オークと風と本当の試練
ユーシャは石壇へと一歩を踏み出した。ブーツが薄い水面に波紋をつくる。そのまま歩き、段を上がる。
円形のステージには、ユーシャを待つようにオークが座していた。大きい。座っているのにユーシャの身長を超えている。
ユーシャは、彫像のように動かないオークに向かって話しかけた。
「あなたが試練てわけね」
オークはユーシャの声に気づき、目を開けた。黄色く濁った瞳が、ユーシャを舐めるように動く。
「シレン? なんの、ことだ」
とオークは片言ながら言葉を発した。しゃべるだけの知能はあるらしい。
「わたしは勇者よ。今から、この聖地を浄化する」
「ユウシャ、おまえ、勇者?」
「そうよ」
「女? 女の、勇者?」
「わたしが男に見える?」
とユーシャはむっとして言った。
「オンナ、女、……グフフ、フ、ガハハハハ」
「なにがおかしいのよ? 失礼な魔物ね」
「オレは、運が、いい」
オークは口元を醜く歪め、立ち上がった。
「な、なに?」
ユーシャは思わず後ずさりをする。立ち上がったオークは、さらに大きく見えた。
来る? 戦う? この魔物と? ユーシャの心に怯えの感情が沸き起こった。自身に向けられた悪意を感じ取ったからだ。それは殺気。確固たる害意。これまで戦ってきたスライムの柔らかい体とは違う、ただ他者を害するためだけに発達したようなおぞましい姿。人に似ながら、人とは決定的に違うその姿は、本能的な恐怖を呼び起こす。これが魔物なのだ。人に、生命に危害をもたらす邪悪な存在。魔力によって歪めれらた、世界の異物。
「危ない!」
というマオの叫びが、ユーシャの意識を現実に呼び戻したとき、彼女の目前にはオークの拳が迫っていた。
「ひっ」
と小さく悲鳴を漏らしながらユーシャは尻もちをついて倒れた。薄く張った水がスカートを濡らす。下着にまで水は浸透してきたが、そんなことは気にならなかった。
戦わなければ。
ユーシャはすぐに立ち上がり、オークから距離をとる。オークは完全に、ユーシャを舐めているようだった。追撃はせずに、ニヤニヤとユーシャのようすをうかがっている。
そうだ、こいつはわたしを女だからと舐めている、とユーシャは自分に言い聞かせた。
敵は遊んでいる。付け入る隙は、必ずある。
ユーシャはオークと距離をとったまま走り出した。
オークはユーシャの突然の行動を、戸惑ったように見つめている。
ユーシャはオークの呼吸、一瞬の瞬きにタイミングを合わせ、一気にその懐へと飛び込んだ。ほんの少し反応の遅れたオークが、ユーシャを捕らえようと腕を伸ばす。
しかし――
「遅いっ」
小柄なユーシャは、オークの腕をかい潜り、無防備な脇腹を聖剣で切り裂いた。
「ギィ!? ギャアア」
とオークが吠える。
ユーシャはあくまで冷静に、追撃はせずに再び距離をとった。
ヒット・アンド・アウェイ。こちらは一撃でも致命傷になりかねない以上、敵の攻撃を確実に躱しながら、少しづつでも確実に攻撃を加えて行く。
オークに一太刀入れたユーシャは、やっといつもの余裕を取り戻しつつあった。こちらの攻撃は通る。たとえ加護は受けられなくとも、魔物相手に絶対の殺傷力を誇る聖剣を手にしているのだ。手に馴染んだ重みが心強い。
しかし、聖剣を手にしているとはいえ、彼女は非力な少女に過ぎない。ユーシャが与えた傷は浅かったようだ。オークは、なにが起こったのかわからないという困惑した表情を浮かべながら、脇腹の傷に手をやる。灰色の手のひらを濡らす暗褐色の血。自分より格下の相手に傷を付けられたオークは激昂した。
「オンナ……、キサマァアア」
そうだ、もっと怒れ。怒れば怒るほど行動は単純になるはずだ。敵の動きを読めば、必ず勝てる。
