閑話 彼は己の名を知らない 1
暫く閑話が続きます。
「はあっ、はあっ……」
走って、走って、走って。
どれほど走り続けただろう。完全に周囲に人がいなくなったのを確認して、少年はずるずると壁にもたれて座り込んだ。
憲兵を見かけた。目立つ緋色の髪だからすぐに見つかるだろう、と話しているのを聞いた。きっと、紐がないから探されているのだろうと思った。
ーーそのまま放っておいてもよかったのに、紐を返しに行ってしまった。
握り締めていた拳を解けば、やけに綺麗な髪飾りがこぼれ落ちた。泥の中にべちゃりと落ちたそれは、なおもきらきらと美しい光を放っている。
「なん、なんだ……なんなんだよっ」
それを見て、反射的に喚き声が出ていた。建物の影から出てきた猫が、驚いたように尻尾を巻いて逃げていく。
「なんで、あいつ、俺を……」
リディル、と呼ばれた青年。額から汗を流して、それでもなお少年のために走っていった。振り返った時に見えた、翻る金の髪を思う。
「人、だよな……?」
人のはずだ。でなければ、ルーナメリィが「信頼してない」なんて即答はしないだろう。
アノン、という声を思い出した途端、頭がひどく痛んだ。靄がかかったような記憶の中で、頭を撫でる手の感触だけが、やけに鮮明だ。
「……らない、知らない、俺は、知らないッ……!」
自分の名前も、生まれた年も、親も、何もかも。
知っているのは、紋章者は人にとって娯楽に過ぎないということだけ。
人が紋章者を助けるなんて、あり得ないということだけ。
――ひとりくらい、嫌じゃない人もいるから。
「ちがうッ……違う、違う、違う……! そんなわけねぇっ!」
少年は激しく頭を振る。体が小刻みに震えていた。
「そんな――、そんなの、」
そんなの、あり得ない。
少年は膝に頭を埋めた。
何も、考えたくなかった。
***
七号、というのが彼の呼び名だった。名前は知らない。人の子として生まれた時にはあったというが、箱に送られてきた頃には忘れていた。
少年がいた六番地区の管理者は、とても残虐だった。紋章者を鞭打ったり、何回斬ったら死ぬかを実験することを好んだ。
常に尋常でない緊張に晒されるせいか、皆一様に痩せていて、髪の色は白く抜け落ちていた。少年も、もう元の色は思い出せない。
苦しいだけ、ただ死を待つだけの日々。
それが狂ったのは、8歳になる前のことだった。
その日、主人はいたく酔っていた。千鳥足で剣を振り回し、紋章者に傷をつけては歓声を上げた。あちらこちらで迸る悲鳴、友の、子の死を嘆く声。充満した血の匂い。
逃げよう、と思った時には主人の甲高い笑い声がそば近くで聞こえて、同時に背中に熱が走った。倒れ込んだ地面に、赤が広がっていく。
——あぁ、死ぬのか。
痛みがどんどん引いていく。これが感覚がなくなるということか。今目を閉じたら、もう死ねるのか。
少年は目を閉じてその時を待った。しかし、いっかな意識は途絶えず、悲鳴だけが遠く聞こえる。訝しく思い少年は身を起こした。背中に手を這わせるが、そこには引き攣れがあるばかりで、ぬめりのある感触は返ってこない。衛兵が駆けてきて、主人を押さえ込む様を、少年はただ瞳に映していた。
その日、死亡21、重軽傷52という被害が出た。そして少年は、兵士に捕えられた。
斬られたところを目撃していた衛兵がいたらしく、傷がないのを訝しがられて権能が発覚したのだ。
彼の権能は再生といった。
彼は己につけられた全ての傷を癒すことができた。
つまり彼は、死ぬことさえ出来なかった。
検証という目的で、衛兵は彼を虐げた。傷は治る。痕は消える。なれどつけられた痛みは尾を引いた。まだ8つにもならぬ幼子の体は悲鳴を上げていたが、誰も気にかけはしない。敢えて傷を癒さず残したこともあったが、いたぶられることに変わりはなかった。死にかければ勝手に癒えるのだろう、と宣った兵士の顔を、彼は忘れられない。
しかし、ある日を境に突然、衛兵たちが大人しくなった。何の裏があるのだろうと、いっそ恐ろしく思っていた矢先のことだ。何も分からぬまま目隠しをされ、枷をつけられた。何かに乗って移動しているようで、風がごうごうと吹き付ける音がした。移動中の会話で、今までいたところを箱というのだと知った。他にも管理者、島、力、という言葉が聞こえたが、途切れ途切れだったので意味はよくわからなかった。
目を開けた時には、知らない世界にいた。
文字通りだ。
そこには窓があった。空があった。御伽噺の中にしか存在しないものたちが。
驚愕する少年をよそに、人の話し合いが進められていく。でっぷりと太り、金銀を散りばめた男の手に枷に繋がる鎖が渡された。男の右手に、似合わない金の紐が巻かれているのが印象的だった。
「よくトウシュさまにお仕えするのだぞ」
トウシュとはなんだ、と思って呆然としていると、頭を下げんか、と怒声が発せられた。少年は慌てて地面に額を擦り付ける。馴染んだはずの地面は、無機質な灰色ではない。柔らかな茶色だ。
知らないはずの色は、何故だろう――どこか、懐かしいような気がした。




