表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/137

第109話 黒鯨と、天を裂く剣

 首相官邸のさらに地下深くに位置する、既存技術外事象評価セルの特別防音会議室。

 厚いコンクリートと最新の電磁シールドに守られたその無機質な空間は、常に世界の危機と直結する冷え切った空気に満たされている。


 巨大なマルチモニターには、現在進行形で続けられている東京スカイツリーの極秘監視データが、無数の緑色の文字となって絶え間なく流れていた。


『黒化率:0.000%』

『影鯨反応:未検出』

『現実強度:正常』

『空間歪曲:正常』

『群衆密度:通常範囲』

『監視継続時間:72時間34分』


 すべての数値は、完璧な「正常」を示している。

 スカイツリーは今日も白く美しく輝き、周辺の商業施設は多くの観光客で賑わい、街は日常のまま動いている。


 だが、この会議室に詰める官僚たちの顔に、安堵の色は一ミリもなかった。

 彼らは皆、数日前にあの『星を映す匣』の保管室の空中に浮かび上がった、あの絶望的な光景――白い塔が黒く染まり、空を泳ぐ巨大な黒い鯨に丸ごと飲み込まれる映像を、脳裏に焼き付けられてしまっているからだ。


「……現在まで、黒化の兆候は一切確認されていません」

 沖田室長が、モニターから目を離さずに淡々と報告する。

「ただし、星を映す匣の再発光もありません。……沈黙したままです。与那国島の巨大AIへの『限定的な照会』については、現在、質問のプロトコルを最終調整中です」


 矢崎総理は、デスクの上で両手を強く組み、無言で深く頷いた。

 目の前の数字が正常であればあるほど、その裏で静かにカウントダウンが進んでいるような、底知れぬ焦燥感が募る。


 その重苦しい空気を破るように、会議室の分厚い防音扉がノックされた。


「……失礼します」

 秘書官が、少しだけ引き攣った顔で顔を覗かせる。

「三神編集長が、到着されました」


「通してください」

 総理が即座に答える。


 扉が大きく開かれ、いつものようによれよれのスーツを着た男――月刊ムーの三神編集長が姿を現した。

 だが、今日の彼は、いつもの「手ぶらでふらりとやって来る」スタイルとは全く異なっていた。


「よいしょ、っと」


 三神は、両腕に抱えきれないほどの大量の紙束、古い雑誌のコピーの山、付箋がびっしりと貼られた分厚いファイル、そして古文書をデジタル化したプリントアウトの束を、会議室の円卓の上にドサリと積み上げた。

 その量は、まるで月刊ムーの編集部を丸ごと引っ越してきたかのようだった。


「お待たせしました」

 三神は、ネクタイを少し緩めながら、やや楽しそうに言った。

「編集部で、ムーのバックナンバーを創刊号から全部ひっくり返してきました。……ついでに、地方の神社伝承、昭和の民俗調査報告、江戸期の写本、戦前の怪異記事まで、心当たりのあるものを全部洗ってきましたよ」


