ぞっとしたこと
ぞっとしたこと
2024.04.21
これは私小説風の短編小説です。小説のモチーフは私が実際に体験したことをもとにしておりますが、作品にするにあたりデフォルメしております。つまり、途中までは本当にあったことに基づいているが、途中からは作り物であるということです。これは作品効果を上げるためではありません。私を大切にしてくれる人、私が大切にしている人に、私がこの短編を書くことにより嫌な思いをしてもらいたくないからです。そのため事実に基づくものではないということをまずここに記しておきます。
わたしの父は子煩悩な人でした。過去形にするのは正しくなく中国と日本で離れている今もちょこちょこと連絡をしてくる子煩悩な人です。姉が生まれわたしが生まれ、男の子が欲しかった父は母に3番目を所望しましたが、二番目であるわたしが早産で低体重、生まれつき体が弱くよく熱を出し、夜泣きも酷かったのでとてもこれ以上子供の面倒は見られないと言って断られました。
これは大人になってからのわたしの推察ですが、母は男、女、女の三人兄弟の真ん中で、聞くところによるとおじはそれはそれは頭が良くて神童のように可愛がられたのだとか。母も叔母も成績が良かったのですが、あまり構ってもらえなかったというのです。お母さんはもしかしたら、わたしの下に弟が生まれて、わたしが母の経験したような思いをしたらかわいそうとどこかで思ってたのかもしれない。
そんなこんなでわたしは男の子のいない家庭で男の子の代わりにとでもいうのでしょうか、男の子のように育てられたのです。子供の頃から本を読むのが好きで、大人顔負けに口が立つわたしを父は喜び、また父は自身も頭が柔らかく論理的にものを考える人間でしたので、相手が子供だろうがなんだろうがさまざまなことについて問いかけ対話するのを楽しんでいました。
全国的に販売網を持つ会社のフランチャイズの販売代理店、独立性がかなり高く、それぞれが自営の経営者、父はそんな仕事をしていました。経営で悩むことがあると何もわからない子供であるわたしを引き摺り出してきて、ああだこうだ尋ねるのです。変な人だった自分は、何かしら答えました。父はそれを非常に喜びました。
もともと父が会社に属するサラリーマンであったことがなく、常に一番上の立場で仕事をしてきた人間であること、そして、その父に女であるとか子供であるとかは一切思われたことはなく、いつも対等に扱われていたこと。それが、自分がとても生意気な女になった所以だと思う。
大学では英米文学を専攻していた。卒業してまだ東京にいた頃、卒業後も大学の教授と懇意にしていて、時々教授を中心にした集まりに出ていた友人がいた。その子は、その集まりにわたしも連れて行ってくれた。昔の授業の話になった時に、わたしはその日、その場にいた教授とは別の教授の授業について話題に出した。
その教授は授業で英字新聞を教材に使っていた。小説ではなくてビジネスの英語に触れられる授業が少なかったので、あれは勉強になったと発言したのである。すると、本来は気難しい人でわたしの友人が関係がいいがために我々の前では気さくな教授が、つまらない顔になった。まずいわたし失敗したなと途端に悟り、恐縮したものである。その後教授はこう言った趣旨のことを言ったのです。
まず、本来であればその英字新聞を取り上げたA教授は、素晴らしい教授なのだというのです。素晴らしい研究分野を持っていて、独自の論点も持っている、それなのに学生に迎合して新聞なんてつまらないものを教えるなんて、そう言いました。
気難しいけど清廉で、間違っている時は間違っているとはっきりいう。調子に乗った学生が授業で出席票だけ出して後ろの戸から逃げようとして見つかりでもしたら大変なことである。大変なんだけど、人生の夏を謳歌し、勉強よりも遊びに頭のゆくフラフラとした若者は、いろんな教授が語る人生の深淵よりもキラキラした方向へとよくちょろちょろ逃げてた。学問に身を捧げている教授の方々も、ほとほと手を焼いたことでしょう。
授業で怖かった教授、これは、英字新聞を教えたA教授ではなくB教授としましょう。授業で怖かったB教授。他の教授の皆様がお金持ちになった日本で蝶のようにフラフラとしたどうしようもない学生に次から次へと白旗をあげていく中で、オーソドックスに丁寧に、雷を落としてくれたB教授。授業では文学によりそう独創的な心情を語られ、そして、我々一人一人の心について良く考え悩みぬきなさいと教えてくれた。卒業後も仲の良い友人がいたおかげで教授に会うことができて、授業では見られなかった厳しい中にも優しい一面に触れることができました。そんな教授のさまざまな思い出の中で、一番心に残っているのはこの日のことなのです。
英字新聞なんてくだらない。
教授がわたしに残した教えの中で一番大きなものは、この、英字新聞なんてくだらない、だったと思う。そして、その後、こう言いました。人は大きくなり働くような年代になると、いったん文学から離れる。文学から離れる人が大半です。だけど生きていって人生の終盤に差し掛かった時、もう一度今度こそ本当に文学に向き合う時が来る。
その意味がその時はまだわからなかった。わたしは本当はあの時、とても困っていて、東京で働きながらでも、文学に携わっている教授にたまにでも会えるのに救われていた。心を開いてその悩みをいう勇気はありませんでした。
