水曜日の約束
葉桜哉子は幸せな人生を歩んでいる老婆である。今も家の縁側で一生を添い遂げるであろう老人とお茶を飲んでいる。
戦後まもなくに生まれ、動乱の時代を生きてきた。そんな中で出会った男性は穏やかで、愛しい人として結婚した。
二人の娘も健やかに育ち、自分と同じように愛しい人を見つけ、子供を産んだ。
一人は皆川家に。もう一人は流川家に。二人も共に娘を産んだ。
ただし孫の一人はバスの事故に巻き込まれ、一人は危うく地底遊園地の中で閉じ込められそうになった。
皆川万結は葉桜哉子の前で笑っている。しかし流川綺羅は現在病室で眠り続けている。
葉桜哉子は孫のお見舞いのために、NYRON郊外の特別病院に足を運ぶ。
その手を握るのは流川綺羅と年が離れた従妹の皆川万結だ。腕の中には最近買い与えたアンドールというロボット。
流川綺羅には他にも兄弟がおり、両親は娘の入院費や他の子供達の養育費のために身を粉にして働いている。
あまり病院へ様子を見に行けないと悩んでいる娘のために、葉桜哉子が孫の散歩という名目で病院へ向かう。
もちろん途中までは電車を使う。手には庭にある木からもぎ取った新鮮な蜜柑。甘くて美味しいと皆川万結は大絶賛してくれる。
よく電車の中で子供を見かけると思わず渡してしまうので、少し多めに持っていくのだ。昔もある仲の良さそうな兄弟に渡した覚えがある。
しかしこれは流川綺羅に渡すものではない。彼女は眠り続けている、その傍に待ち続けている者がいる。
十年以上前の約束を守ろうと律儀に待っている青年。本当は自分も辛いはずなのに、耐え続けている。
そんな彼に渡すための蜜柑なのだ。ぜひ職場の皆さんと食べてくださいと感謝を込めて渡すのだ。
白い病室を埋め尽くすような機械、清潔な寝台の上に身を横たえる女性。
それを見て金龍のアンドールである狭間進歩は驚いていた。これは偶然と呼んでいいのだろうかと悩んでいた。
青い空の下で片思いをしていた少女は、今では立派な女性の姿に変わっていた。しかし目覚めない。
そしてもう一人。看護師の服を着た男性。日焼けの消えた肌だが、健康そうな青年だ。
成長しても変わらない面影も見覚えがあった。狭間進歩が絶対に忘れられない友達の姿だ。
ただし表情はデータ上とは違い、大人しく陰のあるものだった。少し疲れているように見える。
「こんにちは、葉桜さん。万結ちゃんも、とうとうアンドール買ってもらえたんだね」
「うん、ムーくんっていうの!」
「そうかい。よろしく、ムーくん」
好青年の笑顔を間近に見てしまい、少しだけ首を動かして顔を遠ざける狭間進歩。
ムーくん、というのは皆川万結が狭間進歩につけた唯一のあだ名のようなものだ。
それを得たことによって狭間進歩は、少しだけ解放された気分になっていた。
しかしよく見知った相手にそのあだ名で呼ばれるのは複雑だった。しかし狭間進歩と名乗ることはできない。
狭間進歩という名前は十年以上前に死んだ少年の物だ。データ名として名付けられた故にムーくんはそれが自分の名前ではないと思い始めている。
なにより今目の前にいる実畑八雲の死んだ友人の名前など、気軽に出せるものではなかった。
「八雲くん、綺羅ちゃんは……」
「いつも通りです。もし目覚めたら速攻電話しますから安心してください」
「そうね。毎日ありがとう。はい、蜜柑」
「わぁ!ありがとうございます!おばさ、いや葉桜さんの蜜柑大好きなんです!」
「もう、おばあちゃんでいいわよ!」
和やかに談笑する二人など気にせずに皆川万結は寝台で眠り続けている女性の顔を覗きこむ。
安心したように寝ている横顔は整っており、だが生気がない。死んでいると言われたら信じてしまいそうなほどだ。
皆川万結はカメラのシャッターのように何度も瞬きするが、なにも出ることはない。