「……全部、ですか」

 沖田室長が、その途方もない情報量に呆れたように呟く。


「こういう時のために、バックナンバーは捨ててはいけないんですよ」

 三神は、ドヤ顔で言い放った。


「そんなことはどうでもいい」

 矢崎総理が、真剣な顔で身を乗り出した。

「……三神編集長。あの映像の『黒鯨』に該当する伝承が……本当に、あったのですか?」


 三神は、積まれた資料の山の中から一枚のクリアファイルを引き抜き。

 ニヤリと、不敵な笑みを浮かべた。


「ええ。……ありましたよ」


 その一言で、会議室の空気が一気に引き締まり、官僚たちが一斉に三神へ注目した。


 三神は、手元のタブレットを操作し、メインモニターに一枚の古い画像を投影した。

 それは、古びた和紙に墨で書かれた、崩し字の古い記述(古文書のスキャンデータ)だった。


「某地方の、かなり古い神道系の秘伝書からの抜粋です」

 三神は、レーザーポインターでその一文を指し示し、読み下し文を解説し始めた。


『――星降りし夜、葦原中国あしはらのなかつくにを覆い尽くさんとした、異形の黒きモノ共あり』

『その姿、鯨に似て、鯨にあらず』

『天を泳ぎ、地の柱を喰らい、民の祈りのしるべを呑む』

『これを見し者、空は海となり、塔は餌となり、都は影に沈むと記す』


 会議室が、水を打ったように静まり返った。

 特撮番組の『星見炉』の元ネタと思われる伝承に続き、今度はスカイツリーを襲う黒い鯨の伝承。


「……黒鯨事象の映像と、恐ろしいほど酷似していますね」

 沖田室長が、冷徹なインテリジェンスの視点から分析する。


「ええ」

 三神は深く頷いた。

「東京スカイツリーは、現代の東京という都市における『天へ伸びる巨大な柱』であり、多くの人々が見上げる『象徴(標)』です。

 ……伝承にある“地の柱”や“民の祈りの標”と読み替えれば、映像の事象と完全に一致します」


「……葦原中国を覆い尽くす異形の黒きモノ共」

 矢崎総理が、古文書の一文を反復し、その言葉の持つ不吉な響きに顔を強張らせた。

「……複数、なのですか?」


 三神の表情から、先ほどの楽しげな余裕が少しだけ消えた。

「そこが、最大の問題です」


 三神は、ポインターで文字を強調する。

「古文書では、単体の怪物ではなく、“モノ共”と複数形で記されています。

 ……つまり、あの映像に映っていた黒い鯨は、たった一体ではない可能性が高い」


 会議室に、さらに重い沈黙が落ちた。


 三神は、伝承から推測される黒鯨の『性質』を、五つのポイントに整理してホワイトボードに書き出し始めた。


「第一に、『空を泳ぐ』。

 海ではなく空を泳ぐ存在。これは、映像で確認された空間を泳ぐような挙動と完全に一致します」


「第二に、『塔や柱を食べる』。

 これが非常に重要です。彼らは、コンクリートや鉄という物理的な建造物を美味しいから食べているわけではない。……おそらく、人々が意味を見出している『象徴シンボル』や『祈りの対象』を、概念的に捕食している可能性があるのです」


「……もし、黒鯨が“象徴”を捕食する存在なのだとしたら」

 三神は、ホワイトボードを指差す。

「スカイツリーを狙う理由は、明確に分かります。あれは、現代の東京において、最も目立つ垂直軸であり、多くの人間の認識が集まる巨大な象徴ですから」


「第三に、『星降りし夜』。

 流星群、隕石、あるいは……宇宙由来のアーティファクトが降下してきたことと、深く関係している可能性が高い」


「第四に、『葦原中国を覆う』。

 これは、局地的な災害(東京だけの問題)に留まらず、日本列島規模、あるいは人類圏全体へと被害が拡大する可能性を示唆しています」


「そして第五が、先ほどの『異形の黒きモノ共(群れ)』です」


 三神が書き終えると、矢崎総理が深く息を吐き出した。


「……つまり、スカイツリーが食べられるあの映像は、終わりではなく」

 総理の目が、鋭く光る。

「単なる【最初の餌】、あるいは黒鯨の【最初の浮上点(スタート地点)】に過ぎないかもしれない、ということですね」


「はい。その可能性は高いです」

 三神は、残酷に肯定した。


「……三神編集長」

 矢崎総理が、すがるような、しかし強い意志を込めて問う。

「その伝承には。……彼らを討ち払うための【対抗策】は、記されていないのですか?」


 三神は、待ってましたとばかりに、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、別の古い資料(写本)の束をテーブルの中央にスッと滑らせた。


