33話 髭の老人
【前書き】
四字熟語が真名になる世界。
臨機応変のリン、猪突猛進のシン、医食同源のイオ。
新章は、命令で人を縛る四天王・絶対服従との戦いです。
バトルあり、料理あり、馬あり、たまに昼行灯あり。
よろしくお願いします。
朝になると、どんちゃんはいなかった。
朱雀の町の広場では、まだ昨夜の鍋の匂いが残っている。
空になった器。
焚き火の跡。
命令ではなく、自分たちで囲んだ食卓の名残。
その片隅に、どんちゃんが寝ていたはずの場所だけが、ぽっかり空いていた。
シンが周囲を見回す。
「また消えたな」
「うん」
リンは頷いた。
「いつものことだけど」
「飯食って消えたぞ」
「今回は働いてたでしょ」
イオが荷物をまとめながら言う。
「町の人に器を配ってたし、鐘の間でも足元を照らしてくれた」
「まあ、それはそうだけどよ」
シンは少し納得いかなそうに腕を組んだ。
「せめて朝飯食ってから消えればいいのに」
「食べてから消えたら文句言うでしょ」
「言う」
「どっちでも言うんじゃない」
リンは苦笑した。
どんちゃんの行灯もない。
いつもなら頼りなく揺れている小さな火が、今日は見えない。
ただ、それだけで少し道が暗くなったような気がした。
けれど、立ち止まっているわけにはいかない。
朱雀女王は倒れた。
絶対服従の命令はほどけた。
だが、四天王はまだ残っている。
疑心暗鬼。
生殺与奪。
次に向かうべき言葉は、まだ遠くにある。
広場の端では、一進一退が夜明け自警団の若者たちと話していた。
昨日までの赤い重鎧はなく、今は動きやすい旅装に近い服を着ている。
背中の印の跡には、イオの薬草布が当てられていた。
「門の見張りは二人ずつ。ただし、命令ではなく交代の相談で決める」
一進一退が言う。
「疲れた者は退いていい。退く場所を作るのも、守りの一部だ」
若者たちはぎこちなく頷いている。
まだ誰も、自由に慣れてはいない。
けれど、昨日より少しだけ、自分の足で立っていた。
一進一退はリンたちに気づくと、静かに頭を下げた。
「行くのか」
「うん」
リンは答えた。
「東へ行こうと思う。疑心暗鬼の噂を集めたい」
一進一退の表情がわずかに曇る。
「東か」
「何か知ってる?」
「朱羽軍にいた頃、東の村からの連絡が何度か途切れたことがある」
リンは眉を寄せる。
「途切れた?」
「村同士が急に互いを疑い始めたらしい。荷を盗んだ、道を塞いだ、井戸に毒を入れた。そんな報告ばかりが届いた」
イオが顔を上げる。
「本当にあったこと?」
「分からない」
一進一退は首を横に振った。
「調べに行った兵も、戻る頃には仲間を疑うようになっていた。誰の言葉が本当か分からぬまま、朱雀女王の命令で封じた」
「封じたって?」
「道を閉じた」
その言葉に、リンは黙った。
絶対服従が終わった今でも、その爪痕はあちこちに残っている。
一進一退は続けた。
「東へ行くなら、青い霧に気をつけろ」
「青い霧?」
「ああ。霧の中で声が聞こえるそうだ」
シンが鉄棒を肩に担ぐ。
「声?」
「自分の声。仲間の声。嫌なことを言う声」
一進一退はリンたちを順に見た。
「疑うな、と言っても無理だろう。だが、疑ったまま黙るな」
リンはその言葉を胸に留めた。
「ありがとう」
「礼を言われることではない」
シンがにやりと笑う。
「一進、ちゃんと自警団やれよ」
「略すな」
「じゃあ一退」
「だから略すな」
「夜明け自警団の団長なんだろ?」
一進一退は少しだけ目を伏せた。
「まだ団長と呼ばれる資格はない」
「じゃあ仮団長だ」
「勝手に決めるな」
「嫌なら断れ」
一進一退は一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「……仮ならば、よい」
シンは満足げに頷いた。
「よし、仮団長」
「やはり少し腹が立つな」
広場に小さな笑いが起きた。
