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【ネットの反応】黒く染まる街と、東京の空に降りた光の柱前編

【第1章 初日、黒いビルの怪談が流れる】


平穏は、常にありふれた日常の風景の中に、ほんのわずかな「違和感」という形で紛れ込んでくる。

アーティファクトの脅威が世界を揺るがし、各国のパワーバランスが神話レベルの力によって塗り替えられようとしているこの狂騒の時代にあっても、日本の大半の人々にとっては、それはまだ「液晶画面の向こう側の出来事」であった。


北海道、札幌市。

九月の高く澄み切った青空の下、大通公園からほど近いオフィス街は、昼休みのランチへ向かうサラリーマンや、大きなスーツケースを引く観光客たちで賑わっていた。

交差点には無数の車が行き交い、大型ビジョンの広告が華やかに街を彩っている。その風景のどこにも、世界を終わらせるような魔法や超技術の影はない。


その交差点に面して建つ、地上三十階建ての近代的なガラス張りの複合オフィスビル。

低層階には有名ブランドのテナントが入り、上層階には数多くの企業のオフィスが入居する、札幌のビジネス街を象徴するような巨大な建築物。


異変に気付いたのは、向かいのカフェのテラス席でスマートフォンを弄っていた、一人の若い女性だった。

彼女は、冷たいアイスコーヒーのストローを咥えたまま、ふと顔を上げ、向かいのビルを怪訝な顔で見つめた。


「……あれ、あんな色だったっけ?」


彼女の視線の先。

ガラス張りのビルの下層階、およそ三階から五階あたりの外壁の一部が、不自然な【黒色】に染まっていた。

周囲のガラス窓が秋の強い日差しを反射してキラキラと輝いているのに対し、その一角だけが、まるで光を完全に吸収してしまっているかのように、のっぺりとした、アスファルトや墨汁のような「漆黒」に塗りつぶされていたのだ。


彼女は、友人にLINEを送るついでに、何気なくそのビルの写真を撮り、X(旧Twitter)へと投稿した。

これが、のちに日本全土を絶望と恐怖のどん底に叩き落とすことになる『黒鯨事象』の、歴史的な第一報となった。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


@Sapporo_Walker_01

なんか札幌駅近くのビル、外壁が真っ黒になってない?

影かと思ったけど、角度変えても黒い。なにこれ?

[画像:ビルの下層階の外壁が、不自然な黒に塗られている写真]


投稿から数分間は、全くと言っていいほど反響はなかった。

日本のネット空間は、イギリスの『公認魔女』が要求した紅茶とスコーンの大喜利や、アステカの超人の考察で忙しかったのだ。地方都市のビルの外観が変わった程度のローカルな話題など、誰も気に留めない。


たまにリプライがついても、それはごく常識的な推測の域を出ないものだった。


@Hokkaido_Info_Net

外壁の清掃か、塗装工事でしょうか? しかし、通常であれば足場や養生シートなどが設置されるはずですが、見当たりませんね。テナントの改装にしては大胆な色使いです。


@Photo_Edit_Buster

画像加工乙。今の時代、スマホアプリでいくらでも色変えられるからな。こんな雑なフェイクでバズろうとするなよ。


@Architect_Design_Fan

最近の流行りの建築デザインじゃね? 黒を基調としたシックな外装にリニューアルするとか。光の反射を抑える特殊なフィルムでも貼ってるんじゃないの?


「影」「塗装」「画像加工」。

誰もが、自分の脳内にある『既存の知識』で、その違和感を処理しようとした。

無理もない。出雲の神域や与那国島の海底遺跡ならともかく、何ら曰く付きでもない、昨日まで普通に人が働いていた現代的なビルが、急にアーティファクト現象の標的になるなど、誰も想像していなかったのだ。


だが、その『違和感』が『異常』へと姿を変えるのに、長い時間はかからなかった。


最初の投稿から約10分後。

現場周辺を歩いていた別のユーザーが、今度は【動画】を投稿した。


@Sapporo_Live_Caster

おい、さっきの黒いビル、動画撮ってきたぞ!

これ塗装じゃない。黒い部分、どんどん広がってる! 壁が黒く“染まってる”!!

しかも、黒くなった窓の中が全く見えない! 光を反射してない! 絶対におかしい!

[動画:ビルの外壁を、黒い染みのようなものが、まるで布にインクが染み込むように、ジワジワと上へ向かって浸食していく様子。数秒の間に数メートルも黒化が進んでおり、ガラス窓の境界線すら無視して、建物の構造そのものを黒に塗り替えているのが確認できる]


この動画がアップロードされた瞬間、タイムラインの空気が一変した。


「……おいおい、マジかよ」

「動いてるぞ」

「気味悪っ」

「これ、ただの塗装工事の速度じゃないだろ。インクぶちまけたみたいになってるぞ」


動画は、異常な速度でリポストされ始めた。

そして、それに呼応するかのように、今度は【ビル内部】にいると思われる人々からの、切実でパニックに近い投稿が相次ぎ始めたのだ。


@Office_Worker_Hkd

窓の外が急に真っ暗になった。さっきまで晴れてたのに。電気はついてるのに、廊下の奥が黒くて見えない。何が起きてる? 火事か!? でも煙の匂いは全くしない!


@Sys_Admin_00

携帯の電波が全く繋がらない。会社のWi-Fiもダウンした。エレベーターの表示がおかしい。階数がバグってて動かない! 非常階段の扉も重くて開かない! 閉じ込められたかも!


@Sales_Manager_T

窓の外を見てる同僚が「空が歪んでる」って言ってる。俺の席からは真っ黒な壁にしか見えない。誰か助けてくれ、外はどうなってるんだ!?


@Delivery_Guy_S

たまたま配達で入ってたんだけど、黒くなった壁に触ったら、手袋が……手袋の指先が消えかけた! なんだこれ! 触るな! 絶対に黒い部分に触るな!!


日常のオフィス空間が、得体の知れない未知の法則によって急速に侵食されていく。

蛍光灯の光が届かず、窓の外の景色が完全に黒に塗り潰され、通信が遮断され、物理的な接触すら危険な状態。

ネット上の大喜利めいた空気は、完全に凍りついた。「ただの塗装だろ」と笑っていた者たちも、ビルの中からリアルタイムで発信される恐怖の言葉の数々に、薄ら寒いものを感じ始めていた。


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【謎】札幌の黒いビル、中からヤバい悲鳴が聞こえてくるんだが


1 :名無しさん@涙目です

おい、マジで何が起きてるんだこれ。


2 :名無しさん@涙目です

壁に触ったら手袋が消えかけたって何だよ。酸か? それとも空間が削られてるのか?


3 :名無しさん@涙目です

窓の外が見えなくなるって、完全にホラー映画のシチュエーションじゃん。


4 :名無しさん@涙目です

おいおい、これアーティファクト案件じゃないのか? イギリスの魔女の時も、最初は「森が変だ」って噂から始まったぞ。


5 :名無しさん@涙目です

でも札幌の普通のビルだぞ? 遺跡でもなんでもない。そんなとこに急にアーティファクトの現象が起きるか?


6 :名無しさん@涙目です

分からん。でも、中の奴らがガチでパニックになってるのは事実だ。早く消防呼べよ!


ネット民たちが不安と疑念を爆発させている間にも、事態は異常な速度で進行していた。


そして、人々の不安を決定的な『恐怖』へと変えたのは、他ならぬ【日本政府(警察・消防)の異様な初動の速さ】だった。


動画が拡散され始めてから、まだ数分しか経っていない。

通常の火災通報や事故であれば、状況確認と出動指令に多少のタイムラグがあるはずだ。

だが、札幌のそのビルの周辺には、まるで【最初からそこで待機していたかのように】、無数のパトカーと消防車、そして機動隊の特殊車両が、けたたましいサイレンとともに四方八方から殺到してきたのである。


@Sapporo_News_Ch

警察と消防が異常な数来てる! ビルの周辺完全に封鎖された! 建物の外へ全員退避の指示が出てる! 上空にはヘリコプターまで飛んでるぞ!


@Local_Resident_A

拡声器で「直ちに避難してください! 建物内に残っている者は荷物を置いて速やかに外へ!」って怒鳴りまくってる。普通の火事の誘導じゃない。警察官の顔がマジで必死(青ざめてる)だ。


@Crisis_Management_Bot

表向きの発表は「建物外壁に未知の化学物質が付着した疑い」「構造安全確認のため緊急退避」とのことです。周辺の道路も現在広範囲にわたって通行止めとなっています。


だが、現場の生々しい映像と、警察の異常なまでの切迫感を見ているネット民たちは、その「化学物質」という説明に、すぐさま強烈な疑問と不信感を抱いた。


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【異常】札幌の黒いビル、警察の対応が早すぎて逆に怖い件


18 :名無しさん@涙目です

対応早くない? 動画出てから数分で警察来てるぞ。消防も早すぎる。


22 :名無しさん@涙目です

「化学物質付着の疑い」って、どんな化学物質被ったらビル全体が下から上に向かって黒く染まるんだよ。しかも窓ガラスの中まで真っ黒になってるんだぞ。無理があるだろ。


35 :名無しさん@涙目です

消防より警察の数の方が多くね? テロ対策部隊みたいのも混ざってる気がする。盾持ってる奴いるし、防護服着てる奴もいるぞ。


42 :名無しさん@涙目です

自衛隊っぽい車両いないか? 警察車両に偽装してるかもしれないけど、あの通信アンテナの形……絶対普通の警察車両じゃない。


58 :名無しさん@涙目です

これ、絶対普通の火事とか化学物質漏れじゃないだろ。

完全にアーティファクト案件の匂いがプンプンする。イギリスの魔女の時も最初は「未確認危険事象です、近づかないでください」って言って誤魔化してたよな。


70 :名無しさん@涙目です

今ニュースのヘリ映像見てるけど、めちゃくちゃ手際よく誘導されてる。

なんか、こういう「謎の事態(黒いビル)」が起きることを、最初から想定して訓練してたみたいに動きがスムーズなんだが。

……政府、何か知ってたんじゃないか?


