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働き慣れていない男

 一軒目は、会話が出来ない順でも気楽にインターフォンを押せる家だ。順の前任者が新規開拓したのだが、顧客は営業員が変わっても特に感慨はないようだった。

前任者は支社内だけでなく、全国トップの営業マンだったが、定年退職したそうだ。その補充員が自分だったなんて、成績ガタ落ちで事務所も大損だろう。


 この家の夫人は笑顔を浮かべることもなく、たんたんと順をリビングに招いた。ヨミが黙ってついて来ることを意識してビクビクしながら、大きな棚の中に入っている薬箱をチェックする。なくなっている商品を補充して、使ったぶんだけ請求書を作り、代金をもらう。

 家族の中にアレルギー持ちがいるらしく、抗ヒスタミン薬が毎回なくなっている。たまに湿布薬もきらす。いつも一定の売上が見込める、ありがたい家庭だった。

 無難に作業を終えて家を出る。

終始無言で、存在しないかのように振る舞い、順の後ろについていたヨミが口を開いた。

「アレルギーの薬はきれてから、かなり日にちがたっていたのだろう。なぜもっと早く訪問しなかった?」

「それは……」

「口を開くなと言っただろう!」

 厳しい声で怒鳴られて順は首をすくめた。質問しておいて回答を聞かないとは横暴だ。だが答えなくてよかったことは幸運だった。この家に来ないのは、面倒くさいからだ。きちんとした仕事をするのが面倒くさい。自分なんか成績ゼロで自らクビになりたいくらいなのだ。

 そう考えて、はたと気づいた。ヨミの前で大失敗すれば、簡単にクビを切られるじゃないか。自主退職ではなく会社都合で仕事を辞められるかもしれないということにホッとした。一方でクビが決定したら、ヨミがバクハツするかもしれないという背筋が凍るような複雑な感情を覚えながら、車に乗り込んだ。




 次の家も問題ない……、と言えば言えるのだが。この家の薬箱から商品が使われたことは一度もない。そんなときは顧客が必要とする薬を尋ねて勧めるようマニュアルにあるのだが、まともに人としゃべれない順に出来る芸当ではない。

 家主は八十歳を超えている女性だが、カクシャクとして薬などいらなさそうなのだ。台所に置いてある薬箱をチェックして、消費期限が切れているものがいくつかあることに気づいた。変えた方がいい。それはもちろん、変えるべきだ。だがもし、なにも必要ない、解約すると言われたら、どうすればいいのだろう。


 迷っていると、ヨミに思い切り睨まれていることに気づいた。まるで、仕事をしなければ首をちぎるぞとでも言っている死に神かのようだ。無言で帰ったら、どんな雷が落ちるかわからない。なけなしの勇気を振り絞って老婦人に向き合った。

