傘
「達也くんお疲れさま〜」
「あ、うん! みんなお疲れさま〜」
すれ違う同僚の女性達に達也は挨拶を返す。
可愛い顔立ちの彼が柔和な笑顔を見せると、挨拶された、女性社員も自然に口元が緩んでいる。
達也は仕事が終わった後だが、疲れ一つ見せず、すれ違う人達みんなに挨拶を返していた。
「雨止まないな〜」
ふと、達也が廊下の窓から外を見た。
しとしととした雨の音に合わせるように、蛙の声が音色を奏でるように聞こえてくる。
じめっとした湿り気のある空気が肌にまとわりつくと、首筋から染み出した汗をシャツの襟元で拭った。
「あっ、京介さん。お疲れさまです」
「なんだ……お前か」
達也にたいして、京介と呼ばれた男がぶっきらぼうに返事をする。
癖のついたボサボサの髪に、無精ひげを生やし、シャツもよれよれでだらしない。
お世辞にも清潔感があるとは言えない京介にも、達也は笑顔で挨拶をしていた。
「京介さんって、いつもこの窓から外を見てますよね?」
「まあな」
「何が見えるんですか? 僕にも見せてくださいよ」
そう言うと、達也は京介の横に並ぶように立つ。
「ん〜、道路しか見えないですね」
「ちっ、勝手に来るなよ」
京介が達也を邪険に扱うが、気にした様子もなく彼は笑っている。
人懐っこい笑顔は京介には苦手だった。
顔をしかめると、少しだけ達也と距離を取る。
「そう言えば、京介さんはどこの――」
「――達也!」
達也を呼ぶ女性の声がする。
少しだけ怒気が込められていて、その顔も怒っている雰囲気を隠していない。
眉を寄せたままズンズンと達也に近づくと、強引に手を引っ張ってきた。
「ちょっ! 痛い!痛いっ! 茜ちゃん、力強いな〜。京介さん、それじゃ、また明日です」
達也が京介にそう言うと、茜と呼ばれた女性に引きずるように連れて行かれる。
彼女は京介を見ようともせず、達也に文句を垂れていた。
「また、こんなところで油売って! 早く帰るよ!」
怒られる達也に対して、京介は適当に手を振って見送る。
「俺も、帰っかな」
京介がぼそりと呟いて、廊下の奥を覗くといつの間にか自分しか残っていないことに気づいた。
古ぼけた廊下を照らす電球がチカチカと音を立てずに明滅を繰り返す。
自分の飲み込んだ唾の音すらよく聞こえるくらいに、静かだった。
ゲコゲコと鳴く蛙の声と、かすかな雨音がこの空間を魔界のように変貌させているようで、思わず京介の首筋を嫌な汗が伝う。
頭の中で嫌なことを想像してしまい、一度、体が大きく震えた。
「怖えー」
抑揚はなかったが、ただでさえ低い声がさらに低くなる。
少しだけ早足で、会社の外に出た。
「雨か……たく、嫌いなんだよ」
空を覆う灰色の雲をビニール傘越しに恨めしそうに見つめるが、返ってくるのは傘にぶつかる水の音。
容赦なく降り注ぐ雨の中を京介はゆっくりと歩きだす。
「雨に湿気に……最悪だな。お前もそう思わないか?」
愚痴ばかりこぼす京介は、信号機の柱の下に添えられた花に向けて話しかけた。
雨が当たるたびに、上から下に押し付けられて、その周囲には色とりどり花びらが落ちている。
「おっと。青になってたわ。じゃあな」
添えられた花に向けた視線の隅で、信号の色が水溜りに反射して青になったのに気づく。
京介は最後にもう一度だけ言葉をかけて、急いで道路の端へと渡って行った。
――――
「うへー……やだやだ。この道、いつもおっかねーわ」
閑静な住宅街。
空はいつの間にか黒く染まり、雨がわずかばかり強くなる。
その道のど真ん中で、京介の足が止まっていた。
奥を見つめると街灯が夜道を照らしているが、何個か消えたりついたりを繰り返している。
そして、小さい虫達が雨にも関わらず、光を目指して集まっていた。
京介が目を凝らして、それに視線を向ける。
すると、電球のプラスチックのカバーの向こう側にも黒いつぶつぶが見えて、虫達を捕食する奇妙な生物に見えてしまう。