ネット民特有の鋭い嗅覚が、事態の裏側にある「国家の準備」を正確に嗅ぎ取り始めていた。

だが、その疑念を深掘りする暇もなく、現場の状況はクライマックスへと向かっていた。


警察官たちが、ビルの各フロアを危険を顧みずに駆け回り、パニックになって動けなくなっている人々を強引に、しかし迅速に非常階段へと押し出した。エレベーターが機能しない中、体力のない高齢者や怪我人は、機動隊員に背負われて次々と運び出されていく。


「急げ! 黒い部分には絶対に触るな! 中央から離れろ!」

隊長らしき人物の怒号が、現場に響き渡る。


その避難誘導は、まさに時間との戦いだった。

ビルの黒化は止まらない。一階から始まった黒い染みは、すでに十階、二十階へと這い上がり、ビル全体を虚無の黒で覆い尽くそうとしていた。


やがて。

最後の一人がエントランスから転がり出るようにして外へ脱出した。

警察官が拡声器で、周囲の部隊に向けて叫んだ。


「内部クリア! 全員退避完了!! 規制線をさらに十メートル後退させろ!!」


そのメガホンの声が響き、警察官たちがビルからサッと距離を取った、その瞬間。


黒く染まりきった三十階建てのビルが。

音もなく、【歪んだ】。


周囲を取り囲んでいた無数の野次馬のスマートフォンカメラ、そして上空を旋回する報道ヘリの高解像度カメラが、その信じられない光景を、日本中、いや世界中に向けてリアルタイムで捉えていた。


ビルは、崩れなかった。

爆発もしなかった。

地盤沈下でズブズブと地面に沈んだわけでもない。


ただ、黒い穴のように輪郭が薄くなり。

まるで、巨大な見えない手によって空間から、スッ、と抜き取られるように。

……完全に、【消滅】したのだ。


ガラガラと崩れる瓦礫の音も、もうもうと舞い上がる土煙も、一切ない。

ただ、まるで巨大な消しゴムで、風景のその部分だけを乱暴に消してしまったかのように。

残されたのは、巨大なビルがあったはずの青空というぽっかりとした空白と、綺麗に水平に削り取られたような、一階の基礎部分のコンクリートだけだった。


「…………」


現場にいた数千人の群衆、警察官、そして画面の向こう側の数千万人の視聴者が。

完全に、言葉を失った。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


@Witness_Sapporo

は?


@Video_Watcher_01

ビル消えた? え、今、消えた?


@Construction_Pro

解体? いや、一瞬だったぞ! 爆破解体でもあんな消え方はしない! 残骸(瓦礫)が一つも残ってないなんてあり得ない! トン単位の鋼鉄とコンクリートがどこに行ったんだよ!


@Cynical_Otaku

何これ。マジで何これ。

札幌のビル、虚空に消えたんだけど……。手品? イリュージョン? デビッド・カッポフィールドかよ。


@Visual_Effects_Artist

映像加工だろって言おうとしたけど、複数視点からのライブ配信とテレビの空撮で同時に消えてる。これはガチだ。現実の巨大なビルが一つ、完全に消滅した。物理演算がバグったとしか思えない。


@Normal_Citizen_A

怖い怖い怖い怖い怖い。

中に人いなかったよな? 避難間に合ったんだよな!? もし残ってたら、ビルと一緒に空間ごと消えてたってことかよ!

警察が必死に逃がしてた理由、これか!!


@Pol_Sci_Expert

建物が丸ごと空間から消失する現象。……日本もついに、本格的な「既存技術外事象アーティファクトの直接的な被害」に見舞われました。

しかも、これまでの「兵器ライトセーバー」や「超人アステカ」のような分かりやすい脅威ではなく、「消滅」という完全に物理法則を逸脱した現象です。相手の姿も見えません。


@Occult_Sleuth_Z

これヤバい。イギリスの万象器が「物質を創造する」アーティファクトだったのに対して、こっちは「物質を消滅(捕食?)させる」現象だ。対になってるんじゃないか? 空間ごと削り取るとか、神話のバケモノの仕業だろ。


「黒鯨」という言葉は、まだネット上のどこにも出ていない。

ただ、「建物が黒く染まり、人が逃げた後に音もなく消滅する」という、理解不能で圧倒的な怪異(アーティファクト現象)が、平和な日本の地方都市に突如として現れたことだけが。


大衆の脳裏に、強烈なパニックと恐怖の種として、深く刻み込まれたのである。






【第2章:初日夜、政府は警察へ通達、ネットは怪談扱い】


札幌の三十階建て複合ビルが、白昼堂々、音もなく虚空へと消滅した。

瓦礫一つ、粉塵一つ残さず、ただコンクリートの基礎部分だけが綺麗にスライスされたように残されたその異常な光景は、現場に居合わせた数千人の群衆と、生配信のカメラを通じてそれを目撃した何百万という人々の脳髄に、言語化不能な恐怖とパニックを直接叩き込んだ。


だが、この「ビル消失事件」が起きた初日の夜の段階では、日本のインターネット空間を支配していた空気は、明確な『パニック』や『絶望』には至っていなかった。

むしろそれは、かつての「きさらぎ駅」や「鮫島事件」のような、ネット特有の【得体の知れない現代の怪談(都市伝説)】をリアルタイムで消費して楽しむような、奇妙な熱気と興奮を帯びていたのだ。


原因が分からない。

犯行声明もない。

テロの爆発音もなければ、怪獣の姿も見えない。

ただ、巨大な建物が黒く染まり、人が逃げた後にスッと消えただけ。


この「視覚的な情報の圧倒的な少なさ」と「物理法則の完全な無視」が、逆に大衆の想像力と考察欲を極限まで掻き立てたのである。


[5ちゃんねる:オカルト板]

スレタイ:【札幌】黒くなったビルが消えた件について考察するスレ Part.14


18 :名無しさん@オカルト

ついに建物まで異世界転移する時代か。トラックに轢かれなくても、ビルで残業してたら異世界に行けるぞ。


32 :名無しさん@オカルト

黒い壁に触ったら異世界行き? それとも単に消滅ロスト

配達員の「手袋が消えかけた」って証言がリアルで怖いんだよな。ブラックホールみたいな空間の裂け目が壁に開いてたのか?


45 :名無しさん@オカルト

いや、消えた後の地面の映像見たか?

爆発の痕もないし、高熱で溶けた痕もない。マジでパソコンの画像編集ソフトで「コピー&ペーストの『カット(切り取り)』」を現実空間でやられたみたいに、基礎のコンクリートだけ残して綺麗にスパッと消えてるんだよ。


60 :名無しさん@オカルト

これ、イギリスの万象器系のアーティファクトじゃね?

万象器が「何もないところから物質を作る」機械だったなら、逆に「あるものを無に帰す(消す)」機能を持った別の箱が日本で起動したとか。


75 :名無しさん@オカルト

いや、日本案件ならやっぱり出雲か与那国絡みだろ。

出雲の神様が現代のコンクリートジャングルに怒って、結界を広げてビルを神隠しにしたとか。


88 :名無しさん@オカルト

俺が一番怖いのは、消えた現象そのものよりも【政府(警察)の動きが早すぎたこと】だよ。

動画アップされて数分で封鎖完了して、一人の犠牲者も出さずにギリギリで二千人全員逃がしきった。……これ、普通あり得ないだろ。

もう『あのビルが消える』って、最初から知ってたんじゃないか?


102 :名無しさん@オカルト

>>88

それな。警察が「黒い壁には絶対に触るな!」ってピンポイントで指示出してるのもおかしい。

初めて見る謎の現象なら、普通は「とりあえず触って確かめる(そして被害が出る)」のがテンプレだろ。

日本政府、絶対に何か隠してるわ。


115 :名無しさん@オカルト

でもさ、もし政府が事前に知ってたとして、どうやって予測したんだ?

アーティファクトの力で未来視でもしたのか?


130 :名無しさん@オカルト

与那国の巨大AIが「札幌のビルが消滅する確率99%」とか計算して官邸に報告したんじゃね?

だとしたら日本の危機管理能力、世界最強レベルだぞ。


ネット民特有の鋭い嗅覚と無責任な推論は、「政府の異常な対応の早さ」から、背後にある巨大な情報の隠蔽を正確に嗅ぎ取りつつあった。

だが、当然ながら確証はない。大半の人間は、これを「北海道という遠い場所で起きた出来事」「もしかすると、新手のイリュージョンや国家ぐるみのフェイク映像、あるいは超高度なプロジェクションマッピングの可能性も残る怪事件」として、まだ自分たちの日常を脅かす【本物の災害】としては認識していなかった。


しかし、その「他人事」では済まされない当事者たち――日本政府の中枢は、初日の夜、完全に戦場の只中にあった。


***


首相官邸のさらに地下深く。既存技術外事象評価セルの特別防音会議室。

部屋の空気は、鉛を呑み込んだように重く、そして息苦しかった。


壁面の巨大モニターには、昼間に札幌で起きた「ビル消失」の映像が、様々な角度からの監視カメラデータや、ネット上の流出動画、さらには自衛隊の偵察ヘリからの高解像度映像として、何度も繰り返し再生されている。


「……人的被害、ゼロ」

沖田室長が、手元のタブレットの最終報告書を確認し、短く、しかしどこか疲労の抜けきらない重い息を吐き出した。

「現場の北海道警および地元消防の迅速な連携により、ビル内にいた約二千百名のテナント従業員および利用客は、消失のおよそ四十五秒前に、全員の退避が完了しました」


「……よくやってくれたわね」

円卓の最上座で、矢崎総理は深く安堵の息を漏らし、閉じていた目を開けた。

「もし一人でも、あの黒の中に残されていたら……『日本政府は国民を未知の怪物に見殺しにした』と、取り返しのつかない非難を浴びていたでしょう」


「現場の警察官たちの勇気と、直前の『黒化現象』という、非常に分かりやすいタイムラグ(猶予時間)があったからこそです」

沖田は、冷徹に状況を分析し、決して楽観視しなかった。

「しかし、総理。……黒鯨こくげいは、間違いなく【活動を開始した】ということです」


黒鯨。

数日前に『星を映す匣』が空中に投影した、東京スカイツリーを飲み込む巨大な黒い影。

政府が極秘裏に付けたその暫定コードネームが、会議室に重く響く。


円卓の隅で、コーヒーカップを片手にモニターを見つめていた月刊ムーの三神編集長が、ポツリと言った。


「……ええ。古文書の伝承通りですね。

 『天を泳ぎ、地の柱を喰らい』。……今回は、札幌のビルがその『最初の餌(標)』に選ばれたわけだ」


「なぜ、札幌だったのですか? 映像で見せられた東京スカイツリーではなく?」

科学技術担当の幹部が、首を傾げながら問う。

「いきなり本命を狙わず、わざわざ遠く離れた北海道のビルを消滅させる合理的な理由が見当たりません」


「おそらく、外堀を埋めているのでしょう」

三神は、手元の端末を操作し、メインモニターに日本地図を映し出した。そして、札幌の位置に赤いピンを打つ。


「黒鯨が何処からやってきたのかは分かりません。宇宙(星降りし夜)からか、あるいは別の次元(位相空間)からか。

 ……ですが、彼らはいきなり中心(東京)の最も巨大な象徴を狙うのではなく、まずは日本の外縁部(北海道)で、現代の『ビル』の味見をした。……そう考えるのが自然です」


「味見、ですか……」

防衛省の幹部が、その生理的嫌悪感を催す表現に、露骨に顔をしかめた。


「ええ。そして、彼らが『現代のコンクリートの柱も美味しく食べられる』と学習したのなら」

三神は、地図上の赤いピンを指差し、ゆっくりと指を南へ向けて滑らせた。

「……次は、間違いなく。さらに巨大な『柱』を求めて、列島を南下、あるいは移動してくるはずです」


その予測は、この会議室にいる全員が薄々感づきながらも、口に出すことを恐れていた最悪のシナリオだった。

アーティファクトの脅威が、特定の隔離された場所(出雲の森や与那国の海底)ではなく、日本の日常のインフラそのものをランダムに標的にして動き始めたのだ。


矢崎総理は、唇を強く噛み締め、決断を下した。


「……全国の警察、消防、自治体へ、【緊急の極秘通達】を出します」


総理の目には、為政者としての冷徹な光が宿っていた。

「混乱を抑えるため、黒鯨という名前や、アーティファクトの存在はまだ伏せます。……ですが、現場の人間が迷わず動けるための『絶対のルール』だけは、直ちに徹底させなさい」


