『螺旋の断罪:掌が暴く偽りの名探偵』第三章
第三章:鴉鳴島の霧と「救済の館」
漁船のエンジンが不気味な唸りを上げて止まり、一行は乳白色の深い霧を切り裂いて「鴉鳴島」へと上陸した。島の中央、断崖絶壁にへばりつくようにそびえ立つのは、蔦に覆われ、まるで呼吸を止めた巨獣のような石造りの洋館――通称『救済の館』である。
「この館はね、かつての主が自らの拭い去れぬ罪を浄化し、神の許しを乞うために建てたと言われているんだよ」
背後から穏やかで、しかしどこか孤独を孕んだ声がした。丸眼鏡を直しながら歩み寄ってきたのは、『エラリー』だ。彼は新入りの久我とユウキが足元の悪い岩場に苦労しているのを見て、そっと手を差し伸べるような案内役を買って出た。
「君たちが新しいメンバーだね。よろしく。僕はエラリー。……あまり怯えなくていい。ここは世俗の汚れを洗い流すための、ミステリーの聖域なんだから」
彼の言葉は優しさに満ちていたが、その眼差しは、嵐を前にした小鳥を慈しむような、どこか諦観に近い色を帯びていた。
一行がサロンに集まると、主宰である『ポアロ』が、暖炉の火に照らされた重厚な革張りの椅子に腰を下ろした。この合宿の絶対的な座長である彼は、優雅に葉巻を燻らしながら、新入り二人を値踏みするように見つめる。
「さて……。本来来るはずだった『ポー』が欠席したのは遺憾だが、数合わせに君たちのような素人が紛れ込むのも、演出としては悪くない。……そうだ、君たちにもそれらしいコードネームを与えよう。『コナン』や『モリス』などはどうだ?」
「あ、いえ。僕はもっとこう、マニアックで知的な……例えば『ロジャー・アクロイド』の裏の顔的な名前を……」
久我が背伸びをして答えようとした瞬間、隣のユウキが冷ややかな声で遮った。
「いえ、ポアロさん。こいつには『巨乳探偵』で十分ですよ。それが一番しっくりきます(笑)」
「おいユウキくん! 何を不名誉な! ……まあ、否定はしないけどさ」
久我が鼻の下を伸ばしながら掌を無意識に蠢かせると、ポアロの傍らに座る美貌のアイドル、『クリスティ』が心底軽蔑したように鼻を鳴らした。彼女はこの愛好会のマスコットでありながら、その実、ポアロの寵愛を独占することに全神経を注ぐ、毒気のある花だ。
「質の低い冗談ね。ポアロ様の聖域に、そんな下品な名前を持ち込まないで。……ねえ、ポアロ様? 早く始めましょう。あなたの高潔な論理を私に聴かせて」
クリスティは陶器のような白い指をポアロの腕に絡ませ、周囲の男たちを挑発するように微笑む。
その様子を、部屋の隅で一言も発さず、石像のように見つめる男がいた。『ギルバート』だ。軍服を思わせるコートを纏い、無口を貫く彼の威圧感は凄まじい。エラリーが久我の耳元で小さく囁いた。
「……彼にはあまり近づかない方がいい。今回の合宿のために、この忘れ去られた島を見つけ出し、館を整えたのは彼なんだ。彼が何を考えてこの場所を選んだのか、僕にも分からないんだよ」
夕食後のサロン。暖炉の爆ぜる音が響く中、ポアロが重々しく口を開き、今回のメインイベントであるプロットの披露が始まった。
「今回の執筆テーマは『完全なる不在証明』だ。……私が考えているのは、被害者が自らを殺害する瞬間を、犯人が遠隔地から『目撃』することで成立する逆説的なアリバイだ。視覚の死角をつき、心理的錯誤を誘発する……。これこそが至高の芸術だと思わないかね?」
ポアロが傲然と語ると、自称天才の『ホームズ』が食い気味に反応した。
「座長、それは甘い! 心理的錯誤など不確定要素だ。僕のプロットでは、重力を利用した物理的なトリックを用いる。犯人が現場から30キロ離れた場所にいる間に、被害者の心臓に自動的にナイフが突き刺さる……これこそが論理だ! はっはっは、僕はなんて賢いんだ!」
