冥夜のプチラスク【竜】
「この度……は……多大なる……ご迷惑を……おかけし……誠に……申し訳……」
青白い炎がぽつぽつと灯る冥界の奥底。ちろちろと燃える青白い炎はまるでここに堕ちた人たちの魂のように、ゆらりまたゆらりと身動ぎしているように揺れ動いている。明かりとしては心許ないのだが、そんな暗がりの中、生気のない女性の声が聞こえた。黒髪にすらりとした長身、少し垂れた目元にはばっちりとくまが浮かんでおり、あきらかに睡眠不足だということを物語っている。
名前はオルプネー。冥界の苦労人と呼ばれ、日々雑務に追われている。主に書類の作成や不備がないかのチェックを担っているのだが、その量が膨大で一枚処理すれば二枚増え、二枚処理すれば四枚増えといった具合に処理すればするほど山はうず高く築かれるという謎のルールがオルプネーの仕事に終わりがないということを静かに伝えていた。今日も今日とて、書類の処理に追われるオルプネーは誰かから贈られた胃薬を片手にうわ言を発しながら羽ペンを動かしていた。今、作成しているのは謝罪文書なのだが、本来はオルプネーが作成するものではなく、冥界の番犬と呼ばれるガルムが作成して当たり前のもの。しかし、待てど暮らせど本人からの謝罪文書がオルプネーの手元に届くことはなく、先方はかんかんに怒っていると知らせをうけ、オルプネーは悪くないのだがこうして謝罪文書を書かされているというわけだ。当の本人はというと、悪いことをしていたという自覚はうっすらとあるものの、その報告書を書かずお気に入りの場所で昼寝をしている始末だった。
「……はぁ。この謝罪文書、一体何枚目なのでしょう。悲しいことに書くことに慣れてきてしまいました」
重すぎる溜息を一つ吐きながら締めの言葉を紡ぐと、羽ペンを置きさらに大きな溜息を吐きながら軽く伸びをすると、オルプネーの机からなにやら一枚の紙がひらりと落ちた。なにかしらと思ったオルプネーはその紙を拾い上げ、中身を見ると「ひっ」と悲鳴を上げ紙から手を離した。支えがなくなった紙はまたはらりと落ちかさりと音を立てて地に落ちると、再び誰かに拾われるまでそのままの形を維持した。
「そ……そ……そんな……」
拾い上げた紙を見て悲鳴を上げたオルプネーは、頭を抱え机に突っ伏していた。さっき拾い上げた紙は、オルプネーの勤務表だったのだ。びっしりとかかれた丸の数を数えると、今日でちょうど三千個目の丸だった。それまで休むことなく書類の処理をし続け、オルプネーは気が狂いそうになっていた。
「……そもそも、なんでわたしばかりこんなに仕事をしなくてはいけなのでしょう」
そもそものことを考え出したオルプネーは、頬杖を突きながら一から原因を探ってみることにした。きっかけは、いつもガルムだった。半獣半人のガルムはあちこちで騒ぎを起こし、その謝罪をすることから始まった。それからというもの、ガルムの失態は続き、収まることを知らなかった。それに加わるようにいて欲しいときに限っていつもいないヘカテーの存在だった。ヘカテーとは冥界の王ハデスを激推ししている女神で、何かと理由をつけてはハデスのところに行こうとしてその妻であるペルセポネに追い払われるというのが日常。それでもめげないヘカテーは何度もハデスのところに向かっている間にオルプネーがいてほしいのが重なってしまい、結局その書類が後回しになり山が築かれていくという流れになってしまっている。
「……そうやって考えると、働いているのって……わたしだけじゃないですか……」
ぽつりと呟いたオルプネー。そうやって考えると段々腸が煮えくり返ってくるような強烈な怒りが込み上げてきた。ふつふつと湧き上がる怒りを燃やしている間、オルプネーの影からひょこっと現れた影蛇─シャドウワームは、オルプネーの足元に転がっている赤い宝石のようなものを見つけると、シャドウワームは何も考えずにそれを飲み込んでしまった。すると影で繋がっているオルプネーと連携し、オルプネーは抑えられない怒りが爆発した。その怒りはオルプネーの仕事場が一瞬で爆散してしまうほどの威力だった。その怒りの炎は赤くなく、むしろ白かった。
「な……何事だ!?」
自室で書物を漁っていた冥界の王─ハデスは強烈な揺れに反応し、周囲の警戒を始めた。長身痩躯のその身体その存在こそが闇かと思うほどの異様な雰囲気を身に纏い、抵抗力のない者の命を何もしないでも刈るほど強烈だった。何か野望を抱えていそうなその瞳にはゆらゆらと冥界の炎のような色をしたものがちろちろと燃えている。
