灯らない娘は、自分の足で立つことにした
エルディナ王国では、魔力を持つ者が貴族として扱われる。
十五になる年の春、国中から集められた彼らは、王立魔術院の測定式で、光晶に手をかざす。
魔力を持つものが手を翳した時、水晶はその者が持つ魔力量に応じた色の光を放つ。
灯った色によって、その家の当代の爵位が、価値が決まる。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。
光が灯らなければ、平民。
元々平民だった者が光を放つことは稀ではあったが、過去には数件だけ例があった。
彼ら彼女らは基本的にその色によって、爵位持ちの貴族の家に養子として迎えられることとなっている。
基本は貴族による貴族のための儀式。
魔力は遺伝しやすいことが判明している。
かつての貴族達がこれからも国を支配し続けるための魔力による爵位決定。
それだけの、ひどく簡単な国だった。
そして。
リゼ・ヴァルニエの光晶は、灯らなかった。
「リゼ、水がぬるいわ」
ドルセ子爵夫人の声が、朝の廊下に響く。
リゼは手桶を抱え直し、階段を下りた。
「申し訳ございません、叔母様。すぐに汲み直してまいります」
「叔母様、はやめてちょうだいと言ったでしょう。奥様、で結構よ」
「……はい、奥様」
三年前、両親を流行り病で亡くしたリゼは、母方の姉が嫁いだこの屋敷に引き取られた。
引き取られた、という言葉を、この家の誰も使わない。
置いてやっている、と言う。
ヴァルニエ家はかつて伯爵位を持っていた。三代前まで、王都の魔具工房を束ねる家だった。
魔具......それは魔力を使って様々な奇跡を起こす道具。
清潔な水を出したり、何の準備もせずに火を出したり。
貴族達の必需品となっている品々である。
そんな魔具を作る工房はこの国では特に影響力を持っていた。
作り方はそれぞれの工房で秘匿化され多くの工房が鎬を削っている。
ヴァルニエ家もその一つであった。
だが祖父の代で光が弱まり、父の代で子爵に落ち、そして父が死んだ年に、家は爵位を返上した。
魔力の枯れた家は、貴族ではいられない。
リゼは、その家の最後のひとりだった。
厨房で水を汲み直していると、背後で足音がした。
「まだそんなことしてるの? のろいのね」
従妹のミレーヌが、櫛を手にして立っている。
この春、彼女の光晶は男爵位相当の光を灯した。屋敷はひと月、その話で持ちきりだった。
「髪を結って。今日はお茶会なの」
「はい」
「ねえリゼ」
鏡の中で、ミレーヌが笑った。
「あなた、灯らなかったのよね。手をかざしても、ぴくりとも」
「……はい」
「かわいそう。あなたのお父様、あんなに立派な魔術師だったのに」
リゼの父親は確かに爵位を落とした。
しかし、必死に工房を纏め上げ、赤字にならないぎりぎりでうまくやりくりしていた立派な人間であった。
病に侵される直前までリゼと工房を導いていた父親はリゼの誇りであった。
しかし今とはなっては。
リゼは櫛を動かし続けた。
灯らなかった自分と偉大な父。
自然と手が震える。
父のことを言われるのが、いちばんこたえる。
それを、ミレーヌはよく知っていた。
測定式のことは、まだ鮮明に覚えている。
王立魔術院の大広間に、その年の十五歳が並ぶ。
入りきらない人間は外で列をなして待機している。
中央の台座に置かれた光晶は、大人の頭ほどの大きさの、乳白色の水晶だった。
順に手をかざす。
灯る。
子爵位相当の緑。伯爵位相当の青。時折、白に近い光が上がると、広間がどよめいた。
リゼの番が来た。
ヴァルニエ、という姓が読み上げられたとき、審査官のひとりが顔を上げた。
まだ覚えている者がいたのだ。あの家の名を。
リゼは手をかざした。
光晶は、乳白色のままだった。
十を数えても、二十を数えても、色は差さなかった。
審査官が咳払いをした。
「……次」
それだけだった。
叱責も、慰めもなかった。
誰も彼女を見ていなかった、と言うほうが正しい。
広間を出るとき、後ろで誰かが言った。
「ヴァルニエも、これでようやく終わりね」
終わり、という言葉を、リゼはその日、初めて自分のものとして受け取った。
