第七章 救いに似た支配
人は、逃げ場だった場所に長くいると、そこを家だと勘違いする。
七冊目のノートが始まったころ、私は彼の中に住み始めていた。
朝、目が覚めると最初に考えるのは彼の機嫌だった。
昨日の返事はそっけなくなかったか。
最後の句点に怒りは混じっていなかったか。
今日の昼休み、図書室に来るだろうか。
学校へ行く理由の半分は、もう勉強ではなかった。
家では、父が新しいトレーニング器具を居間に置いていた。
邪魔だと言うと、「身体を鍛えろ」と笑った。
母はその横で、私の茶碗だけ米を少なくよそった。
理由はない。
あの人には、理由のない冷たさがよく似合う。
私は食卓で黙っていた。
何か言えば負ける気がしたし、言わなくても負けている気もした。
学校へ着くころには、もう息がしやすくなる。
昼休みの図書室。
窓際の席。
古い百科事典の匂い。
ページのめくられない本。
彼は先に来ていた。
「おはよ」
昼なのにそう言う。
「おはよ」
私もそう返す。
この人といるときだけ、
言葉は意味より合図になる。
彼は机の下で、私の指先に触れた。ほんの一秒。
でもその一秒で、朝の食卓が遠い国になる。
救われる、と思った。
たぶん恋ではなく、先にそう思った。
放課後、校舎裏で初めてキスをした。
唇が触れたかどうかも曖昧なくらい短かった。
互いの鼻が邪魔で、角度が分からず、二人とも笑ってしまった。
「下手」
私が言うと、彼は珍しくむきになった。
「次はちゃんとする」
その“次”があることに、私は胸が熱くなった。
帰宅すると、母が言った。
「最近機嫌いいね。気持ち悪い」
私は靴も脱がずに自室へ入った。
七冊目のノートを開く。
―今日の、もう一回したい。
私は布団に顔を埋めて笑った。
―私も。
その二文字を書く自分が
昼間より少し大胆になっているのが好きだった。
文字の中では、私は怖くない。
数日後、彼はこう書いた。
―なぎさって、家で何してるの?
私は少し迷ってから書いた。
―べつに。普通。
普通ではなかった。
父は帰らない日が増えていた。
母はそのたび機嫌が悪くなり、皿を置く音だけ大きくなった。
夜中、台所で二人が言い争う声を何度か聞いた。
不倫という言葉を知ったのも、そのころだ。
でも、彼には書けなかった。
かわいそうな家だと思われたくなかった。
捨て犬みたいな女だと思われたくなかった。
翌日、彼はノートに書いた。
―うち来る?
私は何度もその一文を読んだ。
たった三文字なのに、
鍵の開く音がした。
土曜の午後、私は彼の家へ行った。
母親は仕事で不在。
父親は単身赴任中だと聞いた。
リビングには観葉植物があり、台所には果物の匂いがした。
誰も怒っていない家の匂いだった。
私はそれだけで泣きそうになった。
「ジュース飲む?」
彼が冷蔵庫を開ける。
「うん」
「オレンジでいい?」
「うん」
選ばせてもらえることに、少し驚いた。
ソファに並んで座る。
テレビの音は小さい。
時計の針だけがやけに聞こえる。
彼が肩を抱いた。
私は抵抗しなかった。したくなかった。
この腕の中にいるあいだ
私は誰かの失敗作ではなくなれる気がした。
「なぎさ」
「ん?」
「俺が守るから」
その言葉は、
十五歳の私には衝撃だった。
守る。
そんな単語、家には一度もなかった。
私は泣いた。
泣くつもりなどなかったのに、涙だけ先に理解していた。
彼は驚いて、背中をさすった。
「ごめん、なんか変なこと言った?」
私は首を振った。
違う。
変なのは、こんな言葉ひとつで救われる私の方だった。
その帰り道、夕焼けの中で手をつないだ。
前より自然に。前より深く。
七冊目の最後のページに、彼は書いた。
―なぎさは、俺がいないとだめだと思う。
私は少しだけ引っかかった。
でも、その小さな違和感より、
必要とされる甘さの方が強かった。
だから私は、こう返した。
―そうかもね。




