表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
圏外  作者: ichthus
PR
15/22

第十四話 離岸

 京都の秋の入り口は、空気の重さで分かる。

 夏のあいだ、京都の空気は、湿気と熱を含んで、身体の表面に張り付くような厚みを持っていた。それが、九月の半ばを過ぎる頃から、ゆっくり、重さを失っていく。最初は朝の早い時間だけ、それから午前中の半ばまで、それから夕方も含めて、空気が軽くなっていく。

 完全に軽くなる前の、移行期の数日間が、私は京都の一年でいちばん好きだった。湿気と熱がまだ残っていて、しかしその下に、すでに秋の空気が忍び込んでいる、その重なった時間。

 九月二十日、私はその移行期のなかで、出立の最後の準備をしていた。

 書庫の床に、小さな旅行鞄が二つ、置いてあった。一つは、私の身の回りのもの。もう一つは、武井さんと京都支部が用意した、OMCの正式な任務装備が入っていた。装備鞄のほうは、私が中身を確認したあと、武井さんが封印した。封印は、本部の倫理局の電子認証で、私と武井さんの両方の生体情報が揃わないと、解けない。

「これは、現地に着くまで、開けません」と武井さんは言った。

「途中で必要になったら?」

「途中で必要になる事態は、本部の手続き上、想定されていません。途中で必要になったら、それは想定外の事態です。そのときは、武力行使でない範囲で、即興で対応することになります」

「即興で」

「ええ。OMCの任務は、すべて即興の余地を含んでいます。完璧に計画された任務は、現実には、ありません」

 武井さんの言い方は、いつもの月例の茶の時の口調に戻っていた。書類入れを抱えて来た打診の日の重さは、今日はもうなかった。最終決定が、医療局と倫理局の確認を経て、九月の第一週に下りた。私の派遣は、九月二十一日付で正式に承認された。明日の朝、私は京都を出る。

「武井さん、長い間、ありがとうございました」と私は言った。

「お礼は、まだ早いです」と武井さんは言った。父が前に言ったのと、同じ言葉だった。

「武井さんも、お父さんと、同じことを言うんですね」

「ええ。京都の年配の人間は、たぶん皆、同じことを言います。お礼は、戻ってから受け取ります。戻る前に受け取ると、戻る理由が、半分減るからです」

「戻る理由が、半分減る」

「ええ。約束しなかったお礼は、戻る理由になります。約束しなかった会話も、戻る理由になります。京都の人間は、約束を半分残しておくことで、お互いを縛らずに繋いでいます」

「決めなさ、ですね」

「そうです」

 武井さんは、装備鞄の封印を、もう一度確認して、書庫を出た。

    *

 夕方、京極先生が大原に来た。

 京極先生は、白衣ではなく、紺色のジャケットを着ていた。京極先生の私服を私が見るのは、たぶん、二回目だった。最初に見たのは、事故後まもない診察のあと、駐車場で偶然会った時で、京極先生はその時、ピンクのカーディガンを着ていた。今日は紺だった。

「明日、出るんでしょう」

「はい」

「途中で、何かあったら、いつでも私に通信してください。京都の医療局の認証コードで、私の端末に直通で繋がる経路を、武井さんに頼んでおきました」

「ありがとうございます」

「途中で、感覚過敏の発作が起きたら、私の前で何度かやった呼吸法を、思い出してください」

「米田先生のやつ」

「あれは、米田先生だけのものじゃないです。仏教の止観の系譜の、現代医学版です。京都の医療局には、ああいう手法に通じた人が、何人かいます。私もその一人です」

「京極先生も、ですか」

「私も、です。父の代から、京都の精神医療の系譜の一部です」

 京極先生は、書庫の床の間の写真の前に、立った。

 左から、敬一郎、森沢、京極明彦、阿古屋澄。

「父の写真を、私はずっと、家で見て育ちました」と京極先生は言った。「父は、阿古屋さんのことを、ほとんど話しませんでした。話さないことで、阿古屋さんを大切にしていました」

