純白の舞台と、親方の流儀
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今回は、傲慢な天才絵師に対する「作り手」たちの反撃。
藤太が木組みと板バネに没頭している間、親方は決して遊んでいたわけではありませんでした。源次郎工房の底力と、親方の真の凄みが炸裂するエピソードです!
「私の絵の具が最も美しく乗り、かつ、この極上の枠に引けを取らぬ『最高の板』を出してみせろ!!」
顔を真っ赤に紅潮させ、唾を飛ばさんばかりの勢いで詰め寄る絵師・秋村。
芸術家としての強烈な自負と、俺が組んだ五百年檜の骨組みに対する畏怖が入り交じり、彼の感情は完全に暴走していた。
血気盛んな若い職人であれば、この無礼な挑発に乗って胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
だが、俺は無言のまま静かに一歩後ろへ下がり、深く頭を下げた。
泥と木屑と獣脂にまみれた俺とは違い、相手は左大臣家に出入りする高級な絹の衣を纏った男だ。ここで俺が感情的にぶつかれば、兄上が苦労して繋いだ商談そのものを壊してしまう。
それに何より、ここは「親方」の領分なのだ。
客の無茶な要求や職人同士のプライドの衝突をどう収め、いかにして工房の利益と名誉を守り抜くか。俺は己を一歩退かせることで、この一触即発の事態を、将来自分が跡を継いだ時のための「最高の学びの場」へと変えたのである。
俺の意図と、冷静で思慮深い態度を背後で即座に察取した親方は、短く「ふん」と鼻を鳴らした。
そして、ただがむしゃらに刃物を振るうだけではない、頼もしく成長した息子への深い満足げな笑みを浮かべ、俺を庇うように堂々と前に進み出た。
「絵師殿。息子の彫った骨組みに当てられて血が騒ぐのは結構だが、相手を間違えておるぞ」
親方の低く、地鳴りのような声が工房に響く。
秋村がビクッと肩を揺らして親方を見上げた。
「上屋の壁に張る板は、この親方である俺が、息子が刻みと格闘している間に、とうの昔に仕上げてある」
親方はそう言い残すと、工房の最も奥、直射日光も湿気も届かない厳重な冷暗所へと歩み寄り、大切に真新しい晒の布に包まれた数枚の板を抱えて戻ってきた。
そして、息を呑んで見つめる秋村の目の前で、作業台の上にバサリと布を解いた。
現れたのは、極限まで薄く削り出された、雪のように美しい「純白の板」だった。
「……これは?」
秋村の顔つきが、再び劇的に変わった。
ただの木材ではない。表面から木目すら消え去った、異様なまでの滑らかさと白さ。
「桐の板だ」と、親方は低い声で答えた。
「藤原様の牛車を極限まで軽くするためには、木材の中でも最も軽く、狂いの少ない桐が一番いい。だが、桐は柔らかい分、木目が粗くて表面がスカスカだ。そのままお前さんの高価な絵の具を乗せても、吸い込みすぎて色が沈むか、弾いちまう」
親方は、純白の板の表面をゴツゴツとした太い指でそっと撫でた。
「だから俺が、上質な胡粉と膠を混ぜた下地を、幾重にも、幾重にも塗り重ねておいた」
俺は目を見開いた。
胡粉――つまり、牡蠣の殻を途方もない時間をかけてすり潰した真っ白な粉だ。それを煮溶かした動物の膠と混ぜ合わせ、木の表面に塗っては乾かし、砥石や水草で表面を削り、また塗る。
俺が狂ったように革と油を煮込み、木槌を振るっていたこの十日間。
親方は俺の作業を静かに見守る裏で、来るべき絵師との対決に備え、この気の遠くなるような下地作りの作業を、一人で黙々と完遂していたのだ。
「下地を重ね、鏡のように平らに研ぎ上げてある」
親方が指の関節で、その純白の板を軽く弾いた。
カンッ……。
極限まで薄く削られているにもかかわらず、陶器を叩いたかのような、高く澄んだ硬い音が工房に鳴り響いた。胡粉と膠が木の繊維と完全に一体化し、恐るべき強度を生み出している証拠だ。
「重さは薄板一枚分。だが、表面は都で出回る最高級の和紙よりも滑らかで、お前の絵の具を芯まで吸い込み、百年経っても決して剥がさねぇ。……五百年の檜の骨組みと、この純白の桐板。これが、我ら親子の用意した『舞台』だ」
親方は腕を組み、秋村を鋭く見据えた。
「さあ、都一の絵師殿。この上に、藤原様を唸らせる『四季』を描き出せるか?」
沈黙が落ちた。
秋村は、吸い寄せられるように一歩前に出ると、震える両手でその純白の板に触れた。
「あっ……」
絵師としての繊細な指先が、職人が丹念に作り上げた下地の異常な滑らかさと、絵の具の定着を約束する微かな吸い付きを、はっきりと感じ取ったのだろう。
先ほどまでの貴族の威を借るような傲慢さは、彼の顔から完全に消え去っていた。
そこにあるのは、自らの腕を試す「極上の素材」を前にして武者震いする、純粋な一人の芸術家の顔だった。
「……見事だ。あなた方の職人魂、とくと見させてもらった」
秋村の声は、ひどく掠れていた。だが、その瞳には強烈な炎が宿っている。
「この純白の舞台に、私の持てるすべての色彩と魂を叩き込んでみせよう。木になど、決して負けはせぬ。……必ず、極上の絵を仕上げてお持ちする!」
秋村は深々と一礼すると、板を大切に抱えるようにして、まるで生涯の宝物でも見つけたかのように足早に工房を後にした。
張り詰めた空気が解け、付き添っていた兄上が「親父殿、藤太! 最高の交渉だったぞ!」と嬉しそうに叫びながら、絵師の後を追っていく。
俺は一歩下がった薄暗い場所から、この一部始終を静かに脳裏に焼き付けていた。
客の無礼を、暴力や大声で威圧するのではない。
圧倒的な「仕事の質」で相手の思い上がりをねじ伏せ、そして最後には、相手の持ち味(今回は絵師の技術)を最大限に引き出す最高の舞台を用意してやる。
それこそが、親方・源次郎が、権謀術数渦巻くこの都の第一線で生き抜いてきた「商売」と「職人の矜持」の真髄だったのだ。
「……親父、あんたやっぱり凄いよ」
俺の小さな呟きに、親方は照れくさそうに鼻を掻き、フッと笑った。
嵐のような絵師が去り、工房には再び静寂と、檜の清々しい香りが戻ってきた。
土間には、完璧に組み上がった五百年の檜の土台と骨格。
そして、出番を待つあの究極の「板バネ」が並んでいる。絵師が四季の板を仕上げて持ってくるまでの間に、俺たちがやるべき仕事はただ一つ。
いよいよ、これらを一つに結合し、都の歴史に伝説として刻まれる「世界で一台の牛車」を組み上げる、最終局面が幕を開けようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
藤太が板バネに没頭している間、親方は親方で「絵師が必ず文句を言ってくる」ことを見越し、極上のキャンバスを密かに用意していました。胡粉を使った下地作りは、日本の伝統的な木工・漆芸の技法です。
相手を言い負かすのではなく、圧倒的な技術で見返し、最高の結果を引き出す。親方のカッコよさと、それを黙って見て学ぶ藤太の成長が光りますね。
さあ、舞台は整いました。
次回からはいよいよ、これまで作ってきたすべての部品を合体させる最終組み立てに入ります! どうぞお楽しみに!