仮に自分が足を踏み入れれば二度と帰れない、そんな気がして止まず、足を踏み出すのに躊躇している。
「あー! もう!」
京介が頭を乱暴に掻きむしり、覚悟を決めたように歩みを進める。
帰るためにはここしかないんだから、そう言い聞かせるとあまり回りをみないように、視線を下に降ろして歩く。
――――
しばらく歩いていると、少しだけ怖さが薄らいだ。
ふと、落としていた視線をわずかにあげると左端に赤色が見える。
それが気になった京介は足を止めて振り向いてしまう。
「趣味悪いわ……」
その視線の先には、真っ赤な傘が広げられたまま玄関の前に放置されている。
柄や模様は特になく、ただ――赤い。
暗闇と混ざった赤は、人間の血液を連想させるには十分で、京介は顔をしかめてその場を離れようとした。
「あれ……足……なんで?」
地面に縫い付けられたように足が動かない。
すると
――――カサッ……カタ……
傘が風もないのに揺れるように動いた。
京介それを見ないように顔を背けるが、自分の意に反して勝手に首が深紅の傘へと向いてしまう。
「……どうなってんだよ」
京介の呟きは誰も聞き届けることはなく、雨に溶けるように消されてしまう。
「……こっち」
かすかに誰かの声が聞こえる。
その瞬間、傘の内側で何かが動いたように見える。
もぞもぞと這い出すように黒い影がその奥で蠢いている。
やばいと思って目を瞑ろうとするが、そいつが何か気になって目を離すことができない。
そして黒い物体が端の方から少しだけ出てこようとすると――
「――うっ! 眩しっ!」
たまたま通りかかった車のライトが目に直撃すると、あまりの光の強さに目を閉じてしまう。
瞼の裏が白くなり、それが再び黒く染まり出すと、ゆっくりと目を開けた。
「傘……なくなってる。嘘だろ……?」
目の前あった傘はどこにもない。
まるで神隠しにあったかのように、今の一瞬で姿を消していたのだ。
京介は後退ると、自分の傘を放り出してその場から走って逃げた。
――――
「――まただ。あの傘が……いや、見ない」
雨の日は続いた。
その道を通るたびに、その傘が置いてある。
京介はそれを絶対に見ないように、下を向いて歩くが、どうしても視界の端にそれが映り背筋が凍る。
「また雨かよ……いい加減にしてくれ」
その週はずっと雨。
いつもの廊下の窓から外を眺めていると、この鬱蒼とした天気をものともしないような、明るい声が京介の鼓膜を揺らす。
「京介さん、お疲れ様です」
「あぁ、お前か……お疲れ」
「わっ! 初めて挨拶返してくれた!」
京介が挨拶をすると、子供がはしゃぐように達也は喜びを見せる。
「ちょっと……あれ見てよ」
たまたま通りかかった女性社員がひそひそと話しながら通り過ぎると、京介は思わず舌打ちをしてしまう。
「あんなの気にしなくていいですよ。ところで、挨拶してくれたのは嬉しいんですけど、なにかありました? 元気ないですよ」
達也の妙に勘のいいところに、また舌打ちをする。
京介は後頭部を右手で何度か掻きむしると、下を向いて盛大にため息を吐く。
「僕で良かったら話し聞きますよ!」
「たく……お前な……まぁ、いいか」
観念するように京介は達也にこれまでのことを話した。
――――
「真っ赤な傘……ですか。他の道からは帰れないんですか?」
「それができてたら苦労しねーよ。はぁ、満足したろ? お前も帰れ」
ぶっきらぼうに京介がそう言うと、達也は難しい顔をしてスマホを取り出して連絡し始めた。
「――達也! もう! またなの? 帰るよ」
「あ、茜ちゃん……うん。京介さん、そう言うのに詳しい人に連絡したんで返事が来たらすぐに教えますね。それでは!」
再び達也は茜に引きずられるように連れ去られてしまう。
「あいよ。期待しないで待ってるわ」