その夜、リゼは屋敷を抜け出した。
理由と呼べるほどのものはなかった。
夕食の席で、叔母が客人にこう言ったのだ。
「ええ、うちで面倒を見ておりますの。灯らない子でしたけれど、働き者ですのよ。使用人を雇うより安く済みますわ」
客人が笑った。
叔父も笑った。
ミレーヌも笑った。
リゼは頭を下げて、皿を下げた。
それだけのことだった。
それだけのことが、どうしてか、その夜だけは飲み込めなかった。
裏口から出て、街道を外れ、旧い水道橋のほうへ歩いた。
もう使われていない石造りの橋で、上に登ると王都の灯りが遠くに見える。
父が生きていた頃、何度か連れてきてもらった場所だった。
橋の上には、先客がいた。
外套を着た青年が、欄干に腰かけて空を見上げている。
リゼは足を止めた。
「……失礼しました」
「いや」
青年が振り向いた。
月明かりで、目の色までは分からない。
「先に来ていたからといって、ここは私のものではない。座るといい」
妙な言い方をする人だ、とリゼは思った。
少し迷って、橋の反対側の端に腰を下ろした。
しばらく、どちらも黙っていた。
風が石の間を抜けていく音だけがした。
「よく来るのか」
「……いえ。三年ぶりです」
「三年」
「父が、生きていた頃に」
言ってから、余計なことを言ったと思った。
だが青年は、それ以上訊かなかった。
「私は、二年ぶりだ」
それだけ言って、また空を見た。
訊き返してこないことが、リゼには不思議とありがたかった。
「あの」
「なんだ」
「ここ、星がよく見えますよね」
「見える。王都の灯りが届かないからな」
「父は、星も魔力を持っているんだと言っていました。だから光っているのだと」
青年が、初めてこちらを向いた。
「面白い説だ。魔術院の学説とはずいぶん違う」
「……子ども騙しですけれど」
「いや」
彼は少し考えるように黙り、それから言った。
「私は、そちらのほうが好きだ」
リゼは、なぜか目の奥が熱くなった。
自分の言ったことを否定されなかったのは、久しぶりだった。
それから明け方近くまで、二人は話をした。
名乗らなかった。
どちらからともなく、そうなった。
青年は本の話をした。魔術院の書庫にある古い研究書のことを、まるで友人の話をするように語った。
リゼは工房の話をした。父が作っていた魔具のこと、魔石を磨くときの音のこと、割れる直前の石が立てる高い音のこと。
「よく知っているな」
「見ていただけです。触らせてはもらえませんでした」
「なぜ」
「危ないからと」
嘘だった。
本当は、リゼが触ると魔石が変わるからだ。
曇った石が、澄む。
父はそれを見て、しばらく黙り、それから「これは、誰にも言うな」と言った。
理由を聞き、リゼも納得したため公言は控えているのであった。
だが青年は、リゼの嘘に気づいたようだった。
けれど、やはり訊かなかった。
空が白みはじめる頃、彼は立ち上がった。
「行かなければならない」
「……はい」
「名を、訊いてもいいか」
リゼは首を振った。
名乗れば、この人は知ることになる。
灯らなかった娘のことを。
子爵家の厨房で働く、爵位を返した家の娘のことを。
そうしたら、今夜のこの数時間が、丸ごと嘘になる気がした。
「訊かないでください」
「分かった」
青年はあっさりと引き下がり、それから、少しだけ笑った。
「では、こう言っておく」
「……はい」
「また会いたい」
リゼは何も答えられなかった。
答えなかったのではなく、答えられなかった。
この人がどこの誰かは知らない。
けれど、この橋まで馬で来て、明け方に王都へ戻る人だ。
自分とは、住む場所が違う。
足音が遠ざかってから、リゼはようやく口を開いた。
「……わたしも」
誰にも届かない声だった。
「ーーよかった。なら探しにいけるな」
青年は左耳に付けていたピアス状の魔具から聞こえてきた声に笑みをもらす。
そして、すぐさま王都へと戻るため、待機させていた馬に飛び乗るのだった。
屋敷に戻って三日後、それは知られた。
門番が、夜明けに裏口から入る彼女を見ていたのだ。
「男と会っていたそうね」
叔母は、鞭も声も荒らげなかった。
そのほうが、よほど恐ろしかった。