同じように狭間進歩も流川綺羅の顔を覗きこむ。全てが消える日曜日、最後に見た彼女は脳味噌だけだった。
あの時は意味が分からなかった。しかし周囲の機材や青頭千里から教えられたことを組み合わせた今ではわかる。
流川綺羅の脳味噌は電脳の中に世界を作るために利用されている。何度も終末を繰り返す、幸福しかない世界のために。
ジョージ・ブルースの個人的な理由のためだけに、眠り続けているわけではない。
流川綺羅自身があの世界を望んでいる。子供の頃の五人全員が揃っていた幸せな時間世界。
十年以上も、というところで狭間進歩は疑問を浮かべる。
バスの事故で死んだのは三人。狭間進歩、海林厚樹、花山静香。
実畑八雲は目の前で葉桜哉子と談笑している。事故で傷を負ったようには見えない。
同じように流川綺羅の体や顔も綺麗すぎる。事故によって意識を失くしたようには見えない。
では、どうやって流川綺羅は昏睡状態に陥ったのか。
狭間進歩は皆川万結に小声で尋ねるが、よく知らないと首を横に振るわれた。
ならば実畑八雲や葉桜哉子に聞きたいところだが、赤の他人以下であるロボットの身で聞くのはお門違いだろう。
どうすればいいかと考え始めた矢先、無邪気に皆川万結が祖母の葉桜哉子に声をかけた。
「おばあちゃん、どうしてきらおねえちゃんはねむったの?」
「万結ちゃん、ああ、その……どうしたの急に?」
驚いて狼狽する葉桜哉子は、孫に視線を合わせるために床に膝をつける。
その顔はとても困った様子で、さすがの皆川万結も聞いてはいけないことだったのだろうと気まずそうな顔をする。
「その、綺羅ちゃんは……昔のバスの事故でちょっと……」
「ばすのじこではおねえちゃんけがなかったんだよね?」
「そう、なんだけど、その、ねぇ」
「……おともだちがしんだから?」
うっかり皆川万結は狭間進歩から聞いた言葉を出してしまう。
葉桜哉子はさらに悲痛な顔をして、慌てて実畑八雲の顔を見てしまう。
しかし実畑八雲は苦笑して、ハンドサインで説明しても大丈夫ですよと伝える。
「あのね、綺羅ちゃんは……」
鉄骨がバスの通路を押し潰すように落ちた事故。死んだ子供は三人。
落下の衝撃でバスは急停止し、実畑八雲は前座席に頭を打ったことにより気絶。
しかし流川綺羅には意識があった。そして見てしまった、鉄骨の隙間から伸びてくる手と友達の死に顔を。
伸ばされた手は流川綺羅に助けを求めるように伸びており、瞼が閉じられていない眼も流川綺羅に向けれていた。
海林厚樹は即死。花山静香は狭間進歩が庇うような状態で発見されたが、息は絶えていた。
流川綺羅に伸ばされた手と向けられた目の主は狭間進歩という少年。失血死だが、死ぬまでに意識はあった模様だと判断された。
その日以来、流川綺羅は眠れなくなってしまった。夢を見ようとすると思い出すのだ。
さっきまで笑っていた友達の死に顔が、伸ばされた血だらけの手が、濁っていく目の光が。
まるで自分を道連れにするような死の形相が、彼女を追い詰めていった。
そして数か月後、流川綺羅は睡眠薬を大量に飲み、さらに確実性を深めるために手首を切って湯船に血が流れ続けるように自殺しようとした。
しかし事故以来、娘の様子を気にしていた母親が浴室で倒れている娘を早期発見し、急いで病院に電話をした。
一命は取り留めたものの、それ以降は流川綺羅は眠り続けたまま目覚めなくなった。心が限界なのだと医者はそう説明するしかなかった。
実畑八雲はその数か月間、事故で前座席に頭を打ったことによるむち打ちを診断され、入院をしていた。
実畑八雲自身も急な事故と友人の死を受け止めるのに必死で、専門のカウンセラーのお世話になっていたのだ。
そして退院間近で流川綺羅の自殺未遂を知り、さらに入院が延びた。しかし実畑八雲は立ち上がった。