まさか誰か攻めてきたのかと思ったハデスは書物をすぐに戻し、愛槍を召喚し構えた。しかし、いつまで経っても誰も攻めてくる気配はなく静かだった。
「……何事だったのだ」
警戒を解いたハデスは槍を収め、唸り声をあげた。しばらくして廊下からばたばたと足音を出しながら何者かがハデスの部屋の扉を乱暴にノックした。
「ハデス様。ご無礼を承知で申し訳ございません。大変でございます」
滅多に驚くことのない部下がこうも焦っていることに違和感を感じたハデスは、すぐに扉を開け中へと入れた。するとその部下はぜえぜえと息を荒げていた。これは一大事なのかと察したハデスは「どうした」と聞くと、部下は呼吸が整うのを待たずすぐさま事情を説明した。
「た……大変でございます。お……おおお……オルプネー様が……」
「なに? オルプネーが? どうかしたのか?」
「い……いいから、まずはオルプネー様の所へ」
「あ、ああ。わかった」
部下の言動に驚いたハデスは拒否する暇もなく、二人はオルプネーの元へと急いだ。
「これは……一体何が……」
「詳細はまだわからないのですが……さきほどの揺れを感じてきてみたら、こうなっていまして……」
ハデスが見たのは、昨日まであった冥界の地下の雰囲気とは程遠いものだった。崩落した地下は辺りは土煙で覆われ、青白い炎は今にも消えそうな程に揺れていた。そしてなにより、強大な圧を感じる。この先は……まさか。
「オレが見に行く。お前はここで待機だ」
「わ、わかりました」
ハデスは通れそうな瓦礫の間を縫うように進んでいくと、そこには一人の女性が遠くを見つめながら立っていた。その姿は間違いなくオルプネーのものだった。だがしかし、なんとなく雰囲気が違うことに違和感を感じたハデスは警戒をしながらオルプネーに近付いていく。一歩また一歩と近付くにつれ、何やら異様な気配を感じたハデスは、身内であるも気を抜けなかった。あともう少しで手が届きそうな距離まで近付いたハデスは、手が痺れるような感覚に襲われた。まるで手がオルプネーを拒絶しているかのようなそんな感じだった。
「お……オルプネー?」
絞り出すように発した声に反応はなく、ハデスはもう一声かけてみた。すると、オルプネーはゆっくりすぎるくらいにゆっくりと振り返ると虚ろな眼差しのまま不敵な笑みを浮かべていた。
「……」
「お……オルプネー。どうしたのだ?」
心配をしてかけた言葉が、オルプネーの気持ちのトリガーになり不敵な笑みから一変し怒りに満ち満ちた表情へとなった。
「どうした……ですって? 今更それを聞きますか?」
「な……」
今までに見たことのないオルプネーの表情に戸惑っていると、オルプネーはゆらりと体を動かしながらぶつぶつつぶやき始めた。
「前からずっと言ってたじゃないですか。どうしてこうも業務が滞ってしまうのでしょうか。滞ってしまうとこっちも困ると散々言ってきたのに。早く改善してってあれほど訴えてきたというのに……それを忘れているだなんて……あああああああああああああああああああああああああ!!」
喉が張り裂けそうな叫びとともに膨れ上がった怒りはその辺に転がっている岩をも容易く破壊し、次第にオルプネーの身体から怒りを表すかのような真っ赤なオーラが見えた。ふうふうと呼吸をするオルプネーの目は、睡眠不足とはまた違った迫力があり、冥界の王ですらも臆するほどだった。
「ああっ、もういいです! ああもうやってられません! みぃんな好き勝手してるんですから、わたしだって好き勝手していいですよね? ね?」
鬼気迫るオルプネーの表情に思わず目を丸くするハデス。同意を求められるも何とも返事のしように困ったハデスが何もしないでいると、オルプネーの怒りは益々高まり普段の彼女からは想像もできないくらいの怒鳴り声を上げた。
「もう、ぜぇええんぶぶっ壊してやります!!!!」
オルプネーが手をかざすと白い塊が浮かび、それは段々と大きくなりある程度の大きさになると勢いよく射出された。射出された先は……書類の山だった。白い塊が書類の山に命中すると、一瞬目の前が真っ白になったかと思うと遅れて紙が燃える臭いが鼻をついた。
「もうね、どうなったっていいんですよ!」