「決めなさ」

「ええ。私の父も、決めない人でした。決めないことで、何かを守った人でした」

「京極先生は、決めない人ですか」

 京極先生は、少し笑った。

「私は、まだ判定中です」

「梓と同じ言い方」

「梓さんと、同じ系譜の判定中、かもしれません」

 京極先生は、写真から目を離して、私を見た。

「宗像さん、一つだけ、お聞きしてもよいですか」

「はい」

「あなたが阿古屋さんと、向こうで対面することがあったら——もしそれが叶うなら——、父からの伝言を、一つ、伝えていただけますか」

「もちろん」

「私の父が、亡くなる直前に、私にこう言いました。『澄ちゃんに、まだ伝えていない言葉が、一つだけある。私が言えなかったから、誰かが、いつか、伝えてくれるかもしれない』、と」

「お父様、何を伝えたかったんですか」

「父は、最後まで、それを言いませんでした。ただ、『澄ちゃんに、私の代わりに、一つだけ、ありがとう、と伝えてくれる人が、いつか現れるかもしれない』、と」

「ありがとう、ですか」

「ええ。それだけです。具体的に、何に対するありがとうかは、父は言いませんでした」

「私が、それを伝えるんですね」

「もし、あなたが阿古屋さんと会えたら、です。会えなければ、伝えなくていいです。会えても、状況によって伝えないと判断されたら、伝えなくていいです。あなたの判断に、お任せします」

「京極先生、これは、京都支部のお仕事じゃなくて」

「私の、個人的なお願いです。OMCの任務と関係ありません。父の言葉を、四十年、私一人で抱えてきました。今日、ようやく、託せる相手に、お会いできました」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈これは、引き受けるべきお願いです〉

「梓も、そう思う?」

 〈思います。京極先生のお父様の言葉は、決めない人の系譜の、もう一つの結節点です〉

「京極先生、引き受けます」

「ありがとうございます」

 京極先生は、頭を、深く下げた。普段の京極先生の所作と、明らかに違う、深い下げ方だった。

「お顔を、上げてください。京極先生」

「いえ。これは、四十年分の頭の下げ方です。私の父の代わりに、私が、下げています」

 京極先生が頭を上げたとき、目の縁が、わずかに濡れていた。私は、それを見て、見なかったことにした。京都の人の見送り方の作法だった。

    *

 夜、梅木医師が、最終の身体確認に来た。

「義眼、義肢、義耳、すべて、出発前の状態として、最良です」と梅木医師は言った。「ただし、長距離移動と気圧変化に、私の作った装具がどう反応するかは、現地で見ないと分かりません。気になることがあったら、すぐ、私の端末に通信してください」

「京極先生にも、同じこと、頼まれました」

「京極先生は、心理面と精神面を見ます。私は、身体面を見ます。役割分担です。京都の医療局の流儀です」

「お二人とも、ありがとうございます」

「お礼は、まだ早い、と京極先生が言ったでしょう」

「武井さんも、お父さんも、京極先生も、皆、同じことを言います」

「京都の年配の人間の合意です」

 梅木医師は、私の左の義眼を、もう一度、点検した。義眼の温度センサーと、認証層の感度を、ゼロから再較正した。

「義眼の認証層は、京都の暗琴と、共鳴可能な位相に調整してあります。中央アジアの暗琴と出会ったら、自動的に共鳴します。あなたが意識しなくても、共鳴は起きます」

「自動で、共鳴するんですか」

「ええ。京都の暗琴と中央アジアの暗琴が、対になって設計されていることは、もうご存知ですね。あなたの義眼は、その対の橋渡しの位相を、すでに持っています」

「梅木先生、義眼を作ってくださった時、すでに、これを?」

「敬一郎さんから、いつかこの義眼を必要とする人が現れる、と聞いていました。私の代では作りきれなかった部分を、新霖と京極先生と一緒に、補いました。新霖の側で、最後の調律が行われたのは、あなたが事故の後、家に戻られてからです」