「……ホームズ、君は賢いのかもしれないけれど、少しばかりバカだね。そんな大掛かりな仕掛け、すぐにバレるよ」
エラリーが苦笑しながら窘めるが、ホームズは聞く耳を持たない。彼は知識だけは超一流だが、人間の機微が一切分からない「賢いバカ」だった。
議論が白熱する中、ユウキがやおら立ち上がり、久我の背中を強く叩いた。
「皆さん、座長のプロットも素晴らしいですが、うちの久我を舐めないでもらいたい。こいつ、実は昨年のミステリー界の賞を総なめにした正体不明の作家、『K』なんですよ。あの絶望的な傑作『歪んだ庭』を書いたのはこいつです」
「……何だと!?」
ホームズが目を見開き、エラリーが絶句する。ポアロの眉が僅かにピクリと動いた。
沈黙を破ったのは、無口なギルバートだった。彼はコートの襟を握りしめ、憎悪にも似た強い視線を久我に投げかける。
その時だ。いつの間にか、円卓の中央に一通の黒い封筒が置かれていることに全員が気づいた。まるで霧の中から染み出したかのように、それはそこにあった。
『祝杯を挙げよう。あの日、お前たちが無理やり飲ませた、拒絶の味がするシャンパンで。
チヒロが、肺を引き裂くほど咳き込み、無様に階段を転げ落ちる様は、さぞ「本格的な」余興だったことだろう。
謎などない。あるのは、彼女の肺に残ったお前たちの罪だけだ。』
その名が読み上げられた瞬間、サロンの空気は絶対零度まで凍りついた。
数秒の静寂。ポアロが氷のように冷ややかな声で言い放つ。
「……あれは不幸な事故だった。法という『網の目』が、正しく過失と判断した。誰も悪くない」
だが、他のメンバーは一様に視線を泳がせ、黙り込んだ。ユウキはその不自然な拒絶反応に、どす黒い疑惑を抱く。
夜、皆が自室へ引き上げる中、ユウキは隙を見てエラリーを呼び止めた。
「……エラリーさん、本当のことを教えてください。あの手紙にある『チヒロ』さんとは誰なんです?」
エラリーは丸眼鏡を外し、指先が白くなるほど強くレンズを拭き始めた。その瞳には、懐かしさと、それ以上に深い後悔の色が宿っている。
「……彼女は、僕の幼なじみだったんだ。実家が隣同士で、一緒にミステリーを読み耽った仲だった。……でも、僕が憧れていたポアロ様と付き合っていた」
エラリーの声が、湿った夜気に溶けるように震える。
「あの日、僕は私用で会を欠席していた。……戻ってきたら、彼女はもう冷たくなっていた。あいつらは言ったよ。『洗礼』で少しばかりハメを外して、彼女が自分からフラフラになるまで飲んで階段から落ちたんだ、と。……だが、嘘だ。僕は知っている。チヒロさんは、お酒が一口も飲めない体質だったんだよ。彼女が自分から進んで泥酔するなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないんだ」
エラリーはユウキの肩を強く掴んだ。その指先から、抑えきれない怒りが伝わってくる。
「……僕は、あいつらの言う『論理的な事故』なんて1ミリも信じていない。だから、この会に残り続けているんだ。……僕が怪しいと思っているのは、クリスティだ。彼女はあの時、ポアロ様の寵愛を奪うために、飲めないチヒロさんに執拗にグラスを勧めていたんじゃないかってね。……今の彼女の、死んだチヒロさんからすべてを『奪い取った』と言わんばかりの勝ち誇った顔を見てくれ。羨ましくもあるが、見ていて寒気がするよ。……彼女は、あの日チヒロさんが死ぬのを、特等席で笑って待っていたんじゃないのか?」
久我は、廊下の影からポアロに甘えるクリスティの背中をじっと見つめていた。彼の掌は、彼女が放つ「感触」の違和感を鋭敏に捉えていた。それは、愛する男に寄り添う女のぬくもりではなく、獲物を締め殺す蛇のような、冷たく乾いた執着の感触だった。




