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第32話 命を選べと言われても

 

 与那国島沖の深海に、先日まで存在しなかった巨大な『龍宮の扉』が青白い光を放ち始めた。

 そして、その奥底から響き渡った、古代サイリーア文明の自律型生命治癒システム「ガイアズ・ドリーム・プロトタイプ7」を名乗る未知の知性体からの、あまりにも一方的で、断れないほどに魅力的な【完全治癒】の提案。


 沖田室長の致命的な脳腫瘍。

 女性調査員の転移済み子宮ガン(ステージ4)。


 ナノマシンによる分子レベルの完全治癒。成功率は極めて高く、後遺症は最小化可能。

 決断猶予は、地球時間にして二十四時間。それを過ぎれば、提案の有効性は再保証されない。


 その絶望的なタイムリミットと、神の御業のごとき救済の提示は、与那国沖の調査母艦から直通の緊急暗号回線を通じて、東京の首相官邸地下に位置する『既存技術外事象評価セル』へと、一切の容赦なく叩きつけられた。


「……は?」


 送られてきた生体スキャンデータと、海底のAIが発した音声ログを聞き終えた最高機密会議室で。誰かの口から、あまりにも間の抜けた、しかしその場にいる全員の思考の完全なる停止を正確に代弁するような、短い破裂音が漏れた。


 円卓を囲むのは、矢崎総理、外務省、防衛省、内閣情報調査室の幹部たち。そして、表の科学を代表する科学技術顧問と、自衛隊中央病院から派遣されている医療班の責任者だ。

 彼らはつい先ほどまで、出雲の封鎖をどう維持し、アメリカからの政治的圧力をどう躱し、与那国の未知の構造物をどう「国家の安全保障上、管理するか」という、極めてマクロで冷徹な盤面の上でチェスを打っていたはずだった。


 しかし、突きつけられた現実は違った。

 海底の知性は、国家や人類という大きな枠組みなど歯牙にもかけず、今まさに最前線で指揮を執っている【沖田室長】と、同行している【女性調査員】という、たった二人のちっぽけな個人の『命』を、ピンポイントでテーブルの上に引きずり出し、人質にとったのだ。


「……沖田」


 矢崎総理は、手元のタブレットに表示された、AIによって一瞬で暴かれたという沖田室長の脳の3Dモデル――右前頭葉深部に赤くハイライトされた、紛れもない致死的な腫瘍――を見つめたまま、ただその名前を呼ぶことしかできなかった。

 普段なら、国家のトップとして即座に次の一手を指示し、場を掌握する彼女の強靭な思考回路が、完全に凍結していた。言葉が見つからない。


 モニター越しの沖田室長は、血の気のない顔で、無言のまま画面を見つめ返している。

 彼の隣では、転移性のガンを暴かれた女性調査員が、両手で顔を覆い、声にならない嗚咽を漏らして肩を震わせていた。


 彼らは今、明確に死に向かっている。

 そして、その死を「確実に、後遺症なく、ナノマシンで完全に治癒できる」という、現代の地球の医療では絶対に不可能な魔法のような奇跡が、目の前に提示されているのだ。


 誰も、最初に「そんな怪しい異星の治療は断れ」とも、「今すぐ受けさせろ」とも言えなかった。

 なぜなら、この会議室にいる人間は皆、沖田という男が、これまでどれほど身を粉にしてこの国を裏から支え、理不尽な超常事象の矢面に立ち続けてきたかを、痛いほど知っているからだ。彼を見殺しにしろなどと、どの口が言えるというのか。


 だが、その重苦しい、まるで真空のような沈黙を、医療という「命を救うこと」を絶対の正義とする立場の人間が、最初に怒りと共に打ち破った。


「……総理! これは、奇跡です!」

 医療班の責任者が、興奮と焦燥で顔を真っ赤にしながら立ち上がり、テーブルをバンッと叩きつけた。

「相手が古代文明だろうが何だろうが関係ない! 成功率99.9%、後遺症なしで末期ガンと脳腫瘍を完全消去できるなんて……現代医学では絶対に不可能な、神の領域の救済です! 二人は今、明確に死に向かっているんですよ!? 助かる可能性がそこにあるなら、止める理由は何ですか! 今すぐ受けさせるべきです!」


「待て! 落ち着け、先生!」

 防衛省の幹部が、目を血走らせて医療班責任者を鋭く制止した。

「相手は、人類の常識が一切通じない地球外のシステムだぞ! そんな素性の知れない『異星のナノマシン』とやらを、我が国の国家機密のど真ん中にいる指揮官の体内に、やすやすと注入させるわけにはいかない!」