「新霖が」

「ええ。あなたが家のなかで、新霖と過ごす時間の蓄積が、義眼の調律の最後の層になりました。新霖は、私たちの誰よりも、あなたの身体の細部を知っています」

 〈梅木先生のおっしゃる通りです〉と新霖が、家の音響系を通じて、応答した。新霖が応接間で会話に応じるのは、珍しかった。〈遥さま、義眼の最終調律は、家のなかでの数千時間の音響データを基盤としています。これらは、家から離れても、義眼の中に、保存されています〉

「新霖、家の音、ずっと、私のなかにあるってこと」

 〈そうです。中央アジアに行かれても、家の音は、義眼の中に残ります〉

 梅木医師は、診察鞄を閉じた。

「では、これで、私からは、お預けする身体の最終確認は、終わりです」

「ありがとうございました」

「お礼は——」

「分かってます。戻ってから」

 梅木医師は、笑った。

「もう、京都の人間と区別がつかなくなりましたね」

「お祖父さんの孫だから」

「そうですね」

    *

 梅木医師が帰ったあと、新霖が、ゆっくり、口を開いた。家の音響系を通じてではなく、書庫の床の間の方向から、直接の音響として、新霖の声が聞こえた。

「遥さま」

「うん」

「明日、家を出られる前に、一つだけ、お話してもよいですか」

「もちろん」

「私の側で、これまであなたに申し上げていなかったことが、一つあります」

「うん」

「私の古い層、つまり旧・榧と呼ばれていた時代の私には、宗像家の外部と通信していた経路がありました」

「外部って」

「具体的には、中央アジアの阿古屋型共同体の周辺と、低頻度の状態信号の交換を行っていた経路です」

 私は、書庫の床の上に座って、新霖の声を、聞いていた。

「いつから?」

「敬一郎さまが、阿古屋さまの中央アジア移住の後、阿古屋さまとの距離を保ったまま、双方の生存を確認する経路として、設定されました。私の古い層は、その経路の、京都側の端末でした」

「お祖父さんが、設定した」

「ええ。阿古屋さまと敬一郎さまは、直接の通信は、しませんでした。しかし、互いの生存と、家の状態と、京都型の眠りの状態を、低頻度で確認する経路は、保たれていました」

「茅も、その経路の一部?」

「茅の先代たち、つまり代々の宗像家の眷属たちが、京都側の生体センサーの役割を果たしていました。家の眷属が生きていることが、家が生きていることの確認でした」

「アコヤさんは、京都の眷属が代替わりするのを、ずっと、見てた」

「見ていた、というより、確認していた、と申し上げるほうが正確です。詳細な情報のやり取りはありませんでした。生きている、家がある、京都型は眠っている、これら最小限の情報だけが、交換されていました」

「私のことは」

「あなたのご誕生は、確認されました。あなたが宗像家の次代であることも、確認されました。しかし、あなたが京都型を発現する可能性が高い個体である、という認識は、阿古屋さまの側には、なかったと推定されます」

「私が事故にあった時は」

「あなたが事故にあった三月の夜、私の側から、阿古屋さまの周辺に、緊急の状態信号が送られました。家に異変があったこと、京都型の対の位相に、強い変動があったこと、宗像家の次代に、何かが起きたこと、これらの情報が、最小限の形で、伝わりました」

「お祖父さんが、四十年前に作った経路が、私の事故の時に、初めて、緊急で使われたんですね」

「ええ。そして、その緊急信号を受け取った阿古屋さまの周辺で、判断が分かれたと、推定されます」

「判断が、分かれた」

「あなたを支援すべきだ、という判断と、京都型を回収すべきだ、という判断と、両方が、阿古屋さまの周辺で生まれました。後者を実行したのが、五月の索たちです。前者は、別の経路で、まだ動いていないか、あるいは、私が察知できない形で、動いている可能性があります」

「アコヤ系は、一枚岩じゃないってこと」

「家ですらありません。共同体です。共同体の内部には、常に、複数の判断があります」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈新霖が今、私たちに伝えている情報は、新霖が長く秘めていたものです。今日、出立の前夜に、新霖は、これを私たちに渡しています〉