その日の深夜。

全国の都道府県警察本部長、消防庁長官、そして主要自治体の危機管理部門のトップ宛てに、内閣危機管理監名義で、極めて異例かつ不可解な【緊急通達】が一斉に発令された。


その通達は、高度な情報暗号化プロトコルを経て各現場の責任者の手元に届けられたが、その内容は、受け取った警察幹部たちを大いに困惑させ、同時に薄ら寒い恐怖を抱かせるものだった。


『――全国各管区へ緊急通達。

 今後、管内において、建築物の表面が「原因不明に黒色化」する事案を確認した場合。

 直ちに、一切の状況確認(原因究明)を後回しにし、周辺住民および内部人員を【最優先で退避】させること。

 黒化建造物への物理的接触、内部への進入、および撮影・見物を目的とした一般人の接近を厳重に禁止し、強制力を持って排除せよ。

 黒化が一定範囲を超えた建造物は、以降、通常の構造物として扱わず、【既存技術外危険領域】として処理すること。

 ……本件は国家の最高機密とする。大衆のパニックを防ぐため、現場での表向きの避難理由は「未知の化学物質漏洩」または「構造欠陥による大規模倒壊の危険」として一律に説明せよ』


深夜の県警本部。

緊急招集された幹部たちが、会議室でそのペーパーを前にして頭を抱えていた。


「なんだ、この通達は……」

ベテランの警備部長が、信じられないというように書類を叩いた。

「黒化建造物への接触を禁止? 既存技術外危険領域?

 ……まるで、建物そのものが『得体の知れない化け物』にでも変わると言っているような文面じゃないか」


「本庁は本気なのか? 札幌の一件は、どこかの過激派による新手のテロや、大規模な化学事故じゃなかったのか?」

刑事部長が、怪訝な顔で同調する。

「もし事故やテロなら、現場保存と証拠保全が最優先のはずだ。それを『原因究明を後回しにしろ』『建物に触るな』とは……警察の初動捜査の基本を完全に無視している」


「それだけじゃないぞ」

県警本部長が、重苦しい声で口を開いた。

「この通達の出し方……。政府は、札幌の事件が単発で終わるとは思っていない。

 ……これが『全国で連続して起こる(次にどこで起きるか分からない)』と、明確に想定しているということだ」


その言葉に、幹部たちは一斉に沈黙した。

彼らにも、アーティファクトの脅威が世界を揺るがしているというニュースの知識はある。イギリスの魔女や、ドバイの幻影都市。

だが、まさか自分たちの管轄する平和な地方都市の、見慣れたビルや商業施設が、その『超常の脅威』の標的になるかもしれないなどと、誰がリアルに想像できようか。


「……とにかく、各署の署長と機動隊長に、このルールを徹底させろ」

本部長は、深く息を吐き出して決断した。

「理由はどうあれ、官邸からの直命だ。……万が一、管内で『黒いビル』が出た時。逃げ遅れを出した署の責任者は、即座にクビが飛ぶと思え」


現場の警察官たちには、当然ながら詳細な説明(黒鯨やアーティファクトの話)は一切なされなかった。

ただ、「建物が黒くなったら、絶対に触るな。そして、何が何でも人を逃がせ」。

その強烈で理不尽な命令だけが、日本全国の治安維持網の末端にまで、深く、静かに浸透していったのである。


この政府の迅速すぎる根回しと、現場の警察官たちの命懸けの職務遂行が。

翌日から始まる、日本列島を飲み込む【狂気の連鎖】において、数万人の命を救う最後の防波堤となることを、この時のネットの大衆はまだ知る由もなかった。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


深夜帯。ネット上のオカルト好きや夜更かしの学生たちは、まだ「札幌の消えたビル」のコラ画像を作ったり、陰謀論を語ったりして平和に遊んでいた。


@Midnight_Surfer

札幌のビル消失、絶対UFOに吸い込まれたんだろww キャトルミューティレーションのビル版。


@V_Tuber_Fan_99

「黒い壁に触ると手袋が消える」って設定、中二病っぽくてすこ。明日学校で友達に黒い下敷き押し当てて「消えろ!」ってやる遊び絶対流行るわ。


@Corporate_Slave_00

明日も仕事かよ……。俺の会社も、黒くなって異次元に消滅してくれないかな。そしたら堂々と休めるのに。


誰もが、明日も同じ日常が続くと思っていた。

札幌の怪事件は、あくまで「北海道の特殊なニュース」として消費され、夜の闇に溶けていくはずだった。


だが、政府の極秘通達が全国の警察網を行き交い、既存技術外事象評価セルの官僚たちが一睡もせずに全国の監視カメラ映像を血眼になって解析しているこの夜。

『黒鯨』は、すでに次の標的を定め、日本の空を音もなく泳ぎ始めていたのである。








【第3章 3日目:警察・消防の異常対応、ネットはまだ分からない】


日本列島を北から南まで駆け抜けた、前代未聞の「建築物黒化・消失事件」。

札幌、仙台、広島、そして鹿児島。たった二日間の間に発生したこれらの異常事態は、日本のインターネット空間をかつてない規模のパニックと疑心暗鬼の渦へと叩き込んでいた。


そして、運命の三日目。

事態は収束するどころか、さらに発生頻度を上げ、より大都市圏へとその魔の手を伸ばし始めた。


午前9時15分。石川県、金沢市。

観光客で賑わう近江町市場からほど近い、ガラス張りの巨大な近代的なオフィスビル。その側面が、まるで墨汁を被ったように真っ黒に染まり始めた。


午前11時30分。愛媛県、松山市。

松山城を望む高台に建つ、老舗の大型ホテルの最上階から、黒い染みがジワジワと下へ向かって浸食を開始した。


午後2時45分。新潟県、新潟市。

信濃川沿いにそびえ立つ、地域のランドマークとも言える超高層のコンベンションセンター。その中央部分が、帯状に不自然な黒に塗りつぶされていく。


地方の中核都市を狙い撃ちにするかのように、次々と発生する黒化事案。

これまでのアーティファクトの脅威――例えばイギリスの「万象器」やアステカの「太陽の戦士」――は、ある特定の場所に固定されているか、少なくとも物理的な『移動の軌跡』を追うことができた。

だが、この日本の『黒化現象』には、明確な移動の法則が見えなかった。まるで日本地図の上で、見えない巨人が無作為にダーツの矢を放っているかのように、発生地点はバラバラであった。


しかし、発生場所がランダムであるにもかかわらず、その『対応』だけは、薄ら寒いほどに完全にパターン化されていた。


[X(旧Twitter) / 金沢の現場からの実況]


@Kanazawa_Live_001

近江町市場の近くのビル、なんか真っ黒になってる! ってツイートしようとしたら、もう警察のサイレンが鳴り響いてるんだが。早くないか?

[動画:サイレンの音と共に、数台のパトカーが猛スピードで交差点に突っ込み、警官たちが飛び出してくる様子]


@Office_Worker_KNZW

うちのビルが黒くなった。社内放送で「火災発生、直ちに避難しろ」ってアナウンスが流れたけど、煙なんて全く出てない。

でも、階段に誘導してる警察官の顔が、火事の時よりよっぽど必死で血走ってた。

「荷物は置いていけ! とにかく早く外に出ろ! 黒い壁には絶対に触るな!」って怒鳴り散らしてる。マジで何が起きてるんだよ。


@Traffic_Watcher_Ishikawa

金沢駅周辺から現場までの道路、完全に封鎖されたぞ。

しかも、普通の警察官だけじゃなくて、機動隊のデカいバスみたいな車両も来てる。

これ、絶対に普通の火事じゃない。札幌や仙台で起きた『あれ』と同じ対応だろ!


警察の初動は、異常なまでに早かった。

通常、火災や事故の通報を受けてから現場に到着し、状況を把握して避難誘導を開始するまでには、どうしても一定のタイムラグが生じる。

だが、この三日目の事案において、警察と消防は「黒化が始まった瞬間」、あるいは「黒化が始まる前から」待機していたのではないかと疑いたくなるほどの速度で現場を制圧したのだ。


その背景には、日本政府の中枢――既存技術外事象評価セルから全国の警察・消防トップへ下された、あの極秘の【緊急通達】の存在があった。


『原因不明に黒化する事案を確認した場合。

直ちに、一切の状況確認を後回しにし、周辺住民および内部人員を最優先で退避させること。

……黒化建造物への物理的接触、内部への進入、および撮影目的での一般人の接近を厳重に禁止する』


この「理由を問わず、とにかく人を逃がせ」という冷徹なトップダウンの命令が、現場の警察官たちの行動を極限まで単純化し、加速させていたのだ。


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【謎】黒化ビルの避難、警察の対応が「マニュアル化」されすぎてて逆に怖い


1 :名無しさん@涙目です

金沢、松山、新潟。今日もバンバン消えてるけど、全部「犠牲者ゼロ」なんだよな。

これ、喜ぶべきことなんだろうけど、なんか不気味じゃないか?


18 :名無しさん@涙目です

対応が早すぎるんだよ。

黒くなり始めた瞬間に警察が突入してきて、怒号飛ばしながら人を外に放り投げてる。

で、全員出たのを確認した数分後にビルが消える。

完全に「消えるまでのタイムリミット」を把握してる動きだろ。


32 :名無しさん@涙目です

俺、松山のホテルの近くに住んでるけど、警察の規制線の張り方が異常だったぞ。

火事なら消防が一番前に出るはずなのに、今回は機動隊が盾構えて一番前に立って「絶対に近づくな!」って市民を威嚇してた。

アレは「建物の倒壊」から市民を守ってるんじゃなくて、「建物(化け物)に市民が近づくの」を物理的に阻止してる動きだった。


45 :名無しさん@涙目です

>>32

分かる。消防のレスキュー隊員が中に入ろうとしてるのを、警察の偉い人が必死に止めてる動画もバズってたよな。

「あの黒い部分に触ったらお前も消えるぞ!」って叫んでたやつ。

あれ、完全に「アーティファクトの性質(触れたらロストする)」を共有されてる証拠じゃん。


60 :名無しさん@涙目です

つまり、政府は「どこで黒くなるか」は分からないけど、「黒くなったら数十分後に消える」「黒い部分に触るとヤバい」っていうルールは完全に把握してるってことか。


75 :名無しさん@涙目です

なんで政府がそんなルール知ってんだよ。

まさか、イギリスの万象器みたいに、日本政府が自作自演でやってるアーティファクト実験じゃないだろうな?


