幸せモノ
アラリスはネットワークを通して何度も流川綺羅が作る世界を覗き見していた。
ウィルス検知ソフトもファイアーウォールもないが、アラリスはその世界に足を踏み入れたくなかった。
踏み入れた瞬間、きっと世界に取り込まれて抜け出せなくなる。力及ばずではなく、自分の意思で甘受してしまう。
そう思えるほど流川綺羅が望む幸せしかない世界は眩しかった。大好きな姉のクラリスは存命で、アダムスとして笹塚未来とも口喧嘩しつつ良好な関係。
誰も恨まず、憎まず、殺意を抱くことも抱かれることもない。最強のウィルスであるAliceとデータとして融合することもない。
自分のままで幸せに生きられる。優しすぎる世界はアラリスにとって楽園のように見えた。
同時に気付く。この幸せな世界を覗くいくつもの視線に。悪意や好奇心など様々だが、気持ちのいい視線ではない。
ウィルス検知ソフトもファイアーウォールも備えていないなら仕方ないとアラリスは思う。
システムエッグと流川綺羅の脳の間で通信を行っているため、どうしてもネットワーク介入が必要となる。
なによりジョージ・ブルースは見せつけたいのかもしれない。こんな世界を作れるのだと。
自分は優秀で発想力も高く、実現できる力を持つ。自己顕示欲が垣間見えてアラリスはうんざりする。
しかし伊達に長く生きているわけではないらしい。人の弱みに上手く取り入ったものだ。
人は幸せに目を向ける。笑顔が人を惹きつけるように、不幸からは目を背けるように。
アラリスはそれが嫌というほどわかる。幸せな未来だけを夢見て、全てをふいにするほどのミスを犯したから。
誰だって幸せだけ見れるなら、そちらを選ぶだろう。嫌な物なんて見たくない。
<幸せ……かぁ。抗えないなぁ>
青い空が輝く偽物の世界に背を向けて、アラリスは口惜しそうに呟く。
もし少しでも作られた世界に不幸があれば、誰も巻き込まずにウィルスの力で引きずり出せたかもしれない。
世界が流川綺羅の理想と違っていたら、そこにつけこんで引きはがすことが可能だっただろう。
だが抵抗する意味がない。死のうとした少女は誰も死なない、死ななくていい世界を作った。
幸せなまま構築されて、幸せなまま消えていく。逆転は起こらない。
もしこのまま見ているだけだったら、の話だが。
豊穣雷冠は能力を活用して、ネットワークに介入する技術の向上を図っていた。
力尽くの逆探知にデータの関与、電気に関することなら無敵だが、無敵であるがゆえに繊細さが足りない。
大量の電気でブレーカーを落とすに近い事態になった際、電脳世界には干渉できなくなる。
だが大雑把な性格で人間兵器として全てを蹂躙する目的で育てられた少年には、かなり難しい話である。
今も瞼を閉じて集中し、アンロボットである柊と楓の通信機能を操作する方法を身に着けようとして失敗している。
柊と楓は頭に衝撃を受けたように体を揺らした直後、派手な音を立てて床に転がる。
クラカという金髪が美しい少女の姿をしたアンロボットは、食べる必要のない煎餅を齧りながら味気のない感想を零す。
「不器用ですね」
「っだぁあああああああああああああ!!俺様は破壊工作なら大得意なんだよ!!」
それはそれでどうなのだろうかと思いつつ、時永悠真は扇動美鈴と玄武明良と一緒に、倒れた二体のアンロボットの上体を起こす。
求道哲也は豊穣雷冠の後ろで哲学書の分厚い本を手に、本の角を視界の端にちらつかせる。馬鹿なことをしたら制裁するという威嚇だ。
雪が降り積もる北エリアの玄武明良の家では、来るべき事態に備えて最も戦力になるが、ごり押ししか能のない少年を鍛えていた。
「美鈴、明良くん。少し休憩したらどうだい?根を詰めては雷冠くんもさらに大雑把になってしまうだろう」
