エピローグ:渋崎の霧の向こうに響くこだま
#涙腺崩壊 #家族愛最後
までお付き合いいただき、心から感謝します。これは、残された者たちの物語です。
2019年、5月。
POV : 古戸波 しおり
あの霧がパパを連れ去ってから、十一年が過ぎた。
私はまだ少し着慣れない高校の制服に身を包み、六渡野林檎園の門の前に立っている。諏訪湖から吹いてくる春の風が私の髪を揺らし、あの木箱の中の古いビデオテープから流れていたのと同じ、林檎の花の香りを運んできた。
パパの言った通りだ。林檎の花は、痛々しいほど赤く染まる前は、いつもこんなに真っ白なんだ。
私は園の隅にある古い木へと歩み寄った。その逞しい根の下に、ママはパパの遺骨の一部を埋めた。私はそこに膝をつき、首から一度も外したことのない銀のネックレスに指を触れた。
「Anakku sayang.(愛する我が子へ)」ペンダントの裏に刻まれたその文字を読むたび、パパの掠れた声が聞こえてくるような気がする。
「パパ、私、高校一年生になったよ」
私は風に向かって静かに呟いた。「農学部に進んだの。たとえ育ての主が呼吸の仕方を忘れてしまっても、この木たちが実を結び続けられるように、その方法を学びたくて」
パパの最期の姿を思い出す。パパはただ虚ろな目で私を見つめるだけで、私が自分の娘だということさえ分からなくなっていた。けれど、そんな空白の中でも、私が林檎を一切れ差し出すたびに、パパの表情にはいつも微笑みが浮かぶ隙間が残されていた。
それが、パパが人生を通して私に教えてくれた最初の教訓だった。
記憶は消えてしまうかもしれない。けれど、愛は体の細胞の一つ一つに刻み込まれた本能なのだ。誰かを愛するのに脳はいらない。かつて幸せを感じたことのある魂さえあれば、それでいい。
私は、黄色く色あせ始めたパパの小さなノートを開いた。そこにはこう記されている。
『愛するとは、単に寄り添うことだけではない。自分が亡き後も、彼らが大丈夫でいられるようにすることなのだ』
私は目を閉じ、この肥沃な土の上に涙がこぼれるままにした。
(パパ、あなたは一度も、本当にどこかへ行ってしまったことなんてないんだね)
震えながらも、確かな自分の心の声が聞こえた。(あなたは、十一年前にはっきりと折ってくれた「枝」そのものなんだ。私とママが悲しみの中で迷子にならないように遺してくれた、道しるべ。この園の林檎が赤く染まるのを見るたび、私はパパの血を、努力を、そしてどんな言葉にも翻訳できない愛を感じるよ)
世界はこれを悲劇と呼ぶかもしれない。異国の地で、記憶を失って死んでいった一人の男の物語だと。けれど私にとって、パパは勝者だ。パパは自分の頭の中の暗闇と闘い抜き、私の未来を明るく照らしてくれたのだから。
「喪失は、ただの空っぽなブラックホールじゃない」
私は立ち上がり、果てしない諏訪の空を見上げて呟いた。
「喪失とは、去っていった人よりも立派に生きるという責任で満たされた、大切な場所なんだ。私はパパの遺産。私は、時を超えて今も綴られ続けている、パパからのラブレターなんだよ」
私は背筋を伸ばし、しっかりとした足取りでその園を後にした。孤独だなんて思わない。長野の風が吹くたびに、今の私なら痛いほど理解できるあの言葉を、パパが囁いてくれているのが分かるから。
その言葉とは、「慈しみ」という名の愛だ。
(完)
エド、あかり、そしてしおりの旅路を最後まで見守ってくださり、本当にありがとうございました。
忘れ去られていくことが多いこの世界で、この物語が『真実の愛は、どんなに霧が深くても、決して迷子にはならない』ということを思い出すきっかけになればと願っています。




