237 信長公弟記コミックス1巻発売記念SS 松平元康
「信長公弟記〜転生したら織田さんちの八男になりました〜」1巻
秋田書店ヤングチャンピオンコミックス様より
6月20日発売となります!
書き下ろし小説「梅雨の日の遊び方」収録
喜六や市姫たちのほのぼのとした日常の一コマです。
よろしくお願いします!
永禄三年五月十八日。
織田方の兵糧攻めを受け身動きの取れなかった大高城は、今川義元の命を受けた松平元康――後の徳川家康――による兵糧入れの成功により、久しぶりの食事に沸き立っていた。
「元康殿、この御恩は一生忘れませぬ!」
今川義元より大高城の城代を任されている鵜殿長照は早速炊かせた米で握り飯を作らせ、小腹を満たしたところでやっと元康の元へと礼を言いにきた。
「腹が減っては戦はできぬと申しますから」
元康はそう言って、激戦だった戦の疲れも見せずにさわやかな笑みを浮かべる。
松平元康は三河国の土豪である松平氏の第八代当主・松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生した。
当時の三河は西は信長の父で尾張の虎と呼ばれる織田信秀、東は東海一の弓取りと呼ばれる今川義元に挟まれ、いつどちらに攻められてもおかしくない状況であった。
広忠がまだ若い事もあって家臣たちの造反もあり、難しい舵取りを迫られていた。
そして遂に猛将・織田信秀の大軍に攻められた際、広忠は今川義元に援軍を求めたので、嫡男の元康は人質として駿府に行くはずだった。
ところが元康の母・於大と離縁した広忠の継室・真喜姫の父である戸田康光が、元康を駿府に送り届けるのではなく、織田信秀に千貫文で売り飛ばしてしまったのだ。
元康はそのまま人質として、二年間、尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。
「いやしかし、元康殿もこれで枕を高くして眠れるというものですな」
「なぜそうお思いに?」
元康は出された白湯を飲んで、長照の兵糧攻めにあって少しやつれた顔を見つめた。
「なにせ織田は元康殿にとっては因縁の地ですからな」
「確かに二年ほどこちらで人質となっておりました」
「あの大うつけの相手は大変でござったであろう」
したり顔で頷く長照に、元康は笑みを浮かべたままで頷く。
人当たりが良いようでいて、心の中を見せない。元康の心の内を理解できる者は、そう多くはなかった。
長照も、元康の人の良さそうな笑みに口が軽くなる。
「これだけの大軍が相手では、織田ももう終いよ。なにせこちらは御屋形様が直々に御出陣くださっている」
「ええ、さすがに勝ち目はありますまい」
「御屋形様には元康殿の働きは良く言っておくぞ。ご安心めされ」
長照の母は義元の妹だ。
西へ支配域を広げたい義元にとって駿府から岡崎へと結ぶ途中にある長照の所領は、西進への要となる重要だったので、義元は妹を長照の父に嫁がせ縁戚とした。
それゆえ長照は甥として気安く義元に接する事ができている。
「ありがたい事です」
「それにしても、蟻の入る隙間もないほどの囲みをよくぞ破ってこられましたな」
「ええ。織田方の数が多く、兵糧を入れようとしても妨害されると思っていたのですが、斥候に行ったものから、織田方の動きを見ると我らを蹴散らせるほどの軍勢を揃えていないと報告を受けました」
「ほう。中々良い斥候を持っておられる」
その斥候の進言のおかげで兵糧を得る事ができた長照は機嫌よく頷く。
実際、大高城の食料は限界に達していた。
山野の草木の実を採取して、飢えを凌いでいたほどである。
「それで、丸根砦・鷲津砦の織田方を引き付けて戦っている隙に、兵糧部隊を四方から取り囲んで兵糧を大高城に運び入れるのに成功した次第です」
「見事な作戦でござった」
「いえ。それほどでも……。ところで、御屋形様より、鵜殿どのにはぜひとも一緒に戦って欲しいと伝言を預かっております」
「なに、御屋形様からか。だがそうするとこの城の守りはどうする」
「よろしければ私が代わりに城代をつとめましょう。御屋形様は、この城を立派に死守なさった鵜殿どのに目に見える手柄を立てる機会を与えたいと思っておられるご様子。ここはご遠慮なさらずに、私に後を任せて頂ければ」
長照は元康の提案に「ふうむ」と顎に手を当てて考える。
確かにこのまま城を守っているよりも、義元の隣で戦った方が華々しい活躍を望めるだろう。
もちろん大高城を守り切った功は評価されるだろうが、もし戦場で信長の首を獲る事が出来たならば……。
「しかしそれでは元康殿の手柄を横取りするようではないか」
「松平勢は、明日丸根砦に攻勢をかけます。こたびの兵糧入れと丸根砦の功績があれば十分でございましょう」
「なんとも欲のない事じゃ」
「三河の……」
「ん?」
小さな元康の呟きに、長照は身を乗り出してよく聞こうとした。
窓の外からは不思議なほどに音が聞こえない。
風の音も甲冑のぶつかり合う音も、不思議なほどに聞こえなかった。
だからだろうか。元康の声は長照によく届く。
「三河の安寧、ただそれだけを願っております」
「ほう、さようか。確かにこの合戦で勝利すれば、駿河遠江三河尾張の四か国は平和が訪れるだろう。その為にはこの鵜殿が御屋形様の助けになった方が良いと考えられたか」
元康はその問いには答えずに静かに微笑むだけだったが、長照は自分の良いように解釈してご機嫌だ。
「おお、そうじゃ。元康殿もお疲れであろう。明日の合戦に備えてゆるりと休まれるが良い」
「かたじけない」
そう言って去って行く長照の背を見送りながら、元康は懐から古びた竹とんぼを取り出す。
色あせた竹はあめ色になっていたが、大切に扱われていたのか壊れてはいない。
「さて、信長様は気づいてくださるだろうか……」
そう言って、元康はまた、あの感情を窺わせない笑みを浮かべた。