88 :名無しさん@涙目です

いや、自国の大都市のビルをランダムに消し飛ばす実験なんて、いくらなんでも狂いすぎだろ。

それに、もし政府がコントロールできてるなら、あんなに警察が現場で必死になってないと思うぞ。

あれは「正体は分からないけど、ヤバいことだけは知ってる」時のパニック対応だ。


ネット民たちは、断片的な情報と現場の映像を繋ぎ合わせ、事態の裏側にある「国家の焦り」を正確に分析し始めていた。

だが、その推論を決定づけるような【決定的な映像】は、まだ出ていなかった。


なぜなら、警察の規制線が厳重すぎるため、一般の野次馬やYouTuberたちが、黒化するビルの「至近距離」から動画を撮影することが物理的に不可能になっていたからだ。

遠くからスマホのズーム機能で撮影された、粗い映像ばかりがネットに出回る。

そこには、「ビルが黒くなり、そして消える」という結果しか映っていない。

「何が」ビルを消しているのか。「なぜ」黒くなるのか。

その肝心な部分が、意図的にブラインドで覆い隠されているような、もどかしい恐怖がネット空間に充満していた。


[X(旧Twitter) / 有識者クラスタのタイムライン]


@Pol_Sci_Expert

日本政府の対応は、危機管理の観点からは極めて優秀です。

「原因の究明」を後回しにし、「人命の確保(物理的な隔離)」のみにリソースを全振りしている。これは、相手が論理の通じないアーティファクトである場合の、最も正しい初動です。出雲や与那国で経験を積んだ「既存技術外事象評価セル」のノウハウが、全国の警察網に生かされていると見て間違いないでしょう。


@Crisis_Management_Bot

しかし、この「理由なき避難」をいつまで続けられるでしょうか。

今はまだ「火災の疑い」や「化学物質」という建前で市民は大人しく従っていますが、これだけ全国で「ビルが虚空に消滅する」現象が続けば、いずれパニックは防ぎきれなくなります。

政府が「アーティファクトによる攻撃である」と公式に認めない限り、疑心暗鬼による暴動が起きるリスクが高まっています。


@Corporate_Slave_00

いや、政府が「実は謎のバケモノにビルが食われてます」なんて正直に言ったら、それこそ日本中がパニックになって終わるだろ。

今の「なんかわからんけど警察が怖い顔して逃がしてくれるから、とりあえず逃げよう」っていう、ゆるい恐怖状態が一番マシなんだよ。


@Occult_Sleuth_Z

それにしても、この現象……本当に『姿』が見えないんだよな。

アステカの超人も、イギリスの魔女も、ちゃんと目に見える実体キャラクターがあった。

でも今回は違う。ただ、建物が黒く塗られて、空間から消去デリートされるだけ。

相手に『姿』がないっていうのが、一番ホラーで精神を削ってくるわ。


「姿が見えない恐怖」。

それこそが、この三日目までの日本を覆っていた最大の絶望だった。


怪獣映画であれば、巨大な怪獣が街を練り歩き、ビルをなぎ倒す。その姿が見えれば、人々は「どこへ逃げればいいか」「軍隊がどこを攻撃すればいいか」を理解できる。

だが、この『黒化現象』には、それが一切ない。

どこからともなくビルの壁が黒く染まり始め、時間が来れば、音もなく空間ごと削り取られて消滅する。

まるで、見えない宇宙のバグが、日本の都市というプログラムのソースコードを、無作為に一行ずつ削除しているかのような、圧倒的な理不尽さ。


だが。

その「見えない恐怖」が、ついに【形】を持って、世界の人々の前に姿を現す瞬間が迫っていた。


事態が急転直下したのは、三日目の夕方。

新潟市で発生したコンベンションセンターの消失事案から、数時間後のことだった。


[動画共有サイト『TikTok』 / あるドローン撮影者の投稿]


その動画は、最初、全く別の目的で撮影されたものだった。

新潟市内の高層マンションのベランダから、夕暮れ時の信濃川と日本海の美しい風景を空撮しようと、一人の若者が個人的な趣味でドローンを飛ばしていたのだ。


ドローンが高度を上げ、カメラを街の中心部へと向けた時。

ちょうどそのカメラのフレームの端に、数キロ離れた場所で【黒化】が進行しているコンベンションセンターの姿が、偶然にも収まっていた。


若者は、慌ててドローンのカメラをその方向へズームさせた。

現場周辺にはすでに警察の規制線が張られ、サイレンの赤いランプが米粒のように点滅しているのが見える。

建物の黒化はすでに限界に達しており、今にも消失の瞬間を迎えようとしていた。


ドローンの高解像度カメラが、その異常な建造物を捉え続ける。


そして。

建物が、スッ、と空間から削り取られて消滅する……その【直前】の、わずか数フレーム(コンマ数秒)の映像に。


信じられないものが、映り込んでいたのである。


[X(旧Twitter) / 動画の拡散と解析班の動き]


@Video_Analysis_Nerd

おい!!! 今TikTokに上がった新潟の空撮動画見たか!?

消える直前の黒いビルの上空!! ただの雲じゃない「何か」が映ってるぞ!!!


@UAV_Pilot_JP

ドローンの映像だから、地上のスマホカメラじゃ絶対に撮れない角度(上空からの俯瞰)だったのがデカい。

これ、動画の12秒から13秒の間を、0.25倍速のスロー再生にしてみてくれ。

マジで、とんでもないものが映ってる。


@Occult_Sleuth_Z

うわあああああああ!!!!

なんだこれ!?!?!?


ネットの有志たち(解析班)が、そのコンマ数秒の映像を切り出し、明度を調整し、コントラストを強調した画像が、次々とタイムラインに投下された。


そこに映し出されていたのは。


黒化したコンベンションセンターの真上の空。

夕焼けで赤く染まった雲の層の中に、不自然に混ざり込んだ【漆黒の影】だった。


最初は、ただの黒い雲の塊のようにも見えた。

だが、コントラストを強調した画像では、その影が明確な『輪郭』を持っていることがはっきりと確認できた。


流線型の、巨大な質量を感じさせるフォルム。

空を覆い尽くすほどの途方もないスケール。

そして……その巨大な影の最後尾で、ゆっくりと、しかし力強く波打っているような【巨大な尾びれ】の形。


「……鯨?」


誰かが、その単語を呟いた。


「これ……空に、鯨が浮かんでるのか?」

「いや、雲の形がたまたまそう見えただけだろ! パレイドリア現象(壁のシミが顔に見えるやつ)だって!」

「違う! 動画をスローでよく見ろ! ビルが消える直前、この鯨みたいな影の『口』のあたりが、ガバッと開いてるぞ!」

「嘘だろ……。じゃあ、ビルが消えたんじゃなくて……こいつに【食われた】ってことか!?」


ネット空間は、完全なパニックと、それに勝る「未知の怪異の正体を突き止めた」という熱狂の渦に飲み込まれた。


[5ちゃんねる:オカルト板]

スレタイ:【確定】黒いビルを消してる犯人、空を泳ぐ「巨大な鯨」だった


1 :名無しさん@オカルト

解析班の画像見た。完全に鯨だわ。


2 :名無しさん@オカルト

空飛ぶ鯨とか、ファンタジーRPGの召喚獣かよ。

でもこれ、ファンタジーじゃなくて現実の日本の空に浮かんでるんだぜ。


3 :名無しさん@オカルト

おい、サイズ感おかしくないか?

コンベンションセンターがあんなに小さく見えるってことは、この影、全長数キロメートルはあるぞ。


4 :名無しさん@オカルト

雲に隠れてるんじゃなくて、空間そのものに擬態(光学迷彩)してるんだと思う。

だから地上の人間からは全く見えない。ドローンの俯瞰カメラと、夕焼けの逆光っていう奇跡的な条件が重なったから、たまたまシルエットだけが浮かび上がったんだ。


5 :名無しさん@オカルト

じゃあ、俺たちの頭の上には常に、こんな全長数キロのバケモノが泳いでるかもしれないってことかよ。

怖すぎて空見上げられないわ。


6 :名無しさん@オカルト

ビルが黒くなるのは、こいつが「今からこれを食うぞ」ってマーキング(唾液みたいなもん)を垂らしてるからか。

で、黒く染まりきったら、上空からパクッと丸呑みにしてる。

だから残骸も粉塵も残らない。綺麗に「食われてる」んだ。


7 :名無しさん@オカルト

「黒いクジラ」……。

これ、完全に新しいアーティファクトじゃねーか。


8 :名無しさん@オカルト

名前つけるな怖い。


9 :名無しさん@オカルト

つけるなって言われると余計に広まるぞ。

もうTwitterのトレンド、「黒鯨」になってるし。


ここで初めて、政府が密かに使っていた暫定コードネームと同じ【黒鯨こくげい】という単語が、大衆の集合的無意識の中から自然発生的に生み出され、ネット上に定着し始めた。


「黒鯨」という具体的な名前と、「空を泳いでビルを食う」というビジュアルのイメージが共有されたことで。

人々の恐怖は、「見えない謎の現象」から、「実在する巨大な怪物アーティファクト」への恐怖へと、完全にピントが合ってしまったのだ。


[X(旧Twitter) / トレンドと反応]


トレンド(日本)

1位:黒鯨

2位:空飛ぶクジラ

3位:ビル食ってる

4位:アーティファクト

5位:日本オワタ


@Normal_Citizen_A

今まで「ビルが消える手品」だと思って現実逃避してたのに。

黒鯨の影の画像見た瞬間、ガチで震えが止まらなくなった。あんなバケモノが空からビルごと俺たちを食いに来るかもしれないのかよ。


@City_Boy_Tokyo

でもさ、なんでこいつ「ビル」しか食わないの?

山とか海とかじゃなくて、わざわざ人間の作ったデカい建造物ばっかり狙ってる。

コンクリートが美味しいのか?


@Mythology_Nerd

古代の神話やアーティファクトってのは、そういう物理的な素材を食ってるんじゃないんだよ。

彼らが食ってるのは、その建物が持つ「意味」や「象徴性」だ。

だから、地方の目立つビルやホテル、コンベンションセンターみたいな、人々が集まる『シンボル』ばかりが狙われてるんじゃないか?


@Corporate_Slave_00

象徴を食う……?