燃える書類の中には契約書や裁決書など色々混じっていたのだが、そんなことはお構いなしとばかりにオルプネーは書類の山を次々と燃やしていく。
「どいつもこいつもサボりやがって……クソ……クソッ!!!」
ついには普段言わないような言葉まで発するようになったオルプネーを、必死に抑えようとハデスは大きな声を上げた。
「おおお、オルプネー! おおおおお、落ち着くんだ。一体どういうことか説明してくれ!!」
ハデスの大きな声も今のオルプネーの耳は届くことはなく、オルプネーはぱちぱちと燃えていく書類の山を見てまるで焚火を見ているかのようなうっとりとした表情を浮かべていた。
「すべてを投げ出したら……こぉおんなにも楽になりましたぁああ……うふふふふ」
これではまずいと思ったハデスは、いよいよ自分の身になにがあっても構わないと決心しオルプネーの前に立ちふさがりさっきよりも大きな声でオルプネーに問うた。
「おおお、落ち着けオルプネー! 何が原因でこうなった……がはぁあ!」
「あっははあ! 消えちゃえ!!!」
オルプネーは目の前にいるのが冥界の王ハデスだと知ってか知らずか、冥界の王の頬に強烈なビンタを喰らわせるとふらふらと歩きながらどこかへと行ってしまった。ビンタを喰らったハデスはというと、目を回しながら気を失っていた。
「……ん。こ……ここは……」
「あら。気が付いたかしら?」
オルプネーが目を開けると、その先にはハデスの妻─ペルセポネが心配そうな表情をしながらこちらをみていた。そうだとわかると、オルプネーは「ひゃあ!」と大きな声を上げながらがばりと体を起こした。
「だめよ。そんな無理したら。まだ体は本調子じゃないのだから」
「……すみません。ここは……」
「ここはわたしの部屋よ。大丈夫。今はあたしとあなたしかいないわ」
そういえば天蓋付きの寝室なんてあったのか等と思ったオルプネーはまたゆっくりと身体をベッドに預けると、ふうと息を吐いた。
「お水でも飲んで落ち着くといいわ」
「……ありがとうございます」
冷たく冷えた水を受け取ると、ゆっくりと喉を鳴らしながら飲んでいく。半分くらいまであった水は空っぽになり、今度は安堵の息が漏れたオルプネーはコップをぎゅっと握りながら涙を浮かべていた。
「その……すみません……わたし……」
ぽたりぽたりとコップの中に涙が落ちていくと、ペルセポネは首を横に振りながらオルプネーを優しく抱きしめた。
「いいのよ。あなたが落ち着いたらでいいから、あたしに話してくれないかしら」
「……はい」
オルプネーの口から出たのは職場の不満だった。それもかなり前から訴えてきていたのだが、それが一向に改善されず放置されていたという。そして、今日まで無休で働き続けていたことに気が付き怒りが湧いてきて……そこからの記憶は曖昧だと締めた。
「なるほど。彼にもその話をしてたって言ったわね」
「はい……それも何度も訴えてましたが……」
「そう……それは申し訳なかったわ。代わりにあたしから謝罪させてもらうわ。本当に申し訳なかったわ」
「い……いえ。ペルセポネ様が謝ることでは……」
「いいえ。これは冥界を総べる者として。事態を把握していなかったこと、ハデスがそのことを知っていながら改善に尽力しなかったこと……他にもあるけど……。でも、この一言で済まされなのはわかっているわ。本当に申し訳ないわ」
「いえ……わたしも……」
「これはきっちりとしたけじめが必要ですね……なにか……あっ、そうだわ」
ペルセポネがドレッサーから何かを取り出し、それをオルプネーに手渡した。なにかがたくさん詰まった封筒のようなのだが……。中身を確認すると、そこにはびっしりとお金が詰まっていた。
「ひぃ……! こ……ここここれは……!」
「今まであなたが冥界のために働いてくれたお礼よ。……といっても、それだけではまだまだ足りないのだけど、ひとまず何も言わずに受け取ってほしいの」
「えええええっと……」
事務処理でも見たことないお金の束に目を白黒させるオルプネーに、ペルセポネは続けた。
「それとね、あなたには有給休暇を申請してほしいの。全然使えない状況だったから、たっぷり残ってるのよ。ひと月以上残ってるから、ぱーっとリフレッシュしてみてはどうかしら?」
「え……でも……仕事が……っ! うっ……頭が……!」
突然襲い掛かってきた頭痛に頭を押さえていると、ペルセポネはくすっと笑いながら話した。