「あ、あの……」

「なあに?」

 初めて挨拶以外で老婦人の声を聞いたが、とても優しい。なんとか次の言葉を発することが出来た。

「消費期限が切れているものがあって……。交換してもいいですか」

「ええ、お願い」

 老婦人はにこりと笑った。


 なんとか薬箱を整えて家を出ると、ヨミがアゴで、閉めたばかりの玄関ドアをくいっと指し示した。

「栄養ドリンクを持っていけ」

「え? なんで」

「話すな。何度言えばわかる」

 あわてて口を閉じると、ヨミは勝手に話し続けた。

「台所の隅に栄養ドリンクの箱があった。常飲しているのだろう。車に積んだ栄養ドリンクを売り込め」

 順は真っ青になった。一度もやったことがない売り込み。そんなこと、自分に出来るわけがない。だが言うことを聞かなければ、バクハツという、ヨミの謎の攻撃が待っている。

「行け」

 氷のような目で見据えられて、順はメヘビタBという名前の栄養ドリンクの箱を車から下ろした。


「あのお、すみません」

 玄関ドアには、まだ鍵がかけられず簡単に開いた。声をかけると、老婦人がすぐに出てきた。

「あら、お薬屋さん。どうしたの」

 どうしたんでしょう。俺はどうしたらいいんでしょう。自分でもわからないまま、メヘビタBの箱を差し出した。

「こ、こちらなんですが……」

「あら、栄養ドリンク? 初めて見たわね。新商品?」

「いえ、あの……」

 新商品ではなく定番商品だ。定量出ていく人気商品とも言える。だがそれを説明することが出来ず、順は回れ右して帰ろうとした。

「!!」

 声は出さずに済んだ。真後ろにヨミが立っていて、仁王のような顔をして順を睨んでいた。真っ青になって、くるりと振り返り、老婦人と向き合う。

「こ、これ! オススメです!」

 声が裏返ったが、老婦人は驚きもせず「まあ、そう」と、にこやかだ。

「三箱くださる? 自分で買いに行くと重くて仕方ないの」

 目が丸くなった。こんなに簡単に商品が売れるなんて。

「ありがとう……ございます」

 なかばぽかんとして、順は頭を下げた。


「あの、ありがとうございました」

 営業車を運転しながら、順は声を出してみた。ヨミはなにも言わない。ルームミラーをちらっと見ると、つまらなそうな顔をして窓の外を見ている。車内では話してもいいのかもしれない。

「商品が売れたのって初めてで……。売れたっていうか、売り込みが出来たっていうか……」

「なぜ外用薬を補充しなかった」

 ドキリとした。どこへと言われなくてもわかった。あの工場の話だ。今まで黙っていたのに、なぜ突然話しだしたのだろう。今は話すなと言われていない、返事をすることを待たれている気配がする。

「あの……、外用薬を車に積み忘れて。次回でいいかなって思って」

「ふうん」

 気のないふうなヨミの返事にゾッとした。首を切られるだけならまだいい。この人は死に神と呼ばれ、しかもバクハツするというのだ。叱られたくない。きっと死ぬほど怖い、そんな気がする。外用薬を補充しなかった本当の理由は言えない。嘘で誤魔化しきるしかない。

「あの、すみませんでした、俺……」

「話すなと言っているだろう!」

「ひっ」

 小さなバクハツかとも思える叱咤の声に、順は首をすくめた。やっぱりダメだ。この人を怒らせたらまずい。ちらりと確認すると、ヨミは半眼で順を睨んでいた。すべてを見抜かれているように感じて、順はますます青くなった。


 次の顧客宅について車を降りても、ヨミは順をにらみ続けた。さすがに客先では無表情を貫いていたが、順がなにか粗相をすれば、車に戻った途端にバクハツしかねない。

 言葉少なだが誠意の籠もった挨拶、丁寧な置き薬チェック、商品補充。

「なにかご不便はありませんか?」

 尋ねたが、顧客から特別な注文がなかったことにホッとした。イレギュラーな事態に一人で対応出来るとは思えない。それよりもマニュアル通りのセリフが自分の口から出てきたことに狼狽した。

 まるで仕事がまともに出来るふりをしたかのような罪悪感がある。

 顧客に挨拶して玄関ドアを出ると、いつの間に外に出ていたのか、ヨミが顔を顰めて立っていた。

「その程度で仕事が出来たと思っているのではないだろうな?」

無難に仕事が出来たのは、自分の力ではない。ヨミに脅されているからだ。そんなこと、もちろん自覚している。

「そんなことは……」

「話すなと言っている」

 疑問形で話しかけられて返事を封じられるというのは、意味がわからないうえに、結構ストレスがかかる。とにかく言われた通り、口を開かないようにしようと決めた。


 社用車に戻って薬入りの袋を積み込むと、「車が汚い」と文句を言いながらヨミは後部座席に乗り込んだ。思わず言い訳をしようとしたが、話さないと決めたばかりだと思って口をつぐんだ。

「洗車をサボる。減点だな」

 なにかの数値が引かれたらしい。心当たりといえば、首切り考査しかない。順の首切りへのカウントダウンは着々と進んでいるようだ。それでいい。考査で最低点を取ってクビを切られるのが自分にはお似合いだ。

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