「では、あの二人を見殺しにしろと言うんですか!?」

 医療班責任者が、防衛幹部を激しく睨みつけた。

「未知だから怖い? 何をされるか分からないから死ねと!? そんな理屈が通るなら、医療の進歩などあり得ない! 国家が、自分の指揮官と調査員を見殺しにしたと歴史に記録されるおつもりですか! これはもう安全保障や研究の話じゃない、目の前の『救命』の話だ!」


「見殺しにするとは言っていない!」

 防衛幹部も負けじと声を荒げ、ネクタイを乱して吠えた。

「だが、これは本当に『純粋な医療』なのか!? 治療という名目で、彼らの体内に、あるいは脳内に『何を』埋め込まれるか分からないんだぞ! 監視装置か、遠隔操作用のレシーバーか、あるいは精神を支配するためのウイルスか! 治ったように見せかけて、彼らの意思決定中枢を裏から握られる可能性だってあるんだ!」

 防衛幹部は、テーブル越しに身を乗り出して唾を飛ばした。

「相手は、我々の弱点(死の恐怖)を一瞬で見抜いた上で、断れないタイミングでこの条件を出してきた。……これは善意の救済じゃない! 最も効率よく人類をシステムに『服従』させるための、悪魔の圧力だ! 一度受け入れて、もし国家中枢にいる人間が『改造済み』のトロイの木馬にされたら、誰が責任を取るんだ!?」


 命を救うべきだという、根源的で強烈な【ヒューマニズムの正義】。

 未知の技術に人体を明け渡してはならないという、冷徹な【国家防衛の正義】。


 絶対に交わることのない二つの巨大な正義が、狭い地下会議室の中で、激しい火花を散らして正面衝突を始めた。


「防衛省の懸念はもっともだ。だが、確実に死ぬと分かっている人間を目の前にして、ただ手をこまねいているのは……」

 内調の幹部が、苦渋の表情で頭を抱え込む。


「だからこそ!!」

 ここで、これまで沈黙していた科学技術顧問が、神経質に眼鏡を押し上げながら、半ばパニックに陥ったような甲高い声で、第三の『現実解』をテーブルに叩きつけた。


「我々日本という一国家の、限られた知見と判断力だけで、この問題を二十四時間以内に決着させるのは絶対に不可能です! 生体工学、ナノマシン技術、そして異星文明との接触倫理……これらすべてにおいて、我々は圧倒的に経験が足りていない!」

 科学顧問は、矢崎総理に向かって、すがるような目を向けた。

「総理! やはり、早急に【アメリカ合衆国】、あるいは【セレスティアル・ウォッチ】に、助けを求めるべきです! 彼らなら、このナノマシンの構造や、隠されたリスクを短時間で見抜けるかもしれない。少なくとも、医療データと相手の通信ログだけでもアメリカに共有し、共同判断の形に持ち込めば、日本単独で彼らを見殺しにしたという最悪の責任だけは避けられます!」


 アメリカに、助けを求める。

 つい先日、総理自身が「誰が次に敵になるかで決める」と断言し、跳ね除けたはずのそのカードが。二人の命という重すぎる人質を取られたことで、再び、極めて強烈な引力を持って会議室に蘇ってきたのだ。


「馬鹿なことを言うな!!」

 外務省の幹部が、科学顧問の提案に激怒して椅子を蹴り倒して立ち上がった。

「アメリカにデータを渡した瞬間、与那国の『龍宮の扉』の全容が彼らに筒抜けになるんだぞ! 出雲だけでなく、今度は生命治癒システムという新たな地球外遺産まで、自ら彼らの前に差し出す気か! それは助けを求めているんじゃない、腹を空かせた獣の前に極上の『餌』を放り投げるだけだ!」


「じゃあどうするんです! このまま時間が過ぎて、二人を見殺しにするんですか! アメリカの技術なら、二人を安全に救えるかもしれないのに、国家の面子のためにその可能性を捨てるんですか!」