ユーシャは、オークと一定の距離をとりながら、円形のステージを回るように移動する。これは命がけの鬼ごっこだ。捕まれば死ぬ。そうなる前に、――倒す。
オークはユーシャを捕まえようと突進するが、ユーシャはオークをギリギリまで引き付けつつ躱す。勢いがついた突進は、急には進路を変えられない。慣れてしまえば、このデカブツもゴブリンと変わらない。ユーシャは勝機の糸を掴みかけていた。
「こっちよ!」
とユーシャはオークを挑発するように言った。いよいよオークの怒りは頂点に達したようだ。オークはその巨体をがむしゃらに動かし、ユーシャに迫る。大量の水しぶきが巻き起こる。今のユーシャには、その水滴の一粒まで見えるようだった。
オークの動きが、手に取るようにわかる。
ユーシャは暴れるオークの腕を避け、胴に刃を滑らせる。確かな手応え。そのままユーシャは舞うようにして、オークの腕、背中を切りつけた。
遠くからユーシャを見守るマオには、ステージの上でユーシャが踊っているように見えた。
オークの体には一つずつ確実に傷が増えていく。それに比例して、動きも鈍ってきていた。
――そろそろだ。
オークが苦し紛れの一撃を放つ。大きく腕を振りかぶり、岩のような拳をユーシャに向けて繰り出した。
ユーシャは勝利を確信した。大振りの拳を当たるギリギリで避け、そのままの勢いで腰の位置に構えた聖剣を、オークの腹部へと突き立てた。
「ギャッ、グウウ」
とオークが口から泡と共に悲鳴をもらす。
勝った、とユーシャは心のなかで呟いた。
死んだのだろうか? 腹部に聖剣を突き立てられたオークは、硬直したように動かない。
「やったよ、マオ」
とユーシャが安堵した声で言った。ユーシャはオークの腹から聖剣を引き抜こうとした。しかし、
「え?」
――剣が、抜けない!?
「――グフフ、捕まえた」
ゾクリとするようなオークの声。敵はまだ死んでいなかった。
ユーシャはもう一度聖剣を引き抜こうとしたが、オークの腹に深く刺さった聖剣は、筋肉にしっかりと食い込みびくともしなかった。折れた聖剣の短い刃では、オークの分厚い筋肉を越えて、致命傷を与えるに足りなかったのだ。この時、彼女は聖剣を手放し、逃げるべきだった。しかし、たった一つの命綱である聖剣を手放すことに、一瞬の迷いが生じた。
その隙に、オークの大きな手が、ユーシャの肩に乗せられた。
「いやっ」
ユーシャは思わず目をつぶった。
オークはそのままユーシャを押し倒す。ユーシャの鼻先に、オークの生暖かい息がかかる。獣臭い。ユーシャはその臭いから逃れようと体を揺するが、オークに押さえつけられた状態では、指先を動かすだけで精一杯だった。これならヒュージスライムの触手責めの方がマシだと、この状況には呑気すぎる言葉が浮かんだ。
聖技さえ使えれば、こんな敵に苦戦することはないのに。それが無理なら、せめて加護さえ受けられれば、強化された肉体で真正面から肉弾戦を挑めるのに。ユーシャは非力な自分を呪った。女に生まれたから、正式に勇者に選ばれず、こうして魔物に組み敷かれてしまう。もっと自分に、力があれば。
「……わたしを、どうする気?」
とユーシャは訊ねる。
オークはユーシャの言葉を無視して、ユーシャの体に顔を這わせるようにして匂いを嗅いでいた。何かを探るように。
「こらーーーーっ! そこを退け!」
とユーシャのピンチを察したマオが、オークに飛びかかった。
ペチン、と蚊でも払い落とすように、マオはオークの腕ではたき落とされ、頭から石壇を滑り落ちていった。
「やめて! マオに乱暴しないで!」
