19 可愛い毛玉には罠がある
翌朝。
山の合間から昇った朝日に照らされて自然と目が覚めた私は、こちらに背を向けて座っていたルミナリスさんに挨拶をして、沢の畔で大きく伸びをした。
どうやらルミナリスさんはずっと見張り番をしていてくれたようだ。
今日はこれから下山を目指してさらに進むという。
寝起きであまり食欲もなかったので、とりあえず昨日取っておいた痛み止めの葉っぱだけ噛んでリャナの果汁で流し込むと出発の準備をすることにした。
火の精霊の力の宿った石は繰り返し使えるらしいので、着ていた白いローブの内ポケットにしまい込んだ。
エクスさんが着せてくれたこの白いローブは結構機能的で、寒さを防いでくれる他に、こんなに何に使うんだろうっていうくらい内側にポケットがついていた。おまけに驚くほど丈夫で、昨日のルミナリスさんの攻撃を受けてもほつれ一つできなかった。丈夫なのに分厚い感じもごわついた感じもなくて、軽くて肌触りもいいし着心地もいい。一体何の素材でできてるんだろう。
食べずに残しておいたリャナの実をそれぞれ内ポケットにしまって準備を整えた。
それを確認したルミナリスさんに『いくぞ』と声をかけられて、沢から離れるようにして歩き出した。
てっきり沢沿いに歩くんだとばかり思っていた私は、ルミナリスさんに駆け寄って後ろから話しかけた。
「沢を下るんじゃないんですか?」
私の言葉に、ルミナリスさんはぴたりと足を止めてこちらを振り返った。
その顔にはどこか呆れのような色が浮かんでいる。
『…………本当に山歩きの経験がないのか』
「ちょ……だから! 初めからそう言ってるじゃないですか!」
登山経験があるとは言っても、整備された山道しか通ったことはない。まして誰の手も入っていないけもの道を歩くのなんて初めてだ。
むうっと膨れる私に、ルミナリスさんは沢を下りてはダメな理由を教えてくれた。
どうやら、沢を下りると高確率で滝や崖に出ることが多いそうだ。確かにさっき野宿をした場所にも小さな滝があった。
しっかり考えられたルート選択に、素人の私が口を挟むべきじゃなかったと内心反省して黙ってついていくことにした。
***
山下りを始めて三日目。
私は時折背後を振り返りながら、木々の間を縫うように山の中を走っていた。
事の発端は数分前に遡る。
山下りの行程はおおむね順調だった。
ルミナリスさんは沢下りの一件で私が登山初心者だとわかると、前よりも慎重に安全で歩きやすい道を選んでくれるようになった。
その分時間もかかるらしいけど、あと一日もあればベルナ山を含んだ山脈を抜けて平地に下りられるというところまできていた。
何度か危険な野生動物と遭遇しそうなことはあったけど、危機管理能力の強いルミナリスさんのおかげで今まで見つかることはなかった。
それなのに、私はルミナリスさんの制止を聞かずに怪我をした毛玉のような生き物を介抱しようとした。
それが間違いだと気づいたのは、怪我をしたと思っていた生き物が獰猛な獣の尻尾の先っぽだとわかった時だった。
細くて長い尻尾の先を目でたどって本体の獣と目が合った瞬間、頭の中が真っ白になった。
『リン!』
見つめあって動けずにいた私と獣の間に、ルミナリスさんの切迫した声が割って入る。
その声にはっと我に返った私は、獣が動き出すより先に走り出した。
「なんなの、あれ!?」
無我夢中に走りながらルミナリスさんに問いかけた。必死過ぎて敬語なんてどっかいった。
私のやや後方を並走して背後の気配に気を配りながら、ルミナリスさんは冷静に答えてくれる。
『あれは怪我をしたように見える毛玉のような尻尾を餌に、獲物を捕らえる習性があるんだ』
「つまり、私はまんまとあいつの罠にかかったってこと!?」
『だな』
おう、なんてこった。
あんなに獰猛そうな見た目をしてるのに、可愛らしい毛玉みたいな尻尾をしてるなんて反則すぎる。
ガサガサと草をかき分けるように近づいてくる気配に、心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
時折木の根っこに足を取られながら道なき道をかき分けて進んでいくと、大きな沢に出た。
ごろごろした岩場の合間を大量の水が流れている。
岩と岩の間は結構離れていて、助走をつけたジャンプでも向こう岸に着地するのは難しそうだ。
うそでしょ、行き止まりとか!
直線で逃げることができなくなった私は、咄嗟に下り坂になっている方へ方向転換して駆け出した。
『待て、リン! そっちは……!』
私は背後から迫りくる熊のような赤茶色の獣の気配にばかり気がいっていて、制止するルミナリスさんの声が聞こえていなかった。
少し走ったところで、前方にあるはずの地面が不自然に途切れているのが見えた。
ザーという水の落ちる音が聞こえる。
滝!!
前方は滝、後方には獰猛そうな獣という絶望的な状況で、もう沢を飛び越えるしかないと血迷った私はその勢いのまま対岸に向かって地面を蹴った。
『なっ!? バカッ!!』
ルミナリスさんの盛大な舌打ちと罵倒が聞えてきたような気がするけど、もう飛んでしまったので後戻りはできない。
お願い届いて……!
その思いは、バシャという水へと落ちる衝撃と共に無情にも砕け散った。
やっぱダメだったかー!!
岩の間を流れる水にもまれるように流されながら、必死にもがいて対岸の陸地に向かって手を伸ばした。
このままじゃ滝から落ちる。
落ちる先がどのくらいの高さがあるのかもわからない。
ザーという大量に落ちる水の音だけを聞くに、結構な高さがありそうな気がする。
先の見えない未来に恐怖が増長する。
やばい、やばい、やばい!! 早く何とかしないと。
そうわかっているのに、思うように体は動かないし、見た目よりも速い流れに私の体はどんどん滝へと近づいてくる。
ああ、もうダメかも……。せめて痛くないといいな。
私はもがくのを諦めて、服の上からネックレスを握りしめて固く目を閉じた。
体が宙に放り出されるような感覚の後、急激な落下を感じた。
「ひぃやあああああああああああああ!!」
もうここまでみたい。私、頑張ったよね?
死を覚悟した私の頭の中に、『リン!』と呼びかけるルミナリスさんの声が聞えた気がした。
ごめん、ルミナリスさん。沢下ったら滝があるって教えてくれたのに。