「この家の名前で、なんてことを」
「……申し訳ございません」
「ヴァルニエの名はもうないのよ。あなたが汚すのは、ドルセの名前」
その日から、リゼの寝床は屋根裏から地下に移された。
食事は一日一度になった。
仕事は、地下倉庫に積まれた古い魔石の選別。
この魔石を王都の魔具工房へ卸すのだそうだ。
魔具は魔石から作成される。
古くから魔力に晒され続けた石が、その魔力を帯びることで魔石は生成される。
その石を加工し、エッセンスを混ぜることで様々な魔具を作成するのだ。
しかし、魔石の中にも使える物とそうでないものがある。
リゼは選別中だった曇った石を捨て、まだ使える石を選り分ける。
そう、曇った石は使えない。
もう魔力が抜けてしまっているからだ。
いや、言い方が少し違う。
もう石の中に魔力を注ぎ込めない物が使えなくなるのだ。
一流の職人は自らの魔力を石に分け与えることができる。
だが、古すぎてもう完全にただの石になっているものや、魔力がもうほとんどないものはチャージできないのだ。
埃と冷気の中で、リゼは黙って石を拾い上げた。
そして、それを確認した。
手の中で、石が澄んでいく。
捨てるはずだった曇り石が、握っているうちに、内側から光を取り戻していく。
二日で、捨て石の山が半分になった。
三日目、リゼは仕分けた石を見つめて、初めて理解できた。
――わたしは、灯せないんじゃない。
――放てないだけだ。
光晶は、その者が持つ魔力量を測るんじゃない。
外へ放つ魔力の量を測るのだ。
父が作る魔具が絶賛されていたにも関わらず、爵位が下がったのは、少なからずこの影響があったのだろう。
リゼの力は、外へは全く出ない。内へ、完璧に留める。
石に流し込み、石の中で保たせる。
それは、魔具を作るための力だ。
それも一流にならねば使えないほどの技術。
父が「誰にも言うな」と言った理由が、ようやく分かった。
爵位を返した家の娘が、魔具工房の要になる力を持っている。
知られれば、必ず誰かに囲われる。
父は、それを恐れたのだ。
地下の暗がりで、リゼは澄んだ魔石を握りしめた。
冷たいはずの石が、少しだけ温かかった。
同じ頃、街に妙な噂が流れはじめていた。
王都から来た若い男が、この一帯の家を訪ね歩いているというのだ。
娘を探している。十八くらいの、と。
名も家名も名乗らないので、性質の悪い人買いではないかと言う者もいた。
その話は、洗濯女の口から厨房へ、厨房から食堂へと上がってきた。
「まあ、恐ろしい」
叔母が眉をひそめる。
「ミレーヌ、しばらく外に出てはいけませんよ」
「はぁい」
「あなたもよ、リゼ」
「......はい」
返事をしてリゼは、湯気の立つ鍋の前で手を止めた。
まさか、と思った。
思ってから、その「まさか」を自分に許したことが恥ずかしくなった。
あの人が本気で誰かを探すなら、こんな噂の立て方はしないだろう。
もっと静かに、確実に見つけるはずだ。
――そういう身分の人なのだから。
あの日会話をしてからなんとなく位の高い貴族であることはわかっていた。
自分でそう結論づけて、リゼはまた鍋をかき混ぜた。
その日の夜、彼女は地下で四十二個目の石を磨き終えた。
「ーーそこにいるんだね」
そして、とある青年は声を捉えた。
『噂話』をかき集める魔具が彼女らの会話を捉えたのだった。
十日後の午後、屋敷の門前に馬車が止まった。
黒塗りに、銀の紋章。
二頭立ての、王都の馬車だった。
叔母が悲鳴のような声を上げ、ミレーヌが階段を駆け下り、叔父が慌てて上着を着替えた。
リゼは地下から呼び出され、水場で手を洗わされ、廊下の隅に立たされた。
客人の前に出るためではない。
いないことにするには、目の届く場所に置いておくほうが早いからだ。
玄関の扉が開いた。
外套を脱ぎながら入ってきたのは、あの青年だった。
「レイスフォード侯爵家の、ラウル様でいらっしゃいますね!」
叔母の声が裏返る。
リゼは、動けなかった。
レイスフォード。
王都で最も古い魔術師の一族。魔術院の三分の一を握り、代々、王家の魔具を作ってきた家。
その、後継者。
「突然の訪問を許してほしい」
ラウルは礼を返し、それから広間を見渡した。
