たぶんぼー終
結局、一睡もできなかった。
時計を見ると七時五十分。そろそろ動かなければ学校に遅れてしまう。今さらながら眠気がやってきてどうにも体が怠かったけど、腹も減っていたので一階へ下りていった。
玄関のほうでは母ちゃんと留美子の声がしていた。彼女はもう出掛けるようだ。一旦家に戻って、いろいろと準備をするのだろう。
留美子が泊まるときにいつも使っている部屋を覗くと、パジャマが脱ぎっぱなしになっていた。相変わらずだらしない奴だ。そのパジャマに手を掛けようとしたとき、玄関の扉の閉まる音がして、パタパタとスリッパを鳴らして母ちゃんが戻ってきた。
僕は部屋からスッと出て、ダイニングへ行った。
「あらアンタ、やっと起きたの? ちょっと前に、留美子ちゃんに呼びに行ってもらったんだけど、アンタが起きないっていうから」
僕は自分のご飯をよそってテーブルに着く。
「ん、ああ」
留美子は起こしに来ていない。彼女も顔を合わせづらいんだろう。
「新一、今から食べて間に合うの? 留美子ちゃんはもう学校へ行ったわよ」
「母ちゃんこそ、仕事はよ?」
母ちゃんは味噌汁を温め直しながら言う。
「休みよ。昨日もそれ聞いたじゃない。若年性アルツとかやめてよね」
「そうだっけ?」そこまで言うかよ……。
「榊原さん、明日まで出張でしょ。じゃ、留美子ちゃん、今夜もうちで泊まるわよね」
それを僕に言っておいてくれなかったから、発電業務を彼女に見られたわけだけど、その後の展開として留美子とああいうことになったのだから、結果……良かったのか、悪かったのか。
「うちならいつでも泊まりに来れるだろ。今日は友達のとこへ行くんじゃねえの?」
「それもそうか……。じゃあアンタ、学校で留美子ちゃんに訊いて、電話してよ」
「面倒くせぇよ」
うちの母ちゃんはアニメオタクをこじらせて、僕を出産するときに「せやかて、工藤ぉ!」と叫んだらしい。コナンとか平次という名にされなくて良かったと、事あるごとに思う。格闘漫画も得意ジャンルらしく、いろいろ集めている。僕が訳もわからず、道場へ通わされるハメになったのもそのせいだ。
ちなみに留美子が通い始めたのは、僕の影響が大きい。その頃は、どこへ行くのにも彼女は僕のあとについてきたものだった。
渡り廊下をふらふらと寄ってきていた留美子が、僕の進路をふさぐ。左右を入れ替えるようにして僕は彼女を避けた。
「聞いたわよ、新一。授業サボってどこに行ってたのよ」
僕は返事をせずに通りすぎようとした。
「え~なになに? 無視すんの? まさか早漏のくせに、それはあり得ないんじゃないの?」
「う、うるせぇ、貧乳腐れまんこ」
僕たちはすれ違い、互いに背を向けた……はずだった。
腰に衝撃があって僕はたたらを踏んだ。
留美子のことだ。当然言い返してくるだろうだろうと思っていたけど、いきなり蹴られるとはまでは予測していなかった。
体勢を崩しながら振り向くと、留美子がもう次のモーションへ移行していた。利き腕である右のストレートだ。こぶしは軽く開かれている。リーチを殺してでも、手首を痛めないための掌底打。それは肩から肘へ、内側へ絞るように捻られている。自分の体が一番大切だと、常日頃からのたまう彼女らしい選択だった。
しかし、これぐらいはかわせる。真横に首を捻って華麗にいなした。
触れた、がダメージはない。
しかしその刹那、耳の裏に予想だにしていなかった衝撃があった。
いったい何をくらった? 思考が揺すられる。規則正しいはずの床の目地がザザッと電気ノイズのように乱れた。
あぁ、あのままさらに踏み込んで、死角から体重を載せた、右の肘か。