「ありますよ」


 会議室の空気が、ピリッと張り詰める。


「神々は、その黒きモノ共を討ち払うために。……ある『武器』を使ったとされています」


「武器?」

 沖田が身を乗り出す。


 三神は、古文書の最後のページを広げ、ゆっくりと読み上げた。


「……【天を裂く剣】」


 防衛省の幹部が、怪訝な顔をする。

「剣……ですか」


「ええ」

 三神は、読み下し文を続ける。


『高天より授かりし剣あり』

『その刃、見えずして天を裂き』

『黒きモノ共を、空の海より追い払う』

『……一振りにて山脈を割り、二振りにて大陸に傷を残し、三振りにて星の道を曲げる』


 会議室の官僚たちが、ポカンとした顔になる。


「……さすがに、それは神話的誇張というものでは?」

 防衛省の幹部が、常識的な反応として反論した。

「一振りで山を割り、三振りで星の道を曲げる剣など……アニメや漫画の必殺技じゃあるまいし。古代人が、雷や隕石の落下を大げさに書き残しただけでしょう」


 だが。

 三神は、一切笑わずに、肩をすくめた。


「普通なら、そう言うところです」

 三神の目が、極めて真剣な、冷徹な光を帯びる。


「……ですが。我々はもう、人を石に変える魔女が実在し、星を映す匣が未来の映像を見せ、与那国の巨大AIが日本社会のバグを解析する時代に生きています」


 三神は、円卓の全員を真っ直ぐに見据えた。

「この期に及んで、『神話的誇張だ』と自分たちの常識の範囲内に収めて安心しようとする(決めつける)方が、よほど危険です」


 防衛省の幹部は言葉に詰まり、押し黙った。


 矢崎総理が、静かに問う。

「……三神編集長。その『天を裂く剣』は。……今も、日本のどこかに存在するのですか?」


 三神は、ここで再び、面白そうにニヤリと笑った。


「灯台下暗し、ですよ。総理」


 三神は、手元のタブレットを操作し、メインモニターに一枚の写真を映し出した。


 それは、どこかの神社の奥深くでもなく、地下の秘密基地でもなかった。

 明るい照明。ガラスケース。整然と並べられた展示品。

 誰が見ても一目でわかる、ごく一般的な『博物館』の展示風景だった。


「東京国立博物館の、本館一階。古代武具コーナーの片隅です」


 三神がポインターで指し示したのは、豪華な国宝の刀剣や甲冑の隣に、ひっそりと、本当に目立たないように置かれている、一本の【見すぼらしい剣】だった。


 刀身は欠けており、刃の鋭さはとうに失われている。

 全体に赤黒い錆が浮き、柄の部分は腐食して原型を留めていない。

 どう見ても、ただの『古い鉄くず』にしか見えなかった。


 展示ラベルの文字が、モニターに拡大表示される。


『鉄剣断片』

『鎌倉時代頃』

『祭祀用模造品と推定』

『出土地不明』

『明治期寄贈品』


「……これが?」

 官僚の一人が、信じられないというように眉をひそめた。


「ええ」

 三神は頷く。

「ただの錆びた鉄くずとして展示されています。

 ……ですが、この寄贈品の古い収蔵記録を、国会図書館の奥底まで潜って必死に辿っていくと。……この剣の旧名(寄贈元の神社での呼び名)に、【天裂あまさき】という文字が出てくるんです」


「天を裂く剣……」

 沖田室長が、低く呟く。


「明治期に、廃仏毀釈のゴタゴタの中で地方の神社から博物館へ渡り。その後、刃の作りが実戦用ではないことから『真贋不明の祭祀用鉄剣(模造品)』として扱われ、資料整理の中で『歴史的・美術的価値なし』と判定された。

 ……そして、そのまま古代武具コーナーの片隅で、ただの展示物の数合わせとして、何十年もホコリを被っているわけです」


「……そんな、世界を滅ぼしかねないようなアーティファクトが、上野の国立博物館に、無造作に展示されていると?」

 総理が、呆れたように言う。


「本物のアーティファクトほど、人間社会の盲点に隠れるものです」

 三神は、平然と答えた。

「誰も『これが神の剣だ』なんて思わない。だからこそ、誰にも盗まれず、安全に保管されてきたとも言えます」






 数日後。休館日の東京国立博物館。

 上野公園の木々が静かに葉を揺らす夜の帳の中、博物館の敷地内は、表向きは『特別設備点検および収蔵品確認』という名目で、完全に封鎖されていた。

 だが、その実態は、警察車両に偽装された自衛隊の特殊輸送車と、私服の警備要員による物々しいまでの厳戒態勢であった。


 薄暗い本館の廊下に、革靴の足音が響く。

 矢崎総理、沖田室長、三神編集長。そして、古代史・民俗学の権威であり「魂の気配」に敏感な学者として特別に同行を求められた長谷部教授。さらに、出雲案件などでも政府に協力している、霊的知覚に優れた若い巫女の姿もあった。