じゃあ、もしこいつが、日本で一番でかい「象徴」を食いたくなったら、どうなるんだ?

地方のビルでお腹いっぱいになるわけないだろ。あんな数キロもあるバケモノが。


@Pol_Sci_Expert

その推測が正しいとすれば、事態は極めて深刻です。

現在、黒鯨は地方都市のランドマークを次々と捕食していますが……これは単なる「前菜(味見)」に過ぎない可能性があります。

もし、彼らの真の狙いが、この国の中心にある巨大な象徴シンボルだとしたら……日本政府は、それにどう対抗するつもりなのでしょうか。現代のミサイルや戦闘機が、空を泳ぐ概念的な存在に通用するとは思えません。


政府の迅速な避難誘導により、人的被害はゼロ。

だが、その「完璧な対応」すらも、今となっては恐ろしい事実の裏返しとしてネット民に受け取られていた。


「政府は、最初からこの『黒鯨』の存在を知っていた」。

「だから、黒くなったらすぐに逃げろと警察に指示を出せた」。

「知っていたのに、国民には隠していた。パニックになるからだ」。

「……じゃあ、政府は【こいつが次にどこを食うか】も、本当は分かってるんじゃないか?」


疑心暗鬼と恐怖が、夜の闇とともに日本全土を覆い尽くそうとしていた。

三日目の夜。

ネットの集合知は、ついに「見えない恐怖」の輪郭を掴んだ。

だがそれは、安心に繋がるどころか、これから始まる本当の絶望の、ほんの序章に過ぎなかったのである。






【第4章:3日目夜、日本政府の表向き声明と流出する警察通達】


北海道の札幌から始まり、仙台、広島、鹿児島と、わずか数日の間に日本列島を縦断するように連続発生した「巨大建築物の黒化・消失事件」。

その異常事態は、三日目の夕暮れ時、新潟市で撮影された一つのドローン映像――消失するビルの真上の空に浮かぶ、途方もなく巨大な『黒い鯨』のシルエット――がネット空間に投下されたことで、完全なパニックの臨界点へと到達した。


黒鯨こくげい』。

ネットの集合無意識が生み出したその不吉な単語は、またたく間にX(旧Twitter)の世界トレンドを席巻し、動画共有サイトには「空飛ぶ鯨」を捉えた(とされる)真偽不明の映像が数秒に一回のペースでアップロードされ続けていた。


「おい、これマジで日本終わるんじゃないか?」

「イギリスの万象器は『価値を壊す』だけだったけど、こいつは物理的に『街を食ってる』ぞ!」

「逃げろ! でもどこに逃げればいいんだよ!」


無責任な陰謀論と、実体のない恐怖が、数千万台のスマートフォンの画面を通じて日本中をリアルタイムで蝕んでいく。

もはや、「化学物質の漏洩」や「構造欠陥」といった、初日に使った苦しい建前で事態を隠し通すことは、一〇〇パーセント不可能となっていた。


事態の沈静化、あるいは少なくとも「政府は事態を掌握している(コントロール下にある)」という最低限のポーズを示すため、日本政府は緊急の記者会見を開かざるを得なくなった。


午後八時三十分。

首相官邸プレスルーム。


通常の政治会見とは異なり、集まった記者たちの顔には、政権の不祥事を追及するような野心や攻撃性はなく、ただ純粋な「未知への恐怖」と「真実を知りたいという焦燥感」だけが張り付いていた。

カメラの放列と、殺気立ったような無数のマイクが向けられる中、演台に立ったのは矢崎総理ではなく、官房長官であった。

(この『あえてトップを出さない』という人選自体が、政府がこの事象を「国家の存亡を懸けた最終決戦」ではなく、まだ「対応可能な危機管理事案」として矮小化しようとしている強烈なメッセージであった)


官房長官は、極度に強張った表情で、手元の分厚いバインダーを開いた。


「……現在、全国の一部施設において。原因不明の建材の変質、および構造物の消失事案が連続して確認されています」


官房長官の低く、硬い声が、プレスルームの重い空気を切り裂く。

その瞬間、記者席からパラパラとシャッター音が鳴ったが、誰一人として声を上げる者はいない。


「政府は、これを重大な危機管理事案として重く受け止め、関係自治体、警察、消防と緊密に連携し、周辺住民および施設利用者の安全確保を【最優先】に対応しております。

 ……幸いにして、現時点で人的な被害(犠牲者)は一名も確認されておりません。これは、各現場の警察および消防の迅速な避難誘導、そして何より、国民の皆様の冷静な行動の賜物であり、深く感謝申し上げます」


官房長官は、原稿から目を上げ、テレビカメラのレンズ――その向こう側にいる一億人の国民に向けて、極めて強い、警告を含んだ口調で呼びかけた。


「国民の皆様に、強くお願い申し上げます。

 ……今後、建築物の表面が不自然に『黒く変色』しているのを発見した場合。あるいは、その周辺において異常を感じた場合は。

 ……絶対に、その建造物や黒い表面には【近づかない】でください」


官房長官は、言葉にさらに力を込めた。


「また、動画撮影や見物を目的とした現場への接近は、極めて危険です。周囲の安全を著しく損なうだけでなく、ご自身の生命に関わる重大な事態を引き起こす可能性があります。

 異常を発見した際は、直ちにその場から離れ、警察の避難指示に従って速やかに退避してください。

 ……現在、政府として全力を挙げて原因究明に当たっておりますが、まずは人命の保護を第一に行動していただくよう、重ねてお願いいたします」


官房長官は、その言葉を最後に、手元のバインダーをパタンと閉じた。


その瞬間。

プレスルームの魔法が解けたように、記者たちが一斉に立ち上がり、怒号のような質問を浴びせかけた。


「長官! ネット上で拡散されている『空に浮かぶ巨大な鯨の影』の映像については、政府はどう認識していますか!?」

「これは、イギリスやドバイに続く、新たな『アーティファクト』の脅威によるものですか!」

「なぜ建物が消えるのですか! 原因究明とは具体的に何をしているのですか!」

「自衛隊による迎撃や、防衛出動の予定はありますか!」

「次に狙われる都市はどこか、予測はできているのですか!」


矢継ぎ早に飛んでくる、パニックに満ちた質問の矢。

だが、官房長官は、そのすべてに対して、一切の感情を交えずに、事前に用意された「壁」のような定型文を読み上げた。


「……ネット上の映像や、原因に関する憶測については、現在専門機関が解析中であり、お答えできる段階にありません。防衛出動に関しても、現時点で決定している事実はございません。政府からは以上です」


官房長官は、殺到する質問を完全に無視し、足早に演台から姿を消した。

残されたプレスルームには、怒号とフラッシュの嵐、そして「何も答えなかった」政府に対する、絶望的な不信感だけが残された。


***


政府の公式声明は、極めて慎重、かつ防衛的なものだった。

「黒鯨」という言葉は使わない。「アーティファクト」とも明言しない。空に浮かぶ影についても「解析中」で逃げ切った。

ただ、「黒い建物には絶対に近づくな」という強烈な警告だけを、国民に突きつけたのだ。


だが、この「何も語らない(語れない)」政府の姿勢は、ネット民たちにとっては、むしろ最大の『答え合わせ』として受け取られた。


[X(旧Twitter)日本トレンド及びタイムライン]


トレンド(日本)

1位:官房長官会見

2位:原因不明の建材変質

3位:構造物消失事案

4位:近づかないでください

5位:政府は何か知ってる

6位:黒鯨を認めろ

7位:アーティファクト隠蔽


@News_Watcher_JP

「原因不明の建材変質」wwww

ビルが丸ごと空間から消滅して、空に巨大な鯨の影が映ってるのに、建材の変質で済ますなwww

苦しい、苦しすぎるぞ日本政府。


@Corporate_Slave_00

構造物消失事案って何だよ。お役所言葉で誤魔化すな。

「謎のバケモノ(黒鯨)にビルが食われました」って正直に言え!

……いや、正直に言われたらそれはそれでパニックになるから、やっぱ言わなくていいです。


@Cynical_Otaku

「近づかないでください(懇願)」

「撮影目的での接近は極めて危険です(ガチギレ)」

政府のメッセージ、言葉を選びすぎて意味分からんことになってるけど、とりあえず「マジでヤバいから近づくな」ってことだけはヒシヒシと伝わってくる。


@Risk_Hedge_Bot

でもさ、今回の政府の対応、妙に有能じゃないか?

事件がこれだけ連続してるのに、今のところ犠牲者ゼロだぞ。警察と消防の避難誘導が完璧すぎる。

イギリスの魔女の時なんて、軍隊がパニックになって発砲して全滅したんだぜ。それに比べたら、日本の「とにかく理由を言わずに逃がす」っていう初動は、アーティファクト対応としては100点満点だと思う。


@Occult_Sleuth_Z

>>@Risk_Hedge_Bot

有能すぎて怖いんだよ。

昨日からずっと言われてるけど、絶対に事前に『何か(黒鯨の法則)』を知ってた動きだろ。

今日の会見でも、官房長官は「黒化したら逃げろ」としか言ってない。「なぜ黒くなるか」「どうやって防ぐか」には一切触れてない。

つまり、政府は「防ぐ方法はない(迎撃できない)から、食われるビルは諦めて人だけ逃がす」っていうモグラ叩き戦法トリアージをやってるんだよ。


@Pol_Sci_Expert

オカルト界隈の推測が、今回は的を射ています。

政府が防衛出動を否定した理由は、「相手が物理的な兵器(ミサイル等)で撃墜可能な存在ではない」とすでに理解しているからです。迎撃不可能な空の怪物に対し、無駄に自衛隊を出動させて被害を拡大させるよりは、警察力による『避難』に全振りする。

極めて冷酷で、合理的な判断です。


大衆は、官房長官の短い言葉の裏にある「国家の絶望的な手詰まり感」を、ネットの集合知によって正確に言語化し、解体していった。


そして、その「政府はすでに黒鯨の法則を知っている(隠蔽している)」という疑念を、さらに決定的なものにする【リーク情報】が、深夜のネット掲示板に投下された。


***


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【流出】警察の内部通達の文面手に入れたけど、これ完全に「消える」の分かってたぞ


深夜2時過ぎ。

人の目が最も少なくなるその時間帯に、匿名掲示板に一枚の画像がアップロードされた。


1 :名無しさん@涙目です

知り合いの警察関係者(身バレ防ぐため詳細は伏せる)から、昨日全国の警察本部・所轄に回ってきた極秘の緊急通達の文面見せてもらった。

これ、マジでヤバいぞ。


2 :名無しさん@涙目です

うp


3 :名無しさん@涙目です

(画像アップロード:警察の内部文書らしきペーパーをスマホで撮影したもの。ヘッダーや日付、発信元の一部は黒塗りで隠されているが、警察庁あるいは内閣危機管理監からの通達形式であることは読み取れる)


『……黒化建造物への物理的接触、内部への進入を厳重に禁止する。

 ……対象は【消失前兆】である可能性が高く、内部人員を最優先で退避させよ。

 ……撮影者・配信者の接近を物理的に阻止せよ。

 ……黒化表面への接触は【人体ロスト】の危険あり』


4 :名無しさん@涙目です

「消失前兆」ってハッキリ書いてあるじゃねーか!!!!