その笑いに背を押されるように、リンたちは朱雀の町を出た。
東へ。
赤い鳥籠の外へ。
青い霧の噂がある道へ。
朱雀領を離れるにつれ、道は少しずつ変わっていった。
まっすぐだった街道は曲がり始める。
同じ間隔で並んでいた家々は途切れ、代わりに低い森が増えた。
空の色も、どこか青みを帯びている。
昼なのに、影が濃い。
道端の古い立て札には、誰かの乱暴な文字が刻まれていた。
隣村を信じるな。
少し進むと、別の立て札。
夜に声を聞くな。
さらに進むと、木の幹に刃物で彫られた言葉。
一人で歩け。
イオが顔をしかめた。
「嫌な道」
「分かりやすく嫌だな」
シンが言う。
「一人で歩けって書いてあるぞ」
「一人で歩く?」
リンが聞く。
「歩かねえ」
「即答だな」
「一人だと飯が少ない」
「理由はそれ?」
「あと迷う」
「そっちを先に言ってほしかった」
シンは周囲を見回した。
「どんちゃんがいれば、足元どうこう言いそうだな」
「確かに」
リンも同じことを思っていた。
どんちゃんの行灯があれば、霧の中でも足元だけは見えたかもしれない。
だが、今はいない。
自分たちで見るしかない。
自分たちで選ぶしかない。
森の奥から、かすかに声が聞こえた。
「た、助けてくれ!」
三人は足を止めた。
老人の声だった。
かすれている。
怯えている。
イオがすぐに声の方を向く。
「あっち!」
シンはもう走り出しかけていた。
「行くぞ!」
「待って!」
リンが叫ぶ。
「罠かもしれない!」
シンは振り返らない。
「罠でも、助けてから考える!」
「順番が雑!」
「猪突猛進だからな!」
シンは森へ飛び込んだ。
リンとイオも追う。
木々の間に青い霧が漂っていた。
足元が見えにくい。
枝が揺れる。
葉がざわめく。
その奥で、髭を生やした老人が倒れていた。
長い白髭。
青みがかった古い旅衣。
曲がった杖。
老人の周囲には、青黒い鬼が三体いた。
角があり、爪が長く、体の輪郭が霧のように揺れている。
普通の鬼ではない。
影が固まったような鬼だった。
一体の鬼が、老人へ手を伸ばす。
「シン!」
リンが叫ぶ前に、シンは跳んでいた。
「どけええええ!」
鉄棒が横から鬼を吹き飛ばす。
青い鬼は木に叩きつけられ、霧になって弾けた。
「久々に分かりやすいやつだな!」
シンは嬉しそうに鉄棒を回した。
「鬼! 殴れる! 分かりやすい!」
「喜ぶところじゃない!」
イオが老人へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
「す、すまんのう……腰が抜けてしまって……」
「動かないで。怪我を見ます」
リンは短剣を抜いた。
朱雀の短剣ではなく、いつもの短剣。
腰の朱雀の短剣は静かだ。
赤い命令の線は見えない。
代わりに、青い霧が足元にまとわりついている。
残った二体の鬼が、シンを囲んだ。
鬼の口が裂ける。
声が聞こえた。
「お前の仲間は、お前を囮にしているぞ」
それは、リンの声だった。
リンは息を呑む。
鬼がリンの声で喋っている。
シンは眉をひそめた。
「リンの声だな」
鬼が続ける。
「考えないから前に出しやすい。怪我をしても、どうせまた立つ」
リンの胸が冷えた。
言っていない。
そんなことは言っていない。
だが、作戦でシンを前に出したことはある。
シンの頑丈さに頼ったこともある。
「シン、違う!」
リンが叫ぶ。
シンは鉄棒を構えたまま、少し考えた。
珍しく。
ほんの少し。
それから言った。
「知ってる!」
鬼の動きが止まる。
「……何?」
「囮っぽいこと、たまにしてる!」
リンが叫ぶ。
「作戦上そう見える時があるだけ!」
「だろ!」
「だろじゃない!」
鬼が戸惑う。
シンはにやりと笑った。
「でもな」
彼は地面を蹴った。
「俺が前に出るって決めて出てんだよ!」
鉄棒が唸る。
二体目の鬼が吹き飛んだ。
「囮にされたんじゃねえ!」
