六十五回分の口実
絵里と相良がいなくなった屋上で、化野は憮然として腕を組んだ。
不敵な笑みを赤い唇に乗せて、九尾は化野を見つめる。
「やっと二人きりになれたねえ」
「気味の悪いことを言うな」
「もう、河童はなんでおれにだけそんなにつれないかなあ」
わざとらしく拗ねる九尾に、化野は顔を顰めた。
「与一とかいう男を妖怪にしたのもお前だな」
「わあ、会ったんだ与一くんと」
「白々しい」
「えへへ。どうだった? 与一くん、すごいでしょ? ――愛する人を殺して嘆くところにばったり遭遇してね、傑作だったから手を貸してあげたんだ。おれって優しいなあ」
九尾はむんと胸を張った。人間を妖怪にするなど、そんなことが出来るのはおそらくこの九尾くらいだろう。この妖怪の力が絶大であることだけは、化野でさえ認めざるを得ない事実だった。
「でもねえ、結構大変なの。まだ誰でも妖怪に出来るって訳でも無いし。与一くん以外にも実験台は用意したんだけど、上手くいったのは彼だけだったなあ。みんな何年かしか持たなかったもん。やっぱり、ある程度の霊力がある人間じゃないと難しいのかも」
「それで相良をそそのかしたのか」
「人聞きがわるーい。さっきの女にも言ったけど、おれは相良くんを助けてあげようとしたんだよ。この優しさがどうしてわからないかなあ」
「どうせ、妖怪にした後で自由にさせる気などなかっただろうが」
「えっどうしてわかるの? 以心伝心? おれたちって相性ぴったり?」
これだから九尾と会話などしたくないのだ。化野が口を閉ざすが、九尾は意に介さずに一人で話し続ける。
「妖怪にして、サンプルにしようと思って。妖怪は減っていくのに人間は増えていくばっかりでしょ? 人間を妖怪にしていくって、いい発想じゃない? 人間が減って妖怪が増えて、一石二鳥!」
よく回る舌だ。九尾には、化野が何を言っても聞かないだろうと思われた。面倒なのは、こんな餓鬼臭い理論に賛同する妖怪が多い事だ。あの雪女をはじめ、上位の妖怪の中にも九尾派がいる。上位の妖怪はたとえ女でも化野の妖気を浴びないようにする術を持っている者が多く、やっかいだった。
「とにかく、私の弟子に今後一切手を出すな」
「うーん……河童がおれのものになるならいいよ」
「断る」
即答する化野に、九尾は唇を尖らせた。
「どーしてさー。おれが男だから? 妖狐の性別なんて気にする方が野暮だよ? いくらだってリクエストに応えてあげるのに。美女がいいの? それとも実はロリコン?」
「男でも女でも、関係ない。……お前は玉藻じゃない。たとえ生まれ変わりだろうがな」
九尾は端正な顔をグニャグニャにして、歯ぎしりする。
どうしても、化野にはこの男が受け入れられなかった。その相貌や言動に彼女の面影がちらつく度に、耐えられなくなる。
彼女――玉藻前は、一人でいい。魂の一部では、彼女ではない。
化野は九尾に背を向けた。
彼女が死んで、もう何百年が経っただろう。数えるのも止めてしまった。
宮中にそれはそれは美しい女官がいるのだと、噂を聞いて会ってみようとすぐ思い立った。
色恋沙汰には足を突っ込みたくなる。河童の性分だった。
女妖怪の誘いを全て断り、その日の晩に宮中へ向かった。
美しい女官の名は玉藻前というらしい。その輝くような美貌で帝の寵愛を受けているとの話だ。
帝の女を色狂いにする。なんとも愉快だ。河童は軽い足取りで宮中へ忍び込んだ。
しかし、そんな余裕は、彼女を前にした瞬間に消え去った。
玉藻前は文字通りに輝く美しさを持っていた。
彼女を照らす月の色をそのまま映したような金色の長い髪。消え入りそうに白い肌。見た者全てを魅了するであろう切れ長の瞳。
小さな唇に柔和な微笑みを浮かべ、玉藻前は侵入者を一瞥する。
「あら、素敵な河童さん」
「……お前、人ではないな」
「まあ。そのようなお言葉、初めて交わすには野暮ではありません?」
鈴が転がるように彼女は笑った。
河童が女を誑かす妖怪であるならば、玉藻前もまた男を魅了する妖怪であった。
どちらがより優れているのか、互いに駆け引きをしていた。
その日から、河童は宮中へしばしば通うようになった。ほんの二つばかり言葉を交わし、立ち去る。どちらが先に相手に惚れるか。互いに探り合う時間を重ねていった。
そんなとある日の事だった。帝が病に伏せったと宮中は大騒ぎになった。
「私は口づけで人の生命力を吸い取れますの」
しなやかな指先で唇を指し玉藻前は妖艶に目配せした。
「恐ろしいな」
「お試しになります?」
「それも一興か」
河童の返答に、玉藻前は驚いた様子だった。勝ち誇った気分でぐい、と肩を抱き寄せた。
帝の様態は日に日に悪化してゆき、医師でさえ原因がわからずに匙を投げる始末であった。 しかし、宮中に仕える陰陽師が帝を占い、事態は一変した。
病の原因は玉藻前であるとの結果が出たのである。これには玉藻前も逃げられなかった。