優しく声をかけてきた扇動岐路の顔は酷い様相だ。実際の年齢よりも十歳以上に老けて見える、死相が浮き出た表情だ。
額には熱に効果的な科学的に冷やしたシート、頬はこけており、目の下には濃いクマが痛々しいほどである。
扇動美鈴はそんな父親の顔を見てうっかり持ち上げていた楓の頭を再度床に落としてしまう。玄武明良は盛大なため息をつく。
「おっさん、我が身を見ろ。そんで寝ろ」
「い、いやでもアンドール二世代機の開発が……アニマルデータに対応し、最初から発声機能をつけた正式試作品発表会まであと……」
「プログラミングはおっさん。CPUや回路の設計は俺だろうが。プログラミングは九割はできてるんだろう」
「うう……そうなんだが、残りの一割。何かが決定的に足りない気がするんだ」
現在のアンドールというぬいぐるみのようなロボット、第一世代は青頭千里の会社BlueBloodが開発と生産を手掛けている
御堂霧乃の父親である御堂正義が運営し、扇動岐路が所属している会社CROWCROWNは販売など多くの主導権を握っている。
だが青頭千里はマスターという科学者と手を組んで、密やかにアンドールをアニマルデータに対応させ、発声機能も隠しつけていた。
もしかしたらそれ以上の機能が付属されているかもしれない。そう考えた御堂正義は扇動岐路に第二世代の開発を持ちかけた。
アニマルデータが世間に認知された今だからこそ、それに対応した新しい動物の姿をしたロボットを。
未来に生き延びるためデータになった古代人達のため、少しでも現代を生きる人にとって親しみやすくなるように。
「CPUの容量拡張機能にさらなる通信機能の向上、お子様にも安全なGPSやネットワーク対応速度……だがなんか違う、違うんだよぉおおお……」
「おっさん。寝ろ」
「ロボットとしては申し分ないほどの機能に今度はバイリンガル機能まで付け加えた上に、以前よりもそういったオマケ機能の容量圧迫軽減にも成功したのに……」
「おっさん」
「アニマルデータのために現代の文化知識も備え付けておきつつ、消失文明の名残を教えるためのデータバンクの増築や……」
「ふんっ!!」
気合を入れた短い発声直後に、扇動岐路の腹に拳をめり込ませて無理矢理昏倒させた玄武明良。
扇動美鈴はこれで三度目か、と慣れた目で倒れた父親を眺めている。ちなみに四日に一度の頻度である。
時永悠真に起こされた柊は、無言で倒れた扇動岐路を確認、すぐに優しく抱え上げて寝室の布団まで運んでいく。
「岐路博士は相変わらず自分を追い詰める人ですね。明良さんがいて良かったです」
「煎餅食べこぼしながら喋るなクラカ。つーか、ロボットのくせに所帯じみすぎてないか」
「いいことではないでしょうか。人間らしさを追求した結果のロボットである私ですから」
「そうだな。で、今のはまっているジャンルは?」
「韓流ドラマと土曜日夜九時の昔懐かし漫画の実写ドラマです。ストーブ前でアイス食べながら見ると楽しいです」
返ってきた答えに玄武明良は頭痛が起きそうになる。クラカは人工知能で、魂を持たないデータの一つである。
扇動岐路が死んだ娘のために作ったロボットに入れたデータで、魂や感情は存在しないはず。
だが何かをきっかけに少しずつ人間に近づこうとして、よくわからなくなってきているロボットでもある。
「なんにせよこれ以上は柊と楓CPUにも影響があるでしょう。休憩を私からも所望します」
「おー、わかってんなー!というわけで休み!俺様は昼寝を……」
「お前は反省会だ、馬鹿」
「いやあぁあああああ、哲也の反省会は理屈ばっかりで頭痛くなるんだよ!助けてくれ悠真!」
「僕には無理な予感がするからごめん」
「悠真ぁああ……」
賑やかな会話を背景に、楓は疲れを微塵も見せずにお茶菓子の用意を始める。
