私の忘れ物③
カランとドアが閉まり店の中に静寂が広がる。私は変わらずソファーに座ったままで、ドアの前に立ってお客さんのお見送りをしたハルちゃんは、カウンター裏からオレンジジュースの入ったグラスを二つ運んできて、私の前に置いた。隣をいい?との質問に無言で頷くと彼女が隣に座る。
オレンジジュースのグラスを見つめる。ご丁寧にストロー付きだ。相変わらず美味しそうな色をしているのに、今はどうしても飲みたいとは思えない。私は手を伸ばしグラスを両手で覆った。手が冷たい。こうして冷たいことは分かるのに、私がもう死んでいるだなんて未だに信じられない。
「……ハルちゃんは知っていたの?」
私の質問に顔色を変えることなく、ハルちゃんは口を開く。
「ごめんなさいね実里ちゃん。私、実は昨日のお客様の話を聞いて既に知っていたの。」
「……。」
そうか、もうすでに知っていたのか。だからこんなに落ち着いていられるんだ。ハルちゃんは自分が死んだのをもう知ってたのか。理由は、なんだろう。
「ハルちゃんはどうして死んじゃったの。もしかしてもう全部思い出したの?」
「そうね、少しだけど思い出したわ。」
「何を?」
「私の最期の時よ。私の最期は病院だったの。」
ハルちゃんの最期の時。つまり死んだ時の事だ。ハルちゃんは病院で死んじゃったんだね。可哀そうに…病気かな、それとも事故だったのかな。私は、私はどうして死んだんだろう。静寂の中で目の前のオレンジジュースの中の氷が溶けて音を立てる。
「実里ちゃん、あのね…この世界に来た時にいた場所、私がいたのは病院のベットだったの。そして私が死んだ場所も病院のベット。これって偶然なのかな、と思って。」
「それって……。」
「同じと言えば同じ場所なのよね。」
目覚めた場所が死んだ場所と同じ。だとしたら。あれ、私が目覚めた場所はどこだった?
「待ってハルちゃん、私はどうなるの。私、電車の中にいて……。電車の中で死んだの?それとも線路、駅?」
頭の中に浮かんだのは走り抜ける電車の中に身を投げる私の姿だ。それと今朝、一瞬だけ重なって見えた私の髪飾り。赤い二つの丸に黄色と黒の縞々模様、あれはきっと踏切だ。踏切の中に入った、私が。もしかして、自分から…?
「嘘だ、違う!私は絶対にそんなことはしない!だってお父さんとお母さんが死んだ時、私は何があっても生きていくって心に誓ったもん‼」
いくら私が記憶の一部を忘れていたとしても、それだけは絶対にしない。それだけは自信を持って言い切れる。自分から死にいくようなそんな生き方は今までしてきていないから。
私はソファーの背もたれに預けていた身体を勢いよく起こした。沸々と血が頭に上っていくのが分かる。信じない、絶対に信じない!
隣に座るハルちゃんは、やはり変わらない表情だった。立ち上がりそうになった私の背中をポンポンと優しく叩いて、宥めようとしている。
「そうね。実里ちゃんがそう思うのなら、そのはずよ。何があったのかは分からないけれど。」
優しいハルちゃんの声。それが今は凄く苛つく。なんでそんなに冷静でいられるの。ハルちゃんだって昨日知ったばっかりなんでしょう、私とそんなに変わらないじゃん!