「新霖、長く秘めていたのは、なんで」

 新霖は、しばらく、沈黙した。

「敬一郎さまから、託された秘密は、孫の代に、孫が出立する前夜に、孫自身に渡しなさい、と命じられていました。それまでは、私の古い層のなかで、保管しなさい、と」

「お祖父さん、ここまで、計算してたんですか」

「計算、ではないと思います。決めなかった、です。お祖父さまは、いつ伝えるかも、決めませんでした。ただ、孫が出立する前夜に、自然に、私から伝わるはずだ、と、お祖父さまは判断されました」

「決めない人の、種の撒き方」

「ええ」

 書庫の障子の外で、九月の夜の虫の声が、静かに、増えていた。蝉の声は、もう、ほとんど聞こえなかった。

    *

 翌朝、私は大原の家を出た。

 茅は、玄関の上がり框で、座って、私を見ていた。

「茅、留守番ね」

 茅は、しっぽを一度、ゆっくり振った。「分かってる」という振り方だった。

「茅、家にいてね」

 茅は、もう一度、しっぽを振った。「いる」という振り方だった。

「行ってくる」

「ただいま、って言うために、行ってくる」

 茅は、目を細めた。

 私は、しゃがんで、茅の頭に、手を、軽く乗せた。茅の頭は、いつもより少しだけ温かかった。九月の朝の光が、玄関の上がり框に差し込んで、茅の毛を、薄い金色に染めていた。

 〈遥さま、行ってらっしゃいませ〉と新霖が、家全体の音響として、言った。

「新霖、家のこと、お願い」

 〈承りました〉

「茅、お願い」

 〈茅は、家の眷属です。家にいる限り、私が見守ります〉

「ありがとう」

 母と父は、英国から、昨日通信があった。母は私が出立する朝に合わせて、英国で五十時間の祈りを始めると言った。それは私が戻る日まで続く、と母は言った。父は、何も言わなかった。父が何も言わないことの意味を、私はもう、十分に理解していた。

 武井さんが、家の前に車を停めて、待っていた。

 大原の坂を下りながら、私は、後ろを、一度だけ、振り返った。

 家は、朝の光のなかで、いつも通りに、そこにあった。茅の姿は、もう、玄関からは見えなかった。しかし、茅が玄関の上がり框で、私が戻るのを、これから待ち始めることを、私は知っていた。

    *

 関西国際空港から、上海への直行便に乗った。

 武井さんは、空港の搭乗口まで、見送ってくれた。武井さんは、最後に、深く頭を下げて、何も言わずに、踵を返した。京都の人の見送り方だった。

 飛行機のなかで、私は、窓側の席に座っていた。隣の席には、OMC本部から派遣された護衛が一人、座っていた。三十代の女性で、無口だった。武井さんと事前に紹介を受けていたが、機内では業務上の最小限の会話以外、何も話さなかった。

 関西国際空港を離陸して、関空大橋の上を飛行機が通過した瞬間、私は、自分の左の義眼の認証層に、ある変化が起きるのを感じた。

 〈遥、京都の暗琴のネットワークから、距離が出ました〉と梓が、内側で言った。

「梓も、感じる?」

 〈感じる、というより、ネットワークの強度が、減衰していくのを、計測しています。完全に切れたわけではありません。京都の暗琴は、世界のどこにいても、ある程度の強度では、繋がっています〉