玄武明良はあまり甘い物を好まないため、サンドイッチで具を変える手法を披露する。
扇動美鈴も一緒に用意しようと近寄るが、未来の主人に雑用を任せることはできないと楓は丁重にお断りする。
クラカは煎餅を食べ零しながら、どうりでクローバーが何もできない大人になるわけだと納得した。
アンロボット達が創造主を甘やかした結果、家事ができたはずの少年はなにもできなくなる。
気を使うと言うのも考えものだと計算し、クラカは一切手を出さないまま眺めている。
言われれば動くが、言われなければ手伝わない。それが現在のクラカというアンロボットである。
ロボットの基本として命令や指示がなければ動かないように、感情を持ったとはいえクラカはいまだロボットに近い存在である。
だからと言って暇な時は自分の意思で動くという特異性。今も煎餅の袋の封を綺麗に閉めて湿気らないようにしている。
「扇動博士は布団に安置してきました。ついでに執事の田中さんから頂いたアロマも焚いて、安眠促進です」
「ほほう?で、それは誰の配慮からだ?」
「明良さんの許嫁である早紀さんが、もし徹夜続けていたら無理やりにでも昏倒させておいて、という配慮からです」
扇動美鈴がそれは秘密事項と注意する前に、柊は全てありのままを話してしまう。
玄武明良という少年も引きこもり生活の末に、昼夜逆転した生活が身に沁みついている。
それを案じた少女のお願いと、少女に仕える執事の配慮は秘密裏の物だったのだが、あっさりとばれてしまう。
こめかみをひくつかせた玄武明良は、すぐさま受話器片手に怒鳴る準備を始める。
余計なお世話せずとも今はアンロボットに囲まれており、無茶なことはできない。
なによりロボット三原則において、ロボットは人間に危害を加えられない。矛盾した命令を出すなと悟らせようと考えての行動だ。
「明良さん。ちなみに昏倒の役目を請け負ったのは美鈴さんです。スタンガンを楓から渡されております」
「んなっ!?」
「ああ、柊さん!喋りすぎですよ!?」
「しかしこうでもしないと早紀さんに余計な疑いがかけられますから」
表情を作れる機能があるはずだが、楓や柊は基本無表情だ。今も淡々と唇だけを動かしている。
扇動美鈴は冷や汗だらけの顔で、無茶をしなければなにもしません、としどろもどろに答える。
苦い顔をしつつも玄武明良は受話器を置いて、片手を扇動美鈴に差し出す。
つまりは隠し持っているスタンガンを出せ、という無言の要求である。
左右に視線を巡らせた扇動美鈴は、数歩下がった後に体の向きを反転させて廊下を走り出す。
スタンガンの隠し場所に向かったと推察した玄武明良は急いでその後を追う。
まるで本当の兄弟のように口喧嘩する二人の声を聞いて、クラカは密かに玄武明良のデバイスを借りてあるデータを呼び出す。
画面に現れたのは愛らしいツインテール少女の姿をした、生まれ持った性別は男のアラリスである。
その顔は聞こえてくる玄武明良と扇動美鈴の賑やかな声を聞いて、苦い顔をしている。
「どう思います?美鈴さんはともかく、明良さんにあの世界に触れさせるということ」
<やばいんじゃない。ある意味あの世界を一番渇望している奴だもん>
「そうですね。いえ、あの世界を望まない人はいるのでしょうか。私には、いまだよくわからない」
<……クラカは扇動涼香に会いたい?>
「会いたいです」
即答された内容にアラリスは苦い顔を消さないまま、鼻で笑う。
感情が乏しいロボットでさえ望む物が存在する世界。一週間とはいえ、全て満たされる。
それが例え現実時間の秒単位でしか再現されないとしても、魅力的すぎる。
「でも」
<……?>
「私が会いたい涼香は、誰かの脳内で構築された紛い物じゃないです」
続いて返ってきた言葉に、アラリスは瞠目する。
