ネコを命じる女
事務所に向けて車を走らせていると、ヨミがまた話しかけてきた。
「貴様、陰キャだと言われるだろう」
もちろん、そう言われて生きてきた。
「返事は?」
黙ってうなずく。
「友人はいるのか?」
首を横に振る。尋問されて口頭で返事が出来ない状態は、肝が冷えた。自分を擁護することが出来ないのだ。そう思って、ふとおかしくなった。口を開いてもまともな言葉など出てこないのだから、話さなくてもなにも変わらない。
「一人でニヤついていると、気持ち悪がられるぞ」
まったくだ。順は顔に力を入れて頬を引き締めた。
「スマートフォンに一つだけアプリがあるが、流行りの動画投稿サイトだな」
「俺のスマホ、見たんですか!?」
驚きのあまり、思わず大きな声が出た。
「見たのではない、見えたのだ。貴様、先程の客先でスマートフォンを落としたことに気づかなかったろう」
急ブレーキをかけて車を路肩に停めた。スーツのポケットをすべてあさったが、スマートフォンは出てこない。
「やってしまった」
落とし物が交番に届けられる確率はどれくらいか。それよりも、どんより曇った空から今にも雨が降ってきそうだ。生活防水機能なんかついていない安物だ。濡れたらきっと壊れてしまう。買い替える金なんてない。
「ほら」
呆然としていると、どこから出したのか、ヨミがスマートフォンを突き出した。順は飛びつくようにして受け取る。
「ありがとうございます!」
「注意力散漫。マイナスだな」
また考査のチェックに引っかかったらしい。だがそんなこと、今の順には関係ない。死に神のはずのヨミが女神のように見える。
「貴様みたいなやつが動画投稿サイトでなにを見るんだ。ネコか」
「いえ、ヒューマンビートボックスの……」
「ネコじゃないのか」
ヨミは、ふん、と鼻から大きな息を吐く。
「つまらん」
それ以上、話しかけられることなく、事務所に戻った。
ノルマにははるかに届かないが、一応、仕事をしたということで、順は上司に見つからないよう、定時にこっそり事務所を出た。
「待て」
暗くなった玄関先に、ヨミが脚を踏ん張り、腕組みをして順を見据えていた。
「ネコ動画を見ろ」
「え、それは……」
「話すなと言っている! 何度言わせるんだ!」
恐ろしい形相に口も開けず、順はコクコクとうなずく。
「これは業務命令だ。明日までにネコ動画をまとめろ。いいな!」
コクコク。ヨミは順に背を向けると、闇の中に消えた。ネコ動画まとめ……。なんだそれは、どんなリモートワークだ。順は首をひねりながら家に帰った。
夕飯にスーパーの値引き弁当を食べながら、動画アプリでネコ動画を片っ端からピックアップする。動物に興味がない順でも心踊るようなかわいらしい動画が続々と出てくる。昼間の恐怖が和らぎ、すっかりリラックス出来た。そのおかげで久しぶりに、たった一つだけ登録しているチャンネルを見てみることにした。
ヒューマンビートボックスという言葉を初めて順が知ったのは、義理の弟がハマり、練習し始めたからだ。母の再婚相手の連れ子で、義父とはうまくいかなかったが、義理の弟とは話すことがあった。陽キャと呼ばれるような明るくノリが良い性質で、順の苦手なタイプだったのだが。
その弟が無理やり見せたチャンネルは順を驚かせた。
中学時代の同級生がヒューマンビートボックスを披露していた。話したことはないが、陰キャ仲間だと勝手に親近感を抱いていた。それなのに、こんなに華々しい活躍をしていたとは。
力が抜けてしゃがみこみそうになった。なんで人気があるんだ。なんで生き生きしているんだ。そんな姿は見たくなかった。
陰キャで、なにも出来なくて、趣味なんかなくて。そんな人間は自分だけ、誰もが自分を置いていく。一人、夜の砂漠の真ん中に立っているような孤独を感じた。
最新の動画では、ヒューマンビートボックスの腕はますます上がっているように見えた。だが、コメント欄は荒れていた。キレがないだとか、やめてしまえだとか、クソ下手だとか。もちろん、擁護するコメントもあるが、順の目にはネガティブな言葉ばかりが飛び込んでくる。
中学時代のことを思えば、同級生は自分と同じく、打たれ弱く心が折れやすいタイプなのではないか。心配する気持ちもあったが、ざまあみろと思うあさましい自分もいる。順は動画投稿サイトを閉じて、録画しているアニメを見始めた。