わたしは小説を書きたかったのです。自分の小説を書きたかった。
だけど自信がなくてそのことを言えませんでした。教授のような文学の専門家に英語と日本語の違いはあるとはいえ自分の文章を見せて、「才能がないから諦めなさい」と言われることをそれはそれは恐れていました。友人のおかげで、教授のごくごく私的に近い教授と一部少数の学生で行っている文集作りに参加できた。教授にいいねと言ってもらいたくて、一生懸命文章を綴りました。古い思い出です。
日本語教師として中国で暮らすようになり、仕事と並行して文章を書いたり、それをどこかに発表するどころか相変わらず誰かに見せることもできずにどんどん歳をとりました。縁あって中国人の主人と結婚し、息子ができた。その頃自分は仕事を辞めて無職でした。育児が落ち着いたらまた日本語教師をするつもりだった。ところが、お知り合いの日系会社の総経理から財務を担当していた日本人が辞めるのだけど、後任でなかなかいい人がいなくて困っていると声をかけられたのです。
文章を書いて生きていきたい人間にとって、言葉を教える仕事をしていることは理想的だったのです。教師は自分に向いていると思うし、嫌いな仕事ではありませんでした。ただ、結婚して息子もいて、生活上の問題がありました。
「どうしよう?」
主人の方を見ると、主人は明らかにこの話を喜んでいました。今までは独身だったし、でも今は結婚した上に子供がいるし、これからは家族のために働こう。そう思って会社に入りました。皆親切にしてくれたし、わたしが入社したことを喜んでくれた。日本人も、中国人も。中国人の子達で会社で日本語ができる幹部スタッフの人たちは、わたしがかつて日本語を教えた教え子たちでした。
「先生、先生」
会社のことがよくわからないわたしに、いろんなことを教えて助けてくれた。みんなはわたしにとってとても大切な仲間でした。中国人も日本人も社員の仲のいい、働きやすい会社でした。ただ、自分はプロパーの社員ではなく、日本ではなく中国現地法人の現地採用で、女でもあるし、常にそこには一定の溝があり、わたしの上には見えない天井があった。
とある時期の上司、この方はわたしの文章能力を特に買ってました。その上司がまだ入社したばかりの頃にぽろっと言った事がある。どんな話の流れだったか忘れましたが、こう言ったのです。
「うちに入れてよかったね」
そこが可能形だった。そこに、わたしが断るという選択肢はあり得ず、会社が受け入れたというニュアンスが込められていた。その時咄嗟に心の中でこう思ったのです。いや、わたしを採用できてよかったですね、だろと。
その瞬間の自分の心理を今でもはっきりまざまざと覚えているのです。自分は、お客様に頭を下げることはあっても社内で頭を下げる必要はない父の元に生まれ、そしてその父に対等に扱われ、会社とは何か、組織とは何なのか、そして、社会とはどういうところなのかを全く知らなかった。そして、ここが一番重要なのですが、自分の能力を過信していました。
わたしを認め、わたしを会社に引き入れた方は、とても仕事のできる方で、わたしを引き入れた時にはもう定年後の再雇用の状態だったのです。後任の顧問をしつつ定年を数年延長した形で勤務されていた。わたしの良さを買って下さったこの方も、わたしの生意気さや危うさは見えていたでしょう。時折、叱られました。それを懐かしく思い出します。
わたしが恵まれていたのは、叱られつつも工場が非常に良い状態で稼働している様子を横から眺めることができたことです。顧問はみんなに愛されていました。日本人にも中国人にも。下の人たちに尊敬され愛されていた。あの時はまだその価値をきちんと理解していなくてわたしは子供でした。自分を過信していた。周りの人にも優しくされて、浮き足立っていたのだと思います。
前半はずっとうまくいっていた。わたしは要領が良かったし、いい意味で個性的でした。いろいろな人に頼られ、仕事が楽しかった。日本からたまに出張でくる本社の上の方の方たちとも回数は少ないですが言葉を交わすチャンスもありました。一風変わった見方をするので、気に入られ、わたしは直接本社の上の人と仕事をするような職位の人間ではありませんが、周りの他の人がいない時はよくおしゃべりをするような仲でした。
漫画ならここで神風のようなものが吹き、自分が下の方からどんどん出世したりするのかもしれませんが、多分、設立してからそれなりに時間が経っている会社というのは、そして、そこそこの規模がある会社というのは、そんなに簡単にイレギュラーを出したりしません。もしも、前例があるとか、非正規から正規への抜擢という具体的な方針が定まっているとか、それならまた別かもしれませんが、そういうものは会社にないのです。それなのに、周りの人にちやほやされて、夢を見ていた自分。
最初はそれはきっととっても哀れでした。ヒリヒリと全身が痛む因幡の白兎みたい。ただ、時間が経った今から思えば、純粋でちょっと愚かだった自分はそれなりに可愛かったと思う。
現地法人もどんどん人が入れ替わり、昔お世話になった人たちが別の拠点へ移動し、新しい人が入ってきた。すると、この現地採用で女のくせに生意気な人はなんだと思う人が少なからず入ってきた。そして、調子に乗って本社の上の方とおしゃべりをしていると、まるでフェンスのようにわたしとみなさまの間に立ち塞がるのです。
