後編
休憩の終わりを告げるベルもなく、黒衣のスタッフたちが淡々と「食事」を運んできた。
修造の前に置かれたのは、プラスチックの器に盛られたグレーがかったペースト状の物体と、不透明なコップに入った水。修造は重い腕を手繰り寄せ、スプーンでそのペーストをもそもそと口に運ぶ。口中に広がるのは無機質で味のない感触だけだ。添えられた水すらもどこか粘り気があり、唇にまとわりつくベタベタとした違和感が猛烈に気を滅入らせる。
ペーストを噛みしめるたび、時折鼻腔を突くツンとした強い薬品臭。何らかの薬物が混入している可能性はきわめて高かった。だが、背後に立つスタッフの冷たい視線が背中に刺さっている以上、「食べない」という選択肢は存在しない。毒であろうとなかろうと、与えられたものを胃に流し込む以外にここで生き延びる道はなかった。
不味い飯を粘り気のある水で無理やり流し込もうとした瞬間、喉の奥に強い刺激が走り、修造は思わずむせかけた。
(――しまっ……!)
全身の血の気が一気に引く。
数日前、食事中にむせた男の姿が脳裏をよぎった。苦しそうに咳き込んだその男は、即座にスタッフたちに取り押さえられ、口から無機質な金属製の機器を喉奥深くへ突っ込まれた。喘ぎ声を上げながら引きずられていった男は、二度とこの会場へ戻ってくることはなかったのだ。
喉の奥から込み上げる猛烈な咳き込みを、修造は歯を食いしばり、必死で喉の筋肉を絞り込んで押し殺した。顔中の血管が破れそうなほどの圧力が頭部に満ちる。
「うん? どうした、何が問題か?」
異変を察知したスタッフが歩み寄り、修造の顔を覗き込んできた。その顔には、まるで皮膚に貼り付けたかのような不自然で不気味な笑顔が浮かんでいる。こちらの隙を探るような歪んだ視線。
「いや……大丈夫だ」
修造は眉間に固く皺を寄せ、肺の空気を絞り出すようにして低く答えた。喉の灼熱感を必死に押し殺しながら、表情を一つも崩さないよう全神経を集中させる。
「ならば良い」
スタッフは興が削がれたように短く吐き捨てると、靴音を殺して去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、修造は震える手の甲で額から流れる冷や汗を拭った。喉の痛み以上に、死の淵をすれすれでかわしたという冷たい戦慄が、麻痺した身体を激しく揺さぶっていた。
5.主催者の靴音がコンクリートの床に重く響き、机の間をゆったりと巡回する。
「さて、午後のゲームだ」
その言葉と同時に、黒衣のスタッフたちが手際よく紙と鉛筆を配って歩く。修造の前に置かれた紙には、縦横に整然と数字が並べられたマス目が印刷されていた。
「百マス計算。やった事はあるだろう? ただタテの数字とヨコの数字を合計した数をマスに記すだけ。さあ、始めるがいい」
主催者の号令がかかった。
周囲からは、一斉に鉛筆が紙を滑るカリカリという音や、焦りに満ちた荒い呼吸が聞こえ始める。ある者は呟くように計算式を反芻し、ある者は麻痺の残る指を折って数字を数えていた。
しかし、修造の手は鉛筆を握りしめたまま、ピタリと止まっていた。
(……視界が、歪む……)
目の前の紙の白い余白が、ぐにゃりと波打つように揺れている。マス目の黒い枠線が重なり合い、数字が生き物のように蠢いていた。
(さっきの食事か……!)