5 :名無しさん@涙目です

政府、完全に消えるの分かってたんじゃん!

だからあんなに狂ったように避難させてたのか。


6 :名無しさん@涙目です

「人体ロストの危険あり」

うわあああああああ。

触ったら消える(食われる)のかよ。初日に札幌の配達員が「手袋が消えかけた」って言ってた証言、ガチだったんだな。


7 :名無しさん@涙目です

でもさ、なんで政府は「黒くなったら消える」って知ってたんだ?

札幌の事件の前から知ってたってこと?


8 :名無しさん@涙目です

もしかして、政府の地下施設とかで、すでに小さい黒鯨みたいなのを飼ってて(研究してて)、そいつが逃げ出したとか? バイオハザード的な。


9 :名無しさん@涙目です

いや、日本なら「出雲の神域」とか「与那国島のAI」のアーティファクトから、何らかの予言データを受け取ってたんじゃないか?

「これから日本に巨大な黒い鯨が来るから気をつけろ」って。


10 :名無しさん@涙目です

どっちにしろ、政府は「黒鯨」の正体を知ってる。

知ってるのに、俺たちには「原因不明の建材の変質です」って嘘をついてる。

……これ、もし次に狙われるのが「俺たちの住んでるビル」だとしたら、政府は事前に教えてくれるのか?


11 :名無しさん@涙目です

教えてくれるわけないだろ。パニックになるからな。

「あ、黒くなりましたね。じゃあ逃げてください」って、事後報告ギリギリで対応する気だぞ。


12 :名無しさん@涙目です

怖すぎる。

自分の家や会社が、明日急に黒く染まり始めるかもしれないんだぞ。

しかも、触ったら【人体ロスト】だぞ。骨も残らない。

もう高い建物には近づかない方がいい。


警察の内部通達の流出は、瞬く間にSNSで拡散され、政府の「有能な避難対応」への評価を、「何を隠しているのか」という強烈な不信感と恐怖へと反転させた。


黒鯨は実在する。

触れれば人体ごとロストする(食われる)。

そして、政府もそれを知っている。

しかし、それが【次にどこに現れるか】は、誰も教えてくれない。


見えない巨大な口が、日本列島の上空をゆっくりと泳いでいる。

いつ、自分の頭上の天井が黒く染まり、虚空へと飲み込まれるか分からない。

その得体の知れない恐怖が、日本中の夜を、誰一人として安らかに眠ることのできない「不眠の夜」へと変えていた。


***


首相官邸地下。既存技術外事象評価セルの会議室。

深夜にもかかわらず、矢崎総理、沖田室長、三神編集長たちは、モニターに次々と流れてくるネットの反応と流出文書の画像を前にして、重い沈黙に沈んでいた。


「……警察の通達が、漏れましたね」

情報機関の幹部が、苦々しい顔で報告した。

「全国の末端の警察署にまで一斉に下ろした指示ですから、ある程度の情報漏洩は覚悟していましたが……『消失前兆』と『人体ロスト』という単語がそのまま出たのは痛い」


「ネットではすでに、政府が黒鯨の正体を隠蔽しているという陰謀論が爆発しています」

内調の分析官が、トレンドのグラフを示しながら言う。

「パニックの度合いは、札幌の初日の比ではありません」


矢崎総理は、こめかみを押さえ、深いため息をついた。

「……隠蔽している、ね。

 私たちが知っているのは、『星を映す匣』が見せた、あのスカイツリーが食べられる不気味な映像だけだというのに」


「大衆は、政府を全能だと思いたがるものです」

三神編集長が、コーヒーを啜りながら、どこか他人事のように言った。

「“政府は何も解決策を持っておらず、ただ後手後手で逃げ回っているだけだ”という絶望的な真実を認めるよりは、“政府はすべてを知っていて、何か秘密の計画のために隠しているのだ”という陰謀論を信じた方が、まだ精神の安定を保てるんですよ。……怒る対象(悪者)がいた方が、人間は安心できる」


「皮肉なものですね」

沖田室長が、冷たい声で言う。

「我々が有能に避難誘導を成功させればさせるほど、大衆は『政府は最初から知っていた(だから隠している)』と疑念を深める」


「ですが、避難誘導をやめるわけにはいきません」

総理は、きっぱりと言い切った。

「建物は消えても、人は死なせない。……それが、この黒鯨事象における、我々の【最低限の防衛ライン】です」


「ええ。その防衛ラインは、今のところ完璧に機能しています」

沖田は、手元のタブレットの全国マップを確認した。

「この三日間。札幌、仙台、広島、鹿児島、新潟と連続していますが……人的被害は依然として【ゼロ】です。

 黒鯨は、我々が避難を完了させるまで、まるで『待ってくれている』かのように、完全に無人になってから建物を捕食しています」


「……そこが、不気味なんですよね」

三神が、目を細めてモニターの消えたビルの跡地を見つめた。

「なぜ、彼らは人間を食わないのか。

 ……人間に対する慈悲(配慮)なのか。

 それとも、単純に『コンクリートの柱』だけが好物で、人間という有機物ノイズが混ざっていると美味しくないから、我々がどくのを待っているだけなのか」


「どちらにせよ、彼らの捕食のルール(条件)が崩れない限り、我々は逃げ続けることができます」

防衛省の幹部が、少しだけ希望を見出すように言った。


だが。

沖田室長は、タブレットのマップ上に新たに表示された【次なる黒化の兆候】を示す赤いアラートを見て、顔を強張らせた。


「……総理」

沖田の声が、一段階低く、重くなった。

「新たな黒化事案の報告が、入りました」


「どこ?」

総理が身を乗り出す。


沖田は、マップを拡大し、その地名を読み上げた。


「……群馬県、高崎市。

 さらに、栃木県、宇都宮市。……ほぼ同時の発生です」


会議室の空気が、一瞬で張り詰めた。


「群馬と、栃木……?」

外務省の担当官が、地図上の位置関係を見て、息を呑んだ。


北海道。東北。中国地方。九州。

これまで、日本列島の外側(縁辺部)をランダムに荒らし回っていた黒鯨が。

三日目の夜明けを前にして。


……ついに、【関東圏】の入り口へと、その巨大な口を向けてきたのだ。


「……包囲網が、縮んできています」

三神が、静かに、しかし絶対的な恐怖を込めて言った。


「味見(前菜)は終わった、ということですか」

総理が、血の気の引いた顔で呟く。


「ええ」

三神は、真っ直ぐに総理を見つめ返した。

「黒鯨は……いよいよ、本命メインディッシュである【東京】へ向けて、進軍を開始したと見るべきでしょう」


日本のネット大衆は、まだ「政府の隠蔽」や「人体ロストの恐怖」という、足元の怪談で騒いでいる。

だが、政府の中枢だけは、すでにその怪談の終着点――日本の象徴である東京スカイツリーが、黒い巨体に丸呑みにされるという最悪の未来図――を、はっきりと幻視していた。


三日目の夜が明けようとしている。

黒鯨の捕食は、ここからさらに速度を上げ、そして残酷さを増していくことになる。







【第5章 4日目:発生地点が円を縮めているとネットが気づく】


黒化消失事件の発生から4日目の朝。

日本列島を覆う空気は、前日までの「得体の知れない怪事件への興奮」から、「いつ自分の身に降りかかるか分からない現実の災害」への明確な【恐怖】へと変質していた。


テレビをつければ、どのチャンネルも臨時ニュースを報じている。画面の端には常に「黒化建造物には絶対に近づかないでください」という政府からの警告テロップが固定され、アナウンサーたちは疲労を隠しきれない顔で、昨日までに消失した建物のリストを繰り返し読み上げていた。

SNSのタイムラインは、もはや日常の呟きなど完全に影を潜め、どこで黒い染みが出た、どこで警察が道路を封鎖した、という不確かな目撃情報とデマが入り乱れる、殺伐とした戦場と化していた。


そして、この4日目。

事態は、さらに不気味で、そして残酷な様相を呈し始める。


「黒鯨」――ネットの集合無意識がそう名付けた見えない怪物は、この日、これまで以上に発生のペースを上げ、そしてその標的を明確な【意図】を持って選び始めたのだ。


午前8時15分。

群馬県高崎市。通勤客が足早に行き交う高崎駅西口の目の前にある、全面ガラス張りの真新しい高層オフィスビル。

その中層階の壁面に、突如として真っ黒な染みが現れた。


午前10時30分。

栃木県宇都宮市。郊外に広大な敷地を持つ、休日には他県からも客が訪れる大型アウトレットモール。

まだオープンして間もないその巨大な商業施設の、シンボルでもある中央の時計塔が、根元からドス黒いインクを吸い上げるように染まり始めた。


午後1時20分。

茨城県水戸市。県庁舎からほど近い、ガラスと鉄骨が複雑に組み合わさった近代的な公共施設。

昼休みで周囲に人が多い中、その建物の正面玄関が、光を一切反射しない虚無の黒へと変貌を遂げた。


午後3時45分。

千葉県某所。東京湾沿いに立ち並ぶ、巨大な物流倉庫群の一つ。

日本の物流の血液とも言えるその巨大な箱が、海風の中で音もなく黒に飲み込まれていく。


午後5時10分。

神奈川県横浜市。みなとみらい地区の中心に位置する、休日はカップルや家族連れでごった返す大型商業施設。

夕暮れの空の下、その特徴的な外観の一部が、影絵のように真っ黒に切り抜かれた。


これら五つの事案に対し、警察と消防の対応は、もはや感情を交えない完全な【マニュアル作業ルーチン】と化していた。


黒化の第一報が入るか入らないかのタイミングで、周辺の道路は機動隊の車両によって物理的に封鎖される。

拡声器を持った警官たちが現場に雪崩れ込み、有無を言わさず建物の内部と周辺から人々を押し出す。

「走れ! 振り返るな! 黒い壁を見るな!」

怒号が飛び交う中、避難が完了し、無人となった建物が、数十分のタイムラグの後に、音もなく空間から削り取られて消滅する。


犠牲者はゼロ。

その完璧すぎる対応は、現場の警察官たちの血の滲むような努力の結晶であったが、ネットの向こう側から見れば、それは「狂気の沙汰」に見えた。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


@Kanto_Watcher_00

おいおいおい、今日ペース早すぎないか!?

高崎、宇都宮、水戸、千葉、横浜……って、朝から息つく暇もなく消えてるぞ!