そして、細かなことは忘れてしまいましたが、そうそう思い出しました。こう言われたのです。駐在社員と現地採用の区別をはっきりとさせるために見直しましたと言われて手当の条件を変えられました。一年毎の契約更新の際にです。そして、前任者の方達がわたしの給与をあげすぎたというのです。
これを直接言われた時に、うちの会社はこんなレベルの人にあんな金額の給与を払ってるのかと呆れました。わたしは財務担当でお金関係の処理に全て携わるので、その金額を知ってました。わたしが言いたいのはこういうことでした。人の契約の更新をするときは、コストとその人の留保と天秤にかけるべきで、コストはかかるけど辞められて困るなら、コストをどうカットするかはきちんと対策を練って進めるべきでしょうと。待遇を下げるということは、お前はもうやめろと相手に伝えたということです。大体、わたしの給与が高いと言ったって年間で経費に対して与える影響がどのぐらいかと。利益はずっと十分に出てました。是が非でもやらなければならないコストカットではありません。
結局、ただの嫌がらせなんです。
その後、わたし以外にも実益を考えて進めたのかどうかわからない嫌がらせのような人事が行われました。本当だったらここでやめるべきだったのですが、そうはならずにまだ勤め、そして、その当時のトップの人。トップになる前からずっと古い知り合いで、もともとは関係の良い相手でした。人事関連で酷いことを言った人もこの人の下についているのです。
ここでわたしはいよいよ本格的に、自らの未熟さから虎の尾を踏みました。
とある時、ちょっとしたトラブルがあり一時的に緊急事態になったことがある。無我夢中だったので自分の立場を忘れ上の方に直接的に様々なことを言ってしまった。相手を完璧に怒らせました。
ちょっと時間軸を戻します。この方がトップになる前の話です。入社する前からの古い知り合いでもあり、その当時は住んでいる場所も近くだったので出退勤の車が同じでした。3人で乗っている車で帰り道、途中下車して時々3人でお酒を飲みながら食事をしていた。年配の方というのはよく武勇伝を語られますね。それで、何度も聞いたのです。どうやって出世してきたのか。自分は上を蹴落としてその地位を奪ってきたと言ってました。そして、我々の目の前でまた、それをやってのけた。
前任者はでも嫌な顔を一つも見せることなく帰国した。一つも言わずにです。その様子は今でもよく覚えている。
自分は蹴落としてやってきたという言葉と同時に言い聞かせられてきたことがある。「⚪︎⚪︎ちゃん(わたし)だって今は味方だけど、俺に歯向かったら敵だから」それが現実に起こってしまった。まっすぐな人間である自分は、会社にとって不利益なことが起こるなら、たとえ相手が上の人だとしても歯に衣着せずにそれを言ってしまったのです。
わたしを会社に呼んでくれた顧問は、自分の立ち位置をわきまえずに言いたいことを言うわたしの危うさをあの時からわかっていたと思います。会社では組織では社会では、時に枝に赤い布が結びつけてあったとしても、「赤い布があります」と言ってはいけない時がある。わたしは自分の力を過信して、気に入られればプラスに働くが、機嫌を損じれば危険な相手のそばにより過ぎていた。
相手はわたしに抜けられては困るのですが、プロパーの方というのは組織に対して盲目的に従順ですから、会社の力、肩書きの力というのを絶対的なものだと認識していて、わたしが辞めるなんてことは思わなかったのでしょう。職権を使ってありとあらゆる嫌がらせをしてきました。それは会社の利益とは全く関係のない行いでした。本来であれば、ここでさっさと辞めてしまえばよかったのです。自分は今までも転職を繰り返してきた人間ですね。つまりは根無草。組織に対して従属などしていないのですから。
ただ、思うに、それはこういうことなんです。
わたしを会社に引き入れてくれた人、とても親切にしてくれた人たち、そして一緒に楽しく働いてきた仲間。わたしは会社には従属していなかったですが、会社の中にいる人たちと繋がっていた。今まで会社を渡り歩いてきていて、一つのところに落ち着いたことがない。そういう自分に足りないものを感じてもいたのです。
足りないものは確かにありました。自分は自分の力を過信していたし、また、たとえ自分の考えが正しいのだとしても、会社の中でそれを進めたいのなら、進め方というものがあり、決して会社というものが正しいかどうかのみで論理的に動いているものではないということを肝に命じていなかった。
自分は本当は味方を作らなければならなかったのです。自分で自分の力の及ぶ範囲を把握し、自分ではどうにもならないものに関しては他人を頼るべきだったのです。
自分の未熟さを知らずに次から次へと渡り歩くことはできません。その思いが、理不尽な仕打ちを受けても自分をそこに縛り付けていました。そんな状態で数年経った。
そんなある時、あのコロナが始まった。あれは春節中に始まった。みんな慌てて一時帰国した日本から戻ってきましたが、その中にそのトップがいなかったのです。もう高齢だったのでコロナの危険がないと分かるまではなんとかかんとかということで、ずっと日本から戻らず遠隔で業務をしていた。そして、一年ほど後に亡くなった。
「本当は病気だったんだって、俺も知らなかった」
跡を継いでトップになった人も知らなかったことです。
嬉しいか?
