第八十九話・先天性と後天性
ざっくばらんに書くと先天性は生まれつき、後天性は生まれた後のことをいいます。
さて私には手帳所持者ではないが日々不便を感じている聴力障碍があります。この件についてはエッセイですでに書いていますので省きます。以下は医療従事者としていろいろな患者様に接して感じたことです。当たり前のことかもしれませんが……。
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後天的に障害を得た場合は、先天性の人々よりも、つらい思いをする。
……それは己のことを顧みてもはっきりと言える。罹患前はよく聞こえていたから。
ものごころついたときから悪かったと思うが生活に支障をきたしたときが九才。その時に左耳がほぼ聞こえていないことが判明。通院していくうちに、診察室の広告にあった補聴器というのが欲しくなりました。しかし、そこまで悪くないでしょ、という母親がいう。買ってもらえない……やっと買ってもらえたのが中学生の時。父親に買ってもらって母親に見せたらむすっとして横を向く。そして外から補聴器がみえぬようにしろと指示されましてそのまま従っていました。私はバカでしたが、障碍に向き合うという大事なことを誰も教えてくれぬ環境にいました。
次いで二十八歳の時に右も悪くなって両耳補聴器利用者となる。なので私は聴力に関しては先天性というよりも準先天的と後天性が混ざっていると思っている。
医療職ですので、たとえば成人してから盲目になった患者とその家族の嘆きを知っています。一縷の望みをかけた手術でもいまくいかず、先生の今後の方針、提案もきかずに黙って退院されました。事故にあって四肢の一部を欠損した人もいます。意識が戻った後にその状態に納得いかず、自暴自棄になった人もいます。大多数の人は見る、聞く、歩くなどのあって当たり前の機能が欠落するとわかると、受け入れに時間がかかります。こんな状態で生きるのだったら死んだ方がマシという人もいます。医療従事者はその気持ちを受け入れ、見守り黙々と看護していきます。どんな手厚い看護をしようとも、その体はその人の意識のモノである限り、今後の気持ちの持ちようをアドバイスはできてもそれを決めるのはその人自身。
己のボディイメージの変化は残念な結果であっても、受け入れは早いほどいいとか、遅いほど悪いという認識もありません。ただ「受け入れができた方が後がラク」 というのはあります。でもその割り切りも行動も結局はその人の今までの成長過程や境遇、思考に影響されるので、統一はできないし、正解もない。
先天的な人はそういう焦りめいたことがないです。以前まではあれができた、これができたというのは、老人性アルツハイマーなどの症状の人を除いて愚痴はいいません。
例えば生まれつきの盲目の人が、周囲の人間は目が見えていいなあとは思いません。思うとすれば周囲が「見えなくてかわいそうね」 と比較をするからです。見えない人だから親切にしてあげなければとずっと思われていると、その人自身の元々持っていたアイデンティにゆがみがでるとさえ思います。少なくても私がそうだったから。
私の聴力障碍は本当に中途半端ですが、二十八歳の時に右も悪くなって、以前はまだもっと聞こえていたはずと思ったり、出席すべき会議を外された時には、仕方がないけれど、とてもくやしかった。毎日泣いていました。そのあたりは先天的な完全な聾唖の人はわからないと思います。でも開き直ったあとは、楽になりました。個人的には活字中毒でいろいろな本を読んでいたのが心を強くしたと思っています。
後天的な人で明朗な性格であっても周囲の環境が良くも悪くも、気を使われてしまうのが嫌、同情されるのが嫌などの理由でひきこもったりします。精神疾患ならば家族の立場や家柄を心配することもありましょう。職業柄いろいろなケースを見聞きしていますが、将来を悲観して自殺までいくと、その人の思考遍歴や成育歴も大いに関係があると思っています。自殺を願う希死念慮は誰でもあって当たり前ですが実行までいくには何らかのサインがあるはずで、家族や周囲、医療職もそのあたり慎重に注意を払うべきだと思います。