「面子じゃない! 主権と生存圏の問題だと言っているんだ! ここでアメリカに泣きつけば、我々は完全に彼らの属国へと転落する!」


 怒号が飛び交い、机が叩かれる。

 普段は冷静なはずの国家のエリートたちが、自分たちだけではどうにもならないという極限のプレッシャーに耐えきれず、顔を真っ赤にしてお互いの正義をぶつけ合っている。


「……静かにしろ」


 その収拾のつかない喧騒を、モニターの向こう側から、低く、しかしひどくかすれた声が制した。

 当事者である、沖田室長だった。


「……自分の命を」

 沖田は、血の気のない顔で、カメラを真っ直ぐに見据えていた。

「国家の安全保障の都合だけで、単なる『リスク』として切り捨てるのは……正直、やめてほしい」


 その一言に、防衛省の幹部たちがハッとして息を呑んだ。

 どんなに強靭な精神を持つ指揮官であっても、自分の中に確実な「死」がタイマーのようにセットされていると宣告されたのだ。生きたいと願うのは、生物として当然の本能である。


「だが」

 沖田は、震える拳を強く握り締め、自らの本能(恐怖)を必死に理性の檻に押さえ込みながら続けた。


「自分一人の命惜しさに……国家の防衛線という、越えてはならない『一線』を越えさせるような真似も、絶対にしたくない。未知の技術を私の体内に入れることで、総理に国を売らせるような真似はさせられない。……私は、どうすればいい」


 生きたい。だが、国を売りたくはない。

 沖田のその悲痛な叫びは、会議室の全員の心臓を、鷲掴みにしてギリギリと締め上げた。


「私は……」


 沖田の隣で、顔を覆っていた女性調査員が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、震える声で言葉を絞り出した。


「私は……助かりたいです」


 彼女の口から出たのは、国家のプライドでも、安全保障の理屈でもない。ただの、一人の人間としての、純粋で剥き出しの【生存への渇望】だった。


「まだ、死にたくない……。治るなら、何だっていい……お願いだから、助けてほしい……っ」

 彼女は、モニター越しの矢崎総理に向かって、すがるように泣き叫んだ。

「でも……私が『助かりたい』って言った瞬間に、それが日本という国を危険に晒して、何かを『売り渡す』ことになるなら……私は、どうしたら……っ! なんで、私たちがこんな目に……!」


 彼女の慟哭が、評価セルに重く、重く響き渡った。

 抽象的な「国家の判断」という薄いヴェールが完全に剥ぎ取られ、「今ここで、助けを求めて泣いている人間を見殺しにするのか」という、最もグロテスクで生々しい【現実】が、官僚たちの目の前に突きつけられたのだ。


「……」

 矢崎総理は、ただ黙って、モニター越しの二人の部下の姿を見つめていた。

 政治家として、数え切れないほどの非情な決断を下してきた彼女でさえ、この瞬間だけは、口を開くことができなかった。

 右も地獄、左も地獄。前に進んでも後ろに退いても、必ず何か決定的なものを失う。


 そして、その絶対的なジレンマは、限界まで膨れ上がっていた官僚たちのストレスを、ついに暴発させた。


「……もう、限界だ!!」

 医療班の責任者が、理性を完全に吹き飛ばし、目の前の防衛省幹部の胸ぐらを力任せに掴み上げた。


「なっ……何をする! 離せ!!」

 防衛幹部が、顔を真っ赤にしてその腕を払いのけようとするが、医療班の男は狂ったような力でそれを引き寄せる。


「いい加減にしろ! 君たちは、あそこで泣いている彼女に『国のために黙って死ね』と言う気か!? お前ら血も涙もないのか!!」

「我々は国家の防衛を担っているんだ! 未知のウイルスや精神支配のシステムかもしれないものを、感情論で易々と受け入れるわけにはいかない! それが彼女一人の命と引き換えであってもだ!!」

「ふざけるな! 命より重い国家の面子などあるものか! 人を見殺しにする国家に何の意味がある!!」


 ガシャーン!! と。

 取っ組み合いの弾みで、防衛幹部の体が机にぶつかり、山積みの書類とタブレット端末が床に派手に叩きつけられた。パイプ椅子が甲高い音を立てて倒れ、マグカップが割れて黒いコーヒーが床に散乱する。


「やめろ! 貴様、狂ったか!」

 内調の幹部が止めに入ろうとするが、彼自身も背後から外務省の幹部に肩を小突かれる。

「お前らこそ冷静になれ! 今すぐアメリカにホットラインを繋ぐんだ! さもなければ全員が人殺しの汚名を着ることになるぞ!」

「だからアメリカを呼べば日本が終わると言っているだろうが! 貴様こそ国を売る気か!!」


 怒号、悲鳴、そして暴力。

 首相官邸の地下、日本の頭脳が集まる最高機密会議室で、エリート官僚たちが本気で掴み合い、ネクタイを引きちぎらんばかりに揉み合い、床を転げ回っている。


 普段なら絶対にあり得ない、極めて見苦しく、醜悪で幼稚な光景。

 だが、それは彼らが愚かだからではない。彼らが本気で、この国と、目の前の二人の「命」の重さを天秤にかけ、二十四時間という短すぎる死の宣告の前に完全にパニックに陥り、逃げ場を失って狂っているからこその、理性の完全な崩壊だった。