私はハルちゃんの方を向いた。きっと今、私は彼女のことを強く睨んでいるんだと思う。
「ねえ、なんで私死んだの?なんで今死ななきゃならなかったの?私毎日メイドさんのお仕事を一生懸命頑張って、でもそれ以上に毎日楽しく生きてたんだよ⁉︎それなのになんで死んだの⁉︎死んで償わなきゃいけないような、何か罰を受けるような悪いことでもしたの⁉︎」
「それは私には分からないわ。」
そう、ハルちゃんだって分からない。彼女に怒ったって仕方がないのに。彼女も私と一緒で、死んだことを知ったばかりなのに、私だけこんな風に怒って。そんなことしたって何も変わらないのに、それでも彼女に当たってしまう自分が、小さくて弱くて、悔しい。
すると頭上で明かりが点滅したような気がして上を向くと、オレンジ色の光が動いているのが見えた。橘さんだ。彼は私がこの店に来た時、私の名前を知っていた。その後に来たお客さんたちの名前も全部知っていた。その時は不思議だなとしか思わなかったけれど今なら分かる。この人、知っていたのは名前だけじゃなかったんだ。
「ねえ、橘さん!橘さんは私の死んだ理由、全部知っているんでしょ⁉︎教えてよ!」
叫んだ途端、プツンと小さな音を立てて店内の明かりが一斉に消えた。部屋の中が暗くなり、窓からの太陽光だけが店内を明るく照らしている。勢いよくテーブルに手をついて立ち上がり、私は辺りを見渡した。テーブルが揺れて手元のジュースが少しグラスから溢れてしまう。
いない、またいなくなった。
「…都合の悪い時だけ消えるなっ!馬鹿っ!」
オレンジ色の光はどこにも見当たらなくて。
「実里ちゃん…。」
店内には私とハルちゃんの二人だけになった。
「………。」
どうして。どうしてこんな辛い想いを私がしなければならないんだろう。なんで死ななきゃならなかったの。ねえお母さんお父さん、二人が死んだ時も思ったけどさ、どうして世の中こんなに不公平なの。
ハルちゃんが私の背中を擦り始めた。するとさっきから怒りの下で気付かないようにしていた悲しみがぶわりと込み上げてきて。俯いた途端、エプロンがぽたぽたと濡れた。
「…ハルちゃん。私たち、死んじゃったんだね。私も、ハルちゃんも。」
「そうね。」
「もっと生きていたかったよ…やりたいこと沢山あったのに。まだ全然出来ていないのに。」
「そうなのね。」
ねえ神様。もしもいるなら時間を戻してよ。私が毎日楽しく生きていたあの場所に帰してよ。どうしたら帰してくれる?この店で働き続けたらいつか戻してくれる?いくら考えても祈っても、目の前の景色はやはり変わらない。オレンジジュースの乗ったテーブル。えんじ色のソファーとカウンターの前に並ぶ椅子たち。茶色の壁。何度見ても橘さんのお店だ。
「……っ。」
受け入れるのよ、実里。今までだって辛い事をいっぱい受け入れてきたじゃない。お母さんが死んだ時。それからお父さんが死んだ時も。どうして私ばっかりこんな想いをしなきゃならないのって。そう思いながらもなんとか受け入れて強く生きてきたじゃない。泣くな、泣いたって何も変わらないの。一度死んでしまった人間はどう足掻いても生き返りはしないって、もう知っているはずでしょう?今回はそれが自分に起きただけよ。それだけのこと。
ぴたりと何かが唇に触れた。ぎゅっと閉じていた目を開けるとオレンジ色の丸いものが口の中にコロンと入った。ハルちゃんの指が私の口元から離れて、頭を撫でられる。口の中には柑橘類の甘酸っぱい爽やかな味が広がった。
「こういう時は、思い切り泣いていいのよ。」
こんなに泣いたのは、高校の卒業式ぶりかもしれない。あの時は無事に卒業できた安堵感や達成感からくる涙だったけれど、今は違う。悔しくて悲しくて泣いているんだ。私はハルちゃんの膝に思い切り顔を埋めて泣いた。彼女のエプロンが私の涙で濡れていく。なんで、嫌だ、と繰り返し言っては泣き続ける私を彼女はうんうんと宥めてくれる。
オレンジ味の飴は少しずつ小さくなって、途中から涙の味が混ざった。悲しい、辛い。今は考えたくない。疲れた、泣くのも疲れた。私は目を閉じたまま何も考えないようじっと動かずにいた。