「大丈夫。その辺は心配しないでいいわよ。だから、心おきなく遊んできてちょうだい」
「あの……本当にいいのですか? わたし、休んでいいのですか?」
「ええ。もちろんよ。うんと羽を伸ばしてきてちょうだい」
「あああ……ありがとうございますぅうう……ううううう……」
「辛かったわね。もう大丈夫よ」
「ペルセポネ様ぁ……」
オルプネーは子供のように泣きじゃくり、それを母親のようになだめるペルセポネ。ペルセポネはオルプネーが泣き止むまでずっとオルプネーの背中を優しくさすっていた。
「……では、行ってきますね」
「うん。いってらっしゃい。あ、お土産はいらないわよ。あなたが楽しむことが一番大事なのだから」
「わかりました。では、行ってきます!」
「行ってらっしゃい! 気を付けてね」
笑顔で見送るペルセポネ。有給休暇を消化する旅行へと出かけるオルプネーが見えなくなるまで立っていると、ペルセポネの背後からくぐもった声が聞こえた。それに反応することなく、ペルセポネは自室へ戻ろうとすると、くぐもった声は一つから二つ、二つから三つへと増えペルセポネに絡みついた。
「お願いだペルセポネ。どうか見逃してくれ」
「お願いですーー。もうしませんからー」
「このようなことは……二度と……!!」
ハデス、ガルム、ヘカテーが口々に言う言葉には耳を貸さないペルセポネ。そんな三人を無視して鼻歌まで歌っているペルセポネに何とかしてもらおうと訴えるハデス。それが功を奏したのか、ペルセポネの足が一瞬ぴたりと止まった。それをチャンスと見たほかの二人もなんとか説得できないかとあれやこれやと言葉を発するが、ペルセポネは表情を一切変えず口を開いた。
「このようなことが起きたのは、紛れもなくあなたたちのせいだというのに。本当に反省していますか?」
「も……もちろんだ」
「わかってます。わかってますってば」
「反論の余地もありません……」
三人がそれを認めると、ペルセポネは人差し指を突き出し「……まぁ、許さないというのも酷な話ですからね。その代わりにひとつ、条件があります」というと、三人は「本当?」と声を揃えた。
「ええ。とっても簡単です。それは……これです」
と言い、ペルセポネはうず高く築かれた山々を三人の前に出した。その高さに驚愕した三人の顔は急に青ざめ、言葉を失っていた。
「この書類をオルプネーが返ってくるまでに全部処理したら……許してあげます」
少しでもバランスが崩れれば雪崩が起きそうな書類の山は、それだけで存在感があり、息をするのも苦しいくらいだった。だが、この山々を処理していたのは何を隠そうオルプネーだったのだ。
「いやいや。終わるわけないでしょ。こんな山の書類」
「さすがにこれを片付けるのは……」
「これは……無理だ」
三人は弱音を吐いているのを見たペルセポネは「はぁ」と大き目な溜息を吐くと、心を鬼にして怒鳴った。
「あなたたち。ちょっとたるんでませんか? 今まであなたたちの代わりに仕事をしてくれていたオルプネーに面と向かって同じことが言えますか? これを彼女一人で処理していたのですよ? 休むことなく、サボることなく、ただ一人で黙々と!」
ペルセポネの訴えに三人はぐうの音も出なかったのか、ただただ押し黙ることしかできなかった。やがて諦めたのか、三人はがっくりと肩を落とし書類に手を付けると、ペルセポネは満足そうに笑みを浮かべながら部屋を出て行った。
「くそ……この書類の山……必ず終わらせてみせる……」
「えーと、あーもーわかんないよー」
「これは……ええい。期限が近いではないか!」
三人のために用意された部屋は怒号が飛び交っていた。そのためか、部下たちがその部屋を通過するとき身体が震えるほどの大声がたまに聞こえると苦情があったが、それは事情を説明するとみんな納得してくれた。ペルセポネは鼻歌を歌いながら自室に戻る最中、大事なことをいうのを忘れていたため、さっきの部屋へと戻り扉をノックした。
「誰だ」
「あたしよ」
「ぺぺぺ……ペルセポネ!」
「大事なことを言うのを忘れていたから、それを言いに来たのよ。ハデス」
「お、オレか? なんだ?」
「あなたのお小遣い、当分なしだから」
「なっ!!!」
「それじゃあ、頑張ってね」
静かに扉を閉めるのと、ハデスの顔から生気が抜けたのはほぼ同時だった。