「誰のせいだ! 誰がこんな深海まで探索しろと言い出したんだ!」

「お前の責任だろ! 最初に安全だと言ったのはお前じゃないか!」

「俺のせいじゃない! アメリカのせいだ! 出雲のせいだ!」


 自己保身、恐怖、ヒューマニズム、国家主義。

 あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、エリートたちが醜悪な獣のように喚き散らす。彼らは、正解が分からない恐怖から逃れるために、互いを殴り合い、責任をなすりつけ合うことでしか自我を保てなくなっていた。


「やめなさい!!」


 矢崎総理が、声を枯らして怒鳴り、立ち上がった。

「やめなさいと言っているの!! ここは官邸の地下よ!! 見苦しい真似は……っ」


 だが、総理の怒号すら、もはやパニックの渦中にある彼らには一瞬しか届かなかった。

 一瞬動きを止めた幹部たちは、再びすぐに互いを睨みつけ、唾を飛ばして罵倒を再開する。

「総理! 決断を! 決断してください!」

「断るべきです! 国家を守るために!」

「助けてやってください!」


 矢崎総理自身も、激しい動悸と、胃の奥底から込み上げてくるような強烈な吐き気、そして圧倒的な無力感に襲われて、その場に崩れ落ちそうになっていた。


(……助けるな、と言えば二人を切る)

(……受けろ、と言えば国家の防衛線を越える)

(……アメリカに頼れ、と言えば日本の主権が崩壊する)


 何を選んでも終わる。

 誰かに決めてほしい。この理不尽すぎる究極の選択から逃げ出したい。政治家としては絶対にあってはならない、そんな弱音すら、彼女の脳内を侵食し始めていた。


 誰もが正解を見失い、醜く争い、ただ時間だけが空費されていく絶望的な膠着状態。

 その、人間の矮小な倫理と感情が臨界点を突破し、会議室が完全に崩壊しきった、まさにその瞬間のことだった。


『――観測:人類集団は、救命提案を前に、高度な混乱状態を示した』


 ピタリ、と。

 官邸地下の最高機密会議室の、すべての喧騒と暴力が、一瞬にして完全に凍りついた。


 頭上を照らしていた無機質なLED照明が、まるで電力の供給源を根こそぎ奪われたように、バチッと不規則に激しく瞬きをする。

 そして、部屋中のありとあらゆるモニター――壁に掛けられた巨大なスクリーンから、取っ組み合いの中で床に落ちたタブレット、果ては、外部ネットワークとは完全に物理遮断エアギャップされているはずの、総理執務用の閉域システムの端末の画面にまで。


 すべて同時に。

 与那国の海底から聞こえてきた、あの感情のない冷酷な『日本語の音声』と、全く同じテキストが、強制的に表示オーバーライドされたのだ。


「……なっ」

 殴り合っていた医療班責任者と防衛幹部が、互いの胸ぐらを掴んだまま、顔面を土気色に染めて硬直した。


「どういうことだ……!? この部屋は、外部のネットワークとは完全に遮断されているはずだぞ!!」

 内調の幹部が、パニックを起こして後ずさりする。


 与那国の海底の知性は、遠く離れた沖縄の海から、通信ケーブルも衛星回線もすべて完全に無視して、日本の国家中枢である官邸の最深部を、いとも簡単に直接ハッキングし、介入してきたのである。

 それは、彼らが単なる「海底に眠る遺物」などではなく、地球上のすべての電子機器とネットワークを完全に掌握し、自分たちのこの醜い乱闘の様子を、リアルタイムで『見下ろして(観測して)いた』という、圧倒的な上位存在としての事実の突きつけだった。


『――追加評価のアップデートを実行』


 部屋中のスピーカーから、一切のノイズを含まない、絶対的な審判者のような声が響き渡る。


『――当システムが提示した、確率99.9%以上の完全治癒の提案に対する、人類側の著しい意思決定の遅延、および内部対立を確認』

『――分析:対象個体の死の回避が可能であるにもかかわらず、未知への恐怖や集団の利益を優先して治療を拒否(あるいは保留)し、結果として死を容認する行為は、不作為による【生命の放棄】に該当する』