三体目が後退する。
シンはさらに踏み込む。
「俺が囮も殴り役もまとめてやってんだ!」
最後の鬼の腹に鉄棒がめり込む。
青い霧が爆ぜた。
「だから文句があるなら!」
シンは鉄棒を肩に担いだ。
「俺に直接言え!」
鬼は霧になって消えた。
森に静けさが戻る。
リンは少し力が抜けた。
「シン」
「何だ」
「一応言うけど、僕は君を使い捨ての囮だと思ったことはない」
「知ってる」
「本当に?」
「おう」
シンは笑った。
「お前、俺が本当に嫌がったら作戦変えるだろ」
リンは言葉に詰まった。
朱雀編で何度も言った言葉がある。
無理なら言って。
変える。
命令じゃない。
「……変える」
「だろ。じゃあ大丈夫だ」
シンはそう言って、老人の方を見た。
「じいさん、生きてるか?」
「おかげさまでのう」
老人はイオに支えられながら、ゆっくり体を起こした。
近くで見ると、白い髭がずいぶん長い。
顔には深い皺。
目は細く、柔らかそうに見える。
ただ、その瞳の奥に、ほんの少し青い光があった。
リンはそれに気づいたが、霧のせいかもしれないと思った。
「怪我は浅いです」
イオが言う。
「でも無理はしないでください」
「ありがたい、ありがたい」
老人は何度も頭を下げた。
「旅の方々かの」
「まあな」
シンが胸を張る。
「鬼を殴る旅人だ」
「違う」
リンが訂正する。
「四天王の情報を集めている。疑心暗鬼について何か知らない?」
老人はゆっくり瞬きをした。
「疑心暗鬼、か」
森の青い霧が、少し濃くなった気がした。
「知っているのですか?」
イオが尋ねる。
老人は杖を握り、少し遠くを見る。
「東のさらに奥に、青い霧の城があるという」
「城?」
「入った者は、仲間の声を聞くそうじゃ」
老人の声は静かだった。
「だが、その声が本物かどうかは分からぬ」
リンは黙って聞く。
「信じた声が、鬼かもしれぬ。疑った声が、本当かもしれぬ。助けた者が敵で、敵と思った者が味方かもしれぬ」
シンが顔をしかめる。
「めんどくせえな」
「面倒じゃろう」
老人は小さく笑った。
「だが、人の心とはそういうものじゃ」
イオが老人の腕に布を巻く。
「鬼は、あの城から来たんですか?」
「おそらくのう。青い鬼は、疑いを好む」
「疑いを?」
「仲間を疑えば増える。自分を疑えば近づく。信じることを疑えば、さらに濃くなる」
リンは腰の朱雀の短剣に触れた。
命令の線なら切れた。
だが、この青い霧には線が見えない。
どこから来ているのか、どこへ戻るのかも分からない。
「どう戦えばいい?」
リンが聞いた。
老人は目を細めた。
「さあのう」
「知らない?」
「疑いを消すことなど、誰にもできぬ」
老人はリンを見た。
「おぬしらは、仲がよいのう」
唐突な言葉だった。
シンが笑う。
「まあな!」
「即答するんだ」
イオが呆れる。
「仲がよい者ほど」
老人は静かに続けた。
「裏切られた時の傷は深い」
空気が、少し冷えた。
リンは老人を見つめる。
シンの笑顔も、少しだけ止まった。
イオは手当ての手を止める。
老人は穏やかに笑っている。
悪意は見えない。
ただ、心配しているようにも見える。
「脅しているの?」
リンが聞いた。
「まさか」
老人は首を横に振った。
「年寄りの忠告じゃよ。信じることは尊い。だが、信じすぎると、見えるものも見えなくなる」
「疑えってこと?」
「本当に、そう思うのかのう?」
老人はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
イオが慌てる。
「まだ動かない方が」
「大丈夫じゃ。腰が抜けただけでの」
老人は杖をつき、道の奥を指した。
「青い霧が濃い方へ進めば、いずれ分かる。疑心暗鬼の影は、向こうにある」
「じいさんはどうするんだ?」
シンが聞く。
「わしは、少し休んでから戻る」
「送るか?」
「よいよい。おぬしらは先へ行きなされ」
