現実と妄想の中間領域にて
時速八十キロメートルの幽霊船が目の前を通り過ぎていった。
人込み溢れる断崖絶壁から飛び降りたい衝動を抑える。
あたりをきょろきょろと見てみる。バケモノ。人間。人間。バケモノ。バケモノ。バケモノ。人間。犬。バケモノ。サル。バケモノ。
飛び降りたい衝動を抑える。
幽霊船が止まった。中から亡霊たちが待ってましたとばかりに飛び出して、私のわきを通り過ぎていく。中にとどまっている亡霊のひとりと目が合って、少し気まずくて、すぐに目をそらした。
私は覚悟を決めて幽霊船に乗り込んだ。後ろから、たくさんの人間とバケモノが私のあとから乗り込んできて、私の体を奥に押し込んでいく。
検問所をこえた先で、私を見つけて手を振る人がいる。天然パーマで、眼鏡をかけている。彼は二百年生きている半神半人で、私の知らないことをたくさん知っている。
「待たせてごめん」
私はそう言った。
「いや、約束の時間どおりだけど」
「それならよかった」
「相変わらず、スマホ、持ってないんだね」
石板を持ち運ぶ趣味はない。
「うん」
彼との約束は、書簡で取り付けた。
「それで、どこに行くの」
私は答えようとしたが、急に視界がしぼんでいき、自分の体を支えるのが難しくなった。攻撃を受けている。
「え、大丈夫?」
私は何も答えず、彼の腕を掴んで、何とか座り込まないようにする。
「え、えっと……救急車とか、呼んだほうがいい?」
「やめて」
なんとかその言葉を絞り出して、椅子を指さす。彼は私の肩を支えてそこまで連れて行ってくれた。
「落ち着いた? 大丈夫?」
「いつものことだから」
「……えっと、これからどうしようか。もう帰る? 送るけど」
「いや」
せっかくここまで来たのだ。何もせずに帰るわけにはいかない。
彼は困ったように額に手をあてる。
「それでえっと……今日はどこに行く予定だったの?」
書簡には、行き先を明記しなかった。それは風が導いてくれるはずだった。しかし、瘴気がそれを阻み、私たちの視界は暗く閉ざされてしまった。
「わからなくなっちゃった」
私はそう言って、何とか笑みを浮かべる。
「でも、帰るわけにはいかない」
唇を噛んで。悪に、負けたくはなかったから。
「……うち、来る? 何もないけど、お菓子くらいは出せるけど」
彼が住んでいる神殿にお邪魔するのは申し訳なかったから、首を横に振った。それに、神々への供物を人間である私が頂くのも、冒涜であろう。
「じゃあ、涼しいファミレスにでも行こうか?」
「うん」
会堂は、この悪夢の時代においては比較的瘴気の薄い場所ではある。
「疲れたな」
彼は緑白色の液体を口に含んだのち、そうつぶやいた。
「ごめんね」
「……正直、君が何を考えているのか、僕には全然わからない」
目も合わせずにそう言った。私は彼の顔をじっと見つめている。
「……きっと、君が私の頭の中を覗けたとしたら、君はもっと混乱するだろうなと思う」
私が話しているのか、私の口を支配している悪魔が話しているのかはわからない。私の脳は瘴気に犯されている。耳の中にいる蛆虫が、キィーーンという音楽を鳴らして遊んでいる。
「……わからない。どうすればいいのか」
彼は頭を抱えている。半神の彼でも、できないことはある。わからないこともある。救えない人もいる。
「……どうしようもないことは、あると思う」
私は何とか彼を慰めようとする。それに意味があるのかないのかはわからないけれど。
「あぁ。そうだろうね」
「でも、ありがとう。会ってくれて」
彼は、困ったように笑って「どういたしまして」と言った。耳の中の蛆虫が少し静かになった。瘴気も少し薄くなった。これが神の力か、と私は合点した。
「何も頼まなくていいの?」
私はH2Oしか体内に取り込みたくなかった。
「うん」
帰宅して、私は自室に引きこもった。疲労感で、もうだめになりそうだった。親は心配していた。
天井の灯りがまぶしくて。
夢の中に戻りたい。もう二度と目覚めたくない。
そう思っても、そう願っても、うまくはいかない。
解釈は解釈に過ぎない。のならば。言葉には意味がない。
どうにもならない現実がそこにあるだけならば。
頭の中で蛆虫がうごめいている。それはきっと私の血液で、脳髄で、電気信号で。
思い込みの力が私の現実を侵食してもあなたの現実を進蝕することができないのなら。あなたの現実を変えるためには、私があなたの現実に合わせなくてはいけないのならば。
ならば、私は、私の中の蛆虫を自分の手で取り除かなくてはならないのかもしれない。
目玉をくりぬきたい欲求を抑える。
悪魔に取り付かれた舌を引き抜きたい衝動に駆られる。
私には何の方法もない。魔術の心得もなければ、学識もない。