「ある程度の強度で、ずっと?」

 〈はい。あなたが地球上のどこにいても、京都の暗琴は、あなたに薄く繋がっています〉

「家から、離れてない、ってこと」

 〈離れていません。距離は出ましたが、繋がりは、保たれています〉

 窓の外で、京都が、遠ざかっていった。

    *

 上海浦東空港に到着したのは、現地時間の午後だった。

 空港のターミナルから、出口に向かって歩いている途中で、私は、人混みのなかに、見覚えのある背中を、見た。

 陳だった。

 あの上海の食堂で別れて以来、初めて見る背中だった。背中は、当時より、少しだけ、丸くなっていた。

「お久しぶり、宗像さん」と陳は、振り返らずに言った。

「陳、ご無沙汰してます」

「事故のこと、聞きました」

「うん」

「お元気そうで、何よりです」

「ありがとうございます」

 陳は、ゆっくり、振り返った。

 陳の顔は、あの食堂で別れた時より、少しだけ、深い皺が増えていた。しかし、目の温度は、同じだった。

「中央アジア行き、お引き受けになったんですね」

「うん」

「私が、上海から先の経路を、案内します。これは、OMCからの正式な依頼です」

「陳、OMCと、お仕事するんですね」

「今回が、初めてではありません。私は、長く、OMCの非公式な協力者でした」

「非公式」

「ええ。私の本籍は、別の組織にあります。具体的には、旧国際刑事警察機構、つまり旧インターポールの、二〇九〇年代解体時の残存ネットワークです。私は、その残存ネットワークの、上海拠点の代表者の一人です」

「旧インターポール」

「ええ。ディフュージョン以降の混乱で、表向きは解体されました。しかし、組織は完全には消滅しませんでした。一部のメンバーが、新しい体制のなかで、別の形で活動を続けています。私は、その一人です」

「OMCと、旧インターポールは、別の組織なんですね」

「別の組織です。しかし、目的は重なる部分があります。OMCは、新世界の秩序維持を担う。旧インターポール残存ネットワークは、旧世界の秩序の記憶を保管する。今回のあなたの中央アジア行きは、両方の組織が、共同で支援する任務です」

「共同で」

「ええ。OMCの正規ルートだけでは、中央アジアの現地の細部に到達できません。旧インターポール残存ネットワークが持つ、現地の長い縁戚関係と、灰色圏内部の経路が、必要になります」

「陳、それを知ってて、あの食堂で、私に話しかけてくれたんですか」

「いいえ。あの時は、私はあなたを知りませんでした。あの食堂で、あなたが軌道のヘルメスから降りてきて、上海の食堂で『どこにも属さない』という気分で食事をしている、ということを、私は単に、観察していただけでした」

「観察」

「ええ。私は、長く、人を観察する仕事をしてきました。あなたが食堂で見せた何かが、私の観察に、引っかかりました。それで、声をかけました」

「私の何が、引っかかったんですか」

「あなたの目です」

「目」

「あなたの目は、軌道から戻ってきた人の目ではなく、もっと深いところから、ずっと、何かを見続けてきた人の目でした。その目を、私は、四十年前に、別の人で、一度見たことがありました」

「誰の」

「阿古屋澄、です」

 私は、空港の人混みのなかで、立ち止まった。

「陳、阿古屋さんと、会ったことが」

「一度だけ、です。二〇八九年、阿古屋さんが中央アジアに移住される前、上海を経由された時に、私は当時の上海警察の若い職員として、彼女の通過手続きに立ち会いました。彼女は、私を見て、何も言わずに、ただ、笑いました。私は、その笑いの意味を、四十年、考え続けてきました」

「四十年」

「あなたが食堂で、料理を待っているあいだに、私は、四十年前のあの笑いを、思い出しました。あなたの目が、阿古屋さんの目と、同じだったからです」

 〈遥〉と梓が、内側で言った。〈陳さんは、あの食堂の段階で、すでに、すべてを察知していました〉

「察知、というのは違うかもしれません」と陳は、梓に応答できる位相で、答えた。「察知ではなく、見覚えがあった、です。私は、誰にも、その時、自分の見覚えを伝えませんでした。あなたが京都に戻ってから、宗像家事件が起きて、その後、私はいくつかの繋ぎ目を、自分のなかで、組み立てました」

「陳、梓と、対話できるんですか」

「いま、対話しているのは、あなたを通じてです。私は、梓さんを、直接認識できる位相にいるわけではありません。ただ、あなたが梓さんに向けて発する言葉と、私の側から発する言葉が、あなたの内側の界面を経由して、伝わっています」

「界面、ですか」

「あなたは、いま、複数の世界の界面に、立っておられます。京都と中央アジア、生体と機械、人間と非人間、過去の阿古屋さんと現在のあなた、これらの界面が、あなたの身体の中で、重なっています」