 通常であれば、歴史の重みを感じさせる静寂と、一般来館者の感嘆の声で満たされる古代武具コーナー。

 そこに、問題の展示ケースはあった。


 総理たちが、ケースの前に立つ。


 ガラスの向こう側に横たわっているのは、やはり、モニターで見た通りの【見すぼらしい剣】だった。


 刀身は中ほどで欠けており、刃の鋭利さはない。

 表面には分厚い赤錆が浮き、柄の部分は腐食して木材か皮の痕跡がわずかに残るのみ。

 周囲に展示されている、輝きを保つ名刀や精緻な装飾が施された甲冑に比べれば、明らかに異質で、貧相な『鉄くず』にしか見えなかった。


 同行した技術官が、ケースのガラス越しに携帯型のセンサーをかざし、数値を読み上げていく。


「……放射線反応、なし。電磁波異常、なし」

「温度異常、なし。空間歪曲、なし」

「現実強度、正常値です。……金属成分も、一般的な古鉄の組成とほぼ変わりません」


 技術官は、少しだけ困惑したように沖田室長を見た。

「……室長。どのセンサーにも、全く異常な反応アーティファクトとしてのシグネチャが検出されません。……ただの、古い鉄くずでは?」


 その言葉に、同行していた別の官僚も、疑いの目を向け始める。

「確かに……これが、神々が星を斬るのに使った剣だというのは、さすがに無理があるのでは?」


 だが、三神編集長は全く動じることなく、ポケットに手を入れたまま、ニヤリと笑った。


「物理センサーで分かるような分かりやすい代物なら、とっくの昔に騒ぎになって、こんな普通の展示ケースに入れられているはずがないでしょう」


 その時。

 ケースの中の剣をじっと見つめていた長谷部教授が、急に足をピタリと止めた。


 教授の顔から、スッと血の気が引いていく。


「……待ってください」

 長谷部教授は、震える手で眼鏡を押し上げ、呻くように言った。


「どうしました?」

 総理が、怪訝な顔で振り返る。


 長谷部教授は、展示ケースのガラスにへばりつくようにして、その見すぼらしい剣を凝視したまま、ガタガタと震え始めた。


「見た目は……確かに、ただの錆びた剣です。

 ですが……これは、違う。……なんだ、この……圧倒的な【重さ】は」


 教授の横に立っていた巫女も、突然、両手で口元を強く押さえ、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。