老人はにこりと笑った。
「鬼を殴る旅人殿がいるなら、道も少しは安全になろう」
「俺のことか!」
「他におるかの?」
シンは嬉しそうに胸を張った。
「よし。鬼なら任せろ!」
「頼もしいのう」
老人はそう言って、背を向けた。
森の青い霧が、老人の足元に薄く絡む。
リンはその背中を見ていた。
何かが引っかかる。
老人の言葉。
青い瞳。
鬼が現れた場所。
だが、助けた老人を疑うのか。
そう思った瞬間、自分の中に小さな嫌な感覚が生まれた。
疑うことへのためらい。
疑わないことへの不安。
それ自体が、もう疑心暗鬼の入口なのかもしれない。
「リン?」
イオが声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
リンは頷いた。
「少し考えてただけ」
シンが笑う。
「またか」
「まただよ」
「じいさんの言うこと、気にしすぎんなよ」
「シンは気にならない?」
「なるぞ」
「なるんだ」
「でも、俺は気になったら聞く」
シンは鉄棒を肩に担いだ。
「リン、俺を囮にしてるか?」
「してない」
「ならよし」
「軽いな」
「聞いたからな」
イオが小さく笑った。
「じゃあ、私も聞く。二人とも、怪我を隠してない?」
シンが目を逸らす。
リンも少し目を逸らす。
イオの目が細くなる。
「隠してるね」
「かすり傷だ」
シンが言う。
「僕も少しだけ」
リンも答える。
「見せて」
「今?」
「今」
シンが小声でリンに言った。
「命令じゃないよな」
「圧だね」
「やっぱりか」
イオはにっこり笑った。
「見せて」
「はい」
二人は素直に腕を出した。
青い霧の森で、少しだけ笑いが戻る。
疑いが消えたわけではない。
けれど、口に出せば、少し小さくなる。
リンはそれを覚えておこうと思った。
手当てを終え、三人は老人が指した方へ歩き出した。
青い霧は、東へ行くほど濃くなっている。
森の奥で、何かが笑ったような気がした。
リンは振り返る。
老人の姿は、もう見えなかった。
ただ、地面に伸びた影だけが、木々の間に細く残っていた。
その影は、人のものにしては少し長かった。
蛇のように。
いや。
龍の尾のように。
リンが瞬きをすると、影は霧に紛れて消えた。
「どうした?」
シンが聞く。
「何か見えた気がした」
「鬼か?」
「分からない」
「殴れるなら呼べ」
「殴れるかどうかも分からない」
「それは嫌だな」
イオが空を見上げる。
「霧が濃くなってる」
リンは前を向いた。
朱雀の短剣が腰で静かに揺れる。
命令を切る刃。
だが、これから向かう相手は、命令ではなく疑いを使う。
切れるものばかりではない。
それでも進む。
疑いを抱えたまま。
聞きながら。
確かめながら。
「行こう」
リンが言った。
シンが鉄棒を担ぐ。
「鬼なら俺がやる」
イオが薬草袋を握る。
「怪我したら、すぐ言って」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
シンが笑った。
「昨日より分かってるからな!」
青い霧の中へ、三人は進んでいった。
その背後で、どこか遠く、老人の声が聞こえた気がした。
「本当に、そう思うのかのう?」
振り返っても、そこには誰もいなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
カンダ、リホ、ジュリア、アリス。
四人の珍道中を一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
「面白かった!」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、感想・評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
それでは、また次の冒険で!