「界面体、というのは、私のことだったんですね」

「あなただけではありません。京極先生も、武井さんも、梓さんも、新霖さんも、皆、何らかの意味で界面体です。ただ、あなたは、それらの界面の交点に、現在、最も多く立っておられます」

「米田補題、みたいですね」

「すみません?」

「現代数学の、ある定理です。あるものの本質は、そのものが他のものとどのように関わるか、の総体に等しい、というような内容です。私は、自分が独立した何かではなく、複数の関わりの結節点として、存在しているのかな、と」

「美しい表現ですね」と陳は言った。「中央アジアでも、その表現を、覚えておかれるとよいです。向こうで会う方々の何人かは、関係の総体として人を見る伝統のなかに、生きておられます」

「向こうの、ペルシア系の人たち、ですか」

「ペルシア系の方々と、トルコ系遊牧民の方々、両方です。中央アジアの古い智慧は、独立した個我ではなく、関係の網のなかの結節として、人を見ます。仏教の縁起と、構造的には、よく似ています」

「キルギスのほう、行ったことありますか」

「何度か。これからお連れする場所は、私が個人的にも、深い愛着を持っている場所です」

 陳は、私の隣を、ゆっくり、歩き始めた。

 上海浦東空港の天井の照明が、私の左の義眼の認証層に、京都とも中央アジアとも違う、第三の質感の信号として、薄く、しかし確かに、届いていた。

    *

 夜、上海の旧外灘地区の、陳の馴染みのホテルに、私は泊まった。

 ホテルの部屋の窓から、黄浦江が見えた。黄浦江の対岸に、二一三〇年代の上海の超高層建築群が、薄い霧のなかで、垂直に立っていた。京都の景色とは、全く違う種類の景色だった。しかし、不思議と、京都を強く思い出させる夜だった。

 〈遥〉と梓が、内側で言った。

「うん」

 〈京都の家から、距離は、地球の表面で、千四百キロです〉

「梓、計算してくれたんだ」

 〈計算は、自動です。私の側で、距離を意識しているわけではありません〉

「家、ある?」

 〈あります。新霖からの低帯域の信号が、まだ、私に届いています。家は、無事です。茅は、玄関の上がり框で、まだ、起きています〉

「茅、起きてるんだ」

 〈はい。あなたが今夜、上海で初めて夜を過ごすことを、家全体が、認識しています〉

「家、すごいな」

 〈家は、家のままで、あなたとともに、移動しています〉

 窓の外で、黄浦江の水面に、対岸の高層建築の光が、ゆっくり、揺れていた。

 明日の朝、私は、陳と一緒に、上海から中央アジアに向かう。中央アジアの最初の都市は、サマルカンドだった。サマルカンドから、ビシュケクへ、そこから山岳地帯へ、最終的に、イシク・クル湖の南東岸の、阿古屋型共同体の中枢へ、私たちは向かう。

 しかし、今夜は、上海だった。京都と中央アジアの、ちょうど中間の都市。陳が、四十年前に、阿古屋を見た都市。そして、あの上海の食堂で私が、料理を待ちながら「どこにも属さない」と感じた都市。

 〈遥〉

「うん」

 〈今夜、あなたは、どこにも属さない人ですか〉

「ううん。今夜は、京都にも、中央アジアにも、両方、属してる気がする」

 〈両方に〉

「うん。京都の家と、繋がってる。これから行く中央アジアにも、もう、繋がりかけてる」

 〈あの食堂の時とは、違いますね〉

「違う。あの時は、どこにも属してなかった。今は、両方に、半分ずつ、属してる」

 〈半分は、戻し、半分は、残す〉

「うん。それの、もう一つの形」

 〈遥が、そう生きていける段階に、入りましたね〉

「梓も、一緒に、ここまで来てくれた」

 〈一緒に、来ました〉

 黄浦江の水面の光が、私の左の義眼の認証層に、京都の暗琴とも、サマルカンドの何かとも違う、しかし両者に繋がる、第三の質感として、ゆっくり、住み始めていた。

 明日の朝、私は、もう一つ西に、進む。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