「……悲しい……」

 巫女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。


「悲しい?」

 矢崎総理が、驚いて巫女に駆け寄る。


「この剣……ずっと、ずっと……忘れられていた」

 巫女は、涙声で絞り出すように語り始めた。

「自分が何のために在ったのかも。……誰にも思い出されずに。

 ……戦うために、斬るために作られたのに。ただの錆びた飾り(模造品)として見られて……ずっと、この明るい部屋の中で、黙っていた」


 長谷部教授も、展示ケースの前で完全にへたり込み、息も絶え絶えに言った。


「……凄まじい、【魂の気配】です。

 ……怒りではない。誇りでもない。

 これは……果てしない【悲しみ】です。

 自分を忘れた人間たちを恨んでいるのではない。……ただ、自分の本当の役目を果たせないまま、無意味に眠らされていたことへの、深く、重い悲しみ……」


 ただの歴史資料が並ぶはずの博物館の展示室に、突如として、息が詰まるような重い、そして圧倒的な精神的プレッシャーがのしかかった。


 さっきまで「ただの鉄くずだ」と笑いかけていた官僚たちは、完全に言葉を失い、青ざめた顔で後ずさった。


 三神編集長は、その光景を静かに見下ろし、ポツリと言った。

「ほらね」


「……これは、どういうことですか」

 沖田室長が、額に冷や汗を滲ませながら、三神に問い詰める。


「高度なアーティファクトは、自身を守るため、あるいは無用な争いを避けるために、自分をただのガラクタに見せる【知覚フィルター】を張ることがあります」

 三神は、淡々と解説した。

「物理センサーには反応しない。科学的な解析機器は、これを『ただの鉄』として読み取る。……そして、人間の目も、それを『ただの錆びた剣だ』と脳内で処理してしまう。

 ……だから、こんな目立つ場所に置かれていても、誰も本当の価値に気づかなかった」


「では、長谷部教授や巫女が感じているものは何なのですか?」

 総理が問う。


「魂、あるいは【精神的な位相レイヤー】です」

 三神は、展示ケースの剣を指差した。

「この剣は、ただの物質(金属)としてではなく、概念的な【意味】や【意志】として存在している部分が大きい。

 だから……人間の魂に近い感覚器官(霊的知覚や、深い共感力を持つ者)でしか、その本当の輪郭プレッシャーを認識できないんです」


「出雲の『魂の庭』と同系統のアーティファクト、ということですか」

 沖田が、過去の事案と結びつけて推測する。


「近いですが、こちらはもっと『武器』寄りです」

 三神は、厳しい顔で言った。

「魂、意志、祈り、そして……【役目】。そういった精神的な概念に強く反応し、それに合わせて出力を変える【概念兵器】でしょうね」


 矢崎総理は、ケースの中の剣を見つめ、静かに、だが確信を持って言った。

「……つまり、これは【本物】だと」


 三神は、深く頷いた。

「おそらく。

 ……そして、あの黒鯨に対抗できる可能性がある、現時点で日本が持つ唯一の手札です」


 総理は即座に決断を下した。

「この剣を、直ちに政府の特別管理下へ移します。……博物館側にはどう説明しますか」


「文化財保護上の詳細調査、金属の異常劣化の検査、あるいは重要収蔵品の非公開再評価。表向きはそのあたりの理由で処理します」

 沖田室長が、即座に実務的な手回しを確約する。

 博物館側の極少数のトップにのみ説明を行い、アーティファクトであるという真実は完全に伏せられる。


 移送作業は、深夜に、完璧な情報統制のもとで行われた。

 展示ケースの剣は、精巧なレプリカとすり替えられ、本物の『天を裂く剣』は、電磁波と精神干渉を遮断する特殊なシールドケースへと収められた。

 文化財輸送車に偽装された自衛隊の特殊輸送車両が、警視庁の目立たない警護車両に伴走されながら、上野の森を後にする。


 三神編集長は、最後に展示ケース(レプリカ)を振り返り、小さく呟いた。

「……ようやく、出番ですよ。

 長く、待たせましたね」


 巫女が、その言葉に合わせて、深々と頭を下げた。


 剣は何も答えない。

 ただの錆びた鉄の塊のまま、静かに、専用のケースの中で運ばれていく。


 行き先は、富士山麓に位置する、政府の極秘地下実験施設。

 もともとは、既存技術外兵器やアーティファクトの耐性試験を行うために作られた、日本最高レベルの堅牢な隔離施設である。

 分厚い多層隔壁、地下深部の広大な試験場、遠隔観測室、そして万が一の暴走に備えた複数の緊急遮断扉を備えている。


 剣は、その広大な試験場の中央の台座に、ポツンと置かれた。


 技術班が、分厚い防護ガラスの向こう側の観測室から、再び様々な測定機器で剣をスキャンする。


「放射線反応、なし」

「電磁波反応、なし」

「空間歪曲、なし」

「質量、見た目通り」

「材質、古い鉄」

「……刃の鋭利さ(切れ味)、ほぼなし」


 防衛省の幹部が、モニターの数値を見て不満げに鼻を鳴らした。

「本当にこれが、あの黒鯨に対抗できる兵器なのですか。……ただのなまくらにしか見えませんが」


「そう思えないように(そう見えないように)しているんです」

 三神が、冷静に答える。

「人間の文明が、これを安易な力として振り回せないように。……安全装置ロックのようなものです」


 矢崎総理は、防護ガラス越しに、ポツンと置かれた錆びた剣を見つめながら、沖田室長に問うた。

「……試験使用者は?」


「高槻一尉です」

 沖田が答えた。


 観測室の扉が開き、一人の自衛官が入ってきた。

 自衛隊特殊作戦群(あるいは特務対応部隊)所属、高槻一尉。

 彼は、出雲案件など既存技術外事象の現場に何度か投入され、未知の恐怖に対する圧倒的な耐性と、極めて高い精神安定性、そして命令遵守の能力を兼ね備えた、自衛隊における「アーティファクト対応のスペシャリスト」であった。