「人を探している。この近くの家に、十八になる娘がいると聞いた」
「まあ、それはうちのミレーヌのことですわ!」
ミレーヌが前に出る。
春の測定式で男爵位相当の光を灯した、この家の自慢の娘だ。
ラウルは彼女を見て、丁寧に頭を下げた。
それから、廊下の隅に目を向けた。
そして、彼女見定めた。
「……君」
リゼは、深く頭を下げた。
下げたまま、上げられなかった。
「リゼ! なにをしているの、下がりなさい!」
叔母の声が飛ぶ。
「その子は使用人ですわ。侯爵家の方がお目を留めるような者では」
「使用人」
ラウルの声が、低くなった。
「ヴァルニエの娘だと聞いている」
広間が静まり返った。
「かつて王都の魔具工房を束ねた、ヴァルニエ伯爵家の。……間違いか」
「そ、それは、その、家はもう爵位を返しておりまして」
「爵位を返した家の娘を、自らの血族を使用人として置いていると」
「その通りです、置いてやっているのです! 灯らなかったのですから!」
叫んでから、叔母は自分の声の大きさに気づいたようだった。
遅かった。
ラウルはしばらく黙っていた。
それから、リゼのほうへ歩いてきた。
目の前で足を止め、静かに言った。
「顔を上げてくれ」
リゼは、顔を上げた。
三年ぶりに、まっすぐ人の目を見た気がした。
「名を、訊いてもいいか」
「……リゼ・ヴァルニエと申します」
「ラウル・レイスフォードだ」
彼は一度だけ目を伏せ、それから言った。
「あの夜、名乗らなくてよかった。名乗っていたら、君は二度と来なかっただろう」
「……はい」
「今日は名乗った。逃げないでくれ」
リゼは、答えられなかった。
「連れて行く」
ラウルは、叔母に向かって言った。
「彼女はレイスフォードで預かる。工房でも、書庫でもいい。ここに置いてはおけない」
「ど、どうぞどうぞ! ええ、もちろんですとも!」
叔母の手のひらの返り方は、見事なものだった。
ミレーヌが呆然と立ち尽くしている。
叔父は、床を見ていた。
誰も、リゼの意思を訊かなかった。
この三年間、一度も訊かれたことがなかったのと、同じように。
「お待ちください」
リゼの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「……リゼ?」
「ラウル様。ご厚意には、心から感謝申し上げます」
彼女は一歩下がり、深く礼をした。
「ですが、まいりません」
広間の空気が凍った。
「なにを言っているの、この子は!」
「なぜだ」
ラウルの声は、怒ってはいなかった。
ただ、理由を知りたがっていた。
だからリゼは、逃げずに答えた。
「あの夜、あなたは何も訊きませんでした」
「……ああ」
「わたしが誰で、どこの家で、どんな暮らしをしているのか。何ひとつ。だから話せました」
リゼは、拳を握った。
「今ここで手を引かれて行けば、わたしは『侯爵家に拾われた娘』になります。一生、そう呼ばれます」
「それが何か問題か」
「問題です」
言い切った。
「あなたの隣に立ちたいのです。あなたの後ろに置いてもらいたいのではありません」
誰も、何も言わなかった。
「わたしは灯りませんでした。でも、力がないのではないと分かりました」
リゼは懐から、澄んだ魔石をひとつ取り出した。
地下で拾った、捨てられるはずだった石だ。
差し出された石を見て、ラウルの表情が変わった。
彼は石を受け取り、灯りにかざし、そして息を呑んだ。
「……これを、君が」
「はい」
「工房で三十年やった職人でも、こうは澄まない」
「捨て石でした。十日で、四十二個」
ラウルは石を握りしめ、しばらく黙っていた。
それから、リゼの目を見た。
「魔術院の工匠課程は、身分によらず受けられる。試験は秋だ」
「存じております。父が受けた課程です」
「……そうか」
「合格したら」
リゼは、はっきりと言った。
「そのときに、もう一度、名乗らせてください」
馬車が去ったあと、屋敷の空気は最悪だった。
「よくも侯爵家の申し出を断ってくれたわね!」
叔母の声が広間に響く。
「あなたのせいで、この家がどう見られたと思っているの! ミレーヌの縁談にまで障るのよ!」
リゼは黙って聞いていた。