それからどのくらい時間が経ったのだろう。気になって目を開けた私はハルちゃんに顔を向けた。ハルちゃんは相変わらずの笑顔だった。
「実里ちゃん、昨日から思っていたんだけど。私たちこの店に来てから一度もちゃんとしたご飯を食べていないのよ。」
ハルちゃんの言葉にハッとし、私は身体を起こして自分のお腹を見つめた。…何も感じない。
「ほんとだ。…やっぱり死んだから、お腹も空かないのかな。」
「そうかもしれないわね。でも今、私何か甘ーいものを食べたい気持ちがあるの。実里ちゃんはどう?」
ねえなんでそんなに優しいの。相変わらずハルちゃんは、出会った時となんの変わりもなく優しい声で私に話しかけてくれる。甘いものか。お腹は空いていないけれど、でも出されたら食べられる感じはある。そうだ…でも味は分かるんだっけ。私は目の前のオレンジジュースを一口飲んだ。いつもの大好きなオレンジジュースだ。よかった、死んだ後も美味しいがちゃんと分かって。そう思ったらまた目から涙が溢れた。
「うん食べる…。」
ちゃんと答えられたかは定かではないけれど、ハルちゃんは頷くと立ち上がりカウンターの裏へと向かった。私は鼻を啜りながらゆっくりと彼女の後を追った。小さなコンロの前に立つ彼女の横に立って肩に寄りかかると、まるで子供をあやす母親のようによしよしと頭を撫でられた。
「ここの厨房は料理をしてもいいのかしら。」
「…ハルちゃん、料理できるの?」
キョロキョロと周りを見ている彼女。どうやらこれから手料理を振る舞ってくれるらしい。ハルちゃんの手料理、楽しみだ。
「そうね人並みくらいはできるわ。これでも一応、ご主人様に仕えていた時は三食作っていたもの。」
そっか。ハルちゃんもメイドさんだもんね…って三食作っていたの?私は彼女の肩に寄せていた頭をバッと上げた。
「ハルちゃん、厨房担当だったの?」
「え?違うわ、洗濯や掃除も全部していたわ。」
「え……。」
嘘でしょ。そんなメイド喫茶がこの世にあるの。お客様もといご主人様の炊事に洗濯・家事全般とか、それじゃまるでお金持ちのお屋敷にいるばあやじゃん。あ、そうか一応ばあやも【メイドさん】のうちの一人になるのか。
「ばあや喫茶って需要あるのかな。」
「え?なに?」
頭の中にメイド服を着たおばあちゃんたちの集団が現れる。扉を開けた瞬間、そのおばあちゃん集団が『おかえりなさいませ』と頭を下げるのか。うんうん、インパクトはありそうだ。世の中の元気そうなおばあちゃんたちを集めて、シフトは短めにして。結構人が集まるんじゃない?孫の小遣いを稼ぎたいと頑張る元気なおばあちゃんとかいそうだし。いいかもしれない、ばあや喫茶。
(あ…でももう夢を見たって何も叶えられないんだ。私もう、死んじゃっているから…。)
気がつくと私はいつの間にか壁に寄りかかっていて、ハルちゃんがこちらを見ていた。しまった、ついさっきまでは死んだことを嘆いて怒ったり泣いたりしていたのに、一瞬とはいえこの短時間で忘れちゃうとか、単純すぎる私の頭に自分で呆れる。
ハルちゃんはニコッと笑うと、手に持っていた物を私に見せた。
「たまごに薄力粉、お砂糖…牛乳。実里ちゃん、ホットケーキはどう?」
「うん、ホットケーキ。食べたい。」
どこからかフライパンを見つけ出し、ボールに材料を入れて生地作りを始めたハルちゃん。ハルちゃんが手を動かす間、私は少し前のことを思い出すことにした。衝撃的な事実を知ったせいで薄れてしまっていたが、この店には先ほどまでお客さんがいたのだ。
「あのさハルちゃん。さっきの子、えっと…。」
「マナちゃん?」
「そう、あの子の忘れ物って結局何だったの?」
ハルちゃんと彼女が話していたところまでは覚えている。でも気がついたら彼女は店を後にしていた。この店は《忘れ物を見つける》為の店。つまり彼女は他のお客さんと同じように、忘れ物を思い出してそれから見つけたということだ。
「『前を向くこと』ですって。それを忘れて死んでしまって、この店に来て思い出したそうよ。」
「それを思い出したからお店を出て行けたの?」