 だが、今回は単なる肉体的な戦闘能力は問題ではない。

 この剣を扱うのに最も必要なのは、【強靭でブレない精神力(意志)】だ。


 三神が、高槻一尉の前に立ち、真剣な顔で説明を行う。

「高槻一尉。……これは、普通の剣ではありません。

 ……腕の『力』で振るものではない。自分の【意志】で振るものです」


「意志、ですか」

 高槻一尉は、無表情のまま聞き返す。


「ええ」

 三神は、鋭い目で高槻を見た。

「“何を斬るか”を。……あなたが、本気で【決める】んです。

 ……草を斬ると思えば、草を斬る。

 鉄を斬ると思えば、鉄を斬る。

 ……空を斬ると思えば。空すら裂くかもしれない」


 高槻は、無言で頷き、防護扉を抜けて試験場へと入っていった。


 彼は、台座の上に置かれた剣を、ゆっくりと手に取った。


 錆びて欠けた剣。

 重さも普通。握り心地も悪く、バランスも酷い。

 ただの、博物館の倉庫に転がっている鉄くずと何ら変わらない。


 だが。

 持った瞬間、高槻一尉の無表情だった顔が、ピクリと動いた。


「……泣いているような、気がします」


 高槻の口から漏れた予想外の言葉に、観測室の官僚たちが顔を見合わせる。


 三神は、目を細めて満足げに頷いた。

「……やはり、あなたにも感じますか。適性は十分のようですね」


 最初の試験対象として、試験場の中央に、ポツンと『鉢植えの雑草』が置かれた。


「まずは草ですか」

 官僚の一人が、若干拍子抜けしたように言う。


「最初は小さく、です」

 三神がたしなめる。

「何でもそうです。未知の兵器で、いきなり山を斬ろうとしてはいけません」


 高槻一尉が、剣を静かに構える。

 剣は錆びたまま。光りもしなければ、音も鳴らない。何も起きない。


「高槻一尉」

 マイク越しに、三神が語りかける。

「その草を斬ると、決めてください。

 ……切れるかどうか、ではない。ただ、刃がそこを通り、【斬る】と決めるんです」


 高槻は、深く息を吸い込んだ。

 目を閉じ、意識を目の前の雑草の茎へと集中させる。


 そして、目を開き、錆びた剣を横に振った。


 その瞬間。

 錆びた刀身の先から、刃の軌跡をなぞるように、【青白い光】がフワッと伸びた。


 ほんの数十センチ。

 蜃気楼のように儚い、実体のない光の刃。


 光が、雑草の茎をスッと通り抜ける。


 ポトリ、と。

 鉢植えの雑草が、極めて綺麗に、根元から切り飛ばされて落ちた。


 観測室が、おおっ、と小さくざわめく。


 官僚の一人が、緊張から解放されたように笑った。

「……なんだ。ちょっとしたプラズマカッターじゃないか。アメリカのライトセーバーの、出力の弱い版だな」

「これなら、確かに便利な『草刈り機』だ」


 一部の官僚が、安堵の笑みを浮かべる。


 だが。三神編集長の顔には、一切の笑みはなかった。


「……では、次です」

 三神は、淡々と次の試験の準備を命じた。


 次に試験場に運び込まれたのは、戦車の装甲を想定した、分厚い【複合鋼鉄装甲板】だった。

 アメリカ軍のデモで、ライトセーバーが火花を散らして溶断していたのと同じクラスの、強固な防御壁。


 高槻一尉が、再び剣を構える。


「高槻一尉」

 三神の声が響く。

「今度は、あの鋼鉄を斬ると決めてください。

 ……硬いと思う必要はない。ただ、斬ると決める」


 高槻は、再び集中する。


 錆びた剣が、今度は微かに『ジーッ』と低い音を立てて震え始めた。

 刀身から伸びる青白い光が、先ほどよりもはっきりと、太く、そして数メートルの長さまで一気に伸長する。


 高槻が、気合いと共に剣を振り下ろす。


 ズンッ……。


 音もなく。

 分厚い鋼鉄の装甲板が、真っ二つに分かれて崩れ落ちた。


「……!」

 観測室の技術官が、モニターのデータを見て顔面を蒼白にした。


「熱切断ではありません……!」

 技術官が震える声で報告する。

「切断面は赤熱していません。溶けた跡も、物理的に削れた跡もない。……まるで、最初から二つのパーツだったかのように、分子レベルで綺麗に分離しています!」


「……概念的に、“斬った”んでしょうね」

 三神が、恐ろしい事実を平然と言ってのけた。


 防衛省幹部の顔から、先ほどの余裕の笑みが完全に消え去った。


「次です」

 三神は、止まらない。


 試験場に、重機を使って巨大な物体が運び込まれる。

 それは、退役して廃棄予定となっていた【74式戦車】だった。


「……さすがに、これは無理でしょう」

 防衛省の幹部が、五十トン近い鋼鉄の塊を前にして、弱気な声で言う。

「いくら何でも、あの細い光の刃で、こんな巨大な塊を一刀両断になど……」


 三神は、高槻一尉に向かってマイクを取った。


「高槻一尉。……今度は、“戦車を斬る”のではありません」


