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神獣、とイアンは言った。
アシュリーの頭に思い浮かぶのは銀色の美しい毛並みの狼だ。
そういえば、なぜルーヴィスは今ここにいないのだろう。いつものように姿が見えないだけで、側にいてくれているのだと思っていた。でもこの状況で現れてくれないなんておかしい。
心臓がドクリと鈍い音を立てる。
アシュリーは頭を振って嫌な考えを追い出した。
違う、いくら神獣があまりにも希少だからといって、イアンの言う神獣はルーヴィスのことではない。ルーヴィスはあんなことを言ったりしない。万が一、ルーヴィスが言ったのだとしても、やむにやまれぬ事情があったはずだし、イアンが間違った受け取りかたをしただけで、今この状況がルーヴィスのせいで起きているわけはない。
この嫌な予感は別のものだ。アシュリーはルーヴィスを絶対的に信頼している。こんなこと、考えてしまうのだってルーヴィスに失礼だ。
「神獣って誰? ルーじゃないんでしょう?」
イアンは怪訝そうに顔を顰めてから、得意げに言った。
「あんたの側にいるのは精霊だろう。俺が会ったのは神獣だ。この世に五体といないと言われている、あの神獣だよ」
やっぱりルーヴィスのことじゃない。でもそれなら尚更誰だというのだろう。
「わたしは知らないのに……何でその神獣はわたしのこと知っているの?」
「そりゃあ、神獣なら何でも知っているんだろう」
言ってしまってからイアンは自分の言い分が子供っぽいと気づいたのか、誤魔化すように険しい顔をした。
「それか、お前の前世で会っていたんじゃないのか? 深紅の大蜥蜴の姿をした神獣だよ」
「え……?」
アシュリーは深紅の大蜥蜴の魔精を知っている。サディが処刑される時に現れたのを、夢で見た。
しかしあれは魔獣だと、ルーヴィスが言っていたはずだ。あれが、イアンに接触して、アシュリーの前世のことを話したというのか。
「イアン、あれは神獣じゃない。魔獣だよ」
何のために。
もちろん、アシュリーの魔力を喰らうためだ。
「はぁ? あんな立派な魔精が魔獣なわけないだろう!」
「でもその大蜥蜴はサディの魔力を喰らって、力をつけたんだよ!」
「魔獣が人の言葉を話すわけないだろ!」
「そういう魔獣もいるんだよ!」
「嘘つけ!」
「嘘じゃない!」
「ふざけんな、もっとまともな嘘を考えろよ!」
イアンは再び侮蔑を込めて吐き捨てた。
駄目だ。
アシュリーは唇を噛んだ。全く信じてもらえない。魔獣についてアシュリーも同じような認識だったから、それも仕方のないことだが、これではいつまで経ってもアシュリーが悪人で、イアンは魔獣の言っていることを信じたままだ。
仕方がない。
アシュリーは意を決してすっと息を吸った。
「ルー、来て」
自分には無理でも、イアンが強い精霊だと思っているルーヴィスの言うことは信じるかもしれない。そうでなくても、イアンに一度冷静になってもらって、ハルベルトから何か言ってもらえればいい。彼ならきっと何が本当かわかる。
そんな風に思っていた。
しかし、アシュリーは目を見開いて茫然とする。
いつも、呼べばすぐに駆けつけてくれたルーヴィスが来ない。
魔力を乗せているから、聞こえないなんてことはないはずだ。
「ルー? ……来て」
何か、すぐに来られない事情があるのだろうか。そう思ってもう一度呼び掛けてみる。しかし、ルーヴィスがすぐにアシュリーの元へ来られない事情とは、何なのだろうか。
アシュリーが混乱を押さえつつ考えていると、急に手足が熱くなった。
「え?」
力が抜ける。
床に崩れ落ちると同時に、激痛が手足を襲った。
「いっっ──!」
