白砂の冷たさと、絶対者の声
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今回は、いよいよ左大臣家・藤原様との対面。
都の最高権力者を前にして、最高の車を作り上げた「最強の家族」に、平安という時代ならではの理不尽な「身分の壁」が立ちはだかります。
白砂の上に平伏する俺の頭上で、最高級の絹の衣が擦れる微かな音と、藤原様の静かな感嘆の吐息が漏れた。
「ほう……」
それは、本当に微かな、だが確かに心を動かされた者の吐息だった。
「秋村の描いた四季も見事だが、それを収めるこの白木の枠組み、そして微塵も揺らがぬというその仕掛け。……誠に、都に二つとない品であるな」
藤原様の声は、波一つない湖面のように穏やかだった。
だが、その言葉の端々には、他者の生殺与奪を握る絶対的な権力者特有の、見えない刃のような威圧感が滲んでいた。
事前の打ち合わせ通り、兄の惣太郎が一歩も動かず、平伏したままの姿勢で、流麗な言葉遣いを用いて答えていく。
表面的な意匠の美しさや、天才絵師・秋村とのやり取りについて、淀みなく、かつ相手の虚栄心をくすぐるように計算し尽くされた見事な口上だ。
俺はといえば、白砂に額を擦りつけるように深く頭を下げたまま、兄上の教え通りに口を固く閉ざし、息を殺して気配を消していた。
一介の車大工という身分の低い職人が、貴族の御前で許可もなく出しゃばることは、そのまま彼らの不興を買い、工房の破滅に繋がりかねないからだ。
しかし、兄上の商気にあふれた説明が一段落した時、藤原様の声がふっと一段低くなった。
「して。その『板バネ』とやらいう仕掛けじゃが。……まこと、乗る者を全く酔わせぬほどの出来栄えと申すのだな」
「ははっ。我が工房の親方が生涯の技を注ぎ込み、手前どもが命を懸けて組み上げた、唯一無二の品にござります」
兄上が恭しく、自信に満ちた声で答えた。
商談としては完璧な流れだ。ここで藤原様に絶賛されれば、都の貴族たちの間で噂が広まり、工房には次々と注文が舞い込むはずだった。
――だが、その直後だった。
「ならば、なおのこと都合がよい」
藤原様が手にしていた扇子を、パチンと鳴らした。
乾いたその音が、静まり返った広大な前庭に、不気味なほど大きく響き渡った。
「これほど風雅で、かつ心地よい車。……他の貴族どもが乗ることは、私の美意識が許さん」
俺は、自分の耳を疑った。
「源次郎とやら。そちの工房は以後、この『揺れぬ車』を他家へ作ることを固く禁ずる。この仕掛けは、私ただ一人のためのものとする。……よいな?」
空気が、完全に凍りついた。
それは、あまりにも理不尽で、あまりにも身勝手な要求だった。
だが、この平安の都においては、左大臣家に連なる藤原様の発する言葉は「絶対の法」そのものなのだ。
この画期的な板バネの技術を武器に、都中の貴族から莫大な注文を取り付け、一気に源次郎工房を都一の車大工へとのし上げようと算段していた兄上は、俺の隣で息を呑んだまま、石像のように完全に硬直している。
そして、さらにその奥。
板バネをあえて「消耗品」として設計し、数年ごとの「交換と保守」で工房を末長く支え続けるという、俺が構築した完璧な継続的商いの仕組みすらも、この藤原様の一言で、根底からへし折られてしまうことになるのだ。
たった一人の権力者の我儘のために、俺たちが血を吐くような努力で生み出した最高の技術が、永遠に封印される。
沈黙が続く中、藤原様の冷ややかな視線が、工房の長である親方――源次郎へと向けられたのが分かった。
答えないことは許されない。
ここで少しでも不満の意を示せば、俺たちは極上の牛車を献上したにもかかわらず、不敬罪として都を追放されるか、最悪の場合は命すら奪われかねない。
「……は、ははっ」
静まり返った白砂の庭に、親方の声が響いた。
「御意に……ござりまする。この源次郎、藤原様のため、ただ……藤原様お一人のためだけに、その技を……封印いたす所存にござりまする」
俺は、奥歯を強く噛み締めた。口の中に、微かに血の味が広がった。
いつも工房で、巨大な丸太を大鋸で断ち切るように野太く、誰よりも頼もしかった親方の声。
それが今、見たこともない巨大な権力の重圧に完全に押しつぶされ、情けないほどに高く上擦り、微かに震えていたのだ。
親方としての矜持。
職人としての果てしない探求心。
そして、息子たちがようやく作り上げた未来への道。
そのすべてを無理やり飲み込み、家族の命を守るために、泥と白砂に顔をこすりつけて平伏せざるを得ない「身分の壁」が、そこにはっきりと、絶望的なほどの高さでそびえ立っていた。
「うむ。大儀であった。褒美は追って遣わす」
藤原様の衣擦れの音が遠ざかり、屋敷の奥へと消えていく。
白砂の凍りつくような冷たさが、膝から全身へとひたひたと這い上がってくる。
顔を上げることは許されない。
だが、俺のすぐ隣で、土下座をしたままの親方が、膝の上の白砂を握りしめた拳が、悔しさと無力感に小さく、しかし激しく震えているのが、はっきりと分かった。
十日間、血を流しながら革を編み込んだ俺の執念。
完璧な骨組みを彫り上げた親方の情熱。
それらがすべて、ただ一人の貴族の「虚栄心」という名の箱の中に閉じ込められ、鍵をかけられたのだ。
俺の胸の奥底で、かつてないほどに黒く、重い怒りの炎が、静かに音を立てて燃え上がり始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
最高の車を作ったからこそ、権力者に「他には作るな」と独占されてしまう。現代の特許契約など存在しない平安時代における、職人のあまりにも残酷な現実です。
家族を守るため、屈辱に耐えて上擦った声で返事をする親方の姿と、その震える拳を見た藤太の心中を思うと、本当に胸が痛くなります。
しかし、藤太はこのまま黙って引き下がるような男ではありません。
理不尽な権力に対し、武力でも暴言でもなく、「職人としての技術と頭脳」でどう立ち向かうのか。
次回から、最強の家族の静かなる反撃が始まります!




