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花と初恋  作者: 来海 空々瑠
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ひまわりの愛しさ

「もう限界だ……」


それから数時間後。腹の底から絞り出したような低い声を響かせ、廊下を歩く時雨の目の下の隈は一層ひどくなっていた。


辺りはすっかり暗くなり、点々と設置されている行灯や灯籠の光が屋敷内を幻想的に照らしている。


疲れ果てた時雨が向かった先は食堂だった。あまりに忙しく、夕食を食べ損ねたため、夜食を食べてから寝ることにしたのだ。


暁では仕事の都合上、時雨のように食事の時間が変則的になる者も多く、食堂には亥ノ刻ごろまで使用人の誰かが配置されている。調理担当がいるわけではないので、夜食はおにぎりや茶漬けなど簡単なものになるが、何もないよりましである。


時雨は、ようやく辿りついた食堂の扉をがらりと開いた。中には誰もおらず、調理場と受け取り口付近に煌々と灯りが灯っているだけだった。時雨が、そのまま提灯を片手に調理場へ近づき、「すみません」と声を掛けて覗き込む。見れば、女中の誰かが調理場内にある小さな机に突っ伏しているではないか。


(この時間帯は、男の使用人が担当のはずでは……)


はて、と首を傾げた時雨は、中に入って、そっと顔を覗き込んでみた。そこには女中の雪菜がいた。彼女は時雨が側にいることにも気づかずに、幸せそうな表情を浮かべて能天気に眠っている。


「……誰かと思えば、また、あなたですか」


接触を控えようと思った矢先に、また会うことになってしまった。時雨がぽつりと呟くも、雪菜は変わらず眠ったまま。机の上には礼儀作法について書かれた書物が広げられているのを見るに、どうやら勉強途中で眠ってしまったらしい。


腕には白い包帯が巻かれており、そういえば琥太郎から彼女が(いさか)いに巻き込まれたと言っていたのを思い出した。


「……それにしても、まったく起きる気配がありませんね」


どうしたものかと思案した時雨だが、このまま彼女をここで寝かせておくわけにもいかないので起こすことにした。


「こんなところで寝てないで、起きなさい」


時雨が背中を軽くゆすってそう声を掛ける。すると、びくりと体が動いたあと、ものすごい勢いで雪菜が立ち上がり、「ごめんなさい‼︎ 美味しそうだったんで、つい食べてしまって……!」と声高に叫んだ。


「は?」

「え?」


二人の間にしばしの沈黙が走る。が、寝起き眼をぱちくりさせた雪菜は、目の前にいるのが時雨だと認識すると今度は勢いよく後ずさった。


「し、時雨様……!」

「何ですか、その化け物を見たみたいな反応」


呆れた表情で雪菜を見つめた時雨は、その口元に白い米粒がついていることに気づいた。ちらりと机上を見れば、空の皿が一枚ある。


「夕餉を食べ損ねたので、やってきましたけど……」


時雨はそう言うと、怖い顔をしてじりじりと雪菜に詰め寄っていく。寝不足のせいで目の下にできた隈が、その怖さを助長させていた。あまりの禍々しい空気に「ひぃ!」と声を上げた雪菜は、慌てて時雨から距離を取るため壁際に逃げる。


だが、この男から逃れることなど出来るはずがなかった。時雨は雪菜を壁際に追いやると、壁にばんと片手を叩きつけた。そして、一言。


「食べたでしょ、私の握り飯」


どすの利いた声で凄まれ、雪菜は「す、すみませんでした!」と震え上がる。一見して、どきどきと胸が高鳴りそうな体勢なのに、どきどき要素など全くない。取って食われるんじゃないかと言わんばかりの勢いに、さすがの雪菜も涙目になって「お腹が減ってて、つい出来心で……!」などと、犯罪者のような言い訳を返す始末。


時雨ははぁ、と大きなため息をつくと、そのまま側にあった丸椅子に座り込んだ。これ以上、雪菜を問い詰めたところで握り飯が返ってくるわけではない。だったら、下手に体力を使うことはやめようと思ったのだ。


「……この時間帯の仕事は、女中の担当外なんじゃないですか?どうしてあなたが」


時雨が尋ねると、雪菜は視線を逸らしながら、ぽりぽりと頬を掻いた。


「その、今日の夜食担当の方が体調を崩されたみたいで交代してあげてたんです……。たまたま、わたしが忘れ物を取りに通りかかったときに、すごく苦しそうな顔してて。本人は大丈夫だって言ってたんですけど、聞けば夜食を食べに来た隊士の人に食事を作るだけって言うし、あまり人は来ないって聞いたので、ちょっとぐらいなら問題ないかなと思って……」

「で、腹が減ってその握り飯を食べ、居眠りをしていたと」


時雨の、切れ長の鋭い瞳が向けられ、雪菜は「はい……」と言いながら、あははと空笑いを浮かべた。時雨は静かに目を閉じると凝りをほぐすように、眉間を指で揉みながら「まあ、別に勝手に握り飯を食べたことを咎めたりはしません」と呟いた。


目を開けば、ほっとした様子の雪菜が目に入る。だが、このままでは時雨の腹の虫が治らない。となると、取るべき行動は一つだった。


「代わりに、あなたが握り飯を作ってください」


そう声を掛けられた雪菜は、目をぱちぱちと瞬かせて固まっていた。

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