@News_Junkie_JP

警察の動きがヤバい。もう「火事だ」とか「化学物質だ」とか言い訳するのすらやめてる。

「黒くなった! 逃げろ!」しか言ってない。

完全に『そういう災害(現象)』として処理し始めてる。


@Corporate_Slave_00

人が死んでないのは奇跡だけどさ、これ逆に言うと「建物が食われること自体はもう誰も止められない(諦めてる)」ってことだろ?

防御不能のバケモノに、日本中が食い荒らされてるのを見ていることしかできないのかよ。


だが。

この日、ネットの特定クラスタ――地理・気象マニア、災害マップ職人、鉄道の遅延情報をリアルタイムで分析するアカウントなど、いわゆる【データ可視化勢】たちが、バラバラに発生しているように見えたこれらの事案の裏に隠された、ある恐ろしい【法則性】に気づいてしまったのだ。


発端は、ある一人のアマチュアデータアナリストの呟きだった。


@Geo_Mapper_JP

皆さん。昨日からずっと、今回の「黒化消失事件」の発生地点のデータを集めて、地図上にプロットする作業をやってたんですが。

……ちょっと、背筋が凍るようなことに気がついてしまいました。

これ、無差別なランダム攻撃じゃないかもしれません。


そのアカウントは、一つのGIF動画をタイムラインに投下した。


それは、日本地図の上に、黒化事案が発生した時間順に、赤いピンが打たれていくアニメーションだった。


最初の1日目。

赤いピンは、札幌に一つだけポツンと打たれた。


2日目。

ピンは、仙台、広島、鹿児島と、日本の北と南にバラバラに飛んだ。

この時点では、誰もが「日本全土を無差別に狙っている」と思っていた。


だが、3日目。

金沢、松山、新潟……。

打たれるピンの位置が、少しだけ内側(本州の中心寄り)に移動しているように見えた。


そして、今日、4日目のデータ。

高崎、宇都宮、水戸、千葉、横浜。


@Geo_Mapper_JP

今日の発生地点を見てください。

見事に、「関東地方の縁辺部」をぐるりと囲むように発生しています。

そして、これまでの1日目からの発生地点の「重心(中心点)」を計算して、ピンを繋ぐように円を描いてみると……こうなります。


アニメーションの中で、日本列島をすっぽりと覆う巨大な【赤い円】が描かれた。

そして、時間が進むにつれて、その円は、外側から内側へと、まるで絞り込まれるように、ギュウゥッと【縮小】していったのだ。


@Geo_Mapper_JP

……お分かりでしょうか。

発生地点の【円(包囲網)】が、外側から内側へと、ものすごいスピードで縮んできています。


その「データ可視化」の投稿は、数分のうちに数千リポストされ、一時間後には五万リポストを超え、日本中のタイムラインを絶望的な恐怖で埋め尽くした。


ネット民たちは、言葉を失った。


「……やめろ」

「それ言うな。気付きたくなかった」

「これ……包囲網じゃん」


@Disaster_Data_Bot

@Geo_Mapper_JP さんのデータを検証しました。間違いありません。

黒鯨は、日本列島の外側から少しずつ「味見(捕食)」しながら……明確な【方向性ベクトル】を持って進軍しています。

そして、この円が収束していく『中心点』は……。


@Corporate_Slave_00

【東京】に向かってるってことだろ!?

日本列島を外側から食い荒らしながら、少しずつ、確実に、東京に近づいてきてるんだ!!


@Cynical_Otaku

怪獣映画のセオリー通りじゃねーか。

地方に上陸して、目につく建物を壊しながら、最後は首都(東京)で大暴れするやつ。

でも今回は、足音も立てずに、海からじゃなくて空から、静かに、確実に「円を狭めてきてる」のが不気味すぎる。


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【絶望】黒鯨さん、綺麗に円を描きながら「東京」に向かっている模様


1 :名無しさん@涙目です

解析班の作った地図のアニメーション見たか?

見事に東京を包囲するように食ってきてるぞ。


2 :名無しさん@涙目です

札幌→仙台→高崎→そして今日は千葉と横浜。

もう完全に「関東外縁部」まで来てるじゃねーか。


3 :名無しさん@涙目です

これ、明日には絶対に都内(23区内)に入るぞ。


4 :名無しさん@涙目です

なぁ、東京で【何を】食うつもりなんだよ……。

地方の巨大なショッピングモールや、何十階建てもあるオフィスビルを、ただの「前菜(味見)」にしてるバケモノだぞ。

こいつの【本命メインディッシュ】は、一体どれだけデカいんだよ。


5 :名無しさん@涙目です

「東京に向かってる」って事実がデータで裏付けられた瞬間、急に現実味が増してきて吐きそう。

俺、明日も都内の会社に出社しなきゃいけないんだけど。


6 :名無しさん@涙目です

政府も絶対に、このデータ(円が縮小している法則性)に最初から気づいてるだろ。

だから警察の対応があんなにシステム化されてるんだ。

なんで東京から人を逃がさないんだよ! 早く都民を疎開させろよ!


7 :名無しさん@涙目です

>>6

逃がせるわけないだろ。東京圏の人口、何千万人いると思ってんだ。

「空から透明な鯨がビル食いに来るから、都外に避難してね」なんて発表して、誰がどうやって誘導するんだよ。パニックで道路も鉄道も麻痺して、逃げる途中で圧死するわ。


8 :名無しさん@涙目です

それに、黒鯨が「東京のどこ」のビルを狙ってるかまでは、あの円のデータだけじゃ分からない。

新宿の高層ビル群か、丸の内か、渋谷のスクランブルスクエアか。それともお台場か。

狙いが絞れない以上、政府は「黒くなったら、そのビルだけをピンポイントで逃がす」っていう、今のモグラ叩き戦法(防衛線)を続けるしかないんだよ。


9 :名無しさん@涙目です

つまり、完全に詰んでるじゃん。


10 :名無しさん@涙目です

東京の皆さん、上を向いて歩こう。

自分の頭の上の空が水面みたいに歪んだり、ビルの壁が黒く染まったら……そこが今日の終わりの場所だ。


「東京に向かっている」。

この残酷な事実が、冷徹なデータによって可視化されたことで、首都圏を覆う緊張感は限界を超えようとしていた。


人々は、自分たちの働くオフィスビルを、住んでいるタワーマンションを、そして見慣れた東京のスカイラインを、恐怖と疑心暗鬼の目で見上げるようになった。

晴れ渡る秋の青空が、いつ、すべてを飲み込む「黒い虚無」へと反転するのか。


同じ頃。

首相官邸地下の既存技術外事象評価セルでも、このネット上の【気付き】は即座に共有されていた。


「……総理。ネットの解析班が、黒鯨の侵攻ルート(円の縮小)に気づきました」

内調の分析官が、大型モニターにSNSで拡散されている赤い円のGIF動画を映し出しながら、重い声で報告した。

「『東京に向かっている』という情報が、完全に拡散されました。首都圏のパニック指数はレッドゾーンを振り切っています。買い占めや、自主的な都外への避難を始める動きも出始めています」


矢崎総理は、眉間を深く揉みほぐしながら、重い息を吐き出した。

「……いずれ気づかれるとは思っていましたが。情報の拡散速度が、我々の想定を超えていますね」


「今の時代、データを隠し通すことは不可能ですからね」

三神編集長が、円が縮小していくモニターの地図を見つめながら、ポツリと言った。

「これで、日本中が知ってしまった。……黒鯨の狙いが、この国の心臓部であることを」


沖田室長が、冷徹な目で総理を見る。

「総理。パニックを防ぐための建前(化学物質など)は、もう通用しません。……首都圏の警察と自衛隊に、最高レベルの警戒態勢(防衛出動の準備)を敷くべきです」


「……分かっています」

矢崎総理は、決断の重さに耐えるように目を閉じ、そして、鋭く目を開いた。

「東京の『象徴』を守るための、最終防衛線の構築を急ぎなさい。……富士の地下の【あれ】の準備状況はどうなっていますか?」


「高槻一尉は、いつでも出られる状態です」

沖田が即答する。「しかし、あれを使うことのリスクは……」


「承知の上です」

総理は、言葉を遮った。

「東京が食われるのを黙って見ているくらいなら、神話の刃を抜くしかない。……だが、それまでは、限界まで我慢します。被害を最小限に抑えながら」


日本政府が極秘裏に準備を進める中。

ネット空間の恐怖は、さらに具体的な【次なる標的】の予測へと向かっていた。


「なぁ。黒鯨って、今まで『地方で一番目立つ建物(象徴)』を食ってきたよな?」

「うん」

「じゃあ……東京で、一番目立つ『象徴』って、なんだ?」


その問いかけに、ネットの海は一瞬の静寂の後、一つの巨大な結論へと収束していった。


それは、誰もが思い浮かべ、そして誰もが「それだけはやめてくれ」と願う、日本の現代文明を貫く、巨大な柱の名前だった。






【第6章 5日目:学校・大型施設が対象になり、全国ホラーパニック】


黒化消失事件の発生から5日目。

この日を境に、事態のフェーズは完全に、そして決定的に変わった。


これまでの四日間、空を泳ぐ見えない怪物『黒鯨』が捕食の対象として選んでいたのは、主に巨大なオフィスビル、商業施設、ホテル、コンベンションセンターといった「大人のための無機質な大型建造物」であった。

もちろんそれらが消滅するインパクトは計り知れなかったが、どこか「資本主義の巨大な箱が削られている」という、一般大衆の日常生活からはギリギリ一枚の壁を隔てた出来事として受け取られていた部分もあった。


だが。

5日目、黒鯨はついに、人々の生活の根幹であり、感情(愛着や庇護欲)に最も直結する【聖域】へと、その黒い牙を剥き始めたのである。


午前8時30分。

関東近郊、埼玉県にある県立高校。

抜けるような秋晴れの空の下、朝のホームルームが始まり、生徒たちがまだ眠い目をこすりながら担任の連絡事項を聞いていた、ごくありふれた日常の風景。


「……おい、なんだあれ」


校庭に面した三階の教室。窓際の席に座っていた一人の男子生徒が、ふと外を見て声を上げた。

彼の視線の先にあるのは、三年前に建て替えられたばかりの、真っ白な壁面が眩しい新校舎(特別教室棟)。

その白い壁の中央、美術室の窓のすぐ下あたりに。

まるで、見えない巨人が巨大な筆で墨汁をなすりつけたように、ドス黒い【染み】が張り付いていたのだ。


「え、なに? ペンキ?」

「違う、動いてる……壁が、黒くなってる……?」


教室がざわめき始めた次の瞬間。

けたたましい非常ベルの音とともに、校内放送のスピーカーが、耳をつんざくようなハウリング音を立てて起動した。


『緊急避難!! 緊急避難!!』


スピーカーから響いてきたのは、冷静な教頭の声などではない。マイクを握りしめた生活指導の体育教師の、裏返ったような、血気迫る【絶叫】だった。


『新校舎、および本館の全生徒は、直ちにカバンを置いて、校庭の南端、フェンス際まで走って避難しなさい!! 繰り返す! 上履きのままでいい! 絶対に壁に触れるな! 窓の外を見るな! 走れ!!』