 高槻が、顔を上げる。

「では?」


「“戦車という【防御(概念)】を斬る”と、考えてください」

 三神の目が、底知れぬ狂気を帯びて光る。

「装甲の厚さや、鉄の硬さではない。……相手が持つ、“守られているという【意味】”そのものを、斬るんです」


 高槻の表情が、スッと変わった。

 彼は、剣を上段に構え、深く、深く意識を沈み込ませていく。


 剣の錆びた刀身が、今度はハッキリと、強烈な青白い光を放ち始めた。

 光の刃が、数メートル、十数メートルと、あり得ない速度で伸びていく。


『ピーッ! ピーッ!』

 観測室で、けたたましい警報音が鳴り響く。


「光刃長、二十メートル突破!」

 技術官が絶叫する。「空間歪曲、発生! 現実強度、急激に低下しています!」


「中止できるか!?」

 沖田室長が、事態の異常さに即座に叫ぶ。


「無理です」

 三神が、冷静に答える。「もう、彼は振るしかありません」


 高槻一尉が、裂帛の気合いと共に、その巨大な光の剣を――振り下ろした。


 次の瞬間。

 青白い光が、試験場の空間そのものを横断するように閃いた。


 74式戦車は。

【斬られる】のではなかった。


 消えたのだ。


 爆発も起きない。金属が切断される音もしない。

 一瞬で蒸発した、という表現すら生ぬるい。

 戦車という物体が、その空間から『存在そのものを削り取られた』ように、完全に消滅したのである。


 戦車があった場所には、巨大な半球状のクレーターだけが残されていた。

 床のコンクリートも、周辺の標的用の機材も、さらには背後の分厚い防爆隔壁の表面すらも、スプーンでえぐり取られたように綺麗に消失している。


 衝撃波が遅れて届き、観測室の分厚い防護ガラスがビリビリと激しく震えた。


 全員が、完全に絶句した。


 技術官が、ガタガタと震える声で報告を絞り出す。

「……対象、完全消失。

 熱反応、局所的のみ。爆発反応、なし。……失われた五十トンの質量がどこへ行ったのか、説明不能。

 クレーターの直径、二十七メートル……」


 防衛省の幹部が、へたり込むようにして椅子に座り込み、うわ言のように呟いた。


「……アメリカのライトセーバーどころの話ではない」


 試験場の中心で。

 高槻一尉は、剣を振り下ろした姿勢のまま、ガクンと膝をついた。

 手の中の剣は、光を完全に失い、再びただの錆びた鉄くずに戻っている。


「……ハァッ……ハァッ……」

 高槻は、激しく息を荒げ、滝のような汗を流していた。


「大丈夫か、高槻一尉」

 沖田がマイクで安否を確認する。


「……はい」

 高槻は、剣を見つめながら、ひどく疲労した声で答えた。

「ですが……意志が、引っ張られます」


「引っ張られる?」


「はい。……“斬れる”と確信した瞬間。……“もっと斬れる”、“もっと遠くまで斬れる”と。……剣の方が、頭の中に囁きかけてくるんです」

 高槻は、震える手で剣を床に置いた。

「……あれは、力ではありません。……抗いがたい【誘惑】です」


 三神編集長が、厳しい顔で頷いた。

「やはり。出力が、人間の意志(欲望)に完全に連動している」


 矢崎総理は、青ざめた顔で三神に問うた。

「……今のは。この剣の、どれほどの出力なのですか?」


 三神は、古文書の資料を開き、静かに言った。

「伝承によれば。……一振りで山脈を割り、二振りで大陸に永久の傷を残し、三振りで星の道を曲げる、とあります」

 三神は、クレーターを見つめる。

「ただの神話的表現ファンタジーと見たいところですが。……今の実験結果を見る限り、それが【完全な誇張である】とは、もう誰にも言えないでしょう」


「星の道を曲げる、とは」

 沖田が、最悪の事態を想定して問う。


「星の軌道を変える。あるいは、天体規模の空間(次元)への干渉です」

 三神は、冷酷に結論づけた。

「簡単に言えば。……使い方を間違えれば、地球の形どころか、地球そのものの未来(現実)を真っ二つに斬り裂きかねない剣だということです」


 会議室に、深い、深い沈黙が落ちた。


 防衛省の幹部が、それでも、半ば興奮気味に言った。

「しかし、これほどの出力があるなら……あの黒鯨を斬れる可能性がある! いや、それどころか、敵国のどんな兵器も、ミサイルも、サイボーグも――」


「その発想は、今すぐ捨ててください」

 沖田室長が、氷のような声で遮った。


 矢崎総理も、同じく厳しい視線で防衛省幹部を睨む。

「これは、通常の兵器として運用できるものではありません」


「その通りです」

 三神が、総理の言葉を後押しする。

「これは、剣の形をした【災害】です。……人間の意志に反応するということは、人間の“恐怖”、“怒り”、そして“驕り(おごり)”にも、青天井で反応するということです」