焼けるような痛みだった。それも一ヵ所どころではない。
一体何が起きたのかと、腕に目を向けると、どろりと血が流れ出ていて目を見張る。
服で隠れてはいるが、両手に剣で斬られたような傷が出来ていることはわかった。
そう、斬られたのだ。イアンに、風の魔法で。
動揺していたアシュリーは、ようやく脳の処理が視覚に追い付いた。イアンは迷いなくアシュリー攻撃した。痛くて動けないせいで確認はできないが、恐らく両足も斬られている。
なぜ。
もう何度目かもわからない疑問が胸に渦巻く。
イアンはこんなことをする人間だっただろうか。
「これは、当然の報いなんだ」
何かを振り切るような、言い聞かせるようなイアンの声が、近くで聞こえた。
横向きで倒れていたアシュリーの頭が持ち上がり、口を白い布で覆われる。一切抵抗できないまま、アシュリーは言葉を封じられた。
これでは精霊が呼べない。
普段から、余程の簡易魔法ではない限り、精霊を呼ぶことが癖づいているアシュリーは、咄嗟に傷を治せないと思った。
混乱とイアンに容赦なく傷つけられた衝撃と痛みで、当たり前の判断ができなかった。精霊を呼ばずとも、自身の魔力だけで回復できるだろうことは、普段ならわかるのに。
数秒間、アシュリーは自分の血が流れていくのを見ていることしかできなかった。頭がくらりとする。
(ルー……)
心の中で助けを求める。
必ず守ると言ってくれた、アシュリーの神獣を。
「お前の精霊は来ないよ」
イアンがアシュリーの顔だけをじっと見て、勝ち誇ったような声を出しながら、引き攣った笑みを作っていた。
「いくら強くても精霊じゃあ、神獣に勝てないだろ」
「ふっ……?」
意味が理解できなくて、アシュリーはぼうっとする。
「あの精霊はお前の仲間だろ。お前を助けに来ないように、大蜥蜴の神獣が捕らえておくってさ。俺はその間に、お前を警邏隊に突き出さなくちゃいけない。前世のことは不幸だったけど、今度はお前は、自分のしでかした罪で、罰を受けるんだ」
「……うー、うう、うぅ……」
(ルーに酷いこと、しないで)
アシュリーはそのことにだけ意識を向けた。
いくら強い魔獣だとしても、神獣であるルーヴィスに敵うわけがない。そう思いたかったが、それはアシュリーの思い込みかもしれない。それに自身が傷つけられ、痛みに朦朧とした状態で言葉まで封じられてしまったアシュリーは、恐ろしく弱気なっていた。
不安にじりじりと心を蝕まれる。
だってアシュリーが呼んでも、ルーヴィスは来てくれなかったのだ。
「お前のせいで何の罪もない人間が殺されたんだ。自業自得なんだよ。あの精霊だってわかっててお前に手を貸したのなら、きっと神獣に罰せられる」
怒りを含んだ冷たく厳しい声でイアンが言った。
「うー!」
(ルーは何もしていない!)
震えながらアシュリーは目で訴えようとする。自分がどんな状態かも忘れて、ルーヴィスを傷つけられたくない一心だった。しかし、何も伝わらない。痛みとルーヴィスが危険な目に遭っているかもしれないという恐怖で、頭の中が真っ白に塗りつぶされていく。
「しらばっくれるなよ! 魔力持ちを魔獣に喰わせたんだろう! お前もあの精霊も、正当に裁かれるんだ!」
――早く殺せ!
幻聴が聞こえた。ここではないもっと遠い場所で、実際に耳にしたことがある声だった。
また別の声が、どんどん重なっていく。魔女、お前のせいで、返せ。罵声が何百、何千とアシュリーに向けられていた。それをただ、無防備に受け止めることしができない。心臓が縮んでいくような感覚がする。
この先に起こることを、知っている。
アシュリーは恐怖で何も考えられなくなった。
パリンッと何かが弾ける音がした。