ロボットがそんなことを言うとは思っていなかった。これは進化なのか、変化なのか。
捉えられないままアラリスは歯を見せて笑う。生身の頃に感じた胸の奥から込み上げるような感情。
汗が噴き出て足が震える、興奮状態。それをデータとなった今でも味わえるとは思えなかった。
アンドールでは涙を流したり、汗を出すことはできなかったため、久しぶりすぎて最初は何が起きているか把握し切れていなかった。
同時に扇動岐路が悩んでいた一割に辿り着いたことに、アラリスは気付かないままクラカに声をかける。
<じゃあ、もう二度と涼香に会えないね>
「そうです。でも涼香の繋がりが私の周囲を満たしてくれます。明良さんに美鈴さん、扇動博士に……貴方」
<僕を入れるか>
「ええ。皆さんに出会えたことが私をロボットではない、なにかにしてくれる。だからこう思うのです」
一拍置き、微笑みを浮かべてクラカは答える。
「自分は幸せ者だと」
ある未来世界、複数ある可能性の一つ。脳味噌だけのクローバーに通信が入る。
それもまた同じ可能性の一つ。ある未来世界のクローバーが違う自分自身に宛てたメール。
おかしな事態に脳味噌は動揺しない。することができない。だが感じ取ることはできる。
<この座標は、僕がこんな体にならなかった可能性の世界ね。狭間座標じゃなくて安心したよ>
独り言を呟くように、意味もなく画面に文字を表示させて自分の言葉を並べるクローバー。
白い部屋の中には溶液に満たされたガラスケースと脳味噌、そして保存するために備え付けられた機械の数々。
それ以外は排除されている。誰もこの部屋には近づかない。ただし脳味噌が機械を操作して作り上げたロボット以外は。
かつては柳というロボットに海林厚樹というデータを入れ、タイムマシンで過去に送りつけた。
赤い結末を変えるために。こんな馬鹿みたいな未来がやってこないようにと願い、脳味噌は静かに生き続けている。
そんなことしかできない脳味噌になんのようだと、届いたメールを開封して読み上げる。
こんにちは。脳味噌でしかない僕よ。
君が送り付けた海林厚樹、マーリンはジョージ・ブルースの手の中に落ちました。
おかげで一番難しかった問題が解決できそうで、僕は大変喜ばしく思っています。
しかしながら青い血は一筋縄ではいきそうにない。人間に一番傍に寄り添う人外は、憎たらしいほどこちらを理解している。
幸せな世界、青の魔女協力の元に作り上げられた完璧な世界、そんな歪んだ物を受け入れて放さない女性。
もはや僕達、いえクローバーとなった僕達にできることはないでしょう。そこで提案があります。
貴方には体がない。既に意識体のようなものだ。ならば世界の狭間に向かってくれないだろうか。
青い血が入り込めず、魔女もその狭間の一部でしかない、様々な世界の要因が集まる不可侵の領域。
そこの住人になってくれないだろうか。もちろん君には拒否権がある。
君だってあんな場所には行きたくないだろう。僕だからこそ、その気持ちは一番わかる。
でもクローバーという存在が狭間の住人になることで、もしかしたらできることがあるかもしれない。
世界の狭間によって救われる人がいるかもしれない。なにより狭間の住人には時間も空間も凌駕できる。
星の大きさや形がそれぞれ違うように、世界の形や大きさも違う。時間と空間によって密集した世界の集まり、その中にできた隙間。
狭間。そこからできることが、そこでしかできないことがあるはずなんだ。お願いだ、赤い結末を眺めつづけた僕よ。
助けてほしい。終末に立ち向かう子供達のために。
数時間後、白い部屋の脳味噌は生存機能を自分から手放し、ただの肉塊となる。
魂があったのか、消えた意識はどうなったのか。誰もが、決意した一つの意思が向かう先を知らない。