とユーシャは叫ぶが、オークの重みで呼吸が苦しくなった。
オークは、ユーシャの下腹部に顔を埋めるようにして匂いを嗅いでいる。そして何かを探り当てたようだった。
「ウマそうな、匂いだ」
オークが顔を上げて、ユーシャを見た。牙の覗く大きな口の端から、ネバついた唾液が流れ、ユーシャのエプロンドレスに染みをつくる。彼女の大切な一張羅は、水と唾液ですっかり汚れてしまっていた。
「わたしを、食べる気なの?」
とユーシャは声を絞り出して言った。そういえば、ヒュージスライムも自分を食べようとしていたことを思い出した。魔物たちは、勇者がその身に溜め込んだ魔力が目的なのだ。
マオがスライムを食べて魔力を補給していたように、より大きな魔力を得るために、勇者を食べようとしている。
「わ、わたしなんて食べても美味しくないわよ? 体だってまだ発展途上だし、時間をくれればもっと美味しそうに育つと思うんだけど」
「ウルサイ」
とオークがユーシャの口を塞ぐ。力まかせに押さえつけられたので息ができない。オークはそのまま、開いた方の手で、ユーシャの服を破りにかかった。まるで子供が菓子箱の包装を破るように、大きな手でブラウスを力任せに引っ張る。ユーシャのお腹がむき出しになった。オークが口を開ける。口からこぼれた生暖かい唾液が、ユーシャの体に浴びせられた。
ユーシャの意識は朦朧としていた。視界が霞む。まさか最後に見るのが、こんな醜いオークの姿だとは。
まぶたが重い。世界が崩れていく。いや、崩れていくのは自分だ。ズタズタに引き裂かれ、肉片となり消えていく。
意識が遠のく。まるで自分の身体から離れてしまったような浮遊感。離れた意識は過去へと遡る。これは走馬灯だ。やはり思い出すのは父の姿だった。ボサボサの黒髪に無精髭、いつも死んだような目をしていた。いつも酔っ払っていたが、素面の時には不器用な笑顔で接してくれた。自分の大雑把な性格は父譲りだろうか? 親子関係は決して良好とは言えなかったが、育ててくれた恩を返せなかったことは心残りだった。
意識はさらに過去へ向かう。もう記憶は像を結ばない。ただ暗闇があるだけだ。風が吹いている。風に乗って、誰かの声が聞こえた。
――絶対に離さない。
誰の声だろうか? 聞き覚えはなかった。ユーシャは暗闇の中、輪郭の曖昧な腕を伸ばす。伸ばした手はなにも掴めない。ただ吹き荒れる風にさらされる。
――――風。この風が、彼女の原初の記憶。
なにもない漆黒の闇の中、そばには誰かがいた気がする。しかし風がすべてを奪っていった。
空っぽの自分の中には、風しかない。
それがすべてだというのなら、
その風で、
――すべてを吹き飛ばそう。
最初に異変に気づいたのはオークだった。それは小さなつむじ風。どこからか吹いてきた風が、祭壇の水面に波紋を形作る。
結界が張られたこの祭壇に、風が吹くことは稀だ。なにかがおかしい。オークは勇者を食べようと大きく開けた口を閉じた。
風はますます強さを増し、水面の波紋は幾重にも広がっていく。
やがて波紋は小さな波となり渦を巻いた。
その中心にいるのは勇者だ。
突如、風が意思を持ったように、一つの方向性をもってオークの身体に襲いかかった。
その突風はオークの巨体を押し飛ばし、オークは背中から倒れた。
オークが上半身を起こす。その目に飛び込んできたのは、想定外の光景だった。
弱々しく非力な勇者が、風の渦を纏い、水面に浮かんでいた。勇者を中心として巻き起こった風は、水面に幾重にも幾何学的な波紋を描いている。
――なんだあの女は? とオークは思った。あんな人間は知らない。勇者とも違う。あれは、あれは本当に人間なのか?