そうすると次は、頭部を押しつつ転がすような、投げ。そして腕を取りにくる。否、それだと彼女の服も汚れてしまうので、おそらくは首に踵を落としてくるんじゃないだろうか。
僕は左腕一本でガードして、伸び上がろうとした。
そこへ、リバーブロー。体が横へ、くの字に折れた。
上下中下中々……えっと、なんだっけ? 必死に演武を思い出していた。
払って、受けて、後退していく。
高校へ入学したと同時に、僕は幼少の頃から留美子とともに通っていた道場を辞めた。
しかし彼女は今も通っている。ジュニアクラスの指導資格を先日取得したそうだ。その差が、僕の脇腹に突き刺さっていた。
僕の体が止まる。彼女の息は続く。
そろそろだろうか? 鼻下にめり込む膝。そして跳ね上がった頭部を刈り込むような連動、延髄への蹴り。師範代をも唸らせた、あれがくる予感がした。
留美子は予備動作として、僕の髪を鷲掴みにするだろう。しかし僕の髪は、先週に散髪屋へ行って短くしてもらったばかりだ。がっちりとは掴めないはず。
そんなことを考えている暇もなく、やはり彼女は俺の頭部を両手で固定しにきた。膝だけを突き抜くのではなく、頭部も引き寄せてカウンター気味が理想形。さすがにこれをくらうわけにはいかない。
十数本の髪を犠牲にして、彼女の腕を上に払いのけ、しゃがんで素早く後転する。
間合いを取る。
しかし所詮は一回転分、距離にして一メートル五十。この距離ならば、彼女は一足飛びに、足刀蹴りで喉仏を狙ってくるだろう。なんとか防げたとしても、顎関節は持っていかれるかもしれない。
「今夜は豚の生姜焼きにしようと思うんだけど、留美子ちゃんにも言っといてね」
ふと、脳裏をよぎったのは、今朝、出掛けに母ちゃんが言った台詞。
僕は両手で十字にブロックして、その隙間から視線を斜め上へ。
違う? 彼女は這うような低さで、僕の太ももを諸手刈りにきた。みぞおちへの頭突きもセットになっていた。
フリーキックで直接ゴールを狙ってくると思ったら、まさかのショートパスだったときのような欺き。
これならそのまま僕が留美子の首をきめれば、彼女は自爆する。絶対に僕が反撃しないと踏んで、の甘えたような飛び込みだった。
が、やはりというか、僕は反撃できずに一瞬浮かされて、背中から廊下に叩きつけられた。このままマウントポジションを取られたとしても、彼女の体重なら跳ね返すことはできるかもしれないけども。
そこで一瞬体が離れた。
僕は体を反転させた。四つん這いになって逃げるという選択……だったはずなのに、ここでまた失態。床を引っ掻く手足は滑って空転してしまう。
間髪入れず、僕の背に重量がかかった。おそらく両膝で乗っかってきた。けっこう痛い。
それで僕はベチャっと潰されて、腹這いになった。しかたない――。要は初弾の肘打ちをくらった時点で、終着点は決まっていたんだ。
あとはもう、後頭部へのトドメの一撃を待つだけの身となってしまった。
留美子は膝を開いて馬乗りになると、僕の肩甲骨に手を置いた。首筋に彼女の荒々しい息と髪がかかる。彼女は僕の背中で眠るように密着して、息を整えていた。
こんなところを誰かに見られたら、どう言い訳をするつもりなんだ。
留美子は、僕の欠けた耳に唇をつけて囁いた。
「まったく……錆びついたものね。――そうそう、昨夜の続きをやらせてあげるから。今晩十一時頃ね。ちゃんとお風呂に入ってから来てよね」
留美子はさっと立ち上がると、スカートを払った。
そして、返事のない僕の、尻をズンッと踏んでから去っていった。
僕はボクサーパンツの内に憤りと期待を射精した。
-了ー