陰陽師の手によって変身を暴かれた玉藻前は、世にも美しい妖狐の姿をしていた。長い尾が九本も生えており、その神々しいまでの姿に皆が心を奪われた隙に宮中を脱走した。
妖狐がどこかへ逃げ去ったという噂は、すぐに河童の耳にも入った。帝によって討伐軍が派遣された事も。
河童が討伐軍を追って玉藻前のもとへ辿り着いた時には、彼女はもうほとんど息がなかった。
千を超えるであろう屍の中央で、美麗の妖狐は弓に射貫かれた体を横たえていた。
玉藻前は薄く開いた瞳で河童を見つけると、僅かに口の端を吊り上げた。
「どうしてこの様なところに?」
「それは私の台詞だ」
「確かにそうですわね」
もう笑う気力も残されていないようだった。
「ねえ河童さん。私の負けみたいですわ」
「何のことだ」
「……貴方をお慕いしております」
河童は目を見張った。
玉藻前の瞼はゆっくりと閉じられ、二度と開く事はなかった。金色の体の心臓から、狐火が上がった。その炎は空を舞い、どこか遠くへ飛んでいった。
目の奥から次々と熱いものが流れ出て、彼女の金色に輝く体躯にこぼれ落ちた。
その時、ようやく河童は気が付いたのだ。もうとっくに、自分は負けていたのだと。
――それから何百年もの月日が流れ、河童は一人の少年と出会い「化野」と名乗るようになった。
玉藻前が死ぬ間際に残した魂の一部は、一匹の妖狐に宿った。その妖狐は生まれながらに九つの尾を持ち、瞬く間に妖怪の頂点へ上り詰める事となる。
しかし、どれほどの妖怪を手下に従えても、魂が求める相手だけは手に入らなかった。
「ねえ相良くん」
絵里は服の上に引っ張り出したお守りを指先で摘まんだ。
横を歩く相良が首を傾げる。
「なんでしょう?」
「このお守り、返した方がいいよね?」
相良は目をぱちくりさせて足取りを緩めた。
「どちらでも構いませんよ。僕が触れなければ、そのうち効力も消えると思いますが……」
「そっか」
じゃあ、貰っておくことにしよう。妖怪が見られなくなる事が問題では無いのだ。
水たまりを飛び越える。相良はそれを見て笑って、同じように跳びはねた。
「あの、絵里さん」
「なあに」
「もしかしたら師匠からも言われるかもしれませんが、僕たち謝らなきゃいけないことがあるのです」
次は絵里が目をぱちくりさせる番だった。
申し訳なさそうに相良は眉尻を下げた。
「沙苗さんの事です。彼女が原因だと気付いた時点で取り払ってしまえば、絵里さんがあんな目に遭わずに済んだ筈なのです。犯人を捕まえるために絵里さんを利用してしまったと、師匠が後悔されていました。もちろん僕も。本当にすみませんでした」
「ああそんなこと」
口から滑り落ちた台詞に、自分でも驚いた。そんなことではないだろう。二度も死にかけたのに。
どうにも、相良に謝られてしまうと弱いのだ。……笑いかけられても、褒められても弱いけれど。
もう少しで駅に着いてしまう。
絵里と相良を繋ぐものは、残すところ相談料の支払いだけ。こうして言葉にするとなんとも悲しい関係だった。
それにしても、焦っていたとはいえさっきはとんでもない発言をしてしまった。
――私は相良くんに出会えてよかったよ。
自分で言った事なのに、脳裏を掠める度に叫び出したくなる衝動に駆られる。
言われた当の本人は、けろりとしているのに。
そんなに魅力無いだろうか。少しくらいどきどきしてもいいんじゃないのか。あんな、ほとんど告白みたいな……いや、考えるのは止めておこう。
「そうだ、じゃあお願いがあるの」
「な、なんなりと」
背筋を伸ばして、相良は緊張した面持ちで頷いた。沙苗がいなくなってからというもの、どうも、なんとなく、怯えられているように思えるのは気のせいだろうか。
沙苗の内気で泣き虫な性格は、絵里にも少なからず影響を与えていたのだろう。あれ以来、なんだか強くなれた気がするのだ。理由は沙苗だけではないのかもしれないけれど。
「相談料なんだけど」
「あ、もうお詫びに半分とかでも」
「もう結構割引して貰ったよ。……そうじゃなくて、ローンにして欲しいなって」
なんだ、と相良は胸を撫で下ろした。無理難題を言ってくるとでも思ったのか。
「構いませんよ、何回払いがよろしいですか?」
「六十五回」
「へ? それですと……」
「うん。一本ずつ持って六十五回行く」
鈍感な河童の弟子は、不思議そうに絵里を見た。
この気持ちがどれくらい本当のものなのか、自分でもまだわからない。
六十五回分の口実で、もしもこの気持ちが育ったなら、その時は口実なしで彼に会いに行こう。
ふと、電柱に貼られたチラシが目に入った。
見覚えのある禿げたペンギンのような絵が描かれている。河童のつもり、なんだろうけど。
「絵だけは下手だなあ」
「……なにか仰りましたか?」
ぽつりと呟くと、相良は笑って訊ねてきた。雲の間から顔を出した夕陽に照らされきらきらと眩しくて、絵里は「なんでもない」とそっぽを向いた。
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