勇者の虚ろな瞳が紅く光る。その禍々しい光を、オークは恐れた。知らない、知らない、こんな人間、知らない。
勇者が右手を水平に伸ばす。その小さな手のひらがオークに向けられると、一陣の風が吹いた。少し遅れて、オークの鈍い感覚が痛みを伝える。なにが起きたのかオークには理解できなかった。さらに風が吹く。そして鋭い痛み。切られている。斬り刻まれている?
オークが状況を把握したのは、すでに周囲を風の刃で包囲された後だった。
見えない刃がオークを切り刻む。逃げ場はどこにもない。手を伸ばせば手に、足を踏み出せばその足に、見えない刃が傷を与える。オークは混乱していた。生まれてはじめて感じる痛み。こんな小娘にここまで屈辱を与えられるとは。
風の刃ではオークを殺すに至らない。
まだ、だいじょうぶだ。あの勇者を喰ってしまえば、自分はさらに強くなれる。オークが風の包囲を無視して、勇者に襲いかかろうとしたその時、
勇者がその体を風に乗せて、オークへと突進した。オークの腹に刺さったままになっていた聖剣の柄を、突進の勢いを乗せて押し込む。
「グゥウッ!?」
不意を突かれたオークが短い呻き声を上げた。そして詰まっていた栓が抜けるような音とともに、聖剣がオークの胴体を貫通した。吹き出た返り血が勇者を黒く染める。
オークはグルリと白目を向いた後、静かに倒れた。
いつの間にか風は止んでいた。
ユーシャが意識を取り戻すと、あたりはやけに静かだった。
祭壇から湧き出る清らかな水に溶けこむどす黒い血。
「……これ、わたしがやったの?」
彼女に目の前にはオークの死体があった。状況から見て自分がやったのは間違いないだろう。しかし、どうやって倒したのかは覚えていない。
「あ、マオ!」
ユーシャはオークに呆気無く弾き飛ばされたマオのことを思い出した。石壇の下で、仰向けに伸びているマオを見つけた。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
「うむむ? 無事、じゃ……」
とマオはぎこちない笑顔をユーシャに向けた。
どうやら無事のようだ。
「オークは倒したから、もう少し寝てなさい」
ユーシャはマオを休ませて、先に浄化を終えることにした。
ユーシャはオークの死体のそばに転がっていた聖剣を拾い、石壇の中心にその切っ先を突き立てた。水面に聖剣から波紋が伝わり、それに呼応して周囲の魔力が呼び寄せられるように濃くなった。魔力の光は闇夜の蛍のようにユーシャの周りを漂い、少しずつその体へと導かれていく。身体が熱を帯びる。内から犯されるような異物感に耐え、ユーシャはその身に魔力を受け入れていく。
ユーシャの集中を乱すように、不気味な音が響いた。
柔らかい肉がこすれるような音。咀嚼音のようにも聞こえる。
ユーシャは反射的にオークの死体を見た。
オークの死体が不気味に躍動していた。
オークの死体が動いている? いや、違う。脈打つように見えたのは、肉が蠕動しているからだ。死体の中に何かがいる? 死体が風船のように大きく膨らんだ。その死肉を喰らいながら、何かが産まれようとしている?
ユーシャが開けたオークの腹の風穴から、白く細長いものがゆっくりと伸びた。まるで小さな木が生えてくるようだ。細く、しなやかな、あれは指? ゆっくりと伸ばされる白い腕。
伸びた腕は、オークの身体に指をかけ力を込める。ズルリと、その何者かは這い出してこようとしていた。やがて胎児が産まれるように、それは魔物の腹から這いずりでた。
子供ではない。黒く艶めく長い黒髪、ブラウスに包まれた豊満な身体、プリーツスカートから伸びた足を黒いストッキングが覆っている。その身はオークの血肉で汚れていた。
その女はゆっくりと立ち上がり、ユーシャを、いや、彼女の後ろにいたマオを見た。
「お久しぶりです、マオ様。あなたを、迎えに来ました」
と女が言った。
「……なぜ、なぜおまえがここにいるのじゃ?」
――ベル! とマオはその女の名を叫んだ。