そう言うと、京介もとぼとぼした足取りで会社を後にした。
「あーあ、お前も雨ばっかりで大変だな」
信号機に備えられた花に声をかけたが、雨のせいで花が全て落ちてしまい、真ん中部分しか残っていない。
「今日帰れば、後は休みだからあの傘に出会うことはないだろう」
そのまま京介は歩みを進める。
明日と明後日は休み。
だから、今日をなんとか乗り越えれば……その思いだけが京介の拠り所になり、躊躇なくあの道に足を踏み入れる力をくれた。
だけど、今日は違った。
「なんでだよ! なんでそこにお前がいるんだ!」
道路のど真ん中を京介は凝視する。
その先にはあの真っ赤な傘が、広がり落ちていた。
「くそっ! くそっっ!」
乱暴な声をあげて、がむしゃらに通り過ぎようとするが、また足が動かなくなる。
指先一つ動かせず、視線は傘から離れらない。
――カサッ、カタ、カタ
傘が揺れて転がり近づく。
それが目前に迫ると、視界が赤で埋め尽くされた。
京介の呼吸が途切れ途切れとなり、心臓が何度も激しく血液を送り出す。
体中の酸素が少なくなり始めた、少しだけ視界がぼやけるが、ゆっくりと傘の内側から影が伸びてくる。
――白い指。
一本、また一本と傘の端を掴む。
十本、全てが見えた時、伸びるように人の頭が現れた。
ゆっくりとだが確実に動いてる、額が見えてそいつの目が見えた。
――闇。
眼球はなく、闇だけがある。
「――ひぃぃっ!」
京介から情けない声が漏れ出た。
それでもそいつは内側から出てこようとしている。
そして、顔の半分まで出かかった時だった。
「――京介さん!」
達也の声が背後からした。
その瞬間、体を縛りつけていた見えない糸が切れて体が一気に自由になる。
「……はぁ、はぁ……どうしてここに?」
ようやくまともに空気が吸えて、京介の視界がクリアになる。
手を膝に置き、息を整えると達也へと振り向いた。
「その、なんか気になって……急いで追いかけて来ました。明日、茜には怒られるかもしれませんが……」
「そうだったのか……いや、今回は助かった」
「ずっと立ち尽くしてどうしたんですか? まったく動かなくて、思わず叫んじゃいましたよ」
「は? いやそこに傘が……あれ、ない? どこに?」
京介は、傘の落ちていた方向に目をやるがそこには水溜りしかなかった。
「僕、見てましたけど、傘なんてありませんでしたよ」
嘘だろ。
つまり、自分しか見えてなかったのか?
その事実に、京介はさらに戦慄を覚え、全身に鳥肌が立つ。
「あの、京介さん……その、良かったら送りますよ。さすがに、心配です」
そう言うと京介に達也が近づいてきた。
「……いいのか? それはそのなんだ、すまん」
京介が頭を下げると、達也が軽く自分の胸を叩いて口を開いた。
「いえいえ。これくらい、お安いご用で――」
その言葉は途中で途切れる。
京介が目を開けると、再び赤い傘が落ちていた。
いつもと違うのは――傘が閉じている。
ゆっくりと京介が手を伸ばし、それを拾い上げると道路の隅に立てかけるように置いた。
「――これで、帰れる」
――――
「ねぇ、聞いた? あの達也って子、行方不明になったんだって」
「嘘? マジ?」
いつもの会社で女性社員が集まって話をしている。
私はそれを聞きながら、いなくなった達也のことに胸が締め付けられるように苦しくなる。
「なんかさー。あの子、顔は可愛いのにちょっとおかしかったよね」
「そうそう。誰もいない壁に楽しそうに話しかけてさ」
達也……。
あれだけ何回も止めたのに、どうして。
彼を思うと、目尻が熱くなる。
視界が涙でぼやけて、肩が勝手にしゃくり上げてしまう。
帰ろう。
そう思い席を立つと、達也が何もないところに話しかけていた壁の前で立ち止まる。
「本当にどこに行ったの――」
そう私が言葉を発すると、
「茜ちゃん!」
背後から達也の声がした。