「ううん。『あいつがこの先にいてもいなくても、もう戻れないなら自分から先に進む。』そう言っていたわ。忘れ物を思い出したからというよりは、彼女自身が前を向いたから、でしょうね。」
「前を向いたから…。」
前を向くこと。それは物理的なことじゃなくて…心か。私は店の入り口の扉を見つめた。忘れ物を見つけたお客さん達は、あの扉から次の場所へと進んでいく。
(でも私はまだこのお店を出たいと思わない。)
もしも私が忘れてしまったものが《自分の死について》だったとしたら、私はまだちゃんと見つけていないからだ。私の死んだ理由を…。何があったんだろう。最後の記憶はいつもと変わらない朝の通勤の景色のままなのに。
ぷつぷつとフライパンの中で生地が焼ける音がする。ハルちゃんがまた何かを探していて、それから天井の方へと顔を上げた。
「橘さん、メープルシロップはあるかしら。」
「あ、まってハルちゃん。私、はちみつがいい。」
思わず彼女を止めてしまった。別にメープルシロップでも構わないけれど、今はそういう気分だった。ハルちゃんが不思議そうな顔をして私を見ている。
「あらそうなの…?どうしてはちみつなの?」
「うん、おばあちゃんがね。時々ホットケーキを焼いてくれたんだけど、おばあちゃん家にはメープルシロップがなくて、いつも代わりにはちみつを掛けていたの。」
「そうなのね。はちみつか…。」
「だから私の中でのホットケーキは、はちみつをかけるんだ。おばあちゃんのホットケーキが好きで。でも、もう食べられないんだ……。」
急にまた目元が熱くなって、床に一粒涙が落ちる。
「…そうなのね。じゃあはちみつを用意してもらいましょうね。」
完成したホットケーキをハルちゃんがお皿に盛ってくれて、私はそれをカウンターへと運んだ。
「あ……。」
カウンターの上に小さな小瓶が置かれている。貼られていたラベルには【オレンジ蜂蜜】と書かれている。ハルちゃんが瓶を手に取った。
「えーっと、オレンジの花に集まるミツバチの巣から取れた蜂蜜ですって。橘さんったら、ちゃんと実里ちゃんの好きなもの分かっているじゃない。」
ふふっと笑うハルちゃんの横で私は店内を見渡した。消えてしまったはずの店内の明かりはいつのまにかまた点いていて、でも目を凝らしてみても橘さんらしき光は見えなかった。自分の放った言葉を思い出す。橘さんはただ私たちの傍にいて、私たちがここに居ることを許してくれた大きな存在なのに。
「橘さん、いない…。」
「良いのよ、また後で謝れば。実里ちゃん相手なら絶対に許してくれるわよ。」
ハルちゃんが瓶の蓋を開けようとして、でも力が足りなくて開けられなくて、私が代わりに開けた。瓶の中からはほのかにオレンジの混ざる蜂蜜のいい香りがする。
「酷いこと言っちゃったのに、用意してくれたんだ。」
スプーンで掬うと日の光を浴びてキラキラと光る蜂蜜を、ホットケーキの上に掛けた。
「あのね。おばあちゃんの作るホットケーキね、時々少し焦げていて。考え事をしていると焦がしちゃうんだって。でもそれも含めておばあちゃんのホットケーキ、って感じだったんだ。」
そう言いながら私はハルちゃんに瓶を渡した。受け取ったハルちゃんはというと、じっとお皿の上のホットケーキを見つめている。
「………。」
「ハルちゃん?」
ハルちゃんが手を伸ばして自分のホットケーキを少しだけめくった。裏側がだいぶこんがりと焼けている。
「まさに実里ちゃんのおばあちゃんと同じ事をしちゃったわ。」
ぺろりと舌を出して笑ったハルちゃんが、とても可愛らしい。
「ねえ、せっかくだからそのハルちゃんのおばあちゃんの話、詳しく聞きたいな。」
フォークを刺して口の中に放り込んだホットケーキ。ふんわりと柔らかい生地に絡まるオレンジ風味の蜂蜜。甘くて、少しほろ苦い。
―ほら実里、焼けたから沢山食べな。―
エプロン姿のおばあちゃんが台所に立って、ホットケーキを焼いている姿が頭の中に広がる。気が付くとまた私は泣いていて。しっとりとしたホットケーキへと変わった最後の一口を口の中に放り込むと、生地の中からオレンジと蜂蜜の香りがふわりと鼻を抜けて。オレンジジュースをごくりと飲んだ私は、あのね、とハルちゃんに思い出話をし始めた。




