第八章 ふたりの明日に椅子が足りない
未来の話をすると、人は少しだけ本性に近づく。
八冊目のノートが始まったころ、
私たちはもう恋人らしいことを一通り知っていた。
手をつなぐこと。
キスをすること。
帰り道に遠回りすること。
相手の機嫌を文字の濃さで読むこと。
会えない日を数えること。
会える日のために、他のすべてを後回しにすること。
けれど、未来の話だけは、まだ下手だった。
三年生の秋。
教室の空気は急に現実的になった。
進路希望調査。
模試の結果。
内申点。
担任の口調まで、少しずつ冷たくなる季節。
女子たちは同じ高校へ行けるかで騒ぎ、男子たちはまだ笑っていた。
笑っているふりをしていたのかもしれない。
彼は、勉強ができた。
努力家というより、黙って点を取る種類の人だった。私は平均より少し上くらい。
頑張れば届く場所と、頑張っても届かない場所の違いを、その年初めて知った。
「どこ受けるの?」
図書室で小さく聞くと、彼は参考書から目を上げずに言った。
「まだ決めてない」
「でも、○○高って噂」
地元で一番ではないが、二番目に難しい進学校だった。
「誰が言ってたの」
「みんな」
彼はそこで初めて私を見た。
「なぎさは?」
「△△女子かな」
短大の附属校。
家から近く、制服もかわいかった。
彼は少し黙った。
「ふーん」
その返事を、私は知っていた。何かを飲み込んだ音だ。
その日のノートには、何も進路のことは書かれなかった。
代わりに、こうあった。
―今日、図書室で髪しばってたのかわいかった。
私は安心した。話題が変わったことに。
恋人同士は、都合の悪い沈黙を
やさしさと勘違いすることがある。
十一月の雨の日、私たちは駅前の喫茶店へ入った。
制服のまま、二人で店に入るのは初めてだった。
窓際の席。
曇ったガラス。
ミルクティーの湯気。
少しだけ大人になった気がした。
「高校行ったらさ」
私が言った。
「うん」
「制服デートとかできるね」
彼は笑わなかった。
スプーンでコーヒーを混ぜながら、
カップの底を見るように言った。
「もし別の学校だったら?」
「え?」
「会う時間減るじゃん」
「でも、会えるよ」
「なぎさはそう思うんだ」
責める声ではなかった。
責めない声ほど、人を追いつめる。
「じゃあ同じとこ受ければいいじゃん」
言ってから、自分でも幼いと思った。
彼は苦く笑った。
「なぎさ、それは無理だって」
無理。
その二文字が、雨より冷たくテーブルに落ちた。
頭の良さ。
家の期待。
将来。
学費。
私はそのどれも、まだ恋より下に置いていた。
彼は違った。
その帰り道、手はつながなかった。
傘の端だけが時々触れた。
八冊目のノートには、初めて空白のページができた。
返事が一日遅れ、
次は二日遅れた。
待つことには慣れていたはずなのに、
理由のある遅れは、理由のない遅れより怖い。
三日目に返ってきた文字は、整いすぎていた。
ーごめん。勉強してた。
私はそれを何度も読んだ。
勉強してた。
たったそれだけなのに、
私は初めて“恋より大事なもの”の存在を知った。
悔しかった。
勉強に嫉妬するなんて、馬鹿みたいだと思った。
でも、嫉妬とはたいてい、自分にないものへ向かう。
私はその夜、珍しく長文を書いた。
ー私もちゃんと勉強する。
ー同じ高校いけたらいいなって思ってる。
返事は短かった。
ー無理しなくていいよ。
やさしい言葉だった。
でも私は、そのやさしさの中に
線を引かれた気がした。
十二月、三者面談の日。
母は来なかった。父は日にちを間違えたと言った。
担任と二人きりで進路の話をした帰り、
下駄箱に八冊目のノートが入っていた。
最後のページに、彼の字。
ー俺たち、同じ未来じゃなくても平気かな。
私はその問いに、すぐ答えられなかった。
平気じゃない。
でも平気じゃないと言ったら、
何かが壊れる気がした。
だから、五分ほど考えてから書いた。
ー平気だよ。好きなら。