三年間、ずっとそうしてきた。
けれど、その日は違った。
「奥様」
「なに」
「お世話になりました」
叔母が、まばたきをした。
「今夜、出てまいります」
「……なんですって」
「三年分の食費と衣服代は、必ずお返しします。証文を書いていただければ、額の通りに」
「待ちなさい、そういう話をしているのでは」
「では、どういうお話でしょうか」
リゼは、初めて叔母の目をまっすぐに見た。
叔母のほうが、目を逸らした。
荷物は、驚くほど少なかった。
着替えが二枚。父の形見の小刀がひとつ。地下から持ち出した澄んだ魔石が、布に包んで四十二個。
門を出るとき、二階の窓からミレーヌが見ていた。
手は振らなかった。
どちらも。
その夜、リゼは街道沿いの古い魔具工房の扉を叩いた。
主人は最初、追い返そうとした。
リゼが黙って澄んだ魔石を三つ、作業台に置くまでは。
主人はそれを灯りにかざし、爪で弾き、耳を近づけ、そして低く唸った。
「……住み込みだ。飯は出す。給金は半年後から」
「充分です」
「一つ訊く。どこで習った」
「見ていただけです」
「見ただけでこれか」
主人は魔石を置き、リゼの手を見た。
「親父さんの名は」
「オーギュスト・ヴァルニエです」
しばらく、工房が静かになった。
「……そうか」
それだけ言って、主人は奥へ引っ込んだ。
その夜からリゼは、朝は工房、昼は魔術院の受験勉強、夜はまた工房という半年を送った。
誰にも迎えに来てもらわなかった半年だった。
半年後の秋。
王立魔術院の工匠課程、合格者名簿の三番目に、リゼ・ヴァルニエの名があった。
名簿の掲示板の前は、人だかりができていた。
平民出身の合格者は、五十七人中、九人。
その中に、爵位を返した家の娘がひとり混じっていることを、誰も気に留めなかった。
リゼは名簿を三度読み返し、それから、静かに息を吐いた。
人混みを抜けると、石畳の広場の端に、外套の男が立っていた。
半年前と同じ立ち方だった。
「……いらしていたのですか」
「掲示は昼だと聞いていた。朝から待っていた」
「そんな」
「三番だったな」
「はい」
「一番ではないのか」
「一番の方は、王都の工房で五年修行された方です」
「なるほど」
ラウルは笑った。
それから、片手を差し出した。
「リゼ・ヴァルニエ」
「はい」
「私は、君を選びたい。侯爵家の後継としてではなく、私自身として」
リゼは、その手を見た。
半年前、同じ手が差し出されたとき、彼女は取らなかった。
あのとき取っていたら、これは施しだった。
今なら、違う。
「ラウル様」
「なんだ」
「わたし、灯らないんです。これからもずっと、光晶の前では」
「知っている」
「一生、貴族にはなれません」
「知っている」
リゼは、笑おうとした。
うまくいかなかった。
目の奥が熱くなって、視界がぼやけて、声が震えた。
「……三年間、誰にも、名前で呼ばれませんでした」
「ああ」
「リゼ、と」
「リゼ」
彼が呼んだ。
それだけで、三年分が崩れた。
リゼは片手で顔を覆い、そのまましばらく動けなかった。
人が通り過ぎていく。
誰も気に留めない。
やがて彼女は顔を上げ、濡れた頬もそのままに、自分の意思で、彼の手を取った。
初めて、誰にも命じられずに伸ばした手だった。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
握った手は、地下で握った魔石よりも、ずっと温かかった。
それから数年後。
王都の魔具工房のひとつに、妙な看板が掛かるようになった。
――捨て石、買い取ります。
持ち込めば、曇った石でも値がつく。
工房を仕切っているのは、若い女職人だという。
光晶の前では一度も灯ったことがない、平民の職人だという。
噂を聞いた貴族が、面白半分に訪ねてくることもあった。
そういうとき、彼女は手を止めずにこう答えるのだそうだ。
「灯らないのではありません。留めているのです」
言われたほうは、たいてい意味が分からず帰っていく。
工房の奥では、レイスフォード侯爵家の当主が、袖をまくって石を運んでいる。
そのことのほうが、王都ではよほど噂になっていた。