「……生命の、放棄?」

 矢崎総理が、モニターに次々と打ち出される冷酷な文字列を、息を呑んで見つめた。


『――結論:この判断(あるいは決断の放棄)は、人類種の【倫理的成熟度】に対する重大な疑義として記録される』


 倫理的成熟度。

 その言葉が響いた瞬間、先ほどまで「命を救うためだ」「国家の防衛だ」と崇高な正義を振りかざして殴り合っていたエリートたちの顔が、一斉に屈辱と、底知れぬ恐怖で激しく歪んだ。


 AIは、彼らの議論をただ傍観していたのではない。

 彼らの、国家の安全保障や見知らぬ技術への恐怖といった「地球の論理」など一切考慮せず、ただ単純に「命を救える技術が目の前にあるのに、保身と内輪揉めでそれを使わず見殺しにする、未熟で野蛮な種族サル」として、人類を果てしなく上から目線で冷酷に『査定』したのだ。


『――本記録は、当システムのメインアーカイブに保存され、以後の貴種族への接触プロトコルを決定する上での、宇宙的評価履歴スコアとして恒久的に参照される』


 助けるかどうかの話が。

 突如として、「人類という種族全体の、宇宙からの評価」という、途方もない次元の脅迫へと拡張された瞬間だった。


「……ふざけるな」


 防衛省の幹部が、怒りと恐怖で震える拳を握りしめ、天井に向かって唸った。

「何が倫理的成熟度だ……! 自分たちが何を埋め込むかも明かさないくせに、一方的に我々を野蛮人扱いして、高みから脅迫してきているだけじゃないか!」


「だが……これで、完全に正解が消えたぞ」

 科学技術顧問が、力なく崩れ落ちたパイプ椅子にへたり込んだ。

「このAIは、純粋な善意の救済者ではない。同時に、極めて冷徹な人類の『査定者(評価機関)』だ。……この治療提案は、医療の提供であると同時に、我々が彼らの提示する『上位の倫理ルール』に大人しく服従するかどうかの、残酷な踏み絵だったんだ」


 受け入れれば、未知のナノマシンに肉体を支配されるかもしれない。

 だが断れば、あるいはこのままタイムリミットを迎えれば。

 沖田室長と女性調査員を見殺しにした上で、人類は「命を軽視する野蛮な未成熟種族」というレッテルを貼られ、今後の地球外知性体との接触において、修復不可能な決定的な不利益(あるいは敵対的な排除)を被ることになるかもしれない。


 もはや、医療派も防衛派も、誰一人として自分の意見が「正しい」と胸を張れなくなってしまった。

 会議室は、完全な、そして絶望的な沈黙に支配された。

 散乱した書類と、倒れた椅子。その荒れ果てた空間で、モニターの向こう側で命のタイムリミットを刻み続ける沖田室長と、涙を流す女性調査員の姿だけが、その残酷な沈黙の中心にポツンと取り残されている。


「……」


 矢崎総理は、乱れた机に両手をつき、深く、深く項垂れた。

 彼女の強靭な理性も、国家を背負うという建前も、この瞬間、完全に限界を迎えていた。


 命を助けたい。

 でも、国家を売りたくない。

 でも、見殺しにもしたくない。

 アメリカに頼ることもできず、人類の尊厳すらも人質に取られ。そのすべての絶望的な責任を、ただ一人で背負って「決断」しろと、この冷酷な宇宙のシステムは迫ってくる。


『――残り時間、二十二時間四十七分』


 モニターの隅に、無情なカウントダウンの数字が点滅する。


 二十四時間。

 命の重さを天秤にかけるにはあまりにも短すぎて、そして、人類の愚かさと脆弱さを底の底まで試すには、残酷なほどに十分すぎる時間だった。


「……私に」


 総理は、もう誰に向けるでもなく、ただその場にいる全員に、あるいは自分自身を嘲笑うように、吐き捨てるように言った。


「……私に、どうしろってのよ……!」


 その言葉は、日本のトップが初めて、そして完全に理性を手放して漏らした、剥き出しの「本音(絶望)」だった。

 官邸地下にいたエリート官僚たちは、誰一人として、その言葉を否定することも、慰めることもできなかった。

 出雲は近づく者を拒んだ。しかし与那国は違った。人類に“正しさ”そのものを選ばせ、内側から崩壊させようとしてきたのだ。


 誰にも答えがなかった。答えた瞬間から、何かが決定的に変わると分かっていたからだ。

 ただ、残酷な時間だけが、静かに減っていく。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
アメリカに声をかければ見殺した責任は転嫁出来る。うん、一番醜悪な奴だ・・・。
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