憎んでいたか?
自分で何もできなくても、死神が持っていったな……
その説明を受けている自分に、この世のものではないものが話しかけてくる気がした。
心からぞっとしました。心から。
ほっとしたか?これでもう酷い目に遭わないな。
ざまあみろと思っただろ。
あの人はきっと、こうなんです。
顧問に憧れていたのだと思います。皆に尊敬されるトップになりたかった。わたしは古い知り合いです。顧問とあの人といろんな人たちをみんな一緒によく知っている、昔からです。だけど器ではなかったのだと思う。だからうまくいかないことで焦って、自信がなくて、だから、力を誇示しようとして、自分の目から見て逆らっているように思える人を片っ端から職権でもって引っ叩いていた。
そんな生き方に、何か意味なんてありますか?
そんなストレスが体に悪い影響をもたらしたかもしれないじゃないですか。
人から地位を奪って幸せでしたか?
生意気な部下の女に嫌がらせして、楽しかったですか?
最初からあなたはそんな人間だったんですか?
わたしは思う。違うと思うんです!
どうして……どうして……
亡くなった本人だけでなく家族だって苦しいだろうに
それに他にも傷ついた人が出たのに、どうしてこんなことになるんだ。
どうして……
その時にずっと昔教授が言っていた言葉を思い出した。
人は最後に文学に戻り、今度こそ真剣にそれに取り組むことになる。
悲しかったです。昔仲良くみんなで楽しく働いていた頃を知っているだけに悲しかったです。
ただ、わたしが思うのは、教授が言う通りで、人はお金を稼ぐようになると一生懸命お金に関することについて学ぶようになると思うんです。でもね、人には心がある。心の平安が保てなければ、あなたは幸せと言えるのですか?
お金は死んでしまったら使えないんですよ。
死んでしまったら1人です。自分の肩書きで捕まえていた人間の上で威張ることもできない。
寂しくないですか?
本当は寂しかったんじゃないかと思うんです。
そしてきっとみんなに慕われていた顧問が羨ましかったんじゃないかなと。
地位がそんなに重要ですか?自分の器ではない地位につくことになんか意味なんてありますか?
わたしはそんな生き方はしない。
心に誓いました。
人を憎むこともしない。必要以上に羨むこともしない。
たとえ自分が一番手の人間になれることがなくとも、自分で自分の人生を悲観したりはしない。
自然に生きる。流れるように生きる。
自分の人生に起こったこと、そして今ここに流されてきていること、それらを全て受け入れます。
そして、今、ここで、自分の場所で、自分がすべきことをする。
それでいいんです。それでわたしは化け物のようになることはない。
いろんな人に心配されたり、大切にされたりした。
でも、結局会社は辞めてしまいました。
少なからず当人であるわたし以外の人々もちょっとやだなくらいは思ったかもしれない。
ただ、忘れたくないんです。会社の中に色々な人がいて、そしてみんなそれが全然正しくなくて間違っているのに変えられない、そのことに怒ったり、嘆いたり、あるいはどうにかならないかと一生懸命考えていたり、自分と似たような人がちゃんといました。みんながちゃんと繋がって1人ではなくみんなで取り組めば、きっと良くなるでしょう。
信じることからしか何もはじまりませんし、わたしは抜けてしまいましたけど、でも場所は変わってもまた似たような問題が起きている現場に自分が出会うこともあるでしょう。
その時何をすべきなのか、少なくとも昔よりはわかっている気がします。
(乙女著)




