺らぐんだ」
「……確定は、していないと?」
ザーラ博士が確認する。
「そう。だから、日本政府がこの二十四時間のタイムリミットの中で、最終的にあの治療の提案を受けるか、断るか、それとも保留して足掻くか。……実際に出た分岐を、リアルタイムで確認しないと、最終的な結末は分からないんだよね」
ティアナは、スクリーンの中で苦悶する矢崎総理と、呆然と立ち尽くす沖田室長の姿を、興味深そうに見つめた。
「日本は、どの選択肢を選ぶだろうね」
「……いずれにせよ」
賢者・猫が、静かに口を開いた。
その声のトーンに、いつものゆるやかな怠惰さとは少し違うものが混じっていた。
ティアナが、ちらりと猫を見た。
「あの総理という者は、一人でも減らすという覚悟で立っておる」
猫は、矢崎総理の背中を映したスクリーンを、翠の瞳でじっと見ていた。
「大きな権力を握る者がそれを言う時、たいていは嘘か綺麗事じゃ。……じゃが、あれは違う。背負いすぎて、それでもまだ立っておる」
猫は、ひじ掛けの上で前足をゆっくりと折りたたんだ。
「ワシは、ああいう生き方のできる者は、嫌いではないのう」
ラウンジが、少しだけ静かになった。
KAMIが、棚から取り出した新しい菓子の袋を開けながら、横目で猫を見た。
北欧産のリコリス菓子だ。一口かじって眉をひそめたが、それでも食べ続けた。
「……珍しいじゃない、猫が誰かを褒めるなんて」
「商人は、値打ちのある者を見極める目がなくては商売にならんのでな」
猫は、しれっとそう返した。
「あの総理は、値打ちがある。……それだけの話じゃ」
「ふふ」
ティアナが、小さく笑った。
「じゃあ余計に、どの選択肢を選ぶか楽しみだね」
ティアナは、ソファから立ち上がり、軽く首を鳴らした。
「それ次第では……僕の出番があるかもね!」
「はい、ストップストップ!」
KAMIが、リコリスの袋をテーブルに置いて両手でバツ印を作った。
「ネタバレ禁止よ! 代表、あんたそれ以上先の展開バラすの、マジでやめなさい!」
KAMIは本気で嫌そうな顔をしてティアナを睨みつけた。
「ストーリーの分岐先の結末を先に言うなんて、マジでクソゲー化する最大の要因なんだから。自力で一回詰むところまで見届けなさいよ! あんた、運営としてのセルフBANを考えなさい!」
「あはは、ごめんごめん」
ティアナは軽く手を上げて降参のポーズをとった。
エミリーは、二人のやり取りをしばらく無言で見ていた。
怒鳴っても届かない。嘆いても届かない。それは最初から分かっていたことだ。
「……気になるなら、見てるだけじゃなくて、声くらいかけてあげればいいのに」
エミリーはただそれだけを、ひどく静かに言った。スクリーンから目を離さないまま。
「矢崎さんも、沖田室長も、誰も正解が分からないまま必死に考えてる。……観客でいるのと、ただ黙って見ているのは、違うと思います」
ティアナは、その言葉に一瞬だけ動きを止め、スクリーンの中の矢崎総理の背中を見つめた。
何も言わなかった。ただ、ポテトチップスの袋を膝の上に置いたまま、いつもより少しだけ真剣な顔で、画面を見続けていた。
ひじ掛けの上の賢者・猫も、翠の瞳をスクリーンに向けたまま、静かに動かなかった。
その尻尾の先だけが、ゆっくりと、一定のリズムで揺れていた。
モニターの中では、官邸地下の最高機密会議室の静止したような重苦しい空気と、与那国沖の深海で青白く、まるで心臓のように脈打つ『龍宮の扉』の光が、交互に映し出されている。
しかし、このサイト・アオの観測ラウンジだけは、上位存在たちの勝手な価値観と、無責任な観察者としての娯楽の光に照らされ、妙に明るく、そして残酷なほどに平和だった。
残り時間は、確実に削られていく。
日本がどの選択肢を選ぶか。
それが、人類を救うのか、それともティアナの言う「出番」を引きずり出すような破局へと繋がるのか。
観客たちはそれぞれの菓子を手に、舞台上の演者たちが自ら血を流し、究極の選択を下すその瞬間を、それぞれの距離感で待ち構えていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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