あのベタついた水と、薬品臭のした不味いペースト。身体に巡り始めた薬物が、脳の思考回路を激しく侵食しているのだ。修造は奥歯を痛いほど噛み締め、こめかみに浮き出る血流の拍動に必死で耐えた。
43+58。
卸業の経理として、暗算で一瞬にして処理してきたはずの数字。それが今や、意味を持たない記号の羅列に見えた。頭の中に分厚い霞がかかり、思考を組み立てようとするそばから霧散していく。
(……そうだ、一の位からだ。3+8は11。だから一の位に1を書く……)
手元の感覚すら怪しい中、全神経を指先に集中させる。マス目の中に、ミミズが這ったような歪んだ「1」が刻み込まれた。
(そして、十の位……4+5は9……)
朦朧とする意識の中、修造がその「9」をマス目に記した瞬間だった。
「違うなあ。お前は足し算すらまともにできないのか?」
背後から覗き込んでいたスタッフが、嘲るような声をかけてきた。
振り返って顔を見るまでもない。絶対に人を馬鹿にした愉悦と、嘲弄に満ちた歪んだ笑みを浮かべているはずだ。その薄っぺらな声が、修造の鼓膜を不快に揺らす。
(9……いや、違う。さっき一の位で繰り上がった1がある……!)
混濁する意識の底で、経理としての本能が警鐘を鳴らした。冷や汗が目に入り、視界が激しく沁みる。修造は震える手で鉛筆の上の消しゴムを押し当て、力任せに間違えた数字を擦り消した。紙が破れるギリギリの圧力をかけながら、思考を研ぎ澄ます。
くり上がりの1を加えて、10。そして一の位の1。
消し跡の残るマス目に、修造は渾身の力を込めて「101」と書き込んだ。
6.霞がかった頭を狂おしいほど回転させ、どうにかすべてのマス目を埋め切った頃、修造の精神と肉体は限界まで削り取られていた。
(だが……俺は今日も生き延びた)
椅子に頑丈に固定された脚には、もはや完全につま先の感覚すらない。この理不尽なゲームから解放されたとして、果たして二度と立ち上がることができるのかすら判らなかった。それでも、生存という結果だけは手に入れたのだ。
靴音が近づいてくる。また新たな拷問のようなゲームが始まるのかと、修造は全身の筋肉を硬直させて身構えた。
だが、目の前に立った主催者が口にしたのは、想定外の言葉だった。
「お前の孫に会わせてやろう」
修造の頭の中が激しい混乱に陥る。
(孫……? 孫とは何だ。娘の友恵はまだ十六歳の高校生のはずだ……まさか、あいつらに何かされたというのか?)
「じいちゃん、久しぶり」
聞き覚えのある声に弾かれたように振り返ると、そこには娘の友恵が立っていた。いつのまにか背景のコンクリートの壁は消え失せ、光の反射する真っ白な壁紙を背にして、彼女は元気そうに微笑んでいる。
修造は周りの黒衣の男たちを警戒し、絞り出すような小さな声で娘に囁きかけた。
「友恵……早くここから逃げるんだ。次のゲームが始まる前に、家に帰らなくては……!」
「じいちゃん、何言ってるの。京子だよ。お母さんは今、実家に行ってるの」
(何か話が噛み合わない……お母さん? 妻の松江のことか? 松江なら自宅で自分の帰りを待っているはずだ)
思考の糸がもつれ、麻痺した脳が現実を拒絶するように激しくきしむ。
娘の友恵――いや、友恵とよく似た少女は、主催者らしき人物と二、三言静かに言葉を交わすと、修造に向かって優しく微笑みかけた。
「元気そうで良かったよ。じゃあ、また来るね」
少女がくるりと背を向け、去っていこうとする。
修造は重い腕を突き出し、必死で手を伸ばした。
(待ってくれ! 頼む、友恵、俺を家に連れて帰ってくれ――!)
だが、その叫びを口に出すことは許されない。ここで取り乱し、声を上げれば即座に連れ去られる。声を殺し、感情を押し殺すことだけが、この狂気の世界で生き延びるための鉄則なのだから。
去っていく少女の姿の背景に、真っ白な壁紙と、なぜか介護エプロンを着けたスタッフの姿がチラリと過った気がした。