 高槻一尉が、マイク越しに重い言葉を付け加えた。

「敵を『斬る(破壊する)』と考えた時より……誰かを『守る』と考えた時の方が、剣の出力は安定していました。

 ……攻撃の意志を込めると、剣が、際限なく遠くまで行きたがるんです」


 この一言が、この剣の最も恐ろしい本質だった。

 天を裂く剣は、黒鯨に対抗するための強力な武器でありながら。……攻撃の意志(殺意)を持って振れば、使用者ごと暴走し、世界を滅ぼす引き金になり得るのだ。


 総理は、防護ガラスの向こうに置かれた錆びた剣を、複雑な目で見つめた。


 黒鯨事象に対抗できるかもしれない、唯一の手札。

 だが、使用を一歩誤れば、日本そのものを真っ二つに壊してしまう。


「……三神編集長」

 総理は、静かに問うた。

「あなたは、これをどうすべきだと思いますか?」


 三神は、少しだけ楽しそうで、それでいて極めて真剣な顔になった。


「伝承では、この剣はかつて『神々』が使ったものです」

 三神は、静かに言う。

「人間が扱うには、あまりにも重すぎる。……ですが。今この国には、我々の代わりに剣を振るってくれる神々はいません。少なくとも、我々の都合よく現れてはくれない」


「つまり?」


「【使わない準備】をするべきです」

 三神は、パラドックスのような提案をした。

「決して軽々しく使わない。……ただし、【いつでも使えるようにしておく】」


「封印したまま、最終手段として管理するということですね」

 沖田が実務的に解釈する。


「ええ」

 三神は頷く。

「黒鯨が本当にスカイツリーを食べに来た時。……ただ指をくわえて見ている(何もできない)よりは、マシです。

 ただし。使うなら、絶対に【一度だけ】。

 そして、使う人間は、“敵を斬る”のではなく、“守るために境界線を引く(斬る)”という、極限の精神統制ができなければならない」


 総理は、深く頷き、マイクのスイッチを入れた。


「高槻一尉」

「はっ」

「あなたに、この剣の【暫定適合者】として、引き続き特別待機を命じます」


 高槻一尉は、力強く敬礼した。

「了解しました。……ただし、総理」


「何ですか」


「可能なら。……これを、使わずに済むことを願います」

 高槻の言葉には、未知の力への深い畏怖が込められていた。


 総理は、静かに頷き返した。

「……私もです」


 実験終了後、会議室。


 日本は、黒鯨に対抗できる可能性のある【剣】を得た。


 しかし、それは。

 物理センサーでは一切測れない。

 魂や意志、そして悲しみに反応する。

 使用者の思い込み(概念)で出力が変わる。

 出力の上限は青天井。

 戦車を完全に消滅させる程度は、初期の小手調べに過ぎない。

 伝承上は、大陸や星の軌道にまで影響を及ぼす。

 そして……攻撃の意志で振れば、容易に暴走する。


 秘密保持が絶対条件だ。

 もし他国に「日本が星を斬る剣を手に入れた」と知られれば、核兵器どころではない異常な外交的圧力を受けることになる。

 そして何より、日本国内においても、管理を誤れば自国を滅ぼす巨大な『災害』となる。


「……アメリカのライトセーバーのお披露目会見を、我々はもう、笑えなくなりましたね」

 総理が、疲労を滲ませて呟いた。


「いいえ。全く比較になりませんよ」

 沖田室長が、冷徹に否定する。

「あちらは、純粋で強力な『近接物理兵器』です。

 ……こちらは、扱いきれない【概念災害】です。背負っているリスクの質が違いすぎる」


「日本も、ついに自国の『神話』に触ってしまった、ということです」

 三神編集長が、深く息を吐きながら言った。


 富士山麓地下実験施設の、最奥部。


『天を裂く剣』は、最も厳重な特殊封印ケースに収められた。

 物理的なロックや多層隔壁、電磁遮断だけではない。

 神社由来の特注の注連縄が張られ、出雲系の護符が何重にも貼られ、常に精神状態の監視センサーが作動している。

 高槻一尉以外の物理的接触は固く禁じられ、三神と巫女による定期的な「魂の気配の確認」が義務付けられた。


 封印ケースの中で、剣は、またただの錆びた見すぼらしい鉄くずのように見えていた。


 だが。もう誰も、それをただの鉄くずとは思えない。


 三神編集長が、分厚い防護ガラスの向こうの封印ケースを見つめながら、隣の矢崎総理に言った。


「伝承では、この剣は大陸に永久の傷跡を残すとも、星の道を曲げるともされています。

 ……今日の実験の様子を見る限り。本気で振れば、威力はまだまだ青天井に上がるでしょうね」


 矢崎総理は、その言葉を重く受け止め、静かに問うた。


「……さて。これを、どうします?」


 三神は、逆に総理の方を見て、ニヤリと笑った。


「それを決めるのが、政治の仕事でしょう?」


 総理は、答えなかった。


 東京の空を泳ぐ黒い鯨に備えるため、日本政府は、天を裂く神話の剣を手に入れた。


 だが、その刃が最初に裂くものが。

 敵なのか。空の彼方なのか。それとも、この国そのものなのか。


 それは、まだ誰にも分からなかった。



最後までお付き合いいただき感謝します。


もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
使わないで済めば良いけれど、使う時はどう制御するかの方が大変だなこれは。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