濃紺色のみぞれ大福【魔】
「~♪」
鼻歌を歌いながら床に届くほどの長い髪を丹念に梳く女性がいた。まるで夜空のような濃い青色の髪、雪のように白い肌に桔梗が描かれた浴衣に袖を通し、慣れない電化製品との格闘を終えた女性の名前はリャナンシー。普段は魔界の泉に住んでおり、そこに訪れる男性を誘惑し芸術や才能を授ける。リャナンシーからの愛を受け取った男性は自分の才能に目覚めるも、その対価としてリャナンシーに生気を吸われてしまう。つい数時間前も迷った男性を誘惑することに成功したリャナンシーは嬉しそうに頬を緩ませていると、リャナンシーの友人から人間界に面白い施設があるという話を聞き足を運んだ。
そこは温泉という大きな温かいお湯を楽しむことができる施設だった。初めて見る施設に戸惑いながら受付を済ませ、入浴セットを受け取り暖簾を払った。中はとても開放的でとても建物の中とは思えないほど広々としていた。
「こ……これは……」
思わず声を零すリャナンシー。初めての人間界ということもあってか、その衝撃は言葉を失うほどであった。
「お、驚いてばかりではいけません。と、とにかく……」
番号が書かれた箱のようなものに使い方がイラストで描かれており、それを倣いながらリャナンシーは浴場への扉を開けた。中は心地よい熱気に溢れており、まるであちこちに温かい泉がぽつぽつとあるようだった。リャナンシーはあまりの嬉しさに足取りが弾みそうになったが、足元が滑りやすい場所にあることを思い出し、その気持ちをぐっと堪えた。深呼吸し、また入浴に至るまでの順番がイラストで描かれた通りに事を済ませ、いざ初めての入浴。せっかくならばと外にあるお湯を試したいという気持ちがから、「露天風呂」と書かれた看板を通り抜けた。幸いなことに誰もおらず、それがまたリャナンシーの心を一つ跳ねさせた。用心深く足先でつんつんと湯面をつつきながら恐る恐る静かに湯の中に身体を沈めると、緊張感と安心感が口から勢いよく吐き出された。
「はぁ……なんて心地の良い場所なのでしょう……」
魔界では決して味わうことのできない湯の心地にリャナンシーは空を仰いだ。雲一つない空には小さな瞬きがあちこちと散らばっていて、最高の心地だった。
「湯加減も丁度いいし、お空もきれいだし……はぁ、なんて素敵なのでしょう」
すっかり温泉というものに心を奪われたリャナンシーは、今この時間を大事にしようとできる限り種類豊富な湯を楽しむことにした。
「ふう……少し調子にのってしまいましたわ……」
あれもこれもと色々な湯を試していると、さすがに湯あたりしてしまい涼しい場所で身体を休めていた。給水所もあり、小さな器に水を注ぎ口に含むと冷たい水が喉を通り過ぎ一瞬にして火照った身体を冷やしてくれているような感覚に陥った。
「……にしても……」
露天風呂の傍にあった椅子に腰かけたリャナンシーは、湯気に覆われる露天風呂を改めて見回した。最初は一人しかいなかった浴場だったが、今は数多くの人で賑わっていた。その誰もが幸せそうな笑顔で溢れていて、それが嬉しくなったのかリャナンシーもつられて笑みが零れていた。
「うふふっ。魔界にはない幸せな光景もたっくさん見れましたし、そろそろ帰ろうかしら」
程よく火照りも冷めた頃、リャナンシーは大きなタオルで身体を包み雫を拭き取っていく。どうしても拭き取れない部分─自慢の髪をどうしようかと辺りを見回すと大きな鏡台の前に黒い筒状のものがあった。これも例に倣って動かしてみると、どうやらその筒状から吹き出る熱い風で髪を乾かすものらしい。
「えっと……こ、こう……? かしら??」
見慣れない道具に苦戦しながら、なんとか自慢の髪を乾かすことができ一安心したリャナンシーは、今度は丁寧に髪を梳き始めた。梳きながらリャナンシーは鏡台に写る自分に返事をした。
「……そうですわね。定期的にここへきてリフレッシュするのもよさそうですね」
恋人を待つのもいいけれど、こうして温泉という魅力にどっぷりと浸るのもいいと思ったリャナンシーはふと考えた。自分が相手を魅了しているのと、ここで温泉の魅力に浸ったときは同じではないか……と。
「……ふふふ。わたしもすっかり魅了されてしまいましたわ。こういう感覚なのかもしれないですわね」
魅了される感覚を自身でたっぷりと実感しながら、リャナンシーは女将に入浴セットを返却し出口へと向かった。艶々の髪をたっぷりと揺らしながら。