親身になってくれたカウンセラーや病院関係者に憧れ、そして目覚めない流川綺羅のため、看護師になることを決めたのだ。
今では本人の意思通りに看護師として働き、眠り続ける流川綺羅の傍で待ち続けている。
いつ目覚めてもいいように。自分が傍にいると勇気づけるために、実畑八雲は働き続けている。
自分が流川綺羅を救うのだと意気込んで、そして疲れ始めていた。
「万結ちゃん、知らなくてもよかったのよ?」
「それは……しあわせ?」
首を軽く傾げて皆川万結は問いかける。知らないことがあるのは幸せなのか。
葉桜哉子はその問いに答えられなかった。断言できるほどの根拠はどこにもない。
それでもまだ幼い孫に教えるには過酷なことだと、葉桜哉子は胸を痛めた。
「おばあちゃん、ありがとう。まゆはきらおねえちゃんのことがよくわからなかったから、うれしい」
「万結ちゃん……」
「やくもおにいちゃんも、やさしいひとなんだってわかった。うれしい」
知ったことに対して感情を見せるのではなく、受け止めて味わう。
まだ幼い皆川万結にとってはそれが精一杯のできることだった。
自殺がどういったものか、それを長い年月待つのがどういうことなのか、理解までは至らずとも受け止めた。
「おねえちゃん、めざめるといいね」
そう言って皆川万結は寝台で横たわった流川綺羅に目を向ける。
腕の中で狭間進歩は歯がゆい思いを味わっていた。どうして事実はこんなにも残酷なのだろうか。
流川綺羅は現在夢の中で幸せを謳歌している。実畑八雲が待っていることも知らずに、データの消去と再構築を続けている。
実畑八雲は待ち続けている相手が夢の中に逃避していることを知らない。このままでは衰弱して死んでしまうことも。
狭間進歩という少年が、十年以上前に死んだ少年が、二人を引き離す。最悪な別れに導いていく。
<なんでだよ、綺羅……来週の水曜日デートとかはしゃいでたくせに……夢にまで見るほど、楽しみな約束があったのに>
「すいようび?でーと?」
皆川万結が腕の中で小声で呟いた狭間進歩の言葉を拾い上げて復唱してしまう。
これ以上は不味いと口を閉ざすが、実畑八雲の耳には届いたらしく、ぎこちない表情が浮かび上がる。
ただしそれは狭間進歩が想定したものよりも違和感のある表情だった。
「ま、万結ちゃん……どこでそれを?」
「あら?どうしたの?」
「え、えと……その……実は来月の水曜日にお、お見合いの話が」
顔を赤くするのではなく、苦痛の表情で実畑八雲は呟く。
そろそろ所帯を持った方がいいという家族からの勧めにより、断れないお見合い話を受けることになったのだ。
もしそれまでに流川綺羅が目覚めたのなら、御破算とする。それが両親より出された断りの条件。
しかし一向に流川綺羅は目覚める様子がない。このままではお見合いの日になり、そのまま結納まで持っていかれてしまう。
実畑八雲が疲れた表情でいるのはそういう理由だった。待つだけならいい、だが期限付きとなると話が違ってくる。
日が進むたびに不安が増大していき、揺らいでいく心に精神が安定を保てなくなる。そのため冴えない顔をしている。
「それは、でも実畑さん家の気持ちもわかるのが辛いところね」
「同僚達にもそう言われ……でも本当は諦めたくないんです」
拳を握りしめて実畑八雲は真剣な目を流川綺羅に向ける。
今にも押し潰されそうになっているのに、力強い光が目に宿る。
「約束、果たしてないですから」
実畑八雲は覚えている。少年の頃にした些細な約束を。
そう確信した狭間進歩は、諦めたくないと言った実畑八雲の強い意思に力づけられる。
だからこそ彼のために今すぐにでもあの青い空の下に戻りたかった。だが準備はまだできていない。
今はその連絡をまだかまだかと待ち続けていた。




