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認知ゲーム  作者: 牧原修造
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前編

灰色のコンクリートの壁が、湿った冷気を孕んで修造の肌を撫でていた。蛍光灯の均一な白光の下に無機質な机がいくつも並べられ、影すらも削ぎ落とされたような不気味な光景が広がっている。


卸業の経理として二十年近く、数字の並ぶ画面と向き合ってきたはずだった。伝票の束、電卓を叩く乾いた音、締め切り前の静かな焦燥感。それらがかつての自分の日常であったはずなのに、今の現実との接点を見出せない。


椅子の脚に固く固定された両脚にはすでに感覚がなく、だらりと垂れ下がった両腕は、まるで泥を詰め込まれたかのように重かった。腕の皮膚に残る微かな痺れは、何らかの薬物を注入された証拠だろう。視界がかすかに揺らぎ、焦点を結ぶことすら容易ではない。


静寂の中、机の間を靴音も立てずに巡回する男が一人。その顔は白無地の仮面に覆われ、表情すら窺い知ることはできない。仮面の奥にある無機質な瞳が、こちらの存在を品定めするように見つめている気がした。


「君たちにはゲームをしてもらう」


男の淡々とした声が、コンクリートの壁に反響して鼓膜を揺らす。


修造の額から一筋の冷や汗が伝い、目元を濡らした。拭うことすら叶わない腕の重みが、理不尽な現実を容赦なく突きつけてくる。


「嫌だ、なんで俺はこんなところに連れてこられたんだ!今すぐ家に帰してくれ!」


不意に、斜め後方に座っていた見知らぬ男がヒステリックな悲鳴を上げた。その叫び声が収まるよりも早く、黒い服を着たスタッフが数人、群がるように男へ群がる。男は暴れようとしたが、椅子ごと押さえつけられ、金属音を立てながら部屋の奥の暗がりへと引きずられていった。


(馬鹿な奴だ。動けない中、こいつらに逆らうなんて)


修造は冷ややかな思考を巡らせながら、小さく息を吐いた。


あのアラバスターのような壁の向こうへ運ばれた男がどうなるのか、知る由もない。恐怖を押し殺すために、意識を思考から切り離す。


この不気味な会場に自分が囚われてから、何日が経過したのだろうか。日にちの感覚はすでに曖昧で、朝も夜もない部屋の中で、ただ生き延びていることだけが、朧げな事実としてそこにあった。


仮面の男の低い声が、静まり返った会場の冷気を切り裂くように響いた。


「さて、本日のゲームだ」


黒衣のスタッフたちが足音もなく近づき、修造たちの目の前の机に手際よく物を並べていく。置かれたのは、素焼きのような二枚の白い皿と、一膳の木製割り箸。右側の皿には、艶のない小さめの黄大豆が幾つも転がされていた。


「ルールは簡単。右の皿から左の皿へ、豆を移してくれたまえ。その箸を使ってなあ」


その言葉に、幾重にも重なった沈黙を破って、少し離れた席に座る女性が掠れた声を漏らした。


「そんな事をして何になるの……一体何の意味があるのよ……」


その呟きを聞き逃さなかった仮面の男は、ゆっくりと足を進め、女のすぐ目の前で足を止めた。無機質な白い仮面が、恐怖に引きつる女の顔へと静かに近づけられる。


「ならやめるか?」


感情の削ぎ落とされた声が耳元で囁かれると、女の顔から一瞬で血の気が引いた。先ほど連れ去られた男の末路が頭をよぎったのだろう、彼女は言葉を失い、蒼白な顔でふるふると首を横に振ることしかできない。


「それでは、始め!」


主催者の合図が部屋に響き渡る。


修造は深く息を吐き出し、麻痺したように重い腕に意識を集中させた。肘から先がまるで鉛の塊に変わってしまったかのようだ。経理の仕事で長年培った手指の精密な感覚も、この薬の痺れの前には無力に思えた。


(指先を焦らすな。一粒ずつ、確実に……)


震える手で割り箸を固く握り締め、修造は右の皿へ向けてゆっくりと手を動かし始めた。


カチ……カチ……と、乾燥した豆が皿の縁や底に当たる硬い小音が、室内を支配していた。


誰も口を開かない。ただ呼吸を殺し、指先の震えと戦いながら、無意味とも思える作業に集中している。その極限の静寂を破ったのは、二つ隣の男の手元から滑り落ちた一粒の豆だった。


コツン、コロコロと、無機質な机の上を豆が転がる。


その瞬間、静まり返っていた部屋の空気が一変した。壁際に控えていた黒衣のスタッフたちが、嘲笑を含んだ声を上げる。


「ハハハハ、失敗か?」

「そんなに簡単な事もできないのか!」


蔑むような視線を隠そうともせず、一人のスタッフが優越感に満ちた笑みを浮かべて歩み寄ってきた。彼は指先で机の上の豆をつまみ上げると、高下からカチンと音を立てて元の皿へと放り投げる。


「もう一度だ」


男の顔が、屈辱と羞恥で赤黒く歪んだ。見下され、嘲笑される精神的な苦痛が、重い室内をじわじわと侵食していく。


その空気に耐えかねたのか、先ほど抗議した女が不意に叫び声を上げた。


「もう嫌よ! 帰らせて! 夫の元に帰してよ!」


感情を爆発させた女は、自暴自棄になって机の上の皿を強く払い落とした。


乾いた破裂音とともに、床一面に跳ねて転がる大豆の群れ。陶器の皿がカラカラと甲高い音を立ててコンクリートの床を滑っていく。


すぐさまスタッフたちが群がり、取り乱す女の手足を完璧な手際で押さえつけた。必死に身をよじり、夫の名を叫び続ける女の残響を残したまま、彼女の体はあのアラバスターの壁の奥へと去っていった。


(大人しく従っていれば残れたものを……)


修造は冷徹な視線を一瞬だけ動かし、すぐに自分の手元へ戻した。


取り乱せば終わる。感情を捨て、ただ目の前の作業に徹することだけが生き残る唯一の手段だ。経理の仕事で培った帳尻を合わせるための粘り強さを、修造は今、命を繋ぐために注ぎ込んでいた。


鉛のように重い腕に力を込め、割り箸の先で慎重に最後のひと粒を挟み込む。


ゆっくりと左の皿へ運ぶ。


カチン。


小さくも明瞭な硬質音が響き、豆が収まった。


修造の口から、抑えていた息が静かに漏れ出た。背中は嫌な冷や汗でぐっしょりと衣服に張り付いている。


「よくやった。貴様には少しの休憩時間をやろう」


仮面の奥から、主催者の感情の籠もらない声が下された。

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