そのアナウンスは、通常の避難訓練のマニュアルを完全に逸脱していた。

実はこの日の早朝、県警本部から各教育委員会を通じて、全国の学校長宛てに「黒化事案発生時の極秘マニュアル」が緊急通達されていたのだ。

「黒化を確認した場合、出欠確認は後回しにしろ」「黒い壁に触れた生徒はロストすると思え」「一秒でも早く建物の外へ放り出せ」。


「きゃあああああっ!!」

「火事!? なに!? なんなの!?」

「いいから走れ!!」


担任教師が顔面を蒼白にしながら教室のドアを蹴り開け、生徒たちを廊下へと押し出す。

パニック状態に陥った千人近い生徒たちが、階段を駆け下り、靴を履き替える暇もなく、上履きや靴下のままグラウンドへと雪崩れ込んだ。

泣き叫ぶ女子生徒。スマートフォンを取り出して動画を回し始める男子生徒。怒号を飛ばして列を急がせる教師たち。


そして、全員がグラウンドの端まで到達し、振り返った時。


『シューゥゥゥゥ……』という、空気が吸い込まれるような微かな音とともに。

彼らの目の前で。

黒く染まりきった三階建ての新校舎が。

中にあったはずの机も、黒板も、図書室の大量の本も、吹奏楽部の楽器もすべて丸ごと……空間から、スッ、と切り取られるように【消滅】した。


ガラガラという崩壊音は一切ない。

ただ、そこにあったはずの巨大な質量が、一瞬にして『無』に帰したのだ。


「…………えっ?」


千人の生徒と教師が、完全な静寂の中で、ぽっかりと空いた青空と、綺麗に水平に削り取られた校舎の基礎のコンクリートを見つめていた。


この瞬間の動画が、恐怖に震える生徒たちの手によって、即座にネット空間へと放たれた。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


@HighSchool_Student_A

やばいやばいやばいやばい!! うちの学校が食われた!!

校舎が一個丸ごと消えた!! 死ぬかと思った!!

[動画:泣き叫ぶ生徒たちの声と、校舎が音もなく消滅した直後の、不自然に綺麗すぎるグラウンドの空白を映したブレた映像]


この動画が拡散された瞬間。

日本のネット空間、特に子供を持つ親たちの間で、これまでとは全く次元の違う【発狂にも似たパニック】が巻き起こった。


「学校も食うのかよ!!?」

「子供がいる場所はやめろ!! 頼むからやめてくれ!!」

「もう全国一斉休校にしてくれ! なんで今日学校に行かせてるんだよ政府は!!」

「これ、もし避難が遅れてたらどうなってたんだ!? 教室に子供が残ったまま、空間ごと消されてたかもしれないんだぞ!」

「怖い怖い怖い! 今すぐ娘を学校に迎えに行ってくる!!」


これまでは「大人の自己責任」の範疇に収まっていた恐怖が、「無抵抗な子供たち」へと向けられたことのインパクトは絶大だった。

黒鯨には、人間の倫理観など一切通用しない。ただ「目立つ象徴(建物)」を機械的に喰い散らかしているだけだという残酷な事実が、大衆の心臓を鷲掴みにした。


だが、悪夢はこれで終わらない。

学校消失の恐怖が冷めやらぬ午後1時。

今度は、最も避難が困難であり、絶対に狙われてはならない場所が標的となった。


都内近郊の、ベッド数五百を超える巨大な【総合病院】である。


@Medical_Worker_T

助けてください!! 病院の第3病棟の外壁が、黒く染まり始めました!!

今、警察と消防が雪崩れ込んできて、全員避難しろと言っていますが、無理です!

歩けない高齢者の患者さんや、人工呼吸器に繋がれている重篤な方がたくさんいます!!

時間が足りない!! 間に合うか分からない!!


その悲痛な叫び(ポスト)は、瞬く間に何万回もリポストされ、日本中のネット民が祈るような気持ちで画面に釘付けになった。


現場の避難状況は、想像を絶する地獄絵図だった。

黒化が進むと同時に、エレベーターは完全に機能停止し、電波も遮断される。

医師、看護師、そして駆けつけた警察官と消防のレスキュー隊員たちが、階段を使って、ベッドごと、あるいは患者を背負って、必死の形相で外へ運び出す。


「急げ!! もう一階は完全に真っ黒だ!!」

「点滴の管を持て! ストレッチャー通るぞ!!」

「第3病棟の五階、まだ残っている人はいませんか!!」


タイムリミットが刻一刻と迫る中、ついには要請を受けた自衛隊の災害派遣部隊(防護服を着用した隊員たち)までもが装甲車で乗り付け、人海戦術で患者を引きずり出していく。

窓ガラスが次々と漆黒に塗り潰され、病棟が完全に闇に沈もうとするその直前。


「最後の一人、出ました!! 内部クリア!!」


自衛隊員が、酸素マスクをつけた高齢の患者を抱きかかえて玄関から飛び出した、まさにその十秒後。


巨大な第3病棟が。

音もなく、空間の彼方へと消滅した。


@Medical_Worker_T

……ギリギリで、本当にギリギリで、全員の避難が完了しました。

直後に、第3病棟が完全に消滅しました。

医師も看護師も、外の駐車場でみんな泣き崩れています。

病院が……私たちの命を救うはずの病院が、食われました。


ネット上には、安堵の息と同時に、底知れぬ【都市機能喪失への絶望】の波が押し寄せた。


[5ちゃんねる:ニュース速報板]

スレタイ:【悲報】黒鯨さん、ついに学校と病院を食い始める。日本終了のお知らせ


1 :名無しさん@涙目です

病院はマジでやめろよ……。

映像見たけど、点滴引きずりながら逃げてる患者さんとかいて、本当に地獄だったぞ。


2 :名無しさん@涙目です

これ、もし避難が1分でも遅れてたら、寝たきりの患者ごと空間に削り取られてたってことだろ?

想像しただけで吐き気がする。


3 :名無しさん@涙目です

政府と自衛隊、対応早すぎて逆に怖いレベルだけど……今回は本当に助かってよかった。

現場で患者背負って走ってた自衛隊員と看護師さん、マジで英雄だわ。


4 :名無しさん@涙目です

でもさ、消えた病棟に入院してた人たち、明日からの治療どうするんだよ?

医療器具も薬もカルテも、全部病棟ごと消滅したんだぞ。

被害はゼロじゃない。都市の機能が確実に「物理的に」削られていってる。


5 :名無しさん@涙目です

学校が消えて、病院が消えて。

これ、完全に【人間の生活インフラ】を餌にしてるじゃん。

「建物を食ってるだけだから安心」とか言ってた奴、息してるか? このままじゃ、日本という国そのものが機能不全になって死ぬぞ。


そして、その日の夕方。

極度のパニック状態にある社会に、さらなるストレスをかける事件が発生する。

郊外の超大型ショッピングモールで黒化事案が発生した際のことだ。


休日前の夕方ということもあり、モール内は家族連れや若者でごった返していた。

黒い染みが現れた瞬間、館内は完全なパニック状態となり、人々は悲鳴を上げて出口へと殺到した。

警察機動隊が盾を構えて必死に誘導線を確保する中、一人の【承認欲求に憑りつかれた動画配信者】が、最悪の行動に出たのである。


@Mall_Shopper

今逃げてる最中なんだけど、ヤバい奴がいた!!

みんなが出口に走ってるのに、自撮り棒持ったYouTuberみたいな男が、逆走して黒くなった壁の方に向かっていったぞ!

「今からこの黒い壁に触ってみまーす! みんなスパチャよろしく!」とか叫んでた!


その直後、現場を警戒していた警察の特殊部隊員三名が、その配信者に対して、文字通り【殺意すら感じさせるほどの強烈なタックル】を食らわせ、コンクリートの床に顔面から叩き伏せたのだ。


「動くな!! 殺す気か貴様!!」

「スマホを取り上げろ! 叩き割れ!!」


機動隊員たちのその異常なまでの制圧の様子が、別の逃げ遅れた客のカメラに収められ、拡散された。


ネットの反応は、この手の野次馬配信者に対して、かつてないほど冷酷で、そして本質的な恐怖を突いていた。


[X(旧Twitter) / タイムライン]


@Enraged_Citizen

配信者マジで邪魔。死ねよ。

警察はそいつ撃ち殺しても正当防衛になるレベルだろ。


@Rational_Thinker

「黒化施設に凸するな」って政府がキレ気味に言ってた理由がよく分かる。

もしそいつが触って消滅したせいで、黒鯨が『あ、この建物の中にいる小さい有機物(人間)も、一緒に食ったら結構美味しいじゃん』って学習したらどうするんだよ!!

人類全体への反逆罪だろこんなの!


@Occult_Sleuth_Z

これ、「情報そのもの」が危険(情報災害)なんじゃないか?

アーティファクトってのは、人間の『認識』に反応して出力が上がる性質を持ってるものがある(イギリスの魔女がそうだった)。

もし、あの配信者が「壁に触って消える」っていう決定的な動画を全世界にライブ配信して、数千万人がそれを目撃してしまったら……『黒鯨は人間を食う』っていう【概念ミーム】が確定して、本当に人間を無差別に食い始める怪物に進化するかもしれない。


@Crisis_Management_Bot

政府が撮影を厳重に規制し、警察が配信者を物理的に排除しているのは、パニック防止だけではないでしょう。

【怪異の解像度を上げさせない(大衆に深く認識させない)】ための、必死の防衛策です。


「学校が消えた」「病院が消えた」「モールが消えた」。

日常を支えるインフラが、次々と音もなく消去されていく。


そして、その現象の包囲網は、間違いなく【東京】という巨大な心臓へ向かって、最後のカウントダウンを刻み始めていた。


「日本が食われて終わる」

「外側から建物を食って、最後に東京を食うつもりだ」

「東京の象徴が消えたら、日本人の心は完全に折れるぞ」

「次はどこだ? 皇居か? 国会議事堂か? スカイツリーか?」

「やめろ、言うな。名前に出すな。認識するな!」


日本中が、極限の恐怖と疑心暗鬼のるつぼと化していた。

人々は、もはや自分の家すら安全ではないのではないかと怯え、意味もなく天井を見上げては夜を明かした。


そして、この「日本の沈没」とも言える未曾有の事態は、ついに海を越え、海外のネット空間とインテリジェンス機関の本格的な【注目と監視】を集めることになる。

世界は、日本がこの「見えない空の怪物」に対して、どのような最期を迎えるのかを、固唾を飲んで見守